『梟の城』:1999、日本

天正9年、伊賀は織田信長によって焼き払われた。10年後、虐殺から逃れた伊賀忍者の葛籠重蔵は、山奥で静かに暮らしていた。そんな彼の元を、かつての師匠・下柘植次郎左衛門が訪れた。次郎左衛門は、太閣・豊臣秀吉を暗殺する任務を重蔵に告げた。重蔵は信長への怨みを秀吉に重ね合わせ、任務を引き受けた。
次郎左衛門に秀吉の暗殺を依頼したのは、堺の豪商・今井宗久だった。そして、その背後には次の天下を狙う徳川家康が暗躍していた。京へ向かう重蔵が出会った遊女・小萩は宗久の養女であり、実は家康の腹心・服部半蔵の手下であった。小萩は重蔵を監視する役目を与えられていたが、やがて2人は密かに愛し合うようになる。
京では、重蔵の部下・木さるや黒阿弥が、それぞれ軽業師や刀の研ぎ屋に化けて潜伏していた。伊賀忍者は盗賊団となって京の町を荒らしながら、秀吉暗殺の機会を狙っていた。そんな彼らの前に、奉行所の隠密・下呂正兵衛が立ちはだかる。
正兵衛は、かつて次郎左衛門の弟子であった風間五平だった。木さるは、彼の許嫁である。だが、五平は伊賀を裏切って前田玄以に仕え、重蔵を捕らえようとする。玄以は五平だけでなく、甲賀の総帥・摩利支天洞玄にも重蔵の暗殺を依頼していた。
淀君の懐妊を知った家康は、世継ぎの誕生によって大名達の謀反が望めなくなると考えた。家康は秀吉の暗殺を中止し、計画を知る者の抹殺を半蔵に命じた。重蔵は小萩から計画の中止を知らされるが、それでも秀吉を暗殺しようとする…。

監督は篠田正浩、原作は司馬遼太郎、脚本は篠田正浩&成瀬活雄、企画は松前洋一、プロデューサーは角谷優&鯉渕優、製作統括は羽佐間重彰、撮影は鈴木達夫、編集は吉田博、録音は瀬川徹夫、照明は海野義雄、美術は西岡善信、美術アドバイザーは浅葉克己、衣裳は朝倉摂、能指導は観世榮夫、能楽指導は茂山千之丞、茶の湯指導は尾関南山、SFXスーパーバイザーは川添和人、アクションアドバイザーは毛利元貞、特殊メイクは原口智生&宗理起也、音楽は湯浅譲二。
出演は中井貴一、鶴田真由、葉月里緒菜、上川隆也、永澤俊矢、根津甚八、マコ・イワマツ、山本學、火野正平、中尾彬、馬渕晴子、小沢昭一、津村鷹志、岩下志麻、中村敦夫、筧利夫、花柳錦之輔、田中伸子、若松武史、観世榮夫、益富信孝、横山あきお、笠原秀幸、岩田直二、西村正樹、谷口高史、橋本潤、山西惇、阿木五郎、泉裕介、真田実、五王四郎、結城市朗、遠山二郎、稲坂亜里沙、佐々木彩、茂山宗彦、茂山一平、茂山童司ら。


第42回直木賞を受賞した司馬遼太郎の同名小説を基にした作品。
重蔵を中井貴一、小萩を鶴田真由、木さるを葉月里緒菜、五平を上川隆也、洞玄を永澤俊矢、半蔵を根津甚八、秀吉をマコ・イワマツ、宗久を小沢昭一、家康を中尾彬、次郎兵衛を山本學、黒阿弥を火野正平、玄以を津村鷹志、北政所を岩下志麻が演じている。
同じ原作を基にして、1963年には東映で『忍者秘帖 梟の城』という作品が作られている。そちらは監督が工藤栄一、重蔵に大友柳太朗、五平に大木実、小萩に高千穂ひづる、木さるに本間千代子、洞玄に戸上城太郎という配役だった。

この映画、己を持たない格闘マシーンとしての忍者の哀しみを描きたいのかと思ったが、そうではなさそうだ。重蔵は己を持たないが、そこに哀しみは無い。権力者に翻弄される労働者としての忍者の哀しみを描きたいのかと思ったが、そうでもなさそうだ。人間ドラマを見せたいわけでも、アクションで惹き付けたいわけでもなさそうだ。
冒頭、妙にケバい色彩の背景や煙などが用いられ、どうやら大虐殺シーンが描かれている。だが、あまり迫力やスケール感は無い。女の首が画面を横切るシーンが描かれているが、それで“虐殺だ”と主張されても、完全に外しているギャグとしか思えない。

冒頭から、テロップによって時代状況や伊賀についての説明が行われる。
続いて、ナレーションによる説明が入る。
進行や状況説明は、基本的にテロップとナレーションに任せるというのが、この映画のスタンスのようだ。映像は、そのサポートに回っている。NHKの歴史考証番組のようなスタイルだと考えればいいだろう。

しかし、単に歴史考証だけのために映像を使ったのでは、VFXを多用したのが勿体無い。そこで監督は、とにかく風景を見せることを心掛けている。人間ドラマなんかより、活劇なんかより、とにかくVFXを使った映像を見せようとしているのだ。
淀君の懐妊を知った家康の顔をアップで捉えないなど、「何故ここで顔を写さない、何故ここでアップにしない」と思ってしまうシーンが幾つもある。ワイプで時間経過を示すという安っぽいやり方とか、人物登場時の紹介が不充分だとか、色々と気になる点は多いが、全ては「VFXを使った背景を見せるための映画」と考えれば説明が付く。

重蔵が行う最初の殺陣は、彼の強さをアピールする重要な機会である。ところが、そこをノッペリと処理してしまう。あっさりと流してしまうから、そこで出会った雲兵衛が重蔵に同行するというのも安易に見える。そこをスンナリと見せる力が、そのシーンに無い。
しかし、それも仕方が無い。そもそも、篠田監督はチャンバラを見せる意欲を持っていないからだ。その後も殺陣のシーンが何度かあるが、どれもアクションの醍醐味、面白さは無い。それは役者の技量の問題ではなく、見せ方の問題だ。

篠田監督にとって、この映画は『写楽』と同じだ。つまり、その時代の風景、風俗さえ描けば、それで満足なのだ。だから、この作品はジャンルとしては時代劇だが、そこに劇は無い。もちろん活劇など無い。人間と人間が語り合っているシーンがあっても、チャンバラのシーンがあっても、監督にとって、それは風景に過ぎないのだ。

重蔵は、虐殺で強い恨みを抱いていたのに信長に対して行動を起こさず、10年も経過してから別の人物である秀吉の暗殺に燃えるのだが、それは無理がある。何か事情があって、やむなく秀吉を討たざるを得ないということでもない。
原作では、重蔵のモティベーションをどう説明していたのだろうか。少なくとも、この映画においては、重蔵の行動はスンナリと納得できるような形になっていない。計画中止が決まった後も暗殺に燃えるのも、良く分からない。「生きる意味を失った重蔵が死に場所を求めている」というのなら納得できるが、そのようには感じない。
中止になっても暗殺に燃えるにしては、それまでの流れの中で、重蔵の執念、情念は見えない。強い情念を見せておいてこそ、「秀吉が貧弱ジジイだと分かって気が抜ける」という落差に、観客を引き入れることが出来るはずだ。そのためには、できれば対面シーンまでは秀吉の姿を見せない方が望ましいとは思うが。

監督は、忍者を絵空事ではなくリアルな技術集団として描こうとしたらしい。しかし、忍術を細かいところまで描写するとか、リアルな格闘の迫力やスピード感を見せるわけでもない。だから、ただ地味に忍者を見せているだけになっている。
しかも、徹底してリアルなのかというと、そうでもない。木さるが木の上を移動したり高い場所から降りたりする場面には、リアルは無い。洞玄の忍術などは、完全に荒唐無稽に傾いている。結局、忍術をどう扱いたかったのやら、良く分からない。

京に出た後の重蔵が何をしたいのか、良く分からない。一応、「暗殺の機会を狙っている」ということなのだろうが、映画を見ている限り、ただダラダラと日々を過ごしているようにしか思えない。そこだけでなく、話にメリハリが無く、淡々と過ぎていく時間の長いこと。上映時間の長さ(138分)がボリューム感ではなく、退屈に繋がっている。
暗躍しているはずの家康は、忘れた頃にチラッと出てくる程度の扱い。結局、終盤は消えたままになっている。洞玄は、登場したかと思ったら、かなり長く消えている。このキャラ、役割として五平と被るので格闘シーン要員なのかと思ったが、違っていた。かなり強い大物っぽく出てきた割りには、簡単に重蔵に殺されてしまう。

暗殺計画の中止を知らせるまで、小萩はしばらく消えている。だが、いつの間にやら重蔵と小萩は愛し合う関係になっている。しかし、その恋愛模様は突っ込みが浅く、「小萩と木さる、2人の女が重蔵に惚れている」という人間関係は生きていない。
木さるは何の盛り上がりも無く簡単に殺されるが、それによって重蔵が影響を受けることは無い。形としては仇討ちの行動を起こしているのだが、重蔵の心の動きは見えない。木さるは三角関係を作ることも出来ず、重蔵に対する想いも生かされずに消える。

終盤、重蔵は伏見城に乗り込んで秀吉に会う。そこで虚しさを感じて早々に退散ればいいものを、なぜかグダグダと話し込んでしまう。五平と遭遇した後、重蔵は小萩のために帰ろうとする。だが、帰る目的にするには、小萩との恋愛関係は薄いだろう。
重蔵は忍者のくせに、しかも伏見城に入る時はスンナリと侵入したのに、帰る時は別の道を選んで迷ってしまう。それは何故かというと、VFXを使った障子を見せたいからだ。そうでなければ、そんな目立つような場所を移動する理由が見当たらない。

終盤に入って、重蔵を執拗に追う五平の姿、彼の悲劇的な結末に焦点が当てられる(忍者なのだから、何とか自害できなかったのかと思ってしまうが)。そこだけは、労働者の悲哀がある。そこだけを見ると、他人に罪を押し付けて逃亡するような重蔵よりも、五平の方が主人公として適しているのではないかと思ったりしてしまう。
で、五平が処刑された後、それを見ている重蔵と小萩が江戸を去ろうとする所で終わるのかと思ったら、まだ続く。次郎兵衛が半蔵(こいつも大して役目が無かった)に殺され、重蔵と小萩が田舎に引っ込んで生活する様子まで描いている。どう考えても蛇足だろう。

 

*ポンコツ映画愛護協会