『バケモノの子』:2015、日本

すり鉢状の谷にある渋天街には、約10万のバケモノが住んでいる。そのバケモノたちを束ねて来た宗師が引退し、神様に転生すると宣言した。どんな神様になるかを決めた時、宗師は後継者を選ぶことになる。宗師はバケモノたちに対し、その時に備えるよう告げた。宗師になるには、強さも品格も一流であることが条件だ。真っ先に名前が挙がったのは、冷静沈着で勇猛果敢な猪王山だ。彼は大勢の弟子を持ち、一郎彦と二郎丸という2人の子供の父親でもある。もう1人、力だけなら猪王山を凌ぐと評判の熊徹も候補として名前が挙がる。ただし彼は粗暴で手前勝手であり、弟子も子供もいなかった。
その頃、人間の世界では9歳の少年が渋谷の街を徘徊していた。彼は両親が離婚して以来、母親と2人で暮らしていた。しかし交通事故で母が亡くなったため、本家が後見人となって引き取ることになった。父親が会いに来ないことに、少年は苛立ちを示した。彼は自分を引き取って養育しようとする母方の親族たちに強い敵意を示し、「一人で生きて行く」と宣言した。彼は逃亡したものの、行く当ても無く渋谷を徘徊していたのだ。チコという謎の小さな生物と遭遇した彼は、パンを千切って与えた。
熊徹は友人の多々良を伴い、渋谷を訪れた。座り込んでいた少年は熊徹に声を掛けられ、声を荒らげた。しかし相手の顔を見た少年は、「バケモノ」と怯える。熊徹は少年を見ると、「悪くねえ。俺と一緒に来るか」と誘った。熊徹が多々良と共に立ち去ったので、少年は慌てて後を追う。熊徹を見失った少年は、巡回の警官たちに家出少年として捕まりそうになる。逃走した少年は熊徹らしき影を見つけ、後を追って路地裏に入った。
少年が路地裏を抜けると、そこは渋天街だった。バケモノばかりがいる街に慄いた少年は、元の場所へ戻ろうとする。しかし来た道は壁で塞がれ、戻れなくなっていた。僧侶の百秋坊は少年を見つけ、「元の世界へ送り届けてあげるから」と告げる。そこへ熊徹が現れ、少年を見て「ホントに来たのか」と言う。彼は百秋坊に、「こいつは今から俺の弟子だ」と告げる。多々良は百秋坊に、「宗師になるために弟子を取りたいが、バケモノは誰もなりたがらない。だから人間を見物に出掛けた」と熊徹の事情を説明した。
少年は熊徹の家まで付いて行くが、「アンタの弟子になった覚えはない」と反抗的な態度を告げる。「だったら、なんで付いて来た」と熊徹は苛立つが、名前を尋ねる。しかし少年は「個人情報だ」と名前を言わず、年齢を問われると指を9本立てた。そこで熊徹は、少年を「九太」と呼ぶことにした。九太は熊徹と言い争いになり、家を飛び出した。商店で身を隠した彼は、父親を慕う一郎彦と二郎丸の様子を目撃した。
九太の捜索に来た熊徹は、猪王山と遭遇する。熊徹の弟子が人間だと知った猪王山は驚き、すぐに元の世界へ戻すよう促す。「人間はひ弱が故に、胸の中に闇を宿らせるという。闇に付け込まれ、手に負えなくなったら」と彼が危惧すると、熊徹は「力ずくで止めてみろよ」と戦いを要求する。刀を抜くことは宗師が禁じたため、熊徹と猪王山は殴り合ったり体当たりを食らわせたりする。熊徹が劣勢に立たされる姿を見た九太は、「負けるな」と叫んだ。
宗師が戦いの場に現れると、猪王山は熊徹を罰するよう求めた。しかし宗師は「責任はワシが取る」と言い、熊徹が人間を弟子に取ることを認めた。九太は熊徹に、「アンタといてホントに強くなれるのなら、弟子になってやってもいいぜ」と告げる。しかし熊徹は教え方が下手で、九太は何をどうすればいいのか全く分からなかった。熊徹は理解できない九太に苛立ち、九太は指導能力の低い熊徹を口撃した。しかし九太は反発しながらも熊徹の家に留まり、洗濯や掃除を担当した。
買い物に出掛けた九太は、二郎丸と仲間たちからイジメの対象にされる。そこへ一郎彦が駆け付け、二郎丸を制止した。宗師は熊徹に招待状を渡し、「弟子を連れて、諸国を巡る旅に出よ。それを持てば各地の宗師に、すぐにでも面会できる。真の強さを知る手掛かりが得られるであろう」と語る。熊徹は九太、多々良、百秋坊を連れて旅に出た。各地の宗師が語る「強さとは」という話に九太は興味を示すが、熊徹は「意味なんか自分で見つけるんだよ」と吐き捨てた。
百秋坊は九太に、「熊徹には両親も師匠もいない。あいつは自分一人で強くなってしまったんだ。それがあいつの才能であり、不幸だ」と話す。熊徹は多々良から、「このまま師匠を続ける気なら、ガキの頃の自分が本当はどうしてほしかったかを思い出してみるんだな」と告げられる。旅から戻った九太はチコに語り掛けている時、「成り切る。成り切ったつもりで」という声を耳にする。そこで彼は、熊徹の一挙手一投足を全て真似ることにした。
九太が武術の稽古だけでなく生活している時の動きまで模倣するので、熊徹は「気持ち悪い」と感じる。しかし百秋坊に「九太は一から習うつもりなんだよ。赤ん坊のように」と言われると、喜んで真似させることにした。ずっと足に注目していた九太は、熊徹の次の動きが読めるようになった。彼は熊徹から剣の構え方やパンチを教わる代わりに、相手の動きに合わせる方法を教えることにした。二郎丸は九太と対決して強さに感服し、「すげえな」と笑って仲良しになった。
九太が青年へと成長した頃、熊徹の元には弟子を希望する多くの若者たちが押し寄せるようになった。九太と熊徹は相変わらず、ささいなことで喧嘩を繰り返す日々を送っていた。ある日、いつものように喧嘩をして家を飛び出した九太は、路地裏を抜けて渋谷の街に辿り着く。彼は図書館で『白鯨』を手に取ったが、漢字が読めなかった。隣にいた女子高生の楓に質問した彼は、それが「鯨」という字だと知った。進学校に通う楓は、騒いでいた同級生5人組を注意した。
図書館を出た楓は5人組に絡まれるが、九太が助けに入った。九太が小学校から学校に行っていないことを知った彼女は、勉強を教えることにした。名前を問われた九太は、「蓮」という本名を教えた。九太が「ダメ師匠と怒鳴り合ってばかり」と話すと、楓は「羨ましい。親と喧嘩したことも無い。2人とも、私の気持なんか知らない。今は辛くても勉強して、卒業したら自分の人生を生きる」と語った。楓は大学に行くよう九太に勧め、サポートを約束した。
試験を受けるのに必要な住民票を取りに役所へ出掛けた九太は、父親の現住所を初めて知った。九太は父のアパートを訪ねるが、会わずに立ち去ろうとする。しかし帰り道に買い物をしていた父を発見し、彼は声を掛けた。相手が息子だと気付いた父は泣いて抱き付き、「無事で良かった」と口にした。彼は九太に、行方不明になった息子を捜し続けていたことを明かした。九太は父と再会したことを楓に話し、「俺も普通になれるのかな」と呟いた。
九太は熊徹の元へ戻り、人間の大学へ行きたいと告げる。熊徹が耳を貸さないことに苛立った九太は、「もういいよ。父親が見つかった。そこへ行く」と行って立ち去った。九太の訪問を受けた父は、「今までお世話になった人に、御挨拶に行こう。ちゃんとお礼を言って、それから2人で暮らそう」と告げる。九太が「急に埋まんないよ、時間」と口にすると、彼は「少しずつ、やり直そう。今までの辛いことは全部忘れて」と語った。
九太は激しい苛立ちを覚え、「やり直すって、何を?なんで辛いと決め付けるの?父さんは俺の何を知ってるんだよ」と怒鳴って立ち去る。渋谷の街を歩いた彼は、幼い頃の自分を目にする。その姿は心に闇を抱えていたが、どこかへ消え失せた。荒れる九太を楓が落ち着かせ、お守りとして本の栞を手首に結んだ。渋天街へ戻った九太は、宗師が転生する神様の種類を決めたこと、翌日には熊徹と猪王山の試合が行われることを二郎丸から聞かされる。一郎彦は九太に声を掛け、家の外まで送る。しかし2人きりになった途端、一郎彦は九太を暴行して激しく罵った。その心に闇があることに、九太は気付いた…。

監督・脚本・原作は細田守、製作は中山良夫&齋藤佑佳&井上伸一郎&市川南&柏木登&中村理一郎&薮下維也&熊谷宜和、ゼネラル・プロデューサーは奥田誠治、エグゼクティブプロデューサーは門屋大輔&高橋望、プロデューサーは齋藤優一郎&伊藤卓哉&千葉淳&川村元気、編集は西山茂、録音は小原吉男、音響効果は赤澤勇二、CGディレクターは堀部亮、色彩設計は三笠修、美術設定は上條安里、衣装は伊賀大介、美術監督は大森崇&高松洋平&西川洋一、作画監督は山下高明&西田達三、アソシエイトプロデューサーは佐藤譲&伊藤整&鈴木智子、音楽は高木正勝、音楽プロデューサーは北原京子。
主題歌はMr.Children『Starting Over』 作詞・作曲:桜井和寿、編曲:Mr.Children。
声の出演は役所広司、宮崎あおい、染谷将太、大泉洋、リリー・フランキー、津川雅彦、広瀬すず、山路和弘、宮野真守、山口勝平、黒木華、大野百花、諸星すみれ、長塚圭史、麻生久美子、中村正、沼田爆、草村礼子、近石真介、桝太一(日本テレビアナウンサー)、郡司恭子(日本テレビアナウンサー)、秋月成美、石上静香、井上肇、岩崎ひろし、宇梶剛士、牛山茂、宇山玲加、大出菜々子、大西礼芳、緒川ガオ、小栗旬、尾崎右宗、各務立基、加藤裕、木村聖哉、栗原卓也、桑原裕子、虎島貴明、小林直人、小林正寛、小林里乃、斉藤一平、清水一彰、佐原誠、瀬戸麻沙美、高橋伸也、田中要次、谷村美月、長克巳、出口哲也、戸井勝海、土井玲奈、徳本英一郎、戸田めぐみ、中澤健太郎、中島広稀、中根久美子、野口真緒ら。


『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』の細田守が監督&脚本&原作を務めた作品。
熊徹の声を役所広司、九太(少年期)を宮崎あおい、九太(青年期)を染谷将太、多々良を大泉洋、百秋坊をリリー・フランキー、宗師を津川雅彦、楓を広瀬すず、猪王山を山路和弘、一郎彦(青年期)を宮野真守、二郎丸(青年期)を山口勝平、一郎彦(少年期)を黒木華、二郎丸(少年期)を大野百花、チコを諸星すみれ、九太の父を長塚圭史、九太の母を麻生久美子が担当している。
宮崎あおい、染谷将太、黒木華、大野百花、麻生久美子は、『おおかみこどもの雨と雪』に続いての参加となる。

冒頭、多々良の語りによって、「渋天街には約10万のバケモノが住んでいて、宗師が引退して神様に転生すると宣言して、後継者候補は2人いて」ってなことが説明される。
その中で「熊徹は粗暴で手前勝手で、弟子なんか1人もいない。ましてや息子なんかがいるはずもなかった」という説明がある。
「粗暴で手前勝手だから弟子はいない」ってのは理解できる。だけど「だから息子なんているはずもない」ってのは、論法として変でしょ。世の中には、粗暴で手前勝手でも結婚したり子供に恵まれたりする男は幾らでもいるわけで。
「粗暴で手前勝手な奴が父親になるべきではない」ってのが細田監督の考えだとしたら、それは理解できる。自身の考えを映画の中に盛り込むのも一向に構わない。
だけど、まるで「それが世の中の常識」みたいに語らせるのは、違うんじゃないかと思うよ。

冒頭の語りは、渋天街やバケモノについて説明しているように表面上は見えるが、実はボンヤリした情報しか用意されていない。
「渋天街はどんな街なのか」「バケモノってのは、具体的にどんな連中なのか」「宗師になるために、なぜ力が必要なのか」「大勢の弟子を抱えていることが、なぜ後継者として重要な条件になるのか」「引退して神様に転生するってのは、どういうことなのか」など、疑問は多い。
そもそも、どういう世界観なのか、どういうルールなのかが全く分からないのよ。
そんな中で「後継者争いが云々」と言われても、まるでピンと来ないわけでね。

それでも、物語を進めながら順番に説明してくれれば、そんなに大きな問題ではない。しかし、最後までボンヤリした情報が多いままで終わってしまうのよね。
っていうかさ、そもそも冒頭で渋天街やバケモノについて説明する必要があるのか。
九太が熊徹と出会い、渋天街を訪れた時に初めて「渋天街はこういう街で、バケモノはこんな風に生活していて、宗師が引退するので後継者争いが起きていて」ってなことを説明する手順にしても、充分に間に合うでしょ。
むしろ冒頭で中途半端に言及するメリットが見えないわ。

九太は母方の親族が引き取ろうとした時、強い敵意を示して「一人で生きてやる。強くなって、お前らを見返してやる」と言い放つ。
でも、そこまで彼が親族に怒りや憎しみを向ける理由がサッパリ分からないのよ。親族は顔も性格も良く分からない程度の描写しか無いし。
父親が会いに来てくれないからってことで、寂しさを怒りや憎しみに変えるってことなら、まだ何となく理解できなくもないのよ。
だけど、母方の親族って、そこまで九太に憎まれるようなことをしている様子は見えないのよ。なんで「お前らを見返してやる」と口にするほど九太が敵視するのか、その理由が何も見えないのよ。

九太は警官から逃げ出した後、熊徹らしき人影が路地裏へ入って行くのを見ると、ためらった様子を見せつつ、覚悟を決めたように後を追う。
だけど九太は追って来る警官から逃げる必要があるわけだから、路地裏へ入るのを迷う意味は何も無い。
そもそも九太は立ち去った熊徹が気になったから後を追い、姿を見失ったて警官に捕まっているのだ。つまり熊徹を恐れていたら追い掛けたりしないんだから、そこで「恐怖を振り払って」という描写が入るのは不可解だ。
「その向こうに恐ろしい異空間が広がっている」という描写になっているならともかく、表面的には「ただの路地裏」という見せ方なんだし。

路地裏を抜けた九太はバケモノばかりの渋天街に辿り着くと、慌てて来た道を戻ろうとする。しかし道がふさがって壁になっているので、戻ることが出来ない。
この時、九太は慌てた様子で壁を探りながら、「あれっ、今来たはずの道が無い。出口、出口は」と口にする。
でも、そんなのは映像を見ていれば分かることだ。わざわざ台詞を使って詳しく説明させる必要なんて全く無い。
しかし、この映画は一事が万事、そういう状態になっている。

例えば、熊徹は百秋坊から「九太は一から習うつもりなんだよ。赤ん坊のように」と言われた後、武術の動きを九太が模倣する様子を見てニヤリと笑う。
その様子を描くだけで、「熊徹は九太が自分を真似したことを嬉しく思っている」ってことは誰にでも分かる。
ところが、百秋坊に「熊徹め、まんざらでもない様子だ。真似されて嬉しくない親はいないと言うが、果たして」と呟かせる。
細田監督は長きに渡ってアニメーションの世界でキャリアを積んで来たのに、アニメーションの力を全く信じていないかのようだ。

そのように本作品は、何から何まで台詞で説明しようとする。
そんなふうに書くと、「ものすごく説明過剰な映画ってことね」と思うかもしれない。それは、ある意味では当たっている。
ただし、全面的に正解とは言えない。
困ったことに、本作品は説明過剰であると同時に、説明不足でもある。
前述したように、映像を見ていれば分かることはクドクドと台詞で説明している。しかし一方で、本来なら説明が必要な部分を無造作に放置しているのだ。

例えば序盤、熊徹は九太と遭遇すると「悪くねえ。俺と一緒に来るか」と誘う。しかし、なぜ彼が九太を「弟子として見込みがありそうな奴」と感じたのか、それが良く分からない。「声を掛けたら九太が反発したから」ってだけでは、説得力が無い。
一方、九太が熊徹の家まで付いて行きながら、「アンタの弟子じゃない」と反発するのもワケが分からない。しかも、喧嘩になっても逃げずに留まるのだ。
母方の親族には反発して逃げ出したくせに、なぜ熊徹の元からは逃げないのか。
熊徹の方も、九太の生意気な態度に激昂しているくせに、彼を追い出さずに固執する理由も良く分からない。
双方の心情がサッパリ分からないので、「最初は反発していた2人が、次第に仲良くなって強い絆で結ばれるように」というドラマにも乗れないのだ。

熊徹が猪王山との戦いで圧倒される様子を見た九太は「負けるな」と叫ぶのだが、その心情もサッパリ分からない。熊徹を応援したくなるほど、彼との交流なんて深まっていなかったでしょうに。
その戦いを見た後、九太が「アンタといてホントに強くなれるのなら、弟子になってやってもいいぜ」と熊徹に言うのも理解不能。ホントに強くなりたいのなら、猪王山の弟子に志願すべきでしょ。猪王山に惨敗した熊徹を「強い師匠」と捉えるのは、どういう感覚なのかと。
もしも「強さ」以外の部分で熊徹の弟子になることを決めたとしても、じゃあ何が理由なのかが全く分からないわけで。嫌がっていた卵かけ御飯を無理に食べてまで熊徹の弟子になろうとする理由は、全く分からないわけで。
そういうトコは、何も説明してくれないのだ。

そもそも、九太が「格闘能力」という意味で強くなろうとする動機が全く分からないんだよね。
武術に長けた男に成長したとして、その先に何があるのかと。
「イジメを受けていたから強くなりたいと思った」とか、「父親から暴力を受けている母親を守るために強くなりたいと思った」とか、そういうことではないからね。
「自分を引き取ろうとする母方の親族に反発して逃げ出す」という筋書きの中で、なぜ九太が武術を覚えて強くなろうとするのか、その心情が良く分からない。

九太は熊徹の弟子になると決めたんだから、そこからは素直に従うのかと思いきや、相変わらず攻撃的な姿勢で激しく反発する。それでも彼は逃げ出そうとせず、家事一般をこなす。
なぜ彼が熊徹との共同生活を続けようとするのか、まるで分からない。
これが本当の父親であれば、「嫌なことも多いけど、実の親子だから仕方が無い」と考えたとしても理解できなくはないのよ。
だけど熊徹は出会ったばかりのバケモノなんだから、そこに固執する理由は何も無いはずでしょ。

宗師は猪王山から熊徹を罰するよう求められても、「責任はワシが取る」と許してしまう。
猪王山が「どうして熊徹に甘いのですか」と口にするのも当然で、えこいひき以外の何物でもない。何しろ宗師は熊徹に招待状を渡し、諸国を巡る旅まで用意するのだ。
これが例えば「熊徹は強さが足りないけど性格的には優れている。一方の猪王山は強さだけなら申し分が無いけど性格的に問題がありすぎる」ってことなら、宗師が熊徹を優遇するのも理解できる。
だけど、むしろ熊徹の方が後継者としては問題があり過ぎる奴なのよ。
だから猪王山で何の問題も無いはずなのに熊徹を優遇するのは、まるで同意できないのよ。

九太は渋天街へ来た時、帰ろうとしても道が塞がっていた。ところが青年になった彼が喧嘩して家を飛び出した時、なぜか普通に路地裏を抜けて渋谷に辿り着いている。路地裏から渋谷へ抜ける道は塞がれていたはずなのに、いつの間に壁が消えたのか。
しかも、正しい順番を辿らないと抜けることは出来ないはずなのに、簡単に渋谷まで辿り着く。それどころか、何度も自由に渋天街と渋谷を行き来する。誰かに道順を教わったわけでもないのに、そんなに簡単に通り抜けられるのかよ。
っていうか、そもそも青年になるまでの九太が一度も人間の世界へ戻りたいと思わなかったこと自体、疑問があるぞ。
幾ら熊徹たちとの生活に安らぎを感じたとしても、幾ら母方の親族を嫌悪していたとしても、元々の生まれ育ちは人間の世界なんだから、「ちょっと戻ってみたい」という気持ちぐらい湧きそうなものだ。

渋谷へ戻った九太は図書館で『白鯨』を手に取り、その文字を読もうとする。漢字が読めないので、わざわざ隣にいて楓に質問する。
それほどまでに「この本を読みたい」と九太に思わせる理由が、サッパリ分からない。
幼い頃の彼が読書好きだったわけでもないし、成長してからの彼が『白鯨』に興味を抱くような出来事があったわけでもない。
楓と親しくなった後に勉強への意欲が芽生えるならともかく、その前から読書欲が強いってのは、どうにも解せない。

九太が渋谷へ戻って楓と知り合う展開に入ると、「少年期とは全く別の話が急に始まった」という印象を受ける。
何しろ九太が楓と知り合って勉強を始めるようになると、熊徹や多々良たちは全く登場しない状態になるのだ。
おまけに、そんな状態が持続する中で九太の父親まで登場する。しかも、九太が再会した父は、いい人だ。涙で再会を喜び、一緒に暮らそうとしている。
そういう優しくて子供思いの父が登場するなら、「じゃあ今までの話って何だったのか」と言いたくなる。

九太は母を亡くし、母方の親族から逃げ出し、天涯孤独の身になった。
そんな彼が熊徹と疑似親子の関係になって絆を深めるという話を、前半は描いていたはずだ。
そこから「互いに成長する」というダイジェストに突入して青年期へ入るので、後半は九太と熊徹の関係が次のステージへ移るんだろうと思っていた。
ところが、そっちの関係を描くのではなくて、なぜか楓や九太の父といった新たなキャラクターを登場させて、そっちで話を膨らませてしまうのだ。

九太は大学進学に耳を貸さない熊徹に怒りを示して立ち去り、父親の元へ行く。
そもそも、急に「大学へ行きたい」と言い出したんだから熊徹が怒るのも無理は無いと思うが、それはひとまず置いておこう。
で、じゃあ「九太は父と暮らし始めるが、熊徹のことも気になって」という展開にでも行くのかと思いきや、父から「2人で暮らそう」と言われると戸惑った様子で「急に埋まんないよ、時間」と口にする。
いやいや、お前は父と一緒に暮らすつもりで訪ねたんじゃないのかよ。なんで戸惑っているんだよ。

それどころか九太は「少しずつ、やり直そう。今までの辛いことは全部忘れて」と言われると、「やり直すって、何を?なんで辛いと決め付けるの?父さんは俺の何を知ってるんだよ」と怒り出す。
すんげえ身勝手な奴にしか見えないので、「どうでもいいわ、こんなガキ」と思ってしまう。
どうやら「九太が心の闇を自覚する」という展開に繋げたかったみたいだけど、描きたいことに表現が全く追い付いていない。
表面的な技法だけに留まっており、説得力のあるドラマや繊細な心情描写が足りていないので、「何が何だか良く分からない」という状態になっている。

もっと根本的な問題があって、それは「心の闇が云々という話、どうでもいいわ」と感じることだ。
前半で宗師が触れていたから、伏線が無かったわけではない。ただ、前半の言及も含めて、どうでもいいとしか感じない。
理由は簡単で、それは「九太と熊徹の絆」と何の関係も無いからだ。
九太を苛立たせて心の闇を出現させるのは父親で、彼を落ち着かせるのは楓だ。そこに熊徹は全く関与していない。心の闇が云々ってのは九太の個人的な問題に過ぎないし、それを解決するために熊徹は何もしていない。

おまけに、楓や父親を登場させた話の時点で既に散らかっているのに、心の闇の問題に関連して、「実は人間だった一郎彦が暴走する」という展開まで用意されている。
そこまでは九太や熊徹との関連が薄く、そんなに存在感が強かったわけでもない脇のキャラが、急に大きな扱いになっているという意味でもバランスが悪い。
一郎彦が暴走モードに入る前日には「渋天街へ戻った九太が一郎彦から暴行を受け、彼の闇に気付く」という出来事があるけど、そこからして取って付けた感じが強いし。

一郎彦が闇のパワーで暴走モードに突入すると、「九太と一郎彦はコインの裏表のような関係」と図式を急に用意する。
だけど、だったら最初から、そこを軸にして話を進めておくべきじゃないのかと。
前半は九太と熊徹の疑似親子関係、後半に入ると九太と楓や父親との関係を描いておきながら、終盤に入って唐突に「九太も下手をすれば一郎彦のようになっていた」とか言われてもピンと来ないわ。
「一郎彦の問題は、俺の問題でもある」と九太に言われても、「だとしたら、もはや人類の問題だわ」と言いたくなる。

そもそも、一郎彦が九太に対して憎しみを募らせていく様子なんて、まるで描かれていなかったわけで。
心に闇を宿していたことも、暴走モードに入る直前になって、慌てて示していたぐらいだし。
だから、そこをクライマックスに据えられても、気持ちが乗らない。
あと、彼が九太を憎んで始末したいと思ったのなら、なんで渋谷へ逃げちゃうんだよ。九太が追い掛けて来てくれたからいいものの、テメエから攻撃すべきだろうに。

九太が渋谷まで親切に追い掛けて来てくれると、一郎彦は巨大な鯨に変身する。
だけど『白鯨』を読んでいたのは九太なので、なぜ一郎彦が鯨になるのかサッパリ分からない。
そもそもクライマックスが九太と一郎彦のバトルという時点でコレジャナイ感が強いわ。だって、それは九太の個人的な戦いに過ぎないでしょ。熊徹との関係は、まるで関係が無いでしょ。
おまけに、また楓が絡んで来るので、すんげえ邪魔だし。そんで最終的には熊徹が事態の解決に関わるけど、急に利口になっちゃうから違和感ありまくりだし。
あと、あれだけの騒ぎを起こした一郎彦が何の罰も受けずに無罪放免ってのも納得できん。「渋谷の騒動で死人は出ておらず、軽傷者だけで済んだ」ってことで彼を許しているみたいだけど、そもそも「あんだけの騒ぎで軽い怪我人しか出ていない」という設定が甘すぎるだろ。

私は細田守が抜擢されて初監督を務めた短編アニメーション作品『デジモンアドベンチャー』を、素晴らしい作品だと思っている。
しかし、彼が広く知られるきっかけとなった2006年の『時をかける少女』は、そんなに高く評価していない。
それ以降に彼が手掛けた『サマーウォーズ』と『おおかみこどもの雨と雪』に関しては、作品を撮る度にどんどん質が下がっているという印象を受けた。
『おおかみこどもの雨と雪』に至っては、ポンコツ映画愛護協会で取り上げようかどうか迷ったほどだ。
そして今回の『バケモノの子』は、もう「駄作である」と断言できる。

『時をかける少女』から『バケモノの子』までの細田作品がどんどんダメになってきた大きな要因として、「脚本」が挙げられる。
最初の『時かけ』は筒井康隆の原作小説や過去の実写映画が存在し、奥寺佐渡子が単独で脚本を担当していた。
『サマーウォーズ』はオリジナル作品だが、細田守が原案を考えて奥寺佐渡子が脚本を執筆した。
『おおかみこども』は細田守が原作を担当し、奥寺佐渡子と共同で脚本も執筆した。
そして今回は、細田守が単独で脚本を手掛けている。

『サマーウォーズ』以降の細田守が、自分の生活環境を作品に投影していることは広く知られている。
『サマーウォーズ』の時は、結婚した奥さんの親族がアイデアの発端となり、「家族の繋がり」がテーマに掲げられた。『おおかみこども』の時は、奥さんが出産したことを受けて「母の子育て」が描かれた。
そして今回は、その子供が成長したことに合わせて「父と子の関係」を描いている。
個人的な問題を作品に投影するのは、全面的に否定されるようなことではない。
しかし細田守監督の場合、それが明らかに映画の質を落としている。
この辺りで、他人に脚本を任せることも考えた方がいいのではないか。

(観賞日:2016年9月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会