『西の魔女が死んだ』:2008、日本

中学生のまいは、ママが運転する車の助手席に座っていた。雨が降り出す中、彼女は泣いているママを見てハンカチを差し出した。まいは2年前の今頃、学校に行けなくなっておばあちゃんと過ごした1ヶ月余りの出来事を思い出した。まいは入学から1ヶ月ほどで、「学校は私に苦痛を与える場所でしかない」と言い出した。ママは大きな動揺も見せず、「しばらく休みましょう」と告げた。その夜、まいはママがパパに電話して「強く叱っても逆効果かと思って。昔から扱いにくい子だった」と話しているのを聞いた。ママはハーフで学校に溶け込めなかったが、大学まで出ていた。
まいは母と共に、久しぶりにおばあちゃんと会った。おばあちゃんは森の中の一軒家で独り暮らしをしながら、多くの植物を育てていた。おばあちゃんとママがサンドウィッチを作ることになり、まいはママに言われて裏の畑へレタスを取りに行った。台所へ戻った彼女は、サンドウィッチを作るおばあちゃんとママを見守った。ママが荷物を取って来るよう言うので、まいは車へ向かった。すると長靴を履いた男が、車の中を覗き込んでいた。振り向いた男は、まいを無言で睨み付けた。
まいが「こんにちは」と挨拶すると、男は「お前はどこのモンじゃ」と攻撃的な口調で質問した。まいが「ここは祖母の家です」と答えると、男は「遊びに来たんか」と鋭く言う。まいが「しばらく、ここにいるんです。病気だから」と話すと、男は「いい身分じゃな」と吐き捨てて立ち去った。腹を立てたまいは、おばあちゃんに「車を覗いていた男がいた」と報告した。おばあちゃんは男が小道の入り口に住むゲンジで、たまに庭の仕事を頼んでいるのだと説明した。ママが離婚して戻って来たのかと尋ねると、おばあちゃんは「さあ、今は一人で住んでいるみたいだけど」と答えた。
まいはおばあちゃんから、おじいちゃんの部屋かママの部屋、どちらを使うか問われた。まいがママの部屋を選ぶと、ママは片付けに行く。おばあちゃんはまいに、「まいに見られたくない物を片付けに行ったのです。人は大人になろうとする時、そういう物がどんどん増えていくのですよ」と語る。まいはおばあちゃんに質問し、亡くなったおじいちゃんの部屋には今でも多くの石が置いてあることを知った。おじいちゃんは中学の理科教師でね英語教師としてイギリスから来たおばあちゃんと出会って結婚したのだった。
翌朝、まいが起床すると、おばあちゃんはママが仕事で早くに帰ったことを伝えた。まいはおばあちゃんに促され、裏山へ散歩に出掛けた。野イチゴが生えている場所を抜けた彼女は、向こうの山を眺めた。まいは教室で一人ぼっちだった自分の姿を思い浮かべ、「とりあえず、エスケープだ」と呟いた。そこへおばあちゃんが来て、まいは一緒に野イチゴを摘んでジャムを作った。おばあちゃんはおじいちゃんが野イチゴのジャムを好きだったこと、何にでも付けて食べていたことを語った。
おばあちゃんはまいに、自分の祖母が魔女で予知能力や透視能力に優れていたこと、その能力で難破した祖父を救ったが内緒にしていたことを明かした。魔女の家系だと知らされたまいは、「でも私には、そんな力は無いなあ」と漏らした。翌日、まいが「頑張ったら超能力を持てるようになる?」と尋ねると、おばあちゃんは努力と基礎トレーニングが必要だと述べた。彼女はまいに、早寝早起きや食事など、規則正しい生活を送ることが大切だと説明した。
おばあちゃんは「自分で決めたことをやり遂げるのが何より大切」と説き、まいは一日の時間割を決めて魔女修行を開始した。ゴミ捨て場に赴いたまいは、近くに住むケンジの家に視線をやった。すると2頭のシェパードが狭い檻に閉じ込められ、激しく吠えていた。まいがゴミ捨て場を見ると、ケンジが捨てた大量のエロ本があった。まいはおばあちゃんから「好きな所に畑を作ってもいい」と言われ、切り株がある大好きな場所を選んだ。おばあちゃんは耕して畑にするのではなく、野アザミや釣鐘人参を植えようと提案した。
夜、郵便屋さんがオンボロのオートバイでおばあちゃんの家にやって来た。オードハイが壊れて動かなくなったため、郵便屋さんは息子の健太郎に電話を掛けて迎えに来るよう頼んだ。彼はおばあちゃんに、妹からのエアメールを渡した。おばあちゃんは妹が優秀で、イギリスで占い師をしていると話す。郵便屋さんは彼女に、息子が同じ仕事をやりたがっていることを嬉しそうに語った。健太郎が自転車で来ると、郵便屋さんは一緒に去った。
おばあちゃんはまいに、妹のような能力は無いが、何が起きるか分かっていることが1つあると語る。その内容を彼女は「秘密」と言わず、「その内、まいにも分かりますよ」と告げた。それをまいが知るのは、2年後のことになる。卵を取りに行ったまいは、鶏の死骸を見て悲鳴を上げた。おばあちゃんは以前にもあったことを話し、野良犬かイタチの仕業だろうと述べた。彼女はゲンジに頼んで、鶏小屋の金網を全て外してもらった。
大好きな場所で切り株に座っていたまいは、突然の大雨に走り出した。彼女が道路に出て座り込んでいると、郵便屋さんが来て声を掛けた。おばあちゃんはまいから「人は死んだらどうなるの?」と訊かれ、「分からないんです。実は死んだことが無いので」と答えた。まいが「パパは死んだら何も無くなるって言ってた」と泣き出すと、おばあちゃんは優しく抱き寄せた。彼女はまいに、「死ぬということは、魂が体から離れて自由になることだと思っています」と語る。彼女は「色々なことを体験しなければ魂は成長できない。それが魂の本質」と説き、「おばあちゃんが死んだら、まいに知らせてあげますよ」と微笑んだ。
翌日、まいはおばあちゃんから、金の入った封筒をゲンジに届けるよう頼まれた。まいがゲンジの家へ行くと、彼は仲間の男と一緒だった。仲間が「どこの子じゃ」と訊くと、ゲンジは「外人トコの孫じゃ。学校を怠けて遊んどるんじゃ」と答えた。仲間は「それじゃあ、お前とよく似たモン同士じゃな」と言い、ケンジは笑い合った。家を出たまいは、シェパードの檻に目を向けた。すると檻の前には、鶏小屋の金網に付着していたのと同じ毛が大量に落ちていた。
まいはおばあちゃんの元へ戻り、ゲンジの犬が夜中に逃げ出して鶏を襲ったのだと訴えた。おばあちゃんは落ち着くよう諭し、「魔女は自分の直感を大事にしなければなりません。でも、その直感に取り憑かれてはダメなのです」と告げた。夜、まいが「私、ダメだね」と口にすると、おばあちゃんは「そんなことありません。焦ってはいけません。時間が掛かることもあるんです」と述べた。まいが「私ね、上手く言えないけど、ここが好き」と語ると、おばあちゃんは「ここにずっといてもいいんですよ。まいがそうしたかったら、私からママに頼んであげます」と告げた…。

監督は長崎俊一、原作は梨木香歩『西の魔女が死んだ』(新潮文庫刊)、脚本は矢沢由美&長崎俊一、エグゼクティブ・プロデューサーは豊島雅郎、プロデューサーは柘植靖司&谷島正之&桜井勉、製作統括は小川真司、エグゼクティブ・スーパーバイザーは椎名保&原正人、製作代表は豊島雅郎&吉井伸吾&石川博&和崎信哉&春山暁&高野力&平林彰&鈴木大三&野林定行&後藤尚雄&喜多埜裕明、撮影監督は渡部眞、照明は和田雄二、録音は弦巻裕、美術監修は種田陽平、美術は矢内京子、編集は阿部亙英、音楽はトベタ・バジュン、主題歌は手嶌葵『虹』。
出演はサチ・パーカー、高橋真悠、りょう、木村祐一、高橋克実、大森南朋、鈴木龍之介、真実一路、諏訪太朗。


小学館文学賞や新美南吉児童文学賞を受賞した梨木香歩の同名小説を基にした作品。
監督は『8月のクリスマス』『黒帯 KURO-OBI』の長崎俊一。脚本は長崎俊一監督と妻の矢沢由美による共同。
おばあちゃんを演じたサチ・パーカーはシャーリー・マクレーンの娘で、日本映画への出演は初めて。
まい役の高橋真悠は、これが映画デビュー作。
ママをりょう、ゲンジを木村祐一、郵便屋さんを高橋克実、パパを大森南朋、健太郎を鈴木龍之介が演じている。

映画開始から10分ほどで、まいの「私は昔からおばあちゃんが大好きだった。何かと言うと、“おばあちゃん、大好き”と言った。そういう時、おばあちゃんはいつも微笑んで、こう答えた。“I Know”」という語りが入る。“I Know”の部分では、それを言うおばあちゃんの短い回想シーンが挟まれる。
「そこをナレーションで説明するんだ」とは思うが、それ以外でもナレーションで進行する形式なので、そこは仕方が無いだろう。
それよりも、その語りが入るまで、「まいはおばあちゃんが大好き」ってのが全く伝わらないのが問題だ。
久々の再会シーンでも、微笑みは浮かべていたけど、ぎこちなくて何となく緊張も感じられたし。
「昔は好きだったけど今は違う」とか「素直に好きな気持ちを表現できなくなった」とか、そういうケースもあるだろう。でも、そういうことでもないんだよね。

裏山へ散歩に出掛けたまいは、「うわあ、凄い」と感嘆の言葉を漏らす。だが、何に対する感動なのかが分かりにくい。
その後のカメラワークからすると、野イチゴが生えている場所に対する感動なのか。でも、それで感動するのは、ちょっと良く分からないなあ。
あと、まいがおばあちゃんの家に来たのって、これが初めてじゃないんでしょ。それなのに、まるで初めて見たような反応には違和感があるなあ。
もしかすると「野イチゴの場所を見たのは初めて」ってことなのかもしれないけど、それは分からないし。

っていうかさ、そもそも「まいはおばあちゃんに会うのも家に行くのも初めて」という設定にしておいた方が良かったんじゃないかと。
それだと原作と内容が大きく変わっちゃうだろうし、原作ファンからは批判されるかもしれない。
ただ、映画を見る限り、明らかに「まいが初めての場所で初めての体験をすることで、精神的に少しずつ変化していく」という話の枠組みなんだよね。
なので、原作から逸脱する内容になっても、「おばあちゃんの家に初めて行き、初めて一緒に過ごして」ということで良かったんじゃないかと。

サンドウィッチを作って食べるシーンも、野イチゴのジャムを作ってトーストに塗って食べるシーンも、たっぷりと時間を割いて丁寧に描いている。その辺りからは、何となくスローライフ推奨映画の匂いも漂って来る。
だけど、それにしては食べ物がそんなに美味しそうに見えないんだよね。
最後まで見た時に「スローライフ推奨映画」の印象は受けないし、そういう狙いは無かったのかもしれないよ。
ただ、それなら時間の配分が違うんじゃないかと思うし。

映画開始から30分辺りで、まいが自分のためにエプロンを縫ってくれているおばあちゃんに「おばあちゃん、ありがとう」と言い、それに大しておばあちゃんが「I Know」と返すシーンがある。
前述した「私は昔からおばあちゃんが大好きだった」のナレーションからの繋がりで、そういうシーンを入れているのだ。
ただ、かなり唐突に感じられる。どこかのタイミングで「ありがとう」「I Know」のやり取りを入れるだろうとは思っていたけど、そのタイミングじゃないなあ。
その後、おばあちゃんが「魔女って知ってる?」とまいに尋ねるのも、これまた唐突だわ。翌日、まいが切り株のある場所へ行き、そこに座って「私はここが大好きだ」とナレーションを語るのも同様。なぜ好きなのかも教えてくれないし。

まいが「人は死んだらどうなるの?」と不意に尋ねるのは、「鶏が殺されているのをも目撃した」という出来事からの流れなんだろう。
ただ、上手く流れを作れていないので、不自然に感じる。
「まいが死んでも、やっぱり朝になったら太陽が出て、みんなは普通の生活を続けるのって訊いたら、そうだよってパパは言った」と話すのも、「なんで急に自分の死を連想するの?」と変に感じる。
それで辛い思いをずっと抱えていたらしいけど、取って付けたようにしか感じないのよ。

そこだけじゃなくて、ずっと「急に取って付けたようなネタを放り込んでくるな」といいう印象が続くんだよね。
何となく人生哲学的なメッセージを発信しようとしている匂いが漂って来るんだけど、ことごとく空回りしている。
「おばあちゃんと孫娘の田舎暮らしの様子」をスケッチするだけの内容でも、それはそれで「メッセージはゼロだけど、ほっこりした気持ちにさせられる佳作」になった可能性はある。
でも、何かを伝えようとしたことが、裏目に出ているんじゃないかと。

ケンジが本当に不愉快な男になっていて、それが映画としての評価を大きく下げることに繋がっている。
たぶん、「がさつだけど悪い奴ではない」というキャラ設定なんだろうと思うけど、実際は「デリカシーが微塵も持ち合わせていないサイテー野郎」にしか見えないのだ。
鶏を殺した犯人がゲンジの飼い犬かどうかという問題は置いておくとしても、その犬の飼い方には大いに問題がある。
明らかに檻が狭いし、散歩に連れて行っている様子も無い。

あと「外人」という呼び方や、まいに対する言動の数々も、明らかな「蔑視」が感じられる。それは絶対に、「口は悪いけど根はいい奴」の言動ではない。
「ぶっきらぼうな態度」とか「不器用で人付き合いが下手」とか、そういうのとは全く種類が違うのよ。
おばあちゃんをまいのメンター的な立場として動かし、「おばあちゃんの言うことは全て正しかった」という形にしたいんだろう。
だけど、ゲンジを全面的に容認してまいを厳しく注意することで、そこが怪しくなっちゃうのよね。

映画の終盤、まいはゲンジへの嫌悪感が我慢できなくなり、諫めるおばあちゃんは激しく反発する。彼女はゲンジを罵って「死んじゃえばいい」と言い、おばあちゃんは平手打ちを浴びせる。
まいは納得できず、おばあちゃんに別れの挨拶もせずに去る。そして両親と共に遠い町へ引っ越し、2年ぶりにママと訪問する。それが冒頭シーンだ。
まいとママがおばあちゃんの家へ行くと、彼女は既に亡くなっている。まいはゲンジから、おばあちゃんとおじいちゃんの世話になったことを聞かされる。
ここで「ゲンジはそんなに悪い奴じゃなかった」と思わせたいんだろうけど、その程度で今までのモノが全てチャラになったりすることは無いからね。

あと、まいはおばあちゃんと最後に会った時の出来事について、「悪いことをした」と酷く後悔しているんだよね。そして「許してくれるだろうか。でも、きっといつものように笑顔で迎えてくれる」とモノローグを語り、おばあちゃんの家を訪れている。
それなら、既に死亡していて言葉を交わすことが出来ないんだから、「気付いた時には遅かった」的なことじゃないと収まりが悪くないか。
だけど実際には、「死が分かったら伝える約束をおばあちゃんが覚えていたので、まいが感涙する」という形で、感動&ほっこりの結末になっている。
これが例えば「まいは傷付けたと思っていたけど、それは誤解だった」ってことなら、「気付いた時には」じゃなくてもいいだろう。
だけど、「まいはおばあちゃんに悪いことをした」ってのは不変の事実なので、ちゃんと謝ることが出来ないままで終わる以上、感動&ほっこりの結末は何か違うんじゃないかと。

(観賞日:2023年11月28日)

 

*ポンコツ映画愛護協会