『忍者武芸帖 百地三太夫』:1980、日本

伊賀忍者の首領である百地三太夫の砦が落ちないため、羽柴秀吉は腹心の不知火将監に相談していた。織田信長も苛立っていることを秀吉が話すと、家来のチヌとバリコを従えた甲賀忍者の将監は「戦いは弓鉄砲だけでするものではございません」と自信を見せた。彼は三太夫と会い、甲賀が手を貸すと嘘をついた。すっかり信じた三太夫は、同行した家来たちと共に殺された。しかし短刀を持っていなかったため、将監は見つけ出すよう命じた。その短刀には、伊賀の隠し金山の在り処が記されているのだ。
三太夫の妻である千代は夫の死と砦の陥落を知らされ、嫡男の鷹丸に狼の紋章を刻んだ短刀を授け、爺やの平六に逃がすよう頼んで自害した。将監は弟の幻之介や家来たちを引き連れて屋敷へ乗り込み、一族は皆殺しにするよう命じた。鷹丸を連れて森に逃げ込んだ平六は、弥藤次と数名の伊賀衆に遭遇した。その中には、鷹丸と同年代の幼い五助、石目、門太、右衛吉、川次郎、おつうたちも含まれていた。甲賀衆の襲撃で次々に犠牲者が出る中、鷹丸は横笛を敵に投げ付けておつうを救った。その場から逃げ出した平六は崖に追い込まれ、鷹丸を抱えて海に飛び込んだ。
翌年の天正10年10月、織田信長は明智光秀の謀反によって葬り去られた。秀吉は光秀の謀反を将監から知らされるが、兵を送らなかった。そして主君の弔い合戦として光秀軍を撃破し、逃げ延びようとした光秀も将監たちに討たれた。時代は回り、時は文禄の世を迎えた。青年へと成長した鷹丸は小舟を漕ぎ、明国から日本へ戻った。京都に入った彼は、盗賊の石川五衛門について知らせた者に賞与を与えるという京都所司代の触れ書きを目にした。しかし庶民の間では、石川五衛門は義賊として知られていた。
鷹丸は呼び込みの男に芝居小屋へ連れ込まれ、歌舞伎踊りを見物した。役人の井口たちが舞台に上がり、女たちに抱き付いて乱暴を働こうとした。鷹丸が役人たちを懲らしめて軽く叩きのめす様子を、猿回し芸人となっていた門太たちが野次馬に混じって見ていた。その場を立ち去る鷹丸が狼の短刀を下げていることに、2人は気付いた。そこへ京都所司代となっていた幻之介が来て鷹丸の捕縛を家来たちに命じ、やはり短刀に気付いた。逃亡する鷹丸の姿を、家康の天下を覆さんと狙う徳川家康の懐刀、服部半蔵が見ていた。
鷹丸は追って来た門太、右衛吉、川次郎の顔を眺め、相手の素性を悟って再会を喜び合った。門太たちは五助の待つ古寺へ鷹丸を案内し、沖合いを通り掛かった明国の船に助けられて大陸へ渡ったこと、平六は7年前に他界したことを聞かされる。おつうのことを気に掛ける鷹丸だが、五助たちは彼女の消息を知らなかった。五助たちは百地一族再興のための軍資金を溜めるため、石川五衛門の名で義賊をしていることを明かした。
五助たちが溜め込んだている金の一部を鷹丸に見せていると、もう1人の仲間である石目が戻って来た、彼は他の面々と違って鷹丸の帰還を歓迎せず、喧嘩を吹っ掛けた。しかし実力の差を見せ付けられると、笑顔で鷹丸を受け入れた。鷹丸たちが食事を取っていると、弥藤次が鍛え上げた蜘蛛一族を引き連れて現れた。「捨て石になる覚悟は出来ておるぞ」と弥藤次が言うと、鷹丸は「百地鷹丸が言うぞ。狙うは不知火将監の首。倒すは秀吉の天下。よって我が百地一族の再興を期す」と訴え掛けた。
伏見城では秀吉が守護職となった将監を呼び寄せ、朝鮮半島を制圧するための軍資金として伊賀の隠し金山が手に入らないものかと相談する。そこへ幼い息子の捨丸(後の秀頼)が来たので、秀吉は嬉しくなって頬ずりした。すると、そこへ正室の淀君が来て「おやめ下さい、汚らしいことを」と告げ、捨丸を奪い取って立ち去った。鷹丸は弥藤次に、平六が死んでからの苦労を語る。空腹に耐えかねて露店で饅頭を盗んだ彼は袋叩きに遭うが、少林拳道場主の娘である愛蓮に救われたのだった。
半蔵が鈴鹿山の家に戻ると、おつうが「兄さん」と迎える。彼女は半蔵に拾われ、彼を兄と慕って暮らしていたのだ。半蔵が鷹丸と遭遇したことを話すと、おつうは動揺しつつも、「私はもはや百地一族とは縁無い者」と口にした。すると半蔵は、鷹丸に近付いて短刀を盗み出すよう命じた。鷹丸は弥藤次から、短刀に隠し金山の場所が記されていることを聞く。短刀を確かめた彼は、地図が半分しか描かれていないことを知った。
おつうは横笛を吹いて鷹丸を誘い出し、再会を喜ぶ彼に涙を見せた。鷹丸は仲間と会わせようとするが、おつうは「また今度」と言う。どこで暮らしているのか問われた彼女は、親切な人に助けられて大坂に住んでいると語った。五助は恋人・お艶から、所司代に鷹丸と五右衛門のことを密告したと聞かされる。貰った褒美を見せる彼女に、五助は激昂する。五助が仲間の元へ行こうとすると、お艶は「自分の子供をてて無し子にするつもりか」と叫ぶ。初めて妊娠を知らされた五助は、「行かんといて」と泣き付かれて苦悩する。
翌朝、幻之介の率いる役人衆と甲賀の忍者たちは寺に乗り込み、石目たちを襲撃した。石目たちは外へ出て必死に戦うが、多勢に無勢で追い詰められる。門太、右衛吉、川次郎が捕縛される中、弥藤次は石目を逃がした。一方、鷹丸の前には将監がチヌとバリコを従えて姿を現し、短刀を渡せと要求した。彼は襲い掛かる蜘蛛一族を軽く始末し、チヌたたち協力して鷹丸を追い込んだ。木陰から様子を見ていたおつうの呼び掛ける声を聞き、鷹丸は短刀を彼女に投げた。おつうが逃走すると、チヌとバリコが追い掛けた。そこへ半蔵が駆け付け、おつうを連れて逃げ去った。
鷹丸は幻之介に拷問されて隠し金山の在り処を吐けと要求されるが、頑として口を割らなかった。一方、半蔵は短刀を調べ、地図が半分しか無いことを知った。おつうは半蔵から横笛を捨てるよう要求され、「色恋の術の内」と説かれる。鷹丸は無人となった隙に牢を脱出し、見張りの連中を倒した。城内を逃げ回った彼は、秀吉や淀君たちのいる広間に入り込んだ。素性を問われた彼は「百地三太夫の遺児、鷹丸」と名乗り、腰元たちの追跡を逃れて城から脱出した。
愛蓮は従者の唐順棋と共に日本を訪れ、京の町へやって来た。門太たちは三條河原で釜煎りの刑に処されることになり、現場には大勢の見物客が押し寄せた。五助は「我こそは石川五右衛門なり」と叫んで刑場へ乱入し、釜に飛び込んだ。お艶は五助を追って刑場へ踏み込み、将監に斬られた。幻之介は将監の指示を受けて役人たちと共に見物客を包囲し、顔改めを始める。川に潜んでいた鷹丸が飛び出すと、見物客の中に潜んでいた石目も爆薬を投げて加勢した。
刑場に入り込んだ鷹丸と石目が仲間たちを助けると、役人たちが発砲した。すると弥藤次が蜘蛛一族を連れて出現し、役人たちを攻撃した。石目と弥藤次が命を落とす中、発砲を受けた無関係の女性も犠牲となった。怒った見物客が投石を始めると、将監は銃撃を役人たちに命じた。半蔵とおつうは馬で刑場へ乗り込み、竹格子を倒して民衆を雪崩れ込ませる。半蔵とおつうは刑場から逃亡し、鷹丸たちも暴動に紛れて脱出を図る。右衛吉が銃弾を浴びて死亡するが、他の面々は逃亡した。
鷹丸が仲間たちと伊賀百地砦跡を訪れて「俺は負けたんだ」と漏らしていると、老人が現れて「女々しいぞ、鷹丸。泣く暇があったら憎悪の火の粉を燃やせ」と説教した。相手が戸沢白雲斎と分かると、鷹丸たちは平伏した。白雲斎は鷹丸たちを木曾の山中へ連れて行き、修業を積ませる。伊賀忍法の秘術を全て教えた白雲斎は、三太夫から預かっていた短刀を鷹丸に授けた。それは残り半分の地図が描かれている短刀であり、鷹丸は喜んだ。深夜、おつうが2本の短刀を盗み出したため、気付いた鷹丸は後を追った…。

監督は鈴木則文、アクション監督は千葉真一、脚本は石川孝人&神波史男&大津一郎、企画は日下部五朗&本田達男、撮影は中島徹&小川原信、照明は海地栄、録音は平井清重、編集は市田勇、美術は佐野義和、助監督は俵坂昭康、擬斗は上野隆三、舞踊振付は一の宮はじめ&藤間紋蔵、スタント指導は中牟田了&金田治、音楽プロデューサーはすずきまさかつ、音楽 作・演奏はバスター(クラウン)。
主題歌『風の伝説』作詞:野際陽子、作曲:杉真理、編曲:井上鑑、歌:真田広之。
出演は真田広之、志穂美悦子、千葉真一、夏木勲(夏八木勲)、蜷川有紀、火野正平、丹波哲郎、小池朝雄、佐藤允、野際陽子、春川ますみ、長谷一馬、粟津號、日高久美子、橘麻紀、内田勝正、季一龍、崎津均、伊庭剛、古賀弘文、竹下誠治、笹木俊志、汐路章、石橋雅史、有川正治、岩尾正隆、浜田晃、井上清和、横山稔、剣持誠、山本亨、藤川聡、宮川珠季、勝野賢三、奈辺悟、大木悟郎、蓑和田良太、秋山勝俊、丸平峯子、志茂山高也、大城泰、琢磨一生、茂山茂、小谷浩三、松谷健史、吉澤高明、三村雅、瀬賀敏之、三木健作、藤原桜子、川井大輔、藤本英之、岡本将、豊田琴美、石田久美、河野清子、扇町陽子、村田麻也子、篠原玲子、明日香和泉ら。
ナレーターは戸浦六宏。


ジャパン・アクション・クラブ(JAC)の若手だった真田広之が初主演した作品。
監督は「トラック野郎」シリーズの鈴木則文。
鷹丸を真田広之、将監を千葉真一、愛蓮を志穂美悦子、半蔵を夏木勲(夏八木勲)、おつうを蜷川有紀、五助を火野正平、白雲斎を丹波哲郎、秀吉を小池朝雄、弥藤次を佐藤允、千代を野際陽子、淀君を春川ますみ、石目を長谷一馬、門太を粟津號、菊之丞を日高久美子、お艶を橘麻紀、幻之介を内田勝正が演じており、ナレーターを戸浦六宏が担当している。

冒頭、三太夫は将監から協力すると言われて信じ込み、作戦を練るために建物の中へ入る。その途端、将監の合図で壁から槍が突き出し、屋内にいた伊賀忍者たちが殺される。
ってことは、そこは百地の砦じゃなくて将監の館なのかと思ったが、親分の場所に三太夫が座っているんだよな。
後の展開からすると、どうやら百地の砦のようだけど、だったら壁の背後に大勢の甲賀忍者が潜んでいるのは無理があるぞ。そんな大勢の甲賀忍者が簡単に入り込めるのなら、普通に落とせると思うぞ。
それと、「将監が卑劣な奴」ってことよりも、そもそも簡単に騙される三太夫がボンクラにしか見えないってことの方が強いぞ。

タイトルに『忍者武芸帖』とあるし、もちろん主人公は伊賀忍者なのだが、忍術で戦うわけでもなければ、剣術で戦うわけでもない。幼少の頃に中国へ渡ったという設定で、カンフーを使うのだ。
いや、それは違うだろ。
そりゃあ、「元禄時代の日本で中国拳法の使い手が活躍する」ってのは、それはそれで面白い話だとは思うよ。
ただ、それなら『忍者武芸帖 百地三太夫』って付けちゃダメだろ。
そのタイトルを付けたからには、ちゃんと「忍者が忍術で戦う」という話にしなきゃ、ほとんど詐欺みたいなモンだぞ。

そりゃあ幼い頃に一族を殺されているので忍者の修業なんか積んでいないわけで、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、それで「百地一族の再興を目指す」とか言われてもなあ。
お前は百地一族の真髄を何も受け継いでいないだろうに。
日本へ戻ってから弥藤次たちに教わることも無いし、白雲斎も修業はさせるけど全く忍術は教えない。
終盤になると鷹丸は忍者装束に着替えて二刀流で戦うから、一応は忍者らしさが出るんだけど、そうなると今度は「だったら最初からカンフー使いの設定って要らなくねえか」と思っちゃうし。

シンセサイザーの電子音をピコピコさせるBGMが使われているんだけど、これが映画の雰囲気に全く合わない。っていうか、雰囲気をブチ壊しにして、すんげえ安っぽい印象を与えている。
それ以外でも、例えば鷹丸が伏見城から脱出しようとするシーンではサックスをフィーチャーした緊迫感ゼロの心地良いフュージョンが流れて来たりして、とにかく伴奏音楽がドイヒー。全編に渡ってフュージョン系の音楽が使われているが、どう考えたって、この映画には合わないでしょ。
そりゃあ、公開された1980年は日本でフュージョンが流行していたし、渡辺貞夫が大人気だった頃だけど、なんでもかんでも流行に乗ればいいってもんじゃないでしょ。
それと、伏見城からお堀にダイブするシーンなんかは真田広之が自ら危険なスタントをこなしているんだけど、「ヒューン」という効果音を付けたせいで、逆に凄さが削がれている。伴奏音楽だけじゃなくて、効果音まで映画の質を下げている。

淀君が秀吉から捨丸を奪い取るシーンや、鷹丸を助けに入った愛蓮が戦っているとズボンの尻の部分が破けるシーンなど、コミカルな描写がチラホラと盛り込まれるんだけど、これが完全に場違いな空気を醸し出している。
コメディー・リリーフが効果的に作用する映画は幾らでもあるんだけど、この映画にはミスマッチ。
だって「両親や一族を殺された主人公が、復讐心と一族再興に燃える」って話なんだから、そりゃあシリアス一辺倒でやった方がいいはずでしょ。
たまに緩和は入れてもいいけど、喜劇のノリは違うんじゃないかと。

五助がお艶から所司代への密告を聞かされるシーンがあるのだが、なんせ彼女はそこが初登場なので、「急にそんなことを言われてもなあ。そんなことよりアンタ誰?」と言いたくなってしまう。
「女が惚れた男との生活を守りたいがために裏切り行為を働き、男は彼女への恋心と仲間への忠義の狭間で揺れ動く」というドラマを作りたいのなら、それ以前に恋人との関係を描き、恋人が一族再興など忘れて今の生活を大切にしてほしいと願っていることを描いておかないと、マトモに機能しないぞ。
あと、そもそも五助たちが石川五右衛門として活動しているシーンが1つも無いもんだから、そこも手落ちだと感じるなあ。
そりゃあ、色々と描かなきゃいけないことがあって、五右衛門としての活動シーンまで手が回らないってのは理解できる。何を省くかと考えた時に、そこを選択するってのも理解できる。
ただ、その程度の雑な扱い方で済ませるぐらいなら、そもそも「五助たちが石川五右衛門として活動している」という設定自体、最初から盛り込まなきゃいいんじゃないかと思ってしまうのよね。せっかく石川五右衛門という知名度の高いキャラを持ち込んでいるのに、まるで活かしていないんだからさ。

五助がお艶から密告を知らされた後、シーンが切り替わると翌朝になっている。役人衆と甲賀の忍者たちは寺を襲撃し、将監は鷹丸を襲う。
この2つの戦闘シーンにおいて蜘蛛一族は甲賀衆と戦い、あっけなく殺される。そこで全滅するわけじゃないけど、残った連中も刑場で死ぬ。
つまり、せっかく「弥藤次が育てた集団」として紹介されたのに、まるで活躍しないまま、殺されるための雑魚キャラとして役目を終えてしまうのだ。
登場する面々の中で、善玉サイドでは「忍者らしさ」を感じさせる数少ない存在だったのに、不憫だなあ。

こういう映画で、そういうトコをマジに指摘するのは間違っているのかもしれないけど、伏見城守護職である将監が堂々と刑場に同席し、役人たちに指示して民衆を殺害させるってのは、どう考えても不自然だよな。
こいつを極悪非道な男としてアピールするために、「仲間を脅しに使って潜んでいる連中を誘い出そうとする」とか「民衆を容赦なく殺害する」という動かし方にしてあるのは分かるのよ。ただ、完全に職権を越えた活動になっているわけで、それを堂々とやったらマズいんじゃないかと。
弟の幻之介が京都所司代なんだから、基本的には彼に任せておくのが筋なんだよな。そんで、将監は「黒幕として弟を操る」ってことで、秘密裏に動かないとマズいんじゃないかと。表立って管轄外の行動を取るだけじゃなく、庶民の反感を買うようなことをやらかすのは、たぶん秀吉としても望ましくない行動のはずだし。
だから、せめて「将監の勝手な行動を秀吉が諌める」という手順でも用意してあればともかく、ずっと放置しているんだよな。

刑場での暴動があった後、夜になって晒し首となっている仲間たちを見た鷹丸は、炎の前で上半身裸になって目をギラギラさせている。
てっきり将監への復讐心をたぎらせているのかと思いきや、流れて来た軽快なテンポの曲(もちろんフュージョンである)に合わせて腰の辺りをトントンと握り拳で叩く。そうやってリズムを取った後、今度は音楽に合わせて踊り始める。
一応は「死んだ仲間たちを思いながらの舞」ってことみたいだし、途中からカンフーの演武っぽくなっているけど、「バカバカしい」という感想しか沸かない。
だから、それを見た愛蓮が泣いているのも、やっぱりバカバカしいだけだ。

一心不乱に踊っている鷹丸を見ていた愛蓮だが、なぜか声も掛けずに去っているようだ。再会シーンが無いまま次のシーンに移るので、そういうことなんだろう。
でも、彼女が日本に来たのは間違いなく鷹丸と会うのが目的のはずなのに、そこで声を掛けずして、いつ声を掛けるのかと。
そんで残り30分ぐらいになって愛蓮が鷹丸の元へ行くシーンがあるんだけど、そりゃタイミングがおかしいだろ。そして遅すぎるだろ。それまでアンタは何をしていたんだよ。
そんで、会いに来たシーンで「どうして国へ帰らなかった」と鷹丸が言うんだけど、ってことは、既に愛蓮が来日したことは知っていたのかよ。ワケが分からんぞ。

ただ、これを言っちゃうと身も蓋も無いんだけど、そもそも愛蓮の存在意義って皆無に等しいんだよね。ヒロインとしてはおつうが存在しているし、戦いに絡むのも終盤にチョロッとだけだし。
鷹丸に会いに来るからには、おつうも含めた三角関係を構築しなきゃ意味が無いはずなんだけど、そういうのは何も無い。愛蓮は鷹丸との再会シーンで「女に国無い、愛する人住むとこ、女の祖国」と言ってるけど、取って付けた感がハンパないし。
スー・シオミを特別ゲストのような形で参加させるにしても、もうちょっと上手い方法が幾らでもあったはずでしょ。
例えば、半蔵配下の女忍者でもいいわけだし。

鷹丸が伊賀百地砦跡を訪れる際、門太と川次郎だけでなく、おつうも同行している。
すました顔をして笛を吹いているけど、なぜ普通に同行しているのよ。
門太&川次郎とはキッチリとした形で再会の手順を踏んでいないし。後になって白雲斎が短刀を差し出すので、結果的には「2つの短刀を盗み出す」という目的が生じているけど、それは偶然の産物に過ぎない。
最初から短刀を手に入れる目的で同行しているとしても、そこはボンヤリしている。

そもそも刑場で半蔵が鷹丸たちを助ける理由からして、ちょっと分かりにくいんだよな。
もう一振りの短刀を見つけ出すためという目的があるのかもしれんけど、それを誰が持っているかは知らないんだし。
だから鷹丸たちを助けたところで、もう一振りの短刀に行き着くかどうかはハッキリしないわけで。
そこは、事前に「鷹丸たちを監視していれば、もう一振りの短刀に必ず出会えるはず」ってことに言及しておく必要があったんじゃないかと。

鷹丸たちは戸沢白雲斎が現れると「白雲斎先生」と言って頭を下げるんだけど、「いや誰だよ」って感じだ。何の説明も無いもんだから、どうやら先生と呼ばれるほど凄い忍者らしいってことは分かるんだけど、詳しいことは何も分からない。
あと、「なまくらを叩き直してやる。来い」と白雲斎が言ってシーンが切り替わるんだから、そこから厳しい修業の様子が描かれるはずでしょ。
なのに、デュークの歌う「本当の愛をぉ〜、握り締めるまでえぇ〜、走り続けたいぃ〜、走り続けるんだ」というバラードが流れて来るもんだから、ちっとも雰囲気が出ない。
画面上では修業の様子が描かれているんだけど、妙にマッタリした空気になっちゃうのよ。

っていうか実際に描かれている修業の内容も、そんなに過酷な印象は無いんだよね。
木に吊るした道具で懸垂したり、逆立ちで腕立て伏せをしたり、空中ブランコをやったりしているけど、「そもそも、それって忍術の修業ですか?」と言いたくなる。懸垂や腕立て伏せなんかは、ただの基礎体力作りだし。
そういうのって、「今さらかよ」と言いたくなる。
ジャッキー・チェンの『スネーキーモンキー 蛇拳』や『ドランクモンキー 酔拳』に影響を受けているのかもしれんけど、あっちは「初心者が特訓する」という設定だからね。

その後には鷹丸が白雲斎の棒術と戦ったり、一人で武術の稽古をしたりするシーンもあるけど、普通にカンフーっぽい動きなんだよな。
で、あっという間に白雲斎が「これで伊賀忍法の秘術、ことごとく身に付いたはずじゃ」と言う。
いやいや、いつ、どこで伊賀忍法の秘術を教えたのかと。劇中で描かれないトコで教えちゃったのかよ。
せめて「いかにも忍術でござい」という技の1つぐらい見せてくれよ。何も忍者っぽい術なんて披露していないじゃねえか。

当時のデューク(もちろん真田広之のことね)は若手アクションスターというだけでなく、アイドルとしても売り出されていた。
そのため、この作品にもアイドル映画としての側面がある。途中のダンスや歌は、そういうことだ。
で、そういう要素を持ち込んだことが、大きな間違い。どう考えたって合わないぜ。映画をグダグダにしちゃってるぜ。
これが例えば漫画原作のアクション・コメディーだったら、そういうノリもOKだったとは思うのよ。
でも、『忍者武芸帖』をアイドル映画として仕上げようってのは、ちと厳しいわ。

(観賞日:2015年7月3日)

 

*ポンコツ映画愛護協会