『虹をつかむ男 南国奮斗篇』:1997、日本

銀活男は沖縄の海にプカプカと浮かび、ラジオでラテンの曲『ブラジル』を聞いていたが、それは夢だった。目が覚めると、彼は警察署の 牢屋にいた。だが、何があったのか、良く覚えていない。秋葉原のオノデンで働く青年・平山亮に、錦糸町警察から活男のことで電話が 入った。活男はタチの悪い男に騙されてぼったくりバーに連れ込まれ、暴れて捕まったのだ。
活男は姪の結婚式に出席するため九州から上京しており、東京には知り合いがいなかった。そこで彼は身許引き受け人として、亮を指名 したのだ。亮は、まだ大学に通っていた1年前、活男が経営する映画館“オデオン座”で働いていたことがあった。亮は活男の身柄を 引き取り、実家へ連れ帰った。亮は工務店を営む父の肇、母の綾、妹の咲枝に、活男を紹介した。
活男はオデオン座の経営について聞かれ、亮がいた頃よりも状況は悪化していると語った。今は土日だけ営業し、平日は若い者と一緒に、 たこ焼き屋をやっているのだと活男は言った。そちらの方が、映画館よりも儲かっているのだという。活男は浴槽を壊し、鍋をこぼし、 いびきの大きさで亮の家族を寝不足にした。翌朝、みんなが寝ている間に、彼は九州へ帰った。
1ヶ月後、用事があってオノデンの電話を掛けた綾は、主任の村井から、亮が会社を辞めていることを聞かされた。人事異動で茨城県へ 行くことを拒んで、先月で辞職しているという。亮は仕事を続けているフリをしていたのだ。綾は帰宅した亮を問い詰め、「大学を出て から、なんべん仕事を変えたの」と泣く。亮が「仕事が合わない」と言うので、肇は「どんな仕事なら一生、続けられるんだ」と聞く。 亮は「能力を活かせる仕事なら」と言うが、肇は「ウチの職人たちの方が何倍も頑張っている」と腹を立てる。
父に非難されて激昂した亮は、家を飛び出して九州へ向かった。彼は活男に会いに行くが、オデオン座は休館していた。近所のオバサンに 尋ねると、活男は島を巡って商売をすると語り、若い人を連れて去ったという。亮はオバサンから活男のスケジュールを教えてもらい、島 に渡った。波止場に降りた亮は、幼い息子を連れた女性・祝節子と出会った。民宿“はまゆう”を営む叔母・絹代が、車で節子を迎えに 来た。亮は車に乗せてもらい、はまゆうで宿泊することになった。
節子は夫に逃げられ、息子を母に預けて東京へ戻るつもりだった。絹代は島に戻るよう勧めるが、節子は嫌がった。その会話を、亮は密か に聞いていた。亮は砂浜で節子と会話を交わし、「その人に会えたら元気になれそうな気がして、探しに来た」と活男のことを語る。ふと 視線を移すと、大きなスクリーンを砂浜に設置しようとする面々がいた。それは活男と助手のサブだった。彼らは移動映画館として、島を 巡っていたのだ。亮は活男に声を掛け、再会を喜び合った。
亮はスクリーン設置を手伝い、移動映画館の仕事に参加した。その夜、ムーンビーチでは1965年の映画『雪国』の上映会が開かれた。節子 も砂浜に現れ、映画を見た。上映会の後、活男は絹代の民宿へ移動し、カラオケで『夜霧よ今夜も有難う』を歌った。絹代は、オデオン座 へ行ったことがあると語った。活男は饒舌に喋り、さらに別の曲を歌って盛り上がった。
翌日、活男や亮たちは、移動映画館のバンで節子を実家まで送ることにした。活男は、夜の上映会に向けて主催者の郵便局に挨拶するため、 途中で降りた。亮とサブは、節子を実家へ送り届けた。夜、小学校での上映会に向けて、亮たちは準備を進めた。別の島から、麓松江という 女性が映画を見るため渡ってきた。会場にいた活男は、そこへ現れた松江をみて驚いた。かつてオデオン座で働いていた女性だったのだ。 2人は久しぶりの再会を喜んだ。松江は結婚し、子供もいた。
亮は節子が来ることを期待していたが、彼女は現れなかった。採石場で働く節子の兄・清治は「島でおとなしくしていりゃ、こんなこと にはならなかった」と、妹を激しくなじった。節子が反発して喧嘩が勃発しそうになるが、両親の幸吉と文子が止めた。上映会の後、活男 は松江と波止場に出掛けた。活男が、ずっと惚れていたことを打ち明けると、松江は「ずっと待ってたのよ」と言う。彼女の夫はダイバー のイントラクターで、今は仕事でサイパンにいた。活男と松江は、関係を持った。
翌日、亮は節子の実家を訪れ、上映会の入場券を渡した。その様子を見た清治は、バイクで亮を追い掛け、自転車を停止させた。清治が 「節子に惚れているのか」と質問したので、亮は「惚れてます」と答えた。清治は怒って平手打ちを食らわせ、「節子の周りをウロウロ するな」と要求した。亮は「幾らでも殴れ。その分、彼女を好きになる」と、激しく反発した。
亮から話を聞いた活男はバンで採石場へ乗り込み、清治を呼び出した。活男と亮が「節子さんが誰を好きになろうと自由だ」と抗議すると、 清治は昔から妹を可愛がっていたことを熱く語った。清治が移動映画館の仕事を「遊び半分」と表現したため、活男は腹を立てた。喧嘩が 始まりそうになり、亮はバンで待機していたサブを呼ぶ。ところがサブがサイドブレーキを忘れたため、バンが後ろ向きに坂道を滑って いった。慌てて追い掛けるが、バンは谷底に転落し、映写機が故障してしまった。
イライラした気分が晴れないまま実家に戻った清治は、亮を追い掛けてビンタしたことを、家族の前で口にした。それを聞いた節子は、 清治を非難した。清治は怒鳴り付け、幸吉にも同調を求めた。しかし幸吉は娘が戻った嬉しさを静かに語り、「お前は仕事に戻れ。セツが 家にいる間は、戻ってくるな」と清治に告げた。清治は苛立つ感情を露にしながら、家を出て行った。
夜、上映会の予定時刻が過ぎても、映写機の修理は終わらなかった。集まった客は騒ぎ出し、釈明する活男に「歌でも歌ってみせろ」と 野次を飛ばす。そこで活男は、松江がオデオン座で働いていた頃にも歌ったことがある『バナナ・ボート』を披露した。会場に来ていた 節子も、ピアノとコーラスで参加した。観客は拍手を送り、活男と節子は、さらに別の歌も披露した。会場は盛り上がり、皆が踊り始めた。 歌と踊りの大会が終わった後、亮は砂浜で節子と口づけを交わした…。

監督&原作は山田洋次、脚本は山田洋次&朝間義隆、プロデューサーは中川滋弘&深澤宏&平野隆、撮影は長沼六男、編集は石井巌、録音 は岸田和美、照明は熊谷秀夫、美術は出川三男、音楽監督は山本直純、作・編曲は森村献。
出演は西田敏行、小泉今日子、吉岡秀隆、哀川翔、松坂慶子、倍賞千恵子、田中邦衛、笹野高史、角替和枝、小薮千豊、田山涼成、 星野真理、八木昌子、伊舎堂千恵子、岩崎ひろし、滝原祐太、光映子、柳野幸成、平田京子、北山雅康、島岡厚代、渡部夏樹、米山太平、井川哲也、松村重義、 篠原靖治、渡部文明、神戸浩ら。


1996年に公開された『虹をつかむ男』の続編。
活男役の西田敏行と亮役の吉岡秀隆だけは、前作から続投。
絹代役の倍賞千恵子と肇役の笹野高史は、前作にも出演していたが、演じる役柄が違っている。
節子を小泉今日子、清治を哀川翔、松江を松坂慶子、幸吉を田中邦衛、綾を角替和枝、サブを小薮千豊、村井を田山涼成、咲枝を星野真理 、文子を八木昌子が演じている。

続編と書いたが、『虹をつかむ男』とは設定が異なる部分が幾つかある。
まず活男の苗字が「白銀」から「銀」に変更されている。
また、前作のオデオン座は徳島県にあったが、今回の活男は九州から上京している。
亮の家族は、前作では両親が倍賞千恵子と前田吟、妹が佐藤仁美だったが、今回は配役が違うし、両親の役名も変更されている。
マイナーチェンジしている時点で、続編を作るのは厳しいってことだ。
っていうかさ、マイナーチェンジってのは、前作でダメだった箇所を改善するために行われているのかっていうと、そういうわけじゃない 。活男の苗字が変わったり、映画館の場所が変更されたり、亮の家族の設定が変更されたりしたことに、全く意味を感じない。
続編を作るにしても、そのまんまの設定で良かったんじゃないの。そんな無意味にしか思えないマイナーチェンジをするぐらいなら、続編 なんて作らなきゃいいのに。全く別の企画を立ち上げて、一から仕切り直せばいいのに。

亮のナレーションで活男が九州へ帰ったことを説明した後、場面が1ヶ月後に移ると、亮が会社を辞めていた事実を「母親が会社に電話 して主任から聞く」という形で観客に明かす。
だが、そこは亮サイドから描かないと、繋がりがギクシャクしてしまうように感じるが。
それ以外の箇所で視点が亮から離れることも、あまり望ましくないと思うし、特にその部分は解せない。
「活男は九州から上京した」「鹿児島行きの深夜バスで帰る」という説明があるんだから、今回のオデオン座は、九州の鹿児島に設定 されているはず。ところが、家出した亮が活男の元へ向かう際、挿入される景色は明らかに島々だ。それに、オデオン座の近くにいる オバサンの方言は、どうも沖縄っぽい。
絹代もオデオン座に行ったことがあると語っているし、九州じゃなくて沖縄本島なのか。その辺りがハッキリしない。そこをボンヤリ させておくことのメリットは、何も無い。
その後で活男や亮が巡る島も、それが何という島なのか分からないし。最初に亮が渡ったのは何という島で、節子が要るのは何という島で、 松江の食堂があるのは何という島なのか、全く分からない。
もっと言うならば、そこが沖縄だと明確に示すようなセリフも無いんだよな。
南の島を舞台にしていながら、沖縄への思い入れは全く無いのか、その辺りは無頓着なのだ。

今回の、序盤でオデオン座を休館させるという展開には驚かされた。
まあ『男はつらいよ』のように、主人公に全国行脚をさせるなら、固定されたハコモノを経営しているのは都合が悪いってことはある だろう。しかし、前作で映写技師がずっと溜め込んでいた貯金を提供してまでも存続させた映画館なのに、あっさりと休館させるのかと。
映写技師の金も無駄になってしまったということだね。
活男は「必ずオデオン座を再建する」と言っているが、まず無理だろうな。

ムーンビーチで1965年の映画『雪国』を上映する辺りは、相変わらず分かっていないなあという印象を受ける。
まあ次の上映会の『風の谷のナウシカ』は分かるけど。
っていうか、前作より映画愛、映画への情熱というモノが、すっかり弱くなっていないか。
前作における「映画は芸術」に固執した考え方に共感はしないが、ともかく映画への愛は伝わった。しかし今回は上映される映画は2本 だけだし、なぜか映画よりも歌への意識が強い。それも映画音楽に留まらない。『バナナ・ボート』や『キサス・キサス・キサス』は、 映画と無関係にヒットした曲だ。
そんな変化は、誰も求めていないと思うんだが。

前作は、『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』の撮影が中止となり、その公開予定に合わせて短い製作期間で作られたものだった。
渥美清を追悼するという意識が強く込められており、『男はつらいよ』の呪縛があった。
で、『男はつらいよ』の呪縛から逃れるための仕切り直しの意味も込めてマイナーチェンジしたのかと思ったら、むしろ『男はつらいよ』 に近付いていないか。
これって活男の仕事を移動映画館からテキ屋に変更しても、ほぼ、そのまんま成立してしまわないか。

今回のメインとなる話は、室生犀星の『あにいもうと』の本歌取り。
これって、そもそも渥美清の死去によって撮影が中止になった、『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』でやる予定だった内容らしい。
そのプロットを、ここで再利用するかね。
そのネタだと、活男は主人公になれないでしょ。
これが『男はつらいよ』シリーズだったら、寅さんが「兄妹を見守る知り合いのオジサン」というポジションでも良かったかもしれない けど、活男にやらせるのは違うでしょ。

『あにいもうと』の本歌取りストーリーが始まるのは、後半に入ってから。
その始動の遅さも何だかなあと思うが、何より問題なのは、『あにいもうと』のドラマにおいて、活男も亮も、ほぼカヤの外と言っていい ってことだ。
この両名がいなくても、普通に成立してしまうんじゃないか。
活男は、「兄妹を見守る知り合いのオジサン」にさえ、なっていないのだ。
それと結局、『あにいもうと』のドラマって、放り出されたままになっていないか。

始動の遅さで言えば、松江の登場が後半に入ってからってのも、どうなのか。
しかも、活男と少し絡んだだけで、亮や節子とは全く絡まずに終わっている。
何のために登場したのか、良く分からない。
主人公のロマンスを作るために、無理に出している感じ。
そこを削って、もっと『あにいもうと』のドラマを厚く描き、そこに活男も亮を深く関与させるべきではなかったか。

映写機の故障で上映会が遅れた時、活男が歌い、皆も盛り上がって歌い踊る。
でも、本当に、それでいいのか。
みんな映画そっちのけで、盛り上がっているんだぞ。
「映画が人々の心をウキウキワクワクさせる」という形にしておかないとダメなんじゃないのか。
「映画なんか無くたって、歌と踊りがあれば充分だ」という描写になっているのは、どうにも理解し難い。

ラスト、亮は東京に戻り、職業訓練校に入っている。
彼は、これといった夢を持っていたわけでも、それを諦めたわけでもない。
ただ、亮が堅実な仕事に就こうという決断をする展開を描くことによって、「夢を追っているだけじゃダメなんだよ」と、まるで活男の 生き方を否定しているようにも感じられる。
それって、映画に対する裏切り行為じゃないのか。

(観賞日:2009年2月27日)

 

*ポンコツ映画愛護協会