『日本沈没』:1973、日本

海底開発興業で潜水艇の操艇者をしている小野寺俊夫や同僚・結城の元に、田所研究所の田所博士と地質学の幸長助教授がやって来た。2人は、小笠原諸島北方の無人島が沈んだ現象の調査に来たのだ。潜水艇“わだつみ”で小笠原諸島北方の海に潜った田所は、島が沈んだ原因は地滑りではないかと考えた。翌日、田所は日本海溝を調査し、深海で異様な乱泥流を発見した。
数日後、本社で仕事をしていた小野寺の元に、田所から電話が掛かってきた。田所は日本に大きな異変が起きつつあると推測し、わだつみのチャーターを求めてきたのだ。しかし、わだつみは他の業務に使用されており、1年は戻ってこなかった。電話を切った後、小野寺は吉村部長から結婚を勧められ、伊豆の名家の令嬢を紹介すると言われる。
小野寺は吉村の車に同乗し、その女性・阿部玲子がいるという葉山の別荘に赴いた。玲子に誘われ、小野寺は湘南の海岸へ出向く。そこで小野寺は彼女から、「抱いて」と求められる。2人が抱擁した次の瞬間、伊豆天城山が噴火した。小野寺は玲子を連れ、慌てて逃げ出す。天城山に続き、三原山と大室山も噴火した。
山本総理は閣僚と地震学者を集め、懇談会を開く。田所は日本に異変が起きる可能性を示唆するが、他の学者からは一笑に付された。後日、田所は政財界の黒幕である渡老人に呼び出され、自分の考えを述べた。すると数日後、内閣調査室の中田と邦枝、総理秘書の三村が田所の研究所に現れた。彼らはフランスから潜水艇“ケルマディック号”を購入したことを告げ、異変を調査するためのD計画を開始するよう依頼してきた。田所は操艇者として、小野寺を引き抜いた。小野寺は、理由を隠して会社に辞表を提出した。
日本海溝の調査が続く中、D計画の中間報告が行われた。田所は東京から来た中田や邦枝らに、最悪の場合は日本列島の大部分が沈むと告げた。報告が終わった直後、彼らは激しい揺れを感じる。関東で大規模な地震が起きたのだ。広範囲に渡る火災が発生する中、山本総理は対策本部を設置する。だが、消化弾を使い尽くしても鎮火せず、最終的に360万人の死者・行方不明者が出た。
3ヵ月後、関東の治安は回復しつつあった。そんな中、田所はD計画に続くD2計画の必要性を総理に訴え、2人は渡老人の元を訪れる。D2計画とは、日本沈没に備えて人々を国外へ避難させる計画だ。総理は極秘裏に特使を各国へ送り、避難民の受け入れを要請する。しかし途方も無い申し入れに、どの国も難色を示した。
そんな中、田所が雑誌の取材を受け、日本が沈没すると発表する。さらに彼はテレビ番組にも出演し、そのことを暴露した。しかし、それはパニックに備えて国民に情報を知らせ、反応を見るために彼が取った芝居だった。一方、渡老人は独自に専門家3名を集め、報告書をまとめさせていた。渡老人に呼び出された山本総理は、専門家3名が出した意見を伝えられる。それは、「このまま何もしない方がいい。国民全てが日本列島と共に沈むべきだ」という意見だった。
小野寺は母の急死に伴い、故郷の大阪に戻って兄と会った。兄と別れた後、小野寺は玲子と再会し、結婚することを決めた。D計画本部に戻った小野寺は、10ヵ月後に日本列島の急激な沈下が始まることを知った。総理は発表の期日を決定し、それまで報道管制を敷くことになった。だが、アメリカで日本が沈没するとの報道があったため、総理の発表は予定より2日早まることとなった。
小野寺はもはや出来ることは無いと考え、玲子と共にスイスへ移住することにした。スイス行きの当日、それは山本総理が日本沈没を国民に発表する日だった。D計画本部にいた小野寺は、富士山が本格的な噴火を開始したことを知る。その時、小野寺に玲子から電話が掛かってきた。下田に戻っていた彼女は、小田原近くで噴火に遭遇し、立ち往生していたのだ・・・。

監督は森谷司郎、特技監督は中野昭慶、原作は小松左京、脚本は橋本忍、監督助手は橋本幸治、製作は田中友幸&田中収、撮影は村井博&木村大作、編集は池田美千子、録音は伴利也、照明は佐藤幸次郎、美術は村木与四郎、音楽は佐藤勝。

−特殊技術−
撮影は富岡義教、美術は井上泰幸、照明は森本正邦、光学撮影は宮西武史、合成は三瓶一信、操演は松本光司、監督助手(助監督は間違い)は田淵吉男、特殊効果は渡辺忠昭。

−特別スタッフ−
竹内均(東京大学教授、地球物理学)、奈須紀幸(東京大学教授、海洋学)、大崎順彦(東京大学教授、耐震工学)、諏訪彰(気象研究所地震研究部長、火山学)。

出演は小林桂樹、丹波哲郎、藤岡弘、いしだあゆみ、二谷英明、島田正吾、中丸忠雄、夏八木勲、角ゆり子、中村伸郎、神山繁、滝田裕介、加藤和夫、村井国夫、垂水悟郎、新田昌玄、森幹太、高橋昌也、地井武男、鈴木瑞穂、細川俊夫、斉藤美和、中條静夫、森下哲夫、梶哲也、名古屋章、松下達夫、河村弘二、近藤準、宮島誠、大久保正信、内田稔、早川雄三、和田文夫、石井宏明、稲垣昭三、中村哲、伊東光一、斉藤英雄、吉永慶、中田勉、大木史朗、山本武、今井和雄、鈴木治夫、田中志幸ら。


小松左京の小説を基にした作品。
原作は1964年から執筆が開始され、9年がかりで完成している。当初は複数巻の大長編を予定していたが、出版社の要請で上下巻のボリュームに短縮されている。
映画化の話は、まず大映で持ち上がった。しかし大映は映画化権を獲得し、『日本列島沈没』のタイトルで製作を予定したものの、倒産したために幻の企画となった。
そして1973年3月、小説がカッパノベルスから刊行された。これを読んだ東宝の田中友幸プロデューサーが映画化権を獲得し、監督には『赤頭巾ちゃん気をつけて』の森谷司郎を起用。わずか4ヶ月という期間(撮影は1ヶ月程度)で製作されたが、約20億円の配給収入を挙げる大ヒットを記録。
これにより、東宝はパニック大作路線を開始することになる。

田所を小林桂樹、山本総理を丹波哲郎、小野寺を藤岡弘、玲子をいしだあゆみ、中田を二谷英明、渡老人を島田正吾、邦枝を中丸忠雄、結城を夏八木勲、吉村部長を神山繁、幸長を滝田裕介、三村を加藤和夫が演じている。
他に、D計画スタッフの片岡役で村井国夫、ヘリの操縦士役で地井武男、科学技術庁長官役で鈴木瑞穂、D1本部委員役で中條静夫、D1公安係役で名古屋章が出演している。また、部長に書類を渡す海底開発興業社員役で小松左京、閣僚に地震のレクチャーをする教授役で竹内均教授がカメオ出演している。

「ナチュラルな芝居なんてクソ食らえだ」とばかりに、皆が熱くて汗臭くてクドくてアクの強い芝居合戦を繰り広げる。それこそが、伝統的な「スクリーン・サイズの芝居」である。

そもそも大長編を140分の上映時間内に収めることが難しい上に、製作期間が短かったことも手伝ってか、話の作りは相当に荒削りだ。
例えば、結城の扱い。
序盤でチラッと出てきた後、後半までずっと消えている。そして再登場したかと思ったら、いきなり小野寺を殴る。
「友人の小野寺が勝手に姿を消したから殴った」という理由は分かる。しかし、かなり唐突に見えることも確かだ。それに、わざわざ再登場させた割に、大した役割は無い。だったら、前半だけで消えるチョイ役にしておいた方がいい。

私邸に帰宅した山本総理が赤ん坊を抱き上げ、日本海溝の異変を気にするというシーンがある。
だが、そんなことを急に気にするのは、かなり不自然だ。
ただ、ここはシナリオ段階においては、その前に閣僚と地震談義をするシーンがあったらしい。
そこを映画の尺に収めるためにカットしたため、繋がりがおかしくなったらしい。

最も粗さが出てしまったのは、玲子というキャラクターの扱いだろう。
この女性、名家の令嬢らしいが、出てきた瞬間から娼婦か何かのように小野寺を誘惑する。出会った数時間後には海に誘い、「抱いて」とせがむのである。
そして大阪で小野寺と再会するというバカバカしい偶然の後に肉体関係を持ち、すぐに2人は結婚を決めている。
恐るべき燃え上がりっぷりだ。
しかし極端に言えば、このキャラは必要が無い。
結城にしてもそうだが、上映時間内に収めるための歪みは、その多くが小野寺の周辺で生じている。

滑り出しを見る限り、藤岡弘が主役で、クレジットがいしだあゆみと並んで3番目なのは役者としての格の問題なのかと思っていたら、そうではなかった。
実際にクレジットの順番が示す通り、小林桂樹と丹波哲郎がメインだった。
まあ実際に国家レヴェルの災害が起きると、単なる潜水艇の操艇者が出来ることなんて少ないからね。

災害に見舞われる一般大衆の様子がほとんど描写されないのも、国家レヴェルで仕事をしている人々を優先したってことだろう。
関東の大火災シーンでは逃げ惑う民衆の姿もあるが、そこに主要キャラクターの姿は無いし、わずかな描写に留めている。

というか、実は全体の時間からすると、災害によるパニックシーンはそれほど多くを占めていない。
タイトルは『日本沈没』だが、沈没に直結するパニックシーンは皆無に等しい。その火災シーンにしても、沈没への恐怖やパニックではないし。
終盤には玲子も巻き込まれる大噴火があるが、それも短くぶった切って、すぐに会議のシーンへ移行する。勝手に船で国外に脱出しようとした連中が津波に巻き込まれるシーンも、出航してから津波が来るまでの時間をワイプで場面転換して短縮し、さらに津波が来たかと思ったら直後に次のシーンへ移行するという淡白さ。

いざ沈没が始まると、気付かない内に日本の一部が沈んでいるなど、かなりのハイペース。残り20分ぐらいになって、かなりの駆け足で最後まで行ってしまう感じ。
まあバレバレのミニチュアを沈めることぐらいしか出来ないから、しょぼい描写になっちゃうのは仕方が無いのか。
それにしても、終盤は「既に日本は沈み始めているのに未だに大半の日本人が脱出できていない」という恐ろしさがあるべきだと思うんだが、あまり伝わってこない気もする。

では上映時間の多くを占めている要素は何かと言うと、それは「話し合い」である。
とにかく、淡々と重厚に、人々が対策を考えたり会議を開いたりする場面が非常に多い。
結局、「防ぎようの無い災害が予知されている状態で政府はどう動くか」ということを描いたシミュレーション映画であって、本質的には災害パニック映画では無いのだと解釈すべきなのかもしれない。
そもそも、災害に立ち向かうとか、災害を食い止めるといった方向性が無いパニック映画って、その時点で相当にキツいものがあると思う。
じゃあ国民を避難させる部分で大きな動き、派手な見せ場があるのかというと、そこはダイジェストでスーッと通り過ぎてしまうし。そんで、会議のシーンばかりが続いて動きが少ないし。

 

*ポンコツ映画愛護協会