『ねらわれた学園』:2012、日本

春。京極リョウイチは風の甘さを感じ、「ここが地球」と心で呟いた。愛犬のシロを散歩させていた中学2年生の関ケンジは京極と出会い、爽やかに挨拶された。浜辺へ出掛けたケンジは、サーフィンをしていた生徒会書記でクラスメイトの春河カホリと遭遇した。始業式の朝から片想い中のカホリと会話を交わせたことに、ケンジは喜びを感じた。幼馴染の涼浦ナツキはそんなケンジに呆れ、ズボンのチェックが開いていることを指摘して冷やかした。
今年度からナツキたちの学校では、携帯電話の持ち込みが禁止された。遠藤さおりが不満を漏らすと、石川あかりが「しょうがなくない?あんなことがあったし」と言う。その方針には生徒会も賛同しており、さおりはカホリに聞こえるように文句を言う。そこへ担任の斉藤が現れ、携帯電話の必要性についてさおりに質問する。彼はさおりの主張を1つずつ否定し、携帯電話の持ち込みが不要であることを語った。転校生の京極を見たカホリは、一目で恋心を抱いた。
さおりは京極に惹かれてメルアドを尋ねるが、携帯を持っていないと告げられる。カホリは生徒会室へ行き、会長の曽我はるか、副会長の神野ゆう、書記の天野だいと、会計の近藤ゆかりと会う。携帯の持ち込み禁止に関して批判が多いことから、はるかは改めて意見を尋ねた。だいととゆかり、カホリが持ち込み禁止に賛成したので、ゆうも仕方なく賛成した。彼が「去年の携帯事件で不登校になった生徒、僕のクラスでね」と彼が言うと、カホリは山際ゆりこが今は自分と同じ2年1組だと教えた。
カホリが音楽室へ向かうと、ピアノの音がした。京極がドビュッシーの『月の光』を演奏する様子を目撃し、彼女はこっそり眺めた。京極に気付かれると、彼女は家にピアノが無いので音楽室で練習するのだと説明した。「好きなんだ」という京極の言葉にカホリがドキッとすると、彼は「月が」と続けた。しかし帰宅する途中も、カホリは京極の言葉を思い出した。京極が丘から景色を眺めていると、使い魔が現れた。「貴様はこの世界にいるだけでも力を浪費しているんだ。よもや使命を忘れたわけではあるまい。京極博士に報告するぞ」という使い魔の鋭い言葉にも、京極は全く動じなかった。
京極はナツキ、ケンジ、カホリと『真夏の夜の夢』の台本を読んでいる時、「演劇って何か意味があるのかな?必要なこと?」と疑問を口にした。そこへ斉藤が現れ、「演劇の面白さは、限られた時間、その一瞬の自分たちが形になることだ」と告げる。「限られた時間」という言葉に京極が着目していると、斉藤は「その中でお前なりの答えを見つけてみたらどうだ?」と提案した。カホリと京極が仲良くする様子を見たケンジは、すっかり落ち込んだ。
帰りにケンジと2人きりになったナツキは、気持ちがバレバレになっていることを指摘する。彼女が「元気出しなよ」と励ますと、ケンジは「お前に俺の気持ち、分かるわけねえじゃん」と反発する。ケンジに片想いしているナツキは腹を立てて平手打ちを浴びせ、「なんでそんこと言うの?」と泣きながら走り去った。帰宅したケンジが超能力を欲しがると、祖父の耕児は理由を尋ねた。するとケンジは、人の気持ちが知りたいのだと述べた。彼は隣家に住むナツキに謝罪しようとするが、まるで気持ちを理解していなかったので、また怒りを買う羽目になった。
ゆりこが崖から海に飛び込む寸前の状態で震えていると、京極が現れて「君には出来ない」と静かに告げた。ゆりこがバランスを崩して落ちそうになると、彼は手を伸ばして助けた。ゆりこが「どうして助けたの?」と責めるように言うと、京極は「君には本当に飛び降りるつもりなんて無かったから」と答えた。彼は「僕には君の心の声が聞こえるんだ」と告げ、ゆりこの心情をズバリと言い当てた。彼に「誰よりも生きたいのに、誰にも分かってもらえない」という辛い思いを指摘され、ゆりこは泣き出した。使い魔に促された京極は「彼女は理想的かもしれないね」と述べ、ゆりこに他人の心が読める能力を与えた。
翌朝、ナツキは暗い気持ちのまま、ケンジを無視して登校した。教室に一番乗りだと思っていたナツキだが、ゆりこが来ていて挨拶した。そこへ京極が来て、ゆりこと微笑みを交わす姿をナツキは目にした。散歩しながら写真を撮影していたケンジは、京極とゆりこに遭遇した。ゆりこは警戒するが、京極は「さすがだな。もう来たのか」と歓迎する。しかしケンジが何も知らずに来ただけだと分かると、「すまん、勘違いだ」と告げた。
カホリはナツキに問われ、京極への恋心を詳しく語った。ナツキはカホリからケンジへの感情を問われ、「有り得ないでしょ。あいつと私は、ただのお隣さん」と心に嘘をついた。ケンジは京極がハンバーガー未経験だと知り、一緒に食べに行った。初めて会った時に「ここは地球?」と言ったのではないかと彼が尋ねると、京極は「言ったよ。心の中で」と答える。「俺は関のこと、超能力者だって思うけどな」と京極が告げると、ケンジは「マジで言ってる?じゃあお前、宇宙人?」と口にする。京極が「むしろ未来人って感じ?」と言うと、彼は本気で受け取らずに笑い飛ばした。
京極は使い魔から「余計な感傷は邪魔になる」と言われ、ケンジと親しくなりすぎることを忠告される。京極が「父さんはあいつがいるから、この時代を選んだんだ。復讐するために。戦うことになるのかな」と話すと、使い魔は「危険な不確定要素だ」と告げるだけで明確な返答を避けた。ゆりこが近くで微笑する中、使い魔は京極に「プログラムを進めよう。能力者候補は何人かいる。この時代のことは、この時代の人類に働いてもらおう」と述べた。
放課後に陸上部の練習を終えたナツキは、教室へ戻った。ナツキはカホリと一緒に帰るつもりだったが、まだ教室には戻っていなかった。ナツキが音楽室に行くと、はるかが不思議な光に包まれて宙に浮かんでいた。驚いたナツキが光に触れると、激しく吹き飛ばされた。困惑しながらナツキが立ち上がると、音楽室の隅にいたゆりこが「これは未来に生きられる人間になるための儀式よ。曽我さんは合格。貴方は違うみたい」と告げた。
使い魔がナツキを攻撃しようとすると、京極が来て制止した。彼はナツキに、ここで見たことは決して口外しないよう釘を刺した。次の日からナツキは学校を休み、ケンジが電話を掛けても出なくなった。ケンジはカホリに「好きな人、いるの?」と質問し、あえなく失恋した。はるかは生徒会の会議で、携帯持ち込み禁止を破った生徒は出席停止にする校則を提案した。ゆうは反対し、生徒会で提案することなど無理だと告げる。するとだいとは役員の賛成多数で提案できること、暫定的に校則の施行も可能であることを説明した。
ゆうは納得せず、顧問の山口に承認を取る必要があると主張した。しかし山口は先週まで元気だったのに、その日から急に長期療養休暇を取っていた。はるかが山口の承認を省略して採決を取ると、だいとは賛同し、ゆかりも泣きながら賛成に回った。ゆうはカホリに、はるかとだいとのように先週とは豹変している生徒が続出していること、欠席して出て来なくなる生徒も増えていることを話す。さらに彼は、豹変した生徒たちはテレパシーで話しているように見えると語った。
カホリはゆうに、山口の元を訪ねてみようと提案した。カホリが指定の場所でゆうを待っていると、ゆりこが現れた。彼女は不敵な笑みで「貴方のしようとしていることは、誰のためにもならない」と言い、山口は引っ越したので来ないと告げる。ゆりこが「携帯は無い方がいい。その方が私たちと同じ力が欲しくなるから。人が本当は何を考えているのか、貴方も知りたくなったでしょ?」と話すと、カホリは「どうすると言うの?」と尋ねる。「生まれ変わるの。未来では、その力が無ければ生きられないんだって。あの人が言うんだから間違いないわ」とゆりこが語ると、カホリは「あの人」の正体が京極だと推理した。
ゆりこは「試してみる?」と言い、カホリに儀式を行おうとする。危機を感じたカホリは逃げ出すが、謎の光に襲われる。そこへケンジが駆け付けると、光は消えた。ケンジはカホリに駆け寄り、2人で逃亡した。その様子を見たはるかが「あの少年が生まれ付きの能力者?」と口にすると、使い魔は「あの少年の能力は封じられている」と述べた。彼は能力を封じたのが耕児だと見抜いていた。ケンジはカホリを家へ連れ帰り、休ませることにした。2階へ赴いたカホリは、屋根伝いにナツキが部屋へ侵入しているのを見て驚いた。
ナツキは事情を聞き、京極の存在に言及した。カホリに質問された彼女は、音楽室での出来事を明かした。ケンジとナツキは、カホリを家まで送り届けた。その帰り、「学校に来いよ。ずっと一緒だっただろ」とケンジが言うと、ナツキは「アンタが言わないでよ」と怒鳴った。彼女はケンジにキスをして気持ちを告白し、泣いて走り去った。翌朝、カホリが登校すると、生徒会は能力者となった生徒たちに支配されていた。ゆりこは不敵な笑みを浮かべ、校長も味方にしたことをカホリに教えた。
ナツキは嫌がらせで靴を盗まれ、ケンジに泣いて抱き付いた。ピアノの音を耳にしたカホリが音楽室へ行くと、京極の姿があった。京極はカホリに、未来では人類が月に住んでいること、地球は住める環境ではなくなったことを話す。そんな中で一部の子供たちが超能力を発揮するようになると、生き残った人々は希望と捉えた。超能力が現れるのは14歳前後で、この時代で1人でも多くの能力者を目覚めさせる使命を受けて京極は来たのだった。京極はカホリに、目覚めた能力者を未来へ連れて行く考えを語った…。

監督は中村亮介、原作は眉村卓(講談社刊 青い鳥文庫所載)、脚本は内藤裕子&中村亮介、製作は宮河恭夫&鵜之澤伸&夏目公一朗&北川直樹&秋元一孝、プロデューサーは平山理志&小菅寛史&淀明子&外村敬一&寺西史、キャラクターデザイン・総作画監督は細居美恵子、作画監督は桜井邦彦&藤田しげる&菊池愛&小木曽伸吾&馬場健、美術監督は金子英俊、画面設計は清水健一、イメージ美術は吉田ヨシツギ、色彩設計は小針裕子、撮影監督は五十嵐慎一、CGディレクターは菅友彦、特殊効果は谷口久美子、編集は肥田文、音響監督は清水洋史、音楽は村井秀清。
声の出演は渡辺麻友、本城雄太郎、花澤香菜、小野大輔、戸松遥、平田広明、内田直哉、木内秀信、木村良平、石川由依、菊本平、佐々木智代、伊藤かな恵、和田祐子、内田莉紗、朝比奈拓見、前田邦宏、宇宙、諸田和典、吉永拓斗、遠藤舞依、尾花かんじ、清水秀光、麦穂あんな、佐倉綾音、畑中万里江、森谷里美、最所美咲、水野ゆふ、清水洋史ら。


眉村卓の同名小説を基にした長編アニメーション映画。
TVアニメ『魍魎の匣』『青い文学シリーズ「走れメロス」』を手掛けた中村亮介が、映画初監督を務めている。
脚本は「演劇集団 円」の内藤裕子と中村亮介による共同。
ナツキの声を担当しているのは、当時はAKB48のメンバーだった渡辺麻友。
ケンジの声を本城雄太郎、カホリを花澤香菜、京極を小野大輔、ゆりこを戸松遥、京極の使い魔を平田広明、耕児を内田直哉、斉藤を木内秀信が担当している。

この映画は、最初から『ねらわれた学園』のアニメーション化ということで企画がスタートしたわけではない。製作したサンライズは、細田守監督のアニメ版『時をかける少女』のヒットを受けて、それに続く形で何か作ろうってことで企画を立ち上げている。
ものすごく分かりやすい形で、二匹目のドジョウを狙った企画だったわけだ。
こうして誕生したのが、この作品だ。
『時をかける少女』と同じくSFジュブナイルが原作で、1980年代に角川書店が実写映画化し、角川3人娘が主演を務めているという共通点がある。
二匹目のドジョウ映画としては、ピッタリと言っていいだろう。

ご丁寧なことに、時代を現代に置き換えるだけでなく、原作小説(と言うより1980年代の実写版と捉えた方がいいだろう)のキャラクターを登場させ、その血縁者をメインに据えている。
その辺りも、アニメ版『時をかける少女』と同じだ。
そんなトコまで真似しなくてもいいのだが、アニメ版『時をかける少女』がヒットした要因の1つに、それがあるという分析だったんだろう。
繋がりを持たせた方が、実写版を見ている人も受け入れやすいだろうってことだったのかな。

っていうか、素直に原作小説を現代に置き換えて、そのままアニメ化しても良かったんじゃないかと思うんだけどね。角川の実写版映画は、なんせ監督が大林宣彦なので、ほぼオリジナルと言ってもいいような内容に改変されていたんだし。
だから原作を忠実に映像化するだけでも、実写版とは大きく異なる内容に仕上がるからね。
でも前述したようにアニメ版『時をかける少女』の便乗企画なので、何から何まで出来るだけ模倣しようってことだったんだろうなあ。
それでヒットすりゃいいけど、まるでヒットしなかったわけで、ただカッコ悪いだけの結果になっちゃってるんだけどね。

アニメ版『時をかける少女』とは、大きく異なる点もある。それは「SF要素がものすごく薄まっている」ってことだ。ほぼ青春恋愛映画と化している。
もしも「ひょっとすると、これってSFの要素が要らないんじゃないか」と思った人がいたら、「気付いちゃいけないことに気付いてしまいましたね」と言っておこう。
実写版とアニメ版の『時をかける少女』にも、恋愛要素はあった。しかも、かなり大きく扱われていた。しかし、決してSFの要素が薄いとか、要らないと感じることは無かった。SFの要素と恋愛劇が、上手く絡み合っていたからだ。
だが、この映画の場合、SFとは無関係なトコで青春恋愛模様が描かれているのだ。

さおりか携帯電話の持ち込みに文句を言っていると、斉藤が来て「本当に必要なのか」と問い掛けるシーンがある。ここで斉藤は、さおりの「だから携帯は必要」という主張を1つずつ論破し、「いっそ持ってこない方がスッキリしないか」なんてことをクドクドと喋り続ける。
でも、さおりを説き伏せようとする斉藤のお喋りが、ものすごく疎ましいのだ。
変に尺を割いて、そこを膨らませる意味は何なのかと。斉藤は「説教するつもりは無いが」と言うけど、立派な説教だし。
「携帯にしろ、ネットにしろ、ただ持ってるだけ、繋がってるだけではコミュニケーションとは呼ばない。人間同士の付き合いの中で、中学生が学ぶことは、もっと多くある」とか、「うるせえよ」と言いたくなる。
ダラダラと無駄なお喋りを続けるている暇があったら、さっさと京極を紹介しろよ。

しかも、そこで携帯電話の持ち込みに関する講釈は完全に終了かと思いきや、生徒会のシーンで再燃してしまう。
「確かに便利よね。でも、そのことで傷付く人が一人でもいるのなら、学校ではは禁止。それは仕方のないことだと思うの」とはるかが言い出し、またダラダラとしたお喋りが続くのだ。
とにかく「人の気持ち」について色々と訴えたいことがあったようだが、そこに観客を引き付ける力が皆無だし、物語とも上手く絡んでいないし、メッセージ性も乏しい。

「僕らの本当の気持ちって、自分の心の中にある物なのかなあ。それとも、空気の中にある物なのかなあ」「決まってるじゃない。自分の心の中にある物よ」「いつだってそうならいいんだけどなあ。自分以外の誰かがいるから起こる気持ちもあると思うよ。それも自分の心の中にある物なのかなあ。それとも、人と人の間の空気にある物なのかなあ」などと、ゆう&はるかが意味ありげな会話を繰り広げる。
でも、なんか哲学的で深そうに思うかもしれないけど、実は「ちょっと何言ってんのか分からない」ってだけなんだよね。
もっとハッキリ言っちゃうと、何の中身も無いことを、似たような言葉を重ねてクドクドと喋ってるだけなんだよね。
文学的な飾りで誤魔化しているだけで、ちっとも核心に触れていない印象なのよ。外側を薄くなぞっているだけで、ちっとも深いトコへ掘り下げていかないのよ。

この映画、やたらと映像をキラキラさせている。超能力が使われるシーンだけ映像効果を使えばいいのに、ずっとファンタジー的な雰囲気に包まれているんだよね。
中村亮介監督は青春の雰囲気を表現するため、全編に渡って映像をキラキラさせたらしい。そのせいで、超能力が使われるシーンでも同じようなトーンになってしまい、その効果が薄まっている。
そりゃあ実写版の『時をかける少女』と『ねらわれた学園』を手掛けた大林宣彦監督は「ファンタジー&ノスタルジー」の人だったから、全体的に幻想的なムードではあったのよ。ただ、実写とアニメは違うし、「それはそれ、これはこれ」ってことなのよ。
あと、大林監督って実際に超能力が使われるシーンでは、他のシーンとの違いをキッチリと付けていたしね。

「ねらわれた学園」というタイトルと中身が、ちょっとズレているように感じる。
確かに、中盤から能力者になる生徒が増えて、邪魔な生徒が学校に来なくなるという現象が起きる。ただ、「携帯電話の持ち込み禁止を徹底する」という目的に集約されて、そこで大騒ぎしているように見えるんだよね。
そのために能力者を増やしたり、邪魔な奴を排除したりしているように見えるのよ。京極と使い魔は、そんな目的で動いているわけじゃないのよ。
ただ、能力者になった生徒たちを見ていると、ゆりこは「能力者の判別と邪魔者の排除」という部分で動いているし、それ以外だと、はるかの「校則を勝手に決める」という行動ぐらいしか描かれていないからね。

京極の目的が明らかになった後も、「生徒たちは携帯電話の持ち込み禁止を徹底し、守らない者への締め付けを厳しくする」という様子が描かれる。いつの間にか、そこが目的を果たすための手段ではなく、「能力者たちの目的」と化している。
それがホントにバカバカしい。
ゆりこは「携帯は無い方がいい。その方が私たちと同じ力が欲しくなるから」と言っており、能力を目覚めさせる計画の一環という設定のようだが、「ちょっと何言ってんのか分からない」と呆れたくなる。
「一人でも多くの能力者を目覚めさせる」という京極の目的を考えると、ナツキたちの学校だけに固執する理由も不明だし。

京極が特殊な能力を使って計画を進めていることを知った後、ナツキやケンジたちがどういう行動を取るのかというと、「普通に学校へ行く」ってことだけ。
そりゃあ相手は特殊な能力の持ち主だし、数も多いし、何の超能力も持たないナツキたちが計画を阻止するってのは難しいかもしれないよ。
ただ、「それにしても」だわ。もう少し何か考えられなかったのか。
普通に登校するだけなら、何もしないのと同じだぞ。不登校になるのと、大して変わらないぞ。

終盤に入ると幻想的な表現が多くなるけど、「何が何やら良く分からない」という状態になっている。
前述した意味ありげな会話と、似たようなモンだ。
頑張って理解しようと思えば、出来ないことは無いのよ。ただ、「めんどくせえな」と感じちゃうんだよね。
完全なる邪推だけど、「エヴァンゲリオン症候群(と私が勝手に呼んでいるだけだが)を患っているんじゃないか」と言いたくなるような終盤になっているのよね。
そして、そういうことも含めて「めんどくせえな」という感想になっちゃうんだよね。

(観賞日:2021年1月25日)

 

*ポンコツ映画愛護協会