『猫の恩返し』:2002、日本

ある朝、女子高校生のハルが目覚まし時計を鳴らすと、明らかに学校に遅刻する時間だった。慌てて学校へ向かうが、当然の如く授業は既に始まっていた。親友ひろみと共に下校する途中、ハルは小箱をくわえた猫が道路を横断しようとする現場に遭遇する。猫がトラックにひかれそうになっていたため、ハルは飛び出して助けてやった。すると猫は人間の言葉で礼を述べ、去って行った。
その夜、ハルの家の前に、大勢の猫が行列を成して現れた。猫の国に住む猫王が、家来のナトリやナトルを伴ってやって来たのだ。昼間にハルが助けた猫は、猫王の息子ルーンだった。そこで猫王はハルに感謝の言葉を述べるため、ここまで来たのだ。ナトルは「明日から幸福が訪れる」とハルに告げ、猫の言葉で書かれた目録を渡した。
翌朝、ハルが目を覚ますと、庭は猫じゃらしで一杯になっていた。学校へ向かうと、たくさんの猫が付いてくる。靴箱を開けると、ネズミの入った箱が幾つも入っていた。全ては、ナトル達が感謝の印としてやったことだった。ナトルはハルの前に現れ、猫の国に招待すると告げた。猫王は、ハルをルーンの妃として迎えるつもりらしい。
「猫の国もいいかも」と何気なく口にしたハルだが、ナトルが「それでは今晩、迎えに来ます」と告げて立ち去った直後、問題の深刻さに気付いた。困り果てたハルの頭上から、「猫の事務所を探せば助けてくれる。大きな白い猫を見つけて」という謎の声が届いた。ハルはブタ猫のムタを発見し、ドールハウス街に建っている猫の事務所へと案内してもらう。
ハルは猫の事務所のバロン男爵に会い、事情を説明した。バロンは事態を解決するため、猫の国に乗り込むことを約束する。しかし、そこへナトルと猫の大群が現れ、ハルを連れ去ってしまう。バロンは心を持ったガーゴイルのトトに乗って追跡するが、ハルはムタと共に猫の国へと移動してしまった…。

監督は森田宏幸、原作は柊あおい、脚本は吉田玲子、製作は松下武義&氏家齋一郎&星野康二&宮川智雄&相原宏徳&高井英幸、製作プロデューサーは鈴木敏夫&高橋望、企画は宮崎駿、キャラクターデザイン&レイアウトは森川聡子、作画監督は井上鋭&尾崎和孝、撮影監督は高橋賢太郎、編集は内田恵、録音演出は林和弘、美術監督は田中直哉、色彩設計は三笠修、音楽は野見祐二、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団、主題歌「風になる」はつじあやの。
声の出演は池脇千鶴、袴田吉彦、丹波哲郎、岡江久美子、前田亜季、山田孝之、佐藤仁美、佐戸井けん太、濱田マリ、渡辺哲、斉藤洋介、田中敦子、宮本充、長克巳、塚本景子、白鳥由里、香月弥生、駒村多恵、本名陽子、鈴井貴久、大泉洋、安田顕、岸祐二、中村俊洋、清水敏孝、青木誠、江川大輔、新垣樽助、よのひかり。


『耳をすませば』の姉妹編。『耳をすませば』の原作者・柊あおいが、映画のために原作『バロン―猫の男爵』を書き下ろした。
森田宏幸はジブリで原画を担当していた人物で、これが初の劇場映画監督となる。
ハルの声を池脇千鶴、バロンを袴田吉彦、猫王を丹波哲郎、ハルの母を岡江久美子、ルーンを山田孝之、ひろみを佐藤仁美が担当している。

ジブリは「主要キャストからは出来る限りプロの声優を排除する」という悪しき伝統を守っており、今回も主要キャストは全て役者で固めている。
役者やタレントが吹き替えを担当した場合、映画の評価を著しく下げてしまうほど悲惨な出来映えになってしまうケースもあるが、この映画の面々は、それほど悪くない。全く違和感を感じさせない池脇千鶴にしろ、「ニャー」と猫語で喋るタンバでルンバ先生にしろ、かなりイイ感じではないかと思う。
ただし、袴田吉彦のバロン男爵ってのは、どうしても違和感が拭えない。声優として上手いか下手かという以前の問題として、なぜ『耳をすませば』の姉妹編のはずなのに、露口茂ではないのだろうか。
もし何かの事情で露口茂が無理だったとすれば、彼に似た声質の人物を据えるべきだろう。
どうして『耳をすませば』から極端に若返ってるんだよ、バロン。

っていうか、そもそもバロンというキャラクターが要らないんじゃないかと思ってしまう。
わざわざハルが猫の国へ行くまでの時間を割いてまで、バロンを登場させる意味が無いんじゃないか。
「ルーンを助けたハルが、飼っているか又は顔見知りの野良猫ムタ(という設定にする)と共に、猫の国へ迷い込む」という筋書きの方がスッキリするような気がする。

アニメーションの生き生きとした感覚に、物足りなさを感じてしまった。
冒頭の「ハルが慌てて学校へ向かうシーン」からして、どうもハルが風景に埋もれているなあ、ヒロインとしての存在感を示していないなあと感じてしまった。ルーンを助けるシーンにしても、どこか動きの質が物足りないなあ、もっと誇張してもいいのになあと思ってしまう。
猫の大群がハルを連れ去るシーンでの追いかけっこも、同じ絵が続く背景や、細かい動きの少なさから伝わってくるのは、「何の面白味も無い疾走」である。そこで表現されるべき躍動感が、抜け落ちている。
そのシーンだけではない。全体を通して、動きを見せる部分が出てくる度に、躍動感や浮遊感が足りないと感じてしまった。

猫王の提灯行列というのは、序盤の見せ場になるようなシーンのはずなのだが、そこに惹き付けるだけのモノを感じない。絵としては「薄い」と感じてしまう。
ファンタジーなんだし、行列の猫に飾り付けをしても良かったのではないか。
猫の事務所のシーンも、「光が差し込むと人形のバロンが動き出す」というのは見せ場として作っているつもりかもしれないが、魅力を感じない。
そもそも、書き割りとして作られているドールハウス街に、ワクワク感が全く無いのはツラいところだ。

いちいちテンポがイマイチだとか、1つタイミングが遅いとか、スピードが足りないとか、間延びしているとか、そんなことを感じてしまう。
城を抜け出した後も、巨大迷路でマッタリしている場合じゃないでしょ。
そこはテンポ良く畳み掛けていくべき時間帯でしょ。
クライマックスの「猫の国を脱出し、空中落下」というシーンも、浮遊感がイマイチだと感じてしまう。

もちろん、同情すべき点はある。
というのも、ジブリ映画で監督を務める場合には、どうしても宮崎駿監督と比較されてしまうからだ。
「躍動感の表現者」としては圧倒的なセンスの持ち主である宮崎監督と比較されてしまったのでは、そりゃあ余程の才能が無ければ太刀打ちできないだろう。
ただし、それにしたって、宮崎作品と比べて、手抜きなのかと思えるぐらい、あまりに質が違いすぎる。

ハルがナトルから「妃として迎えたい」と言われる前に、「ハルは色々とイヤなことがあって気持ちがクサクサしている」ということを物語は示そうとしている。
しかし、せいぜい前田という惚れた男が他の女と親しくしているとか、その程度だろう。しかも、前田の存在感なんて、ものすごく薄っぺらいものだ。
そこでのハルの「イヤなことがある」という設定は要らないだろう。
ハルが「猫の国もいいかもね」と口にするところでの理由付けなんて不必要だ。

バロンが何度か「自分の時間を生きる」というセリフを口にするので、それがテーマになっているのだろう。しかし、それと「猫の国から脱出して人間に戻る」ということは、真っ直ぐには結び付かない。
「自分の時間を生きる」ってのは、「猫として生きる」のも1つの道だぞ。
どうもハルは、1人の男性としてバロンに惚れているみたいだし。

というかさ、この作品にテーマとかメッセージとか、要らないでしょ。滑り出しからして、明らかにナンセンスなコメディーとしての方向性を示しているのだし。
だったらコメディーとして、テンポ良く進めていけば良かったのだ。メッセージを主張し、理屈を並べて停滞するよりも、理屈抜きに楽しめるファンタジックな冒険絵巻を繰り広げれば良かったのだ。

いつの頃からか(たぶん『もののけ姫』の頃だったと思う)、私の中で「スタジオジブリはアニメ界における動物王国かもしれない」という考えが強くなっていった。
動物王国は畑正憲さんが創設したが、もし畑正憲が亡くなった場合、後はどうなるのか、あっという間に消滅するんじゃないかと私は思っている。
それと同じように、スタジオジブリは「宮崎駿監督の会社」としての色合いが強すぎて、彼がいなくなったら崩壊するんじゃないかと、そんな風に私は思ったりしていたのだ。

この映画を見た時、私の中で、前述した考えがさらに強くなった。やはりスタジオジブリというのは、少なくとも本作品が作られた段階では「宮崎駿の映画を作る会社」以外の何物でもないのだと確信した。
そのように思った理由は、ジブリが期待の若手として送り出したと思われる森田宏幸監督が、その期待に応えることが出来ていないからだ。
ただし、この作品が中途半端なシロモノになった責任が、果たして森田監督だけのものなのか、という疑問もある。
「生きることの意味」というテーマは、いつの頃からかジブリ作品の共通テーマになってしまったような観があるが、ということは、それを今作品に盛り込むという方向性は監督が望んだのではなく、ジブリの上層部による指示ではないのかという憶測をしてしまうのだ。
それに縛られたせいで、森田監督は自由な映画作りが困難だったのではないかと思ってしまうのだ。

ある意味では、これもジブリの狙い通りなのかもしれない。
ナンダカンダ言っても、この映画、間違いなく大ヒットを記録したのである。
ということは、「ものすげえ質の高いアニメを作らなくてもジブリのブランドがあればヒットするんだから、それなりの出来映えの作品で金儲けしまっせ」というジブリの戦略が、この映画に表れているのかもしれない。
そうだとすれば、ますますジブリは「日本のディズニー」としての地位を確かなものにしたと言えるだろう。
「商売」という意味においては、それは悪くない考え方だろう。

 

*ポンコツ映画愛護協会