『猫は抱くもの』:2018、日本

日山町の橋の下には、多くの野良猫が暮らしている。自転車の中年女性が餌を運んでくるので、野良猫たちはそれを食べて暮らしている。三毛猫のキイロは仲間から、絵を描いていたゴッホを忘れられないのではないかと指摘される。キイロが否定すると、今度は人間気取りの良男を気にしているのかと問われる。良男はロシアンブルーの猫で、スーパーの裏の倉庫で暮らしている。スーパー店員の大石沙織は良男の所へ行くと、その日にあった出来事や考えたことを語るのが日課になっている。朝礼の時間になると、彼女は「もうちょっと待ってて。必ず一緒に住める場所を見つけるから」と告げた。
沙織が朝礼に行くと、中畑店長は本社から来たマネージャーの高橋良男に先月の成績を発表してもらう。市内3店舗の集計で、先月のレジ処理人数のトップは沙織だった。沙織は困惑しながらも、高橋が自分をデートに誘う妄想を膨らませた。すると彼女は高橋から、「お祝いさせてもらえませんか。いい店知ってるんで」とデートに誘われた。沙織は倉庫へ行き、高橋からデートに誘われたことを良男に話した。沙織は浮かれるが、良男は「10代の後半はずっと芸能人だったんだから、普通の恋愛をしたことが無いだろ。だから手順が分からないということはないよな」と懸念した。
かつて沙織は、サニーズという5人組のアイドルグループとして活動していた。スーパーにはサニーズの元メンバーだと気付く客も現れるが、沙織は別人だと否定し、冷淡に無視している。サニーズは『ロマンス交差点』という曲がランキングで3位に入ったこともあるが、それ以上は売れずに約3年で解散した。沙織は解散直後にTVプロデューサーのササキから「今後のことについて話し合おう」と言われ、彼と肉体関係を持った。
沙織はスーパーで働く年上の女性店員たちとは仕事以外で付き合わず、仕事が終わるとカラオケボックスへ行って一人で歌うのが日課になっている。ある日、高校3年生の中山帆乃がスーパーで万引きし、中畑に見つかって事務所に連行された。中畑は沙織を呼び、鞄の中身を出すよう帆乃に言ってくれと頼む。「女の人じゃないと面倒になるから」と彼は話すが、帆乃は素直に鞄の中身を見せて万引きを認めた。中畑が親に連絡しようとすると、彼女は「電話しても誰もいないので」と叔父である後藤保の電話番号を教えた。
後藤が店に来ると、帆乃は嬉しそうに「ゴッホ」と呼び掛けた。「もう迎えに来ねえからな」と後藤が辟易した様子で告げると、帆乃は「そういうこと言うんだ。これ、母さんから預かったけど、要らないの?」と金の入った封筒を差し出した。後藤は無言で封筒を懐に入れ、中畑に謝罪した。沙織は倉庫へ行き、後藤と帆乃についての考えを良男に語った。彼女は後藤が黄色の好きな画家で山中の家に住んでいるのだろう、帆乃は彼の気を引きたいので万引きを繰り返しているのだろうと想像した。さらに沙織は、後藤が三毛猫を飼っていて、雨の日に拾ったのだろうと想像した。
休日、沙織は高橋に誘われてハイキングに出掛け、「これからは週に1回は一緒に出掛けようよ」と言われる。山に入った沙織は、想像と全く同じ後藤の生活を目にして嬉しくなった。高橋からホテルに誘われた沙織は承諾し、その後も彼との関係を続けた。彼女は楽しい気分になるが、良男は不快感を隠せなかった。ある夜、カラオケボックスを出ようとした沙織は、高橋が高校時代の仲間と一緒に来ている姿を目撃した。その会話を耳にした彼女は、高橋がサニーズのメンバーだと知って自分に声を掛けたこと、他に本命の彼女がいることを知った。高橋は沙織を目撃し、気まずそうな様子を見せた。
沙織は泣いて倉庫に駆け込むと、良男に「もう男はアンタだけでいいよ」と漏らした。沙織が倉庫を去ると、良男は彼女の元へ向かおうとする。良男は足を滑らせて川に転落し、意識を失って橋の下に流れ着いた。意識を取り戻した良男は、取り囲んでいる野良猫たちを見て驚いた。その言動を「人間気取りか」と嘲笑された彼は、「僕は人間だよ」と主張する。良男が沙織の元へ向かおうとすると、キイロが「私も連れてって」と頼んだ。左足の怪我に気付いた良男が「飼い主に捨てられたの?」と訊くと、キイロは「飼い主のことが好きなのに捨てられた」と語った。キイロは後藤の飼い猫だったが、嫉妬心を抱いた帆乃がダンボール箱に入れて川に捨てたのだ。
翌朝、良男はキイロを後藤の元へ連れて行こうとするが、初めて見る電車やに怯える。キイロは猫獲りの男たちに気付き、良男と共に身を隠した。一方、沙織が良男を捜索していると、キイロを捜索する後藤に遭遇した。沙織が捜索を続けていると、高橋が現れた。彼は必死に釈明するが、沙織は腹を殴って追い払った。後藤がキイロらしき猫を見つけたので沙織も一緒に追い掛けるが、それは間違いだった。橋の下に戻った良男は、野良猫たちに沙織との出会いを語った。どれだけ野良猫たちが「君は猫なんだ」と指摘しても、良男は決して認めようとしなかった。
沙織はテレビ番組で1度だけサニーズを再結成する話を電話で聞かされ、引き受けることにした。彼女は東京行きのバスに乗り、華やかだったサニーズ時代を思い出した。テレビ局のJBCに赴いた沙織は、久々にサニーズのメンバーと再会した。ナッツンのように売れなくなっても芸能界の仕事を続けているメンバーもいれば、トッキーのように引退したメンバーもいた。ササキと再会した沙織は、優しい言葉を掛けられることを妄想するが実際は無視された。
サニーズが出演するのは『ミレニアムアイドル同窓会スペシャル』という番組で、過去に人気だった6組のアイドルグループが集まった。本番が始まってから「歌えるのは運動会で優勝したチームだけ」と聞かされ、沙織は驚く。トッキーの熱湯風呂での活躍もあり、サニーズは優勝した。しかし時間が無いという理由で着替えることも許されず、しかもエンドロールが被さる状態で歌わされた。失意のまま帰路に就いた沙織は、良男らしき猫を目撃した。彼女は逃げる猫を慌てて追い掛けるが、それは良男ではなかった。寒さに震えた沙織は山に入り、ゴッホの家を訪ねた。一方、キイロは後藤の元へ、良男は沙織の元へ行くことを野良猫たちに話して橋の下を去った…。

監督は犬童一心、原作は大山淳子『猫は抱くもの』(キノブックス刊)、脚本は高田亮、製作総指揮は木下直哉、エグゼクティブプロデューサーは武部由実子、プロデューサーは菅野和佳奈&江川智、ラインプロデューサーは佐藤幹也、撮影は清久素延、照明は疋田ヨシタケ、録音は志満順一、編集は上野聡一、VFXスーパーバイザーは小坂一順、美術・装飾は山田好男、舞台美術は伊藤雅子、舞台監督は西廣奏、キャラクターデザインは加藤伸吉、振付は香瑠鼓、アニメーションは ひらのりょう、音楽は水曜日のカンパネラ、音楽監督はzAk。
出演は沢尻エリカ、吉沢亮、峯田和伸、コムアイ、岩松了、柿澤勇人、藤村忠寿、内田健司、久場雄太、今井久美子、小林涼子、林田岬優、木下愛華、蒔田彩珠、中村有志、伊藤ゆみ、佐藤乃莉、末永百合恵、猫田直、星野亘、中田春介、橋本一郎、高橋里恩、遠藤史也、田幡妃菜、禾本珠彩、逢坂由委子、野末翔太、藤本かえで、益子寺かおり、中尊寺まい、澤山璃奈、西原有紀、樽見麻緒、長谷川佳奈、高嶋莉子、山田美鈴、嶋千侑、鴨川明日香、坂本くるみ、宮越愛恵、松元那実、戸所春香、五十嵐絢美、杉原明佳、薄井美樹、古賀愛弓、山本成美、林あやの他。


大山淳子の同名連作短編集を基にした作品。
監督は『のぼうの城』『MIRACLE デビクロくんの恋と魔法』の犬童一心。脚本は『わたしのハワイの歩きかた』『セーラー服と機関銃 -卒業-』の高田亮。
この2人はTVドラマ版『グーグーだって猫である』とパート2で組んでいた。
沙織を沢尻エリカ、良男を吉沢亮、ゴッホを峯田和伸、キイロをコムアイ、中畑を岩松了、高橋を柿澤勇人、帆乃を蒔田彩珠が演じている。

タイトルが『猫は抱くもの』だし、ポスターでは沢尻エリカが猫を抱いているだけでなく他にも多くの猫が写っている。
だから「ヒロインが猫と触れ合う中で少しずつ変わっていく」という感じの映画じゃないかと想像する人は、たぶん少なくないんじゃないかと思う。
その予想は、ある意味では正解だし、ある意味では間違いだ。
ポイントになるのは、ポスターで吉沢亮の上に書かれた「ロシアンブルーの猫・良男」という文字だ。ここが本作品の大きな特徴であり、そして厄介な問題でもあるのだ。

その「ロシアンブルーの猫・良男」という文字は何を意味しているのかというと、そのまんまだ。つまり吉沢亮が演じるのは、ロシアンブルーの猫なのだ。
冒頭のシーンで、早くも本作品の仕掛けが明らかになる。
橋の下で暮らす猫が写るのだが、シーンが切り替わって夜になると、その猫たちが全て人間の姿に変化しているのだ。
それは「日が暮れると何らかの力で猫が人間に姿を変える」という意味での描写ではない。猫を擬人化して描いているのだ。

単に擬人化するだけでなく、まるで舞台劇のような演出になっている。
そんな様子が描かれるアヴァン・タイトルの約4分で、「これはダメだ」と脱落してしまう人も少なくないんじゃないかと思われる。だって、完全に外しているからね、その趣向って。
まず、どうして猫を人間の姿で描こうとしたのかと。
ひょっとすると、「良男は自分を人間を思い込んでいる」という設定があるので、そこを上手く実写で表現するための方法として、「人間に演じさせる」というアイデアを思い付いたのかもしれない。
ただ、そうだとしても、他の猫まで全て擬人化する必要は無いでしょ。

その後、状況に応じて姿が猫になったり人間になったりを行き来するのだが、ベースは人間だ。
だけど猫映画ってのは、「猫が可愛い」というだけで猫好きに対する訴求力になる部分が圧倒的に大きいわけで、そこを捨てるメリットは何も無いのだ。
そして、そこのメリットを捨ててまで、人間に全ての猫を演じさせたことのメリットが大きいのかというと、それは絶対に違うと断言できる。
それによって得られたプラスの効果なんて、1ミクロンも無いぞ。

「設定の無理を何とか誤魔化すための戦略」として、「猫の擬人化」という方法を選んだんだろうってのは何となく分かる。もしかすると、苦肉の策だったのかもしれない。
でも冷静に考えると、そんな方法を取る必要って全く無いんだよね。
猫を猫のままで描いても、まるで支障は無い。猫たちに人間の台詞だけを喋らせれば、それで事足りるでしょ。むしろ、そっちの方が間違いなく愛らしさは感じられるぞ。
吉沢亮がイケメンなのは確かだけど、この映画で良男を演じる彼はハッキリ言って気持ち悪いぞ。

冒頭シーンは橋の下っぼく見せているが、タイトルの後は観客席まで写し出される。「舞台劇っぽく」ということから一歩踏み出し、完全に「舞台劇を映画で撮影しています」という形に持って行く。
そこでは良男が沙織についてナレーションを語り、2人の様子が描かれる。
良男は猫だが、映像としては「沢尻エリカが吉沢亮に話している」という状態だ。吉沢亮は猫を演じているので、「沢尻が吉沢を猫のように扱い、吉沢は猫として彼女にじゃれる」という芝居になっている。
そんな姿が描かれる中で、「私は何を見せられているんだろうか」という気持ちになってしまう。

これが舞台劇なら、人間が猫を演じても違和感など抱かなかっただろう。舞台劇ってのは、そこのハードルが低いっていうか、「そういうファンタジーも有り」という意識で観賞できる媒体だからだ。
しかし同じことを映画でやられると、「キツい」ってのが正直な感想になる。
ただし、もう少し詳しく説明すると、「人間が猫を演じているからキツい」ってことではないのだ。
それを違和感なく受け入れさせるための力、あるいはヘンテコな世界観に上手く引き込むための仕掛けってのが、全く足りていないってのが大きな問題なのだ。

猫が擬人化されているシーンを過ぎて、人間としてのキャラだけで演じられるシーンに移っても、舞台上のセットでの芝居が続けられる。
舞台劇としての作りを徹底しているのだが、そうなると「じゃあホントに舞台劇として作ればいいじゃん」と言いたくなる。
実際、全ての猫を擬人化する趣向なんかも含めて、舞台劇の方が映画よりも絶対に合っている内容なのよ。
「ホントは舞台劇として上演すべき作品を、なぜか映画として撮っている」という疑問しか無い状態になっているのよ。

1人の役者が、複数の役を演じている。例えば岩松了は中畑だけでなく老猫も担当しているし、蒔田彩珠は帆乃だけでなく縞三毛も演じている。
でも、そこに作品としての意味があるのか、何かしらの効果に繋がっているのかというと、それは何も無い。シンプルに「複数の役を演じている」というだけでしかない。
小劇団なら1人が複数の役を演じるのも理解できるが、これは映画なので、そんなことをする必要は無い。
なので、「変なトコで舞台劇らしさを追求した、無駄で無意味な趣向」と切り捨ててしまっていい。

ずっと舞台劇として続けるのかと思ったら、なぜか沙織が高橋とデートするシーンはロケーション撮影になっている。山の風景を捉えるロングショットだけ挟んで舞台劇に戻るのかと思ったら、そのまま2人のハイキングの様子を描くのだ。
どういうセンスなのか、サッパリ分からんよ。
そりゃあ舞台劇としての徹底は大失敗だと断言できるけど、そこでロケのシーンを入れるのも同じぐらいの大失敗だぞ。20分以上も舞台劇を続けておいて、そこで中途半端にロケを挟んでも焼け石に水だし、違和感が増すだけだぞ。
その後は舞台劇もあればロケもあるという状態になるけど、もはや手遅れである。

「猫を役者が演じる」「舞台劇として描く」という2つの趣向だけでもポンコツ度数が大幅に上昇しているのだが、それで終わらないのが本作品の恐ろしい所だ。
他にも、沙織が妄想を膨らませ、それを映像化する(もちろん舞台劇の範疇で)という仕掛けがある。また、現在の沙織が、10歳や12歳の自分と会話を交わす趣向もある。良男が倉庫を抜け出すシーンでは、アニメーションが使われる。
そういう様々な演出も、見事なぐらい上滑りしている。
製作サイドには、実験的な精神で挑戦的な映画を作ってやろうという野心があったのかもしれない。
ただ、そうだとしても、その実験は完全なる失敗に終わっている。

実験が失敗しているだけでなく、その実験は本作品の最も大事なポイントまで台無しにしている。それは「ヒロインと猫の触れ合い」という部分だ。
傷付いたヒロインにとって猫の存在が慰めになり、明日への活力になるってのが重要な要素のはず。しかし本作品を見ていて感じたのは、「これって猫、要らないよね」ってことなのだ。
そもそも姿が猫じゃないので、「孤独なヒロインが猫に癒やされる」という印象が皆無という問題はある。それはひとまず置いておくとしても、沙織が変化するに当たって良男の存在価値は皆無に等しいのだ。猫を全削除して他の部分だけで話を構成しても、それで何の問題も無く成立してしまうのだ。むしろ、猫が邪魔と言ってもいい。
この映画は猫の側からも描いているので、猫を削除するとそこも消えることになる。でも、それでもいいと思う。
だって、擬人化された猫たちのパートって、ひたすら寒々しいだけだからね。

(観賞日:2020年6月22日)

 

*ポンコツ映画愛護協会