『夏の終り』:2013、日本

相澤知子がコロッケを買って帰宅すると、小杉慎吾は「今日、来たよ。木下君さ。すぐに分かった」と言う。知子が「いいじゃない、昔のことよ」と告げると、慎吾は彼が土産を持っていたが、警戒したのか早々に帰ったことを話す。次の日、慎吾が家に戻ると、近所に住む女学生の鞠子が来て本を読んでいる。知子は「困ったもんね。涼太君よ」と慎吾に言い、木下涼太が誰も知らない広告屋で働き始めたことを話す。「あの年になって、今更やり直そうなんて無理な話よ。あっちで頑張ってれば良かったのよ」と彼女は語る。
鞠子が去った後、慎吾から話し掛けられた知子は、彼が小説を書くつもりになったのだと思って喜ぶ。しかし「藤木のために読み切りでも取ってやろうと思って。あいつは面白い。燻っててほしくない」と彼が言うので、知子は顔を曇らせる。夜になると、慎吾は「月曜には帰る」と告げて家を去る。月曜日に戻ると知子が風邪をひいて寝込んでいたので、慎吾は看病する。しかし「鐘を聞かなきゃならないんだ。6日には来る」と告げ、また家を出て行った。
涼太から電話が掛かって来たので、知子は嬉しくなった。「また顔出しますよ」と言われた彼女は、「今からいらっしゃらない?」と誘う。「私、病気なの。重病なの。来て頂戴」と告げた知子は、涼太が来ると笑顔で迎えた。6日になって慎吾が来た時、彼女は微笑みながら「慎が病人放っといて帰るから、いいとしてやったの。涼太君に会ってやった。呼んだの」と語る。「楽しかったかい?」と訊かれた彼女は、「ええ、とっても」と答えた。
夜、知子の「どっかで食べて行かない?」という誘いに、慎吾は困った様子で「またすぐに来るんだ」と言う。知子は外で夕食を済ませた後、涼太を呼び出してキャバレーで一緒に飲んだ。知子は慎吾について、「あの人、出来るだけ私に何もさせまいとするの」と笑う。涼太が「変な人だ。奥さんに貴方のことを認めさせたんだから。ずっとなんだろ」と言うと、彼女は「8年よ。長いわね」と告げた。「あの人、奥さんの前でもそうなの?きっと優しいさ。でも、そんなの愛じゃない。ヒューマニティーだよ。自分が傷付きたくないんだ」と涼太は語り、笑いながら「昔、子持ちの女に言われたんです」と付け加えた。
店を出た涼太が自宅へ戻る背中を見つめながら、知子は「涼太」と呼び掛けた。かつて知子は、田舎で佐山勇一という男の妻だった。幼い娘もいる身だったが、一緒に百田育夫という参議院議員候補の選挙活動を手伝った時に涼太と惹かれ合うようになった。後日、知子は銭湯へ行く際、慎吾も誘う。慎吾が断ったので知子は一人で銭湯へ向かうが、途中で思い立ち、涼太の家を訪れた。知子は涼太と関係を持ち、そのまま一夜を過ごした。
翌日、涼太は知子に、「続かないぞ、こんなこと。あの人に内緒で続けられると思う?」と問い掛ける。知子が何も答えないので、涼太は「返事ぐらいしろよ」と詰め寄る。すると知子は、「うるさいわよ。いい歳して、あれもこれもなんて言わないで。惨めったらしいのよ」と荒っぽい口調で告げる。涼太は「そんな言い方するのか。勝手にしろ」と腹を立てて去った。慎吾が来た時、知子は夕食の箸を止めて「涼太がどんな御飯食べてるのかと思って」と口にする。慎吾が「会社、潰れたんじゃないかね」と言うと、彼女は「慎はいつまで、こんなままでいさせる気?」と問い掛けた。
知子が家を空けている期間が出来ると、慎吾は涼太に電話を掛けて飲みに誘った。知子が港へ戻って来ると、2人は並んで出迎えた。涼太は知子と2人になると、慎吾から誘われて何度も飲みに行ったことを話した。涼太がキスをして立ち去った後、慎吾が知子の元へ戻ってきた。知子は涼太の部屋へ行き、「気配りはしてるのよ。買ってやった物を着せて、あちらさんへ帰すことだって絶対に無いんだから」と話す。「いいの、それで?嫉妬は無いの?」と訊かれた彼女は、「もう恋は無いんだもの」と言う。「じゃあ何があるの」という質問に、知子は少し考えてから「愛してるのね」と答えた。
涼太は苛立ち、「無邪気な女だよ。2人の男に迎えられて、貴方は幸せそうな顔をして、さっさと先生と引き上げる。ふしだらで、淫らで、だらしがないよ」と非難するように言う。知子は不機嫌な態度を示し、「ようく分かったわ。それが愛よ。だらしがないものよ」と話す。「なぜ別れないんだ」と詰め寄られた彼女は、「私が望まないからよ」と答える。「じゃあ俺のことは何だ?」と涼太が告げると、彼女は「言わせないでよ。天秤よ」と冷たく述べた。
夜、知子は電話が鳴っても出ようとせず、慎吾が受話器を取った。相手は涼太で、知子と話したがったので慎吾は受話器を彼女に渡した。涼太は泣きながら、「捨てないでくれ。時々、会ってくれるだけでいいんだ」と漏らす。知子は「酔ってるのね。切るわ」と冷たく言い、受話器を置いた。「あの人、慎と別れて一緒になって欲しいっていうの」と彼女が語ると、慎吾は「放っておけばいい。人の物ばかり欲しがるんだ。前の女房だって、飲み屋で見つけて、旦那も子供もいたんだって?くだらん」と述べた。
慎吾のいない日、鞠子が知子の家へやって来た。鞠子は積んである慎吾の本を移動させた時、奥にあった慎吾宛ての手紙を見つけて机の上に置いた。彼女が去った後、知子は手紙を見つけて開封した。差出人は慎吾の妻・ゆきで、夫に対する愛が感じられる内容だった。知子は涼太の元へ行き、「そんな女の何がいいのよね」と苛立ちを吐露する。涼太は「何言ってんの。帰ってくんないかな」と冷淡に言う。彼は「当たり前じゃないか、そんな手紙。あっちは夫婦だ。もう嫌なんだよ。帰らないなら、俺が出る」と告げて部屋を出て行った。
ゆきと話したいと考えた知子は、慎吾の自宅を訪れた。縁側にいた慎吾は、知子を見て驚いた。彼は「誰もいない。上がりなさい。今朝からは東京に行ってるんだ」と告げ、知子を招き入れた。しかし知子は「出ましょう」と言い、彼を外へ連れ出した。「慎はあの人たちと別れること、出来ないでしょ。あの人に今日、聞きたかったの。だって貴方、優しいから。そんなの出来ないのよ」と、知子は言う。それから彼女は、「ごめんなさい。私、涼太とずっと」と打ち明けた。
慎吾は「惚れてるのか」と尋ねると、知子は泣きながら「分からない。どうしたらいいか分からない」と言う。慎吾が「どこにでも行って来るといい。自分が変わる」と促すと、彼女は「駄目なのよ。何もかも駄目なのよ。どうにしかてよ」と感情的になった。「すまん」と慎吾が言うと、知子は「嫌よ。こんなの、もう嫌」と漏らす。「明後日には、そっちに行く」と慎吾が告げると、知子は「私が来たこと、あの人に伝えてよ。絶対よ」と約束させた…。

監督は熊切和嘉、原作は瀬戸内寂聴『夏の終り』(新潮文庫刊)、脚本は宇治田隆史、製作は藤本款&伊藤和明、プロデューサーは越川道夫&深瀬和美&穂山賢一、アソシエイトプロデューサーは星野秀樹、撮影は近藤龍人、照明は藤井勇、美術は安宅紀史、音響は菊池信之、衣裳は宮本まさ江、編集は堀善介、音楽はジム・オルーク。
出演は満島ひかり、小林薫、綾野剛、小市慢太郎、安部聡子、赤沼夢羅、澤田俊輔、古河潤一、金替康博、牛沼祐司、久野麻子、眞鍋歩珠、山本寛奈、吉田碩、高田将利、上野慎一、植村晃、宗川信、伊藤晴美、谷博文、木元寿夫、北風好健、喜田和大、玉岡佳奈、溝尾一男、山下誠、島田博史ら。


瀬戸内寂聴が出家前の「瀬戸内晴美」時代に発表した同名小説を基にした作品。
同じ原作が、1963年に『みれん』という題名で東宝によって映画化している(知子役は池内淳子、慎吾役は仲谷昇、涼太役は仲代達矢)。
知子を満島ひかり、慎吾を小林薫、涼太を綾野剛、勇一を小市慢太郎、ゆきを安部聡子、鞠子を赤沼夢羅が演じている。
監督の熊切和嘉と脚本の宇治田隆史は2003年の『アンテナ』以来、TV作品や短編も含めて10度目のコンビ。

ハッキリ言って、涼太役が綾野剛というのはミスキャストだろう。
「年上の女に翻弄される、ちょっと弱い所のある男」という印象の問題は置いておくとしても、知子より年下の愛人という設定のはずなのに、ちっとも年下に見えないってのはマズいだろう。
実際、綾野剛は満島ひかりより年上だし。
実年齢が上でも、童顔だったり年下に見えたりすれば問題は無いけど、キッチリと年上に見えるしね。

一方、ヒロインの満島ひかりは頑張っているけど、こちらも残念ながらミスキャストと言わざるを得ない。知子役には、もう少し年を食っている人を起用すべきだろう。
「8年の愛人生活を続けていて、それより前に年下の涼太と恋に落ちて夫と娘を捨てた」という設定なので、「アンタは何歳なんだよ」と言いたくなる。どう考えたって、20代だと違和感があるのだ。
ちなみに原作では38歳だから、そりゃ無理があるわ。
一応、映画版では「30代半ば」という設定らしいけど、満島ひかりは30代半ばに全く見えないぞ。
満島ひかりは実年齢が20代だし、20代にしか見えない。しかも、21歳という年齢設定のキャラを演じても違和感なく行けちゃうぐらいだし。

序盤、鞠子という女学生が遊びに来ているシーンがあるんだけど、彼女が何者なのか良く分からない。
慎吾を「先生」と呼んでいるので、血縁関係は無さそうだ。たぶん、近所に住む女学生なんだろう。
で、そんな近所の女学生が、どういう関係で知子の元へ遊びに来るようになったのかは良く分からない。
もっと分からないのは、彼女の存在意義だ。そのように異質な印象を与えてまで登場させているんだから、何か意味のある使われ方をするのかと思いきや、まるで存在意義を感じさせないのである。

その鞠子が本を借りて去った後、慎吾が知子に何かを喋り掛けるのだが、小林薫の滑舌が悪くて、何を言っているのか聞き取りにくい。
たぶん「文芸社の丸目君と会う」という台詞だと思うんだけど、たぶん何を言っているか全く分からない人もいると思う。
その後に知子が「書くの?」と期待感に満ちた表情で尋ね、「藤木のために読み切りでも取ってやろうと思って」という言葉に落胆するんだから、それなりに意味のある台詞のはず。
だったら、そこが聞き取りにくいってのは、ちょっとマズいでしょ。

台詞が聞き取れないのは小林薫だけじゃなく、満島ひかりにも同様のケースが存在する。
ただし、こちらは滑舌の問題ではなく技術的な問題だ。月曜日に戻った慎吾に知子が喋るシーンで、布団を被った彼女の台詞が聞き取れない。
「知子が布団を被っているから聞こえにくい」ということなんだけど、それでも聞き取れるようにしておくべきでしょ。
「布団を被っていたら聞き取れない」というリアルなんて要らない。そんなリアルを優先して台詞が聞き取れなくなるってのは、劇映画としては本末転倒だと思うのよ。

風邪をひいた知子を看病した慎吾は「カネをきかなきゃならないんだ。6日には来る」と言うが、その時点では「カネをきく」ってのが何のことだかサッパリ分からない。
涼太から知子への電話で「あけましておめでとうございます」と告げているので、「除夜の鐘を聞く」という意味なんだろうってことが、ようやく見えてくる。それと、その辺りになって、ようやく「慎吾に奥さんがいて、知子の所へは通っているだけ」ということも分かって来る。
それまでは慎吾の姓名も分かっていないから、知子と夫婦のように思えたのよ。だから「月曜日には戻る」というのも、仕事で出張でもするのかと思っていたのよ。そうじゃなくて自宅に戻るってことなのね。分かりにくいなあ。
そこをハッキリさせておかないことのメリットなんて、何も無いだろうに。

「慎はいつまで、こんなままでいさせる気?」という知子の台詞の後、カットが切り替わると慎吾が部屋を掃除してサボテンの位置を直し、涼太に電話を掛けて飲みに誘っている。
そこからカットが切り替わると、今度は港で慎吾と涼太が知子を出迎えている様子が描かれる。
つまり、知子はどこかへ出掛けていて、その間に慎吾と涼太が飲みに出掛け、船で港に戻って来た彼女を出迎えたということらしい。
だが、かなり分かりにくい描写になっていると言わざるを得ない。

なんでもかんでも詳しく説明すればいいってものではないけど、この映画は説明不足が甚だしい。大事な箇所を幾つも端折っており、理解するのに苦労を強いられる。
もちろん意図的な演出だろうと思うけど、それによるメリットが見えない。
その港のシーンなんて、知子がどこへ出掛けていたのか、何の目的だったのかは良く分からないままだ。
「あっちはどうだった?」という涼太の質問に、知子は「変な感じよ。ずっと寂しいんだもの。長かったなあって」と言うんだけど、何のことやらサッパリだぞ。

知子は8年に渡る愛人生活が続いていて、先の見えない不安や寂しさが募り、そんな中で元カレと再会し、心の隙間を埋めるために関係を持ったということなんだろうってことは、理屈としては分かる。
ただし、そういう彼女の心情がドラマの中から伝わって来るのかというと、それは薄い。
あくまでも、「そういう行動を取るからには、こういう心情なんだろう」という推測に過ぎない。
たぶん、その推測は当たらずも遠からずだろうとは思うけど、心情を伝える作業が足りていないんじゃないかとは感じる。

知子は自分で望んで慎吾の愛人生活を始めたけど、彼を独占できないことに苛立ちや寂しさを感じるようになって、元カレの涼太を愛人にする。
涼太から批判されると冷たく突き放したり荒っぽく振る舞ったりするけど、自分が不安になったり苛立ったりすると会いに行く。
つまり都合のいい男として利用しているわけだ。
サイテーじゃねえか。愛人生活を長く続けているという設定も、同情を誘う要素として全く機能していないぞ。

知子は最初に涼太と深い仲になった時、佐山に別れを切り出している。批判された彼女は、「好きなのよ。だって好きなのよ」と喚く。
一応、好きな人が出来たことを明かす時には「ごめんなさい」と言っているけど、そんなに強い罪悪感は抱いていない様子に見える。それよりも、「好きになったんだから仕方がないじゃないか」という開き直りの気持ちの方が強い。
それを打ち明ける時には娘もいるのだが、娘に対する罪悪感も全く無い。
知子は平気で娘を捨てており、それから全く会っていないし、娘の存在を思い出すことも無い。

そのように身勝手な振る舞いで夫と娘を捨てた知子は、しかし家族を捨てるきっかけとなった涼太も捨てている(その経緯については描写されていないけど)。
そして慎吾の愛人生活を始めるのだが、また涼太とヨリを戻して二股を掛け、最終的には2人とも捨てて新しい人生を歩き出す、という物語である。
そんなの、「勝手にすればいいんじゃねえか」って話でしょ。
そんな女に全く共感できないよ。

一言で表現するならば、これは「ワガママ放題の糞みたいな女が、2人の男を捨てて新たな道を歩き出す」という話である。
満島ひかりがヒロインを演じていることで、「美人女優」という強い力を持つフィルターが掛かっている。
だけど仮に容姿の整っていない女性が同じ役柄を演じていたら、かなり腹立たしいことになっていたんじゃないか。
ようするに、「満島ひかり」という女優の力で本質的な部分が隠蔽されてしまっているけど、これって全く共感を誘わない腐れビッチの身勝手なウーマン・リブ物語なのよ。

原作が発表された1962年当時なら、その頃の時勢、女性を取り巻く状況であれば、知子の生き方は「自立心の強い女性」といった感じで共感を誘ったのかもしれない。
しかし2013年という時代に、こんなヒロインが果たして観客の共感を誘うのだろうか。
まず男性は厳しいだろうし、女性でも共感を抱かない人が少なくないんじゃないかと思ってしまうんだけど。
そう考えると、そもそも脚本や演出が云々という以前に、企画の段階で疑問が湧いてしまう。

(観賞日:2015年4月10日)

 

*ポンコツ映画愛護協会