『七夜待(ななよまち)』:2008、日本
日本人女性の彩子は、トランク1つでタイにやって来た。電車を降りた彼女は、駅員に質問する。タイの言葉は分からないが、英語なら何となく理解できる部分もあった。ガイドブックを片手に市場を移動した彼女は、身振り手振りを交えて地元の人から情報を得る。少し歩いた彼女は、ホテルの場所を地元の人に英語で尋ねる。カップルが文句を言いながらタクシーから出て来るのを見た彼女は、そのドアをノックして運転手に自分の存在を知らせた。
彩子はタクシーに乗り込み、ホテルの名前を運転手のマービンに告げる。車が発進した後、彼女はサングラスを掛けて軽く眠る。しばらくして車が停まり、彩子は目を覚ますが、そこはホテルの前ではない。マービンがドアを開け、外へ出るよう促した。怖くなった彩子は、荷物を全て置いて逃げ出した。通り掛かった青年のグレッグに、彼女は助けを求めた。グレッグは彩子を連れて、同居しているタイ人の家へ赴いた。グレッグは、アマリとトイという母子の家で暮らしていた。
マービンが来たので、彩子は怯えながらグレッグに訴え掛ける。グレッグは彼女を落ち着かせ、アマリはシーツの上で横になるよう促した。彩子が横になると、アマリはマッサージをしてくれた。いつの間にか眠り込んだ彩子が目を覚ますと、隣にはトイが寝ていた。タクシーが停まっているのを見つけた彼女は荷物を取り返そうとするが、鍵が開かなかった。僧侶に祈りを捧げていたマービンは彩子に気付くと、持っていた果物を差し出した。
彩子が家に戻ると、マービンがシーツの上で横になっていた。アマリは彩子に、自分の真似をしてグレッグにマッサージをするよう促した。彩子はマービンやグレッグたとと食事を取り、言葉が分からない中でもコミュニケーションを取ろうとする。翌朝、彩子が目を覚ますとまたトイが横で眠っている。彩子は彼の爪を切ってやった。トイはマービンと共に、彩子の足をマッサージする。彩子は老女に声を掛け、彼女の煙草を吸わせてもらう。
彩子はグレッグ、マービン、アマリと共に町へ出て、食べ歩きをする。露店に立ち寄った彼女は、『タイの仏教』という日本語で書かれた本を発見する。その表紙には、美しい顔をした僧侶の写真が使われている。夜、4人は若い男たちに絡まれ、その場から逃げ出す。彩子は笑いながら、夜の町を走る。家に戻った彼女は、購入した『タイの仏教』を読む。深夜、彼女は一人で出掛けて、仏塔を見物する。
翌朝、グレッグのマッサージを受けた彩子が外に出ると、アマリとトイが通り掛かった美しい僧侶に祈りを捧げている。僧侶は2人に読経すると、その場を去って歩いて行く。マービンとアマリは、激しい言い争いになる。それを見ていたグレッグは我慢できずに割って入り、アマリを激しく非難する。彩子は事情が全く分からないまま止めに入るが、3人とも聞く耳を貸さない。泣き出したアマリに歩み寄った彩子は、どうやらトイがいなくなったらしいことを悟る…。監督は河瀬直美、脚本は狗飼恭子&河瀬直美、プロデュースは長澤佳也、アソシエイト・プロデューサーはSaksiri Chantarangsri&Wicha Khokapun、撮影監督はCaroline Champetierカロリーヌ・シャンプティエ、美術はTheerathorn Sayanhavikasita、録音は山根則行&平戸孝之、編集は河瀬直美&Dominiqe Auvray&金子雄亮、サウンド・デザイナーはDavid Vranken&Akritchalerm Kalayanamitr。
出演は長谷川京子、グレゴワール・コラン、キッティポット・マンカン、轟ネーッサイ、轟ヨウヘイ、村上淳、Rujikarn Pomthong、Anthony Donellyら。
『萌の朱雀』『殯の森』の河瀬直美が監督&脚本&編集を務めた作品。
読み方の分かりにくい題名を付けるのが好きな河瀬監督だが、今回は「ななよまち」と読む。
これまでは奈良でロケーションを行ってきた河瀬監督だが、今回はタイで撮影している。
彩子を長谷川京子、グレッグを『ビフォア・ザ・レイン』『ネネットとボニ』のグレゴワール・コラン、マービンをキッティポット・マンカン、アマリを轟ネーッサイ、トイを轟ヨウヘイ、美しい僧を村上淳が演じている。
ジャン=リュック・ゴダールやジャック・ドワイヨンの作品に携わって来たカロリーヌ・シャンプティエが、撮影監督を務めている。当初はコメディー映画として作られる予定だったらしいが、まるでテイストの違う、っていうか今までの河瀬作品と同様のテイストを持つ映画に変更されている。
そもそも河瀬監督にコメディーなんて撮れるはずがないので、そんな企画で始めた段階で間違っている。
彼女に撮ることが出来るのは、「お上品で高尚なゲージツを愛するヨーロッパのブルジョアな人々」に好まれるような類の映画だけだ。
喜劇に限らず、娯楽性の高い映画を撮る資質は持ち合わせていない。やけに露出度の高いタンクトップ姿で町を歩き回った上、カップルの男が何やら文句を言っていた直後のタクシーに乗り込み、その車内でボディークリームか何かをデコルテの辺りに塗って無闇にお色気を巻き散らすという、軽率極まりない行動を取る彩子。
そりゃあ、運転手が人の気配がしない山道へ入っても仕方が無い。
「ひょっとして俺を誘ってんのか」と誤解するような格好と行動なんだから。
結果的には、その運転手は悪人ではなかったわけだが、でも犯されていても仕方が無いと思ってしまうぐらい、阿呆丸出しな行動を取っている。逃げ出した彩子は、通り掛かった男に「助けて」と叫び、いきなり抱き付く。
そりゃあ、怖い経験をしたから、誰かに頼りたくなるのは分かるが、相手がどんな男かも良く分からないのに、すぐに抱き付く。横になるよう促されると指示に従い、マッサージされて眠り込む。
すぐに近くにグレッグがいるのに、彼に対しては何の警戒心も示さない。
「ひょっとしたら彼もタクシー運転手のようにヤバい人の可能性があるかも」なんてことは、微塵も感じていない。いっそのこと、「実はグレッグも悪党で、彩子は酷い目に遭いました」という展開になった方が、ある意味ではスッキリするんじゃないかと思ってしまうぐらいだ。それぐらい、序盤における彩子は、「何か勘違いしたまま外国へ一人旅に行ってやしないかね」と言いたくなる。
そりゃあ、言葉が通じない状態で外国の一人旅をしている人間が、みんな揃いも揃って危険な目に遭うわけではない。
ただ、彩子に限っては、「危険な目に遭いやがれ」と意地悪な気持ちになってしまう。そういう女なのである。
それは、彼女が「もしイスラム圏の国へ行ったとしても、同じように露出度の高い格好をするんじゃないか」と思わせてしまうような女だからだ。言葉が全く通じないことで、彩子は焦りや苛立ちを覚える。
しかし、そもそも言葉が全く分からない状態で異国へ来たのは本人だから、それで「言葉が分からずに焦ったり苛立ったりする」ってのは、ものすごく勝手な言い草だ。
本当は来たくなかったのに何かの理由でタイへ行かざるを得なかったとか、通訳がいたはずなのに置き去りにされたとか、そういう事情は何も無い。
テメエが勝手にタイへ行っただけだから、そこで感じる焦りも苛立ちも、全てテメエの責任でしかない。いかにもドキュメンタリー畑出身の人らしく、河瀬監督はガッチリと出来上がった脚本を用意せず、そのシーンの大まかな内容を示したメモを出演者に渡し、本人の言葉でセリフを喋らせるという方法を取っている。
そうやって出来上がった作品は、やはりドキュメンタリーの匂いが色濃いモノになっている。
今までの作品とは違って、それなりに知名度が高く、娯楽性の高いTVドラマにも多く出演しているハセキョーを起用しても、やっぱり河瀬直美は河瀬直美なのだ。河瀬監督の作品なので、「何が何だかサッパリ分からない」という感想になっても、それは仕方が無い。
なぜなら、彼女の作品は全て、「本人は理解できているけど、大抵の観客には全く伝わらない」という仕上がりになるからだ。
そういう作風が、一部のゲージツ好きな観客からすると、「いかにも高尚で優れている」という評価に繋がるのだろう。
そして、そんな高尚なセンスを全く理解できない凡庸な観客は、退屈を弄ぶことを余儀なくされる。分からないことなら、この映画には数え切れないほど含まれている。むしろ、分かることを数えた方が遥かに早い。
まず、なぜ彩子がタイヘ来たのか、その理由からして分からない。
「最初の段階では分からないけど、物語が進む中で明らかになる」ということではない。最後まで見ても、まるで分からない。
マービンが彼女をホテルへ案内しなかった理由も分からない。マービンたちと会話を交わしていた彩子が急に泣き出すシーンがあるが、なぜ泣くのかは全く分からない。トイがいなくなった時、なぜ誰も捜しに行かないのかが分からない。あの僧侶は結局、どういう存在だったのかが分からない(トイの父親っぽい感じもあるが、判然としない)。色んなことが全く分からない理由は簡単で、そもそも観客に分からせようとしていないからだ。
例えば彩子がタイに来た理由なんかにしろ、たぶん河瀬監督にとっては「どうでもいいこと」なのだ。
観客が「その理由が知りたいし、説明すべきだ」と考えても、そんなのは何の意味も無い。河瀬監督が「その必要が無い」と判断すれば、その判断が絶対なのだ。
審判がセーフと言えばセーフだし、ストライクだと言えばストライクなのだ。
例えミスジャッジだったとしても、それは決して覆らない。高尚なゲージツを理解できないボンクラな人間は、河瀬監督の映画に意味や理由など求めていけない。
というか、もはや何も求めてはいけないと言った方がいいだろう。
「理解できないボンクラな脳味噌しか持ち合わせていないのに、見てしまった自分が悪いのだ」と諦めるしかない。きっと悪いのは、こっちの方なのだ。
ボンクラな凡人にとっては、「ハセキョーがやたらとオッパイの強調される格好をしている」ということぐらいしか印象に残らない映画だが、高尚なセンスのある人なら、もっと深い部分にある何かを感じ取ることが出来るはずだ。(観賞日:2014年8月10日)