『長崎ぶらぶら節』:2000、日本

明治十六年夏。少女の松尾サダは貧しい両親に売られ、女衒に連れられて山道を歩いていた。女衒は「これから行く丸山は龍宮城のように楽しい場所だ」と説明し、少女を元気付けた。女衒が長崎ぶらぶら節を歌うと、少女も声を合わせた。川に立ち寄った少女は、蛍を見て興奮した。大正十一年冬。丸山芸者の梅次やベテラン芸妓の音丸は料亭「花月」で開かれる宴に呼ばれ、女将の山口富美江と会った。宴の主催者は萬屋の古賀十二郎で、いつもは町でしか遊ばない男だった。
町の芸者である米吉たちが料亭に現れると、梅次たちは不快感を示した。米吉の妹分は階段を上がる丸山芸者の愛八に道を譲るよう要求し、後ろから突き飛ばした。愛八の簪が落ちると、米吉は蹴り飛ばした。愛八が謝罪を要求すると米吉は拒否し、山の芸者とは格が違うと言い放つ。愛八は「売られた喧嘩は買う」と告げ、丸山芸者と町の芸者は喧嘩を始めようとする。そこへ古賀が現れ、芸で喧嘩をするよう持ち掛けた。古賀は座敷に移動し、双方の芸を見ながら酒を飲んだ。彼は1人の芸者の帯を解き、紙幣を撒いて楽しんだ。
三味線を弾いていた愛八は疲れを感じ、座敷を出た。富美江が古賀の豪遊に感心すると、愛八は「最近の船成金と変わらない」と評した。店を出た彼女は、父を亡くして花を売っている少女のお雪を見掛けた。お雪が「花が売れないので家に帰れない」と漏らすと、愛八は全て買うと告げる。持ち合わせが無かった彼女は簪を渡し、質屋に行けば高く売れると告げた。愛八はおでん屋に立ち寄り、主人の留吉からおでんを買う。お雪は辻占の札を売る友人のお喜美を見て挨拶を交わし、彼女は母無し子だと愛八に教えた。愛八はお雪に、お喜美も家に呼んで一緒におでんを食べようと持ち掛けた。
力士の三発山大五郎と仲間たちは巡業で長崎を訪れ、愛八の家へ挨拶にやって来た。ひいきの三発山との再会を喜んだ愛八は料理を用意し、梅次とお雪とお喜美は配膳を手伝った。米屋の幸兵衛は愛八を訪ねようとしていたが、力士たちが来ていると知って立ち去った。愛八は軍人たちの座敷に呼ばれ、港に停泊する軍艦の土佐を眺めた。彼女は山口艦長に、土佐が不憫だと漏らした。日本が結んだ軍縮条約により、土佐は沈める命令が下されていた。愛八は供養の意味を込めて、三味線を弾きながら歌を披露した。別の座敷にいた古賀は、銀行家と会っていた。米吉は万屋に融資してもらうため、銀行家を呼んで接待していた。しかし古賀が宴を無視して歌に聞き惚れたため、銀行家は腹を立てて座敷を去った。愛八は歌い終わると、土俵入りも披露した。
翌朝、土佐の見送りに赴いた愛八は、古賀と遭遇した。昨晩の歌について問われた彼女は、その場の思い付きだと答えた。死に物狂いの豪遊で何が面白いのかと愛八が尋ねると、古賀は「金は人間を粗末にする。だから縁を切った。萬屋の身代は使い切った」と話した。彼が死ぬつもりだと感じた愛八は、慌てて制止した。古賀は長崎の古い歌を探すつもりだと明かし、一銭にもならないが手伝わないかと誘った。後日、愛八は萬屋の倒産を伝える新聞記事を目にした。
古賀の自宅には差し押さえのために業者が押し寄せ、家財道具が次々に運び去られた。古賀の妻である艶子は、夫が大切にしている書物は残してほしいと懇願した。業者は冷たい態度で、ガラクタは要らないと告げた。古賀は妻に対応を全て任せ、墓地へ出掛けていた。墓参りに来た愛八は古賀と出会い、墓碑を書き写していることを知る。古賀は死んだ人間の記録を残すため、長崎の墓地を巡っているのだと語る。古賀は三味線を持った愛八を伴い、古い歌を集めるために関係者の元を回り始めた。
大正十二年冬、愛八は古賀に、自分は捨て子かもしれないと打ち明けた。本当の親は高島の炭鉱夫と聞いたことがあるが、確かめたことは無いと彼女は語った。2人が並んで歩く様子を、米吉が目撃した。愛八が帰宅すると、幸兵衛が来ていた。幸兵衛は愛八にとって、現在の旦那だった。幸兵衛は古賀との関係が噂になっていることを話して、自分のメンツに関わるので何とかしてくれと要求した。愛八は自分と切れてほしいと頼み、「この際、身も心も綺麗にしたい」と言う。幸兵衛は旦那のいない芸者が年を取ると不幸になる現状を語り、頭を冷やすよう諭した。しかし愛八は考えを変えず、家を後にした。
愛八は雨に濡れているお喜美を目撃し、どうしたのかと問い掛けた。お喜美は泣きながら、札が全て濡れてしまったと漏らす。愛八は全て買うと言い、財布を渡した。そこへ留吉が現れ、お雪の母が娘を花月に売り、金を持って幇間の捨八と駆け落ちしたことを愛八に知らせた。愛八は富美江の元へ行き、自分が芸を仕込むのでお雪を女郎にだけはしないでほしいと頼んだ。富美江は愛八を信頼し、お雪を預けることにした。愛八はお雪と会い、泣き出す彼女を抱き締めた。
古賀はぶらぶら節を知る老女と会うため、愛八を伴って小浜温泉を訪ねた。老女の記憶は薄れていたが、愛八は幼少期に女衒から教わった歌だと気付いた。古賀は旅館で愛八と同じ部屋に泊まるが、先に自分の布団へ潜り込んだ。愛八が隣の布団で泣き出すと、彼女の気持ちを理解している古賀は「体を重ねたら心が廃る」と語る。彼は歌探しを今回で終わりにしようと提案し、たまに会いたいと求める愛八に「俺たちの先に道は無い」と述べた。愛八は最後に添い寝してほしいと頼むと、古賀は承諾した。
昭和五年夏、愛八は三味線を弾き、お雪に歌を教えていた。しかしお雪が吐血し、医師から肺病だと診断される。入院費は高額で、愛八の稼ぎでは全く足りなかった。彼女は幸兵衛と別れた時に断った手切れ金を貰い、入院費に当てようと考える。それを知った富美江は、既に幸兵衛が手切れ金を払っていることを教えた。驚いた愛八は幸兵衛を訪ね、弟の与三治が自分の代理と称して手切れ金を受け取ったことを知らされた。
愛八は与三治の元へ赴くが、博打の借金を支払うために手切れ金を全て使い果たしていた。酒浸りの与三治は愛八に責められても悪びれず、開き直る態度を見せた。彼は自分が捨て子だから実の姉弟では無いと打ち明け、「にっちもさっちも行かなくなった。娘を叩き売ろうにも、ガキで金にならない」と嘆いた。愛八は二度と来ないと通告し、その場を後にした。お雪の見舞いに訪れた彼女は、またお喜美の父が借金を作ったこと、お喜美が佐世保の遊郭へ鞍替えになったことを知らされた。お喜美はお雪に、愛八が自分を捨てた母かもしれないと考えていることを打ち明けていた。そのことを愛八に語ったお雪は、今なら間に合うのでお喜美を追い掛け、嘘でもいいから母だと言ってあげてほしいと頼む。しかし愛八が港へ行くと、もう船は出た後だった…。

監督は深町幸男、原作は なかにし礼(『長崎ぶらぶら節』文藝春秋 刊)、脚本は市川森一、製作総指揮は植村伴次郎&高岩淡、企画は近藤晋&岡田裕介&早河洋、プロデューサーは木村純一&天野和人&林哲次&妹尾啓太、協力プロデューサーは森岡茂実&山川秀樹、撮影は鈴木達夫、照明は安藤清人、美術は西岡善信、録音は佐俣マイク、編集は三宅弘、特撮監督は佛田洋、音楽は大島ミチル。
出演は吉永小百合、渡哲也、高島礼子、原田知世、藤村志保、いしだあゆみ、高橋かおり、尾上紫、岸部一徳、神山繁、松村達雄、永島敏行、勝野洋、内海桂子、渡辺いっけい、下川辰平、坂口芳貞、芦屋小雁、荒木雅子、大谷亮介、高品剛、嶋尾康史、北河多香子、酒井由美子、西川亘、花ヶ前浩一、芳村浩、内藤達也、上原恵子、平崎晶子、奈須美津子、一之瀬千絵、山口玲子、荻原紀、有島淳平、松尾勝人、垣内彩未、福原夏子、向野澪ら。


なかにし礼の同名小説を基にした作品。
脚本は『異人たちとの夏』の市川森一。
NHKで数多くのTVドラマを演出してきた深町幸男が、退局後に撮った唯一の劇場映画。
愛八を吉永小百合、古賀を渡哲也、米吉を高島礼子、梅次を原田知世、富美江を藤村志保、艶子をいしだあゆみ、お喜美を高橋かおり、雪千代を尾上紫、西條を岸部一徳、山口を神山繁、幸兵衛を松村達雄、三発山を永島敏行、留吉を勝野洋、音丸を内海桂子、与三治を渡辺いっけいが演じている。

丸山芸者と町芸者が富美江の料亭で対峙するシーンは、ちょっとだけ五社英雄作品のような雰囲気も漂う。
しかし監督は五社英雄じゃないし、そもそも主演が吉永小百合なので、実際は全く違う。五社作品のようなギラギラした女の情念とか、ドロドロした野心、生々しい意地のぶつかり合いといった高まりや激しさは無い。
それは監督の持ち味や作品の方向性の違いだから、どちらが良い悪いという問題ではない。
ただ、その後の展開を見ていると、そもそも「丸山芸者と町芸者と対立」という構図を序盤から強調しておく意味があったのかなと。そんなの、無くても良かったんじゃないかと。

丸山芸者と町芸者が古賀の前で芸を披露するシーンの後、愛八がお喜美や雪千代と話す展開があり、三発山たちを接待するシーンがある。
この辺りは、脇道に逸れている印象が強い。
「愛八が古賀と出会い、その第一印象は良くない」という出来事を描いたら、そのまま次の出会いに向けて話を進めても良かったんじゃないかと。
まだお喜美や雪千代とのシーンを挟むのは、後のことを考えれば分からんでもない。でも力士たちを接待するシーンに関しては、どう頑張って解釈しても無駄な寄り道でしかないわ。

愛八が軍艦「土佐」を眺めるシーンでは、急に「土佐が不憫」と泣き出すので「なんで?」と言いたくなる。
その後で軍人たちが軍縮条約について語り、土地が沈められる無念を吐露するので、一応の事情は理解できる。ただ、そんな風に「外圧への憤懣」とか「土佐への強い思い入れ」みたいなモノをアピールしても、そんなの全く重要じゃないでしょ。
そこは「愛八の歌を古賀が耳にする」という手順を描けば、それだけで目的は達成できるはずで。
あと、愛八が歌を披露するのはともかく、土俵入りに関しては意味不明。向こうからリクエストされたわけでもないし、なんで急に「やりましょうか」と言い出すのかワケが分からない。

古賀は馬鹿げた豪遊について、「金は魔物で、人間の誇りや尊厳が大嫌いだ。それを自分は捨て切れないから、こっちから縁を切った」と語る。
どこか誇らしげでスッキリした様子だが、ちっともカッコ良くないぞ。ただ何代にも渡って続いて来た老舗を潰したダメな奴にしか思えないぞ。
何を偉そうに、自分の愚かしい行動を堂々と正当化しているのかと。
真面目に店を営む気が無くて金遣いが荒かっただけの奴が、見苦しい言い訳をしているようにしか見えないぞ。

古賀は長崎の古い歌を探すことについて「古い記録を世に残したい」と説明するが、そういう気持ちがあったのなら、そこに金を使えば良かったでしょ。
遊郭で豪遊して金を使い果たしてから、古い歌を集める作業を開始するのは、どういうつもりなのかと言いたくなるぞ。
歌を集めるのも、思い付きの道楽にしか見えないし。
そんなことをやり始める動機が良く分からないんだよね。そこに注ぎ込む情熱や信念が、まるで感じられないのよ。

大正十二年冬、愛八と古賀が歩く様子を、米吉が目撃するシーンがあるなので、すぐに米吉が何か行動を起こして愛八と古賀の関係に危機が訪れるのかと思いきや、特に何も無いまま時代は移り変わる。
幸兵衛が古賀との噂を知ったのは米吉が関係しているのかもしれないが、それも良く分からないままだし。
昭和に入り、お雪の入院費を工面するために自分の着物を質に入れている愛八を見た米吉が、自分の旦那に「私には出来ない」と彼女への敬意を語るシーンがある。
いつの間にか米吉の敵意は完全に消えているのだが、そんな雑な扱いにするんだったら、最初から対立の構図も無くていいよ。

旅館のシーンにおける古賀の台詞で、歌を集め始めてから2年が経過していると明らかになる。
だけど、そんな時間経過、まるで伝わって来なかったよ。その間に愛八の感情が少しずつ変化しているとか、古賀との関係が次第に変化していくとか、そういうのも描かれていないし。
昭和に入ると古賀は終盤まで登場せず、ずっと愛八は彼のことなんて全く考えない日々が続く。
ぶらぶら節に関しても、愛八の日々からは完全に忘れ去られている。

手切れ金の一件で急に与三治が登場するが、そのシーンだけで出番は終わる。それまで弟の存在を示す作業が皆無に等しかったので、愛八が訪問するまでは「弟だと嘘をついて手切れ金を貰った奴がいる」という設定なのかと思ったぐらいだ。
そんな感じなので、与三治が自分は捨て子だと言い出しても、そこに悲劇性は微塵も見えない。
そもそも、こいつは本当に必要なのかと言いたくなる。愛八が手切れ金を貰えない一件は、与三治を使わずに処理すればいいんじゃないかと。
どうせ身勝手な理由で別れを告げられた幸兵衛が優しくて甘いキャラなのも全く意味は無いんだから、愛八の頼みに怒って支払いを拒否する形でもいいんじゃないかと。

お雪の見舞いに訪れた愛八が、またお喜美の父が借金を作ったこと、お喜美が佐世保の遊郭へ鞍替えになったことを知らされるシーンがある。
お喜美が父親の借金のせいで遊郭に売られていたなんて、それまで全く触れていなかったじゃねえか。
同じ境遇に追い込まれたお雪は自分が手元に置いて助けたのに、お喜美の時は助けなかったのかよ。
そこの経緯を描かないまま急に「佐世保へ鞍替え」と言い出すのは、明らかに幾つもの手順を飛ばしているよね。

愛八が西條八十の座敷で歌うシーンでは、古賀と歌を集めた日々の回想が挿入される。そこから愛八が歌を録音している様子を挟み、彼女のレコードが発売されてヒットしている様子が描かれる。
そこの経緯も、丸ごとカットなのね。
愛八の性格を考えると、レコードを出すようなことは断りそうに思えるんだけど。「お雪の入院費のためにレコード発売を承諾した」と解釈すれば、納得は出来る。
ただ、そうであったとしても、そういう事情の説明は入れておくべきだろう。

三発山は終盤になって再登場するが、その展開も含めて丸ごとカットでもいいよ。
そうなると「上海へ売られたお喜美を三発山が連れ戻し、花月へ連れて来る」という展開も描けなくなるけど、そこもカットでいいし。どうせ愛八とお喜美の疑似母子関係なんて、まるで扱い切れていないんだから。
何しろ、三発山はお喜美を愛八と会わせるために花月へ連れて来たのに、再会できないままで終わっているからね。
なので、何のためにお喜美を終盤になって再登場させたのか、その意味がサッパリ分からんのよ。

っていうか、扱い切れていないのは、愛八とお喜美の関係だけに留まらない。
愛八と古賀のプラトニックな関係も、前述した愛八と米吉のライバル関係も、愛八とお雪の疑似姉妹関係も、何もかもが充分に膨らまないままで終わっている。
多くの要素を持ち込んで手に負えなくなってしまうという、良くある失敗のケースになっている。
最終的に愛八と古賀の関係で物語を締め括ろうとしているのだから、もっとそこに集中すれば良かったんじゃないかと。

(観賞日:2023年1月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会