『20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗』:2009、日本

ともだち暦3年(西暦2017年)、オッチョは漫画家の角田と共に高い壁を越え、東京へ侵入した。オッチョが2年ぶりに見た東京は、自分 が子供の頃のような風景になっていた。地球防衛軍が夜間外出禁止令を出す中、姉サナエと弟カツオは追われていたオッチョを匿った。 オッチョは殺人ウイルスが蔓延した直後に東京から締め出され、外界を放浪していたのだった。
オッチョはサナエとカツオから、政治犯を救う秘密結社“ゲンジ一派”が存在すること、“ともだち”が「8月20日の正午、宇宙人の襲来 と未知のウイルスによって人類は滅亡する」と言っていること、ゲンジ一派よりも過激な“氷の女王一派”が夜中にテレビを電波ジャック して武装蜂起を呼び掛けていることを知らされた。さらにカツオは「放送していないはずのラジオから時々、歌が聞こえてくる」と言い、 それを録音したテープを聞かせた。それはギターを弾きながら歌うケンヂの声だった。
オッチョは潰れたボウリング場へ行き、神様、小泉響子、仁谷神父と会った。オッチョが確信した通り、ゲンジ一派のリーダーはヨシツネ 、氷の女王一派を率いるのはカンナだった。カンナはヨシツネのやり方に納得できず、彼と袂を分かって過激化した組織を作ったのだ。 オッチョは神様たちに、「カンナとヨシツネを会わせてはいけない。ヨシツネは“ともだち”かもしれない」と口にした。
国民的な歌謡曲歌手・春波夫とマネージャーのマルオは、弁護士・市原節子の協力を得て、キリコが東村山のコミュニティーにいることを 突き止めた。かつて波夫は、焼き鳥屋「兵須(ベース)」の店長ビリーとケンヂの3人でバンドを組んでいたことがあった。マルオが 東村山のコミュニティーへ行くと、そこにはケロヨンがいた。彼がキリコを助け、匿っていたのだ。
キリコは「“ともだち”は池上正人と名乗ったが、本名かどうかは分からない」と告げた。池上は、同窓会で司会を務めた男だ。彼女は 新型ワクチンを作り、自分の体を使って人体実験を行った。オッチョは氷の女王一派のアジトを訪れ、カンナに「ケンヂは生きているかも しれない」と告げて、ラジオから聞こえてくるる彼の歌を聞かせた。その歌を流し続けているのは、北海道でDJをしているケンヂの 小学校時代の同級生、コンチだった。
関東の関所の近くにある村に、バイクに乗ったケンヂが現れた。刑事だった蝶野は、彼に「通行手形の無い人間は通してもらえませんよ。 2年間で1人だけ通れた人間がいましたが、他は殺されましたた」と告げた。ケンヂは漫画家の金子と氏木に偽造手形を作らせ、矢吹丈と 名乗って検問を通過した。関所を管理する役所の建物に行くと、“ともだち”に疎んじられて落ちぶれた万丈目胤舟がいた。ケンヂは彼に 、「俺のやることは復讐じゃない。人類を守ることだ」と告げた。
氷の女王一派のアジトに地球防衛軍が襲来すると、カンナは仲間たちを逃がし、オッチョと共に投降した。ともだちタワーに連行されると 、本部長の高須はカンナのポケットに拳銃を忍ばせた。カンナは“ともだち”の元へ連行され、オッチョは科学技術庁長官となったヤン坊 ・マー坊が身柄を預かった。オッチョの前にユキジが現れ、「今は双子を信用するしかないわよ」と告げた。
ヤン坊・マー坊は、オッチョとユキジを二足歩行ロボットと円盤の置いてある場所へ案内した。それを開発しなければ殺されていたのだと 、双子は釈明した。一方、カンナは拳銃を“ともだち”に突き付けるが、それは全て計画されていたことであり、彼女は高須と地球防衛軍 に包囲された。拳銃には弾が入っておらす、カンナの行動を見ることが“ともだち”の目的だった。
“ともだち”は、カンナを人類を滅亡させたテロリストにする狙いを語った後、彼女を解放した。オッチョはロボットを開発した敷島教授 と会い、話を聞いた。ウイルスを撒くのは円盤の仕事であり、ロボットの胴体には中性子爆弾が搭載されていて、“ともだち”のリモコン によって作動するという。敷島とヤン坊・マー坊は密かに高性能ランチャーを開発しており、それを使って円盤を撃ち落とそうと考えて いた。ヤン坊・マー坊はオッチョに、高性能ランチャーを撃つ役目を担当するよう持ち掛けた。
“ともだち”は突然、全ての国民に向かって「予言なんて全て嘘だ、みんな僕がやったことだ」と明かし、1週間で、この世界を終わりに します。殺人ウイルスを世界中に撒きます」と宣言した。カンナはウイルスにワクチンが用意されていないことから、万博会場には散布 しないと確信した。そこが彼女は8月20日までに、出来るだけ多くの都民を万博会場に集めて命を救おうと考えた。そのためにカンナは 音楽フェスティバルの開催を決定し、そこに多くの都民、さらにはケンヂが来ることを願った…。

監督は堤幸彦、原作は浦沢直樹、脚本は長崎尚志&浦沢直樹、脚本協力は渡辺雄介、製作は堀越徹&亀井修&島谷能成&平井文宏& 西垣慎一郎&島本雄二&大月昇&和田倉和利&長坂信人&板橋徹、プロデューサーは飯沼伸之&甘木モリオ&市山竜次、Coプロデューサー は大村信、エグゼクティブプロデューサーは奥田誠治、製作指揮は宮崎洋、企画は長崎尚志、セカンドユニット監督は木村ひさし、撮影は 唐沢悟、編集は伊藤伸行、録音は鴇田満男、照明は木村明生、美術は相馬直樹、VFXスーパーバイザーは野崎宏二、音楽は白井良明& 長谷部徹&Audio Highs&浦沢直樹、音楽監督は白井良明、主題歌はT.REX『20th Century Boy』。
出演は唐沢寿明、豊川悦司、常盤貴子、香川照之、平愛梨、藤木直人、石塚英彦、宮迫博之、佐々木蔵之介、山寺宏一、古田新太、 高橋幸宏、佐野史郎、黒木瞳、石橋蓮司、中村嘉葎雄、高嶋政伸、田村淳(ロンドンブーツ1号2号)、神木隆之介、遠藤賢司、 研ナオコ、北村総一朗、森山未來、小池栄子、木南晴夏、ARATA(現・井浦新)、六平直政、福田麻由子、竹内都子、竹中直人、石橋保、 光石研、片瀬那奈、津田寛治、手塚とおる、田鍋謙一郎、陳昭榮、サーマート・セーンサンギアム、田中健(写真)ら。


浦沢直樹(&長崎尚志)の漫画『20世紀少年』を基にした3部作の最終作。
ケンヂ役の唐沢寿明、オッチョ役の豊川悦司、ユキジ役の 常盤貴子、ヨシツネ役の香川照之、カンナ役の平愛梨、マルオ役の石塚英彦、フクベエ役の佐々木蔵之介、キリコ役の黒木瞳、万丈目役の 石橋蓮司、神様役の中村嘉葎雄、角田役の森山未來、田村マサオ(13番)役のARATA、ヤマさん役の光石研、敷島ミカ役の片瀬那奈、 ババ役の研ナオコは、3作連続での出演。
蝶野役の藤木直人、コンチ役の山寺宏一、春波夫役の古田新太、高須役の小池栄子、小泉響子役の木南晴夏、仁谷神父役の六平直政、 漫画家・金子&氏木役の手塚とおる&田鍋謙一郎は、前作に引き続いての出演。ケロヨン役の宮迫博之、ヤン坊・マー坊役の佐野史郎、 節子役の竹内都子、諸星役の津田寛治は、1作目からの復帰。ビリー役の高橋幸宏、サナエ役の福田麻由子、敷島役の北村総一朗、猟師役 の遠藤賢司、カツマタ役の神木隆之介は、今回のみの登場。

最初の「ともだち暦3年(西暦2017年)」というテロップからして、バカバカしさに満ちている。
東京が高い壁で外界と分断されているとか、東京がすっかりレトロな風景になっているとか、地球防衛軍が存在しているとか、それらの 荒唐無稽な設定も、そこに繋がる行程を丁寧に描写しておいて初めて受け入れられるものなのよね。
なのに、そこを端折って、いきなり「こういう世界になりました」というのを見せられても、そりゃマジに受け入れるのは無理だわさ。

幾ら“ともだち”が強権を用いたとしても、サナエの家の家族や電化製品が全てレトロになっているというのは無理があるし(今さら ブラウン管の白黒テレビとか、有り得ないっての)、カツオがクラシックなプロレスに熱狂しているのも不自然だ。
文明の急激な先祖帰りには相当に無理がある。
それは原作でも感じたことだったが、原作者2名は、そのように感じていなかったからこそ、そこを改変せず、そのまんま使ったん だろうなあ。

オッチョが「カンナとヨシツネを会わせてはいけない」と言うところで、「“ともだち”の正体はヨシツネかも」というミスリードを 狙っている。
しかし、これまでの2作では、そのミスリードに向けた伏線を全く張っていなかったので、「急に誘ってきたなあ」という 印象を受ける。しかも、どんな根拠があるのかというと、「オッチョがそう思ったから」というだけだ。
それに、ヨシツネが“ともだち”だと仮定すると、前2作における彼の行動に、幾つもの矛盾が生じてくる。
その矛盾を取り除くための作業をやっておらず、最終作に来て急にヨシツネ犯人説のミスリードを狙っても、そりゃあ無理だわ。
しかも、序盤でオッチョがそんなことを言った後、もうヨシツネが犯人だと思わせるようなネタ振りは全く無いという、すげえ淡白な処理 なのだ。

ケンヂは万丈目に「俺のやることは人類を守ることだ」と言っているが、一方で作品としては「“ともだち”の正体は誰なのか」という 部分で話を引っ張っている。
「人類滅亡計画を阻止する」という目的と、「“ともだち”の正体を突き止める」という目的が存在しており、そのことが物語の焦点を ボヤけたものにしている。
実のところ、“ともだち”の正体って、どうでも良くないか?
そこに強い関心を持っているのって、ケンヂと同級生の面々だけで、観客はそんなに興味が無いんじゃないかなあ。

“ともだち”の正体に関しては原作と少し設定を変更してあるのだが、基本的には一緒。
ここからは完全ネタバレだが、原作では正体がカツマタだと分かった時に、「カツマタって誰だよ?」という感じだった。そこまでに全く と言っていいほど出てこなかったキャラクターが“ともだち”の正体(厳密には二代目の“ともだち”)だという、唖然とさせられる 展開だった。
で、そのオチはさすがに失敗だったと浦沢直樹&長崎尚志も思っていたのか、この映画では正体がカツマタだという部分は変更していない が、「フクベエのフリをして、同窓会でケンヂたちの前に現れていた」という設定にしてある。
っていうか、原作でもフクベエが初代の“ともだち”なので、途中で殺害される展開をカットして、二代目の設定とくっ付けたという 感じかな。

ただ、フクベエであろうがカツマタであろうが、演じる俳優が佐々木蔵之介であることに違いは無いわけで、それは1作目を見た時に 思った通りの展開であり、何の捻りも無い。
あと、「実はフクベエが本物ではなく別人が成り済ましていた」と明かされても、何の衝撃も感じないよ。
っていうか、原作を読んでいない観客からしてみれば、“ともだち”の正体がフクベエであろうがカツマタであろうが、全く 別の人物であろうが、どうでもいいんじゃないか。
そこに驚きは無いでしょ。
これがオッチョやユキジのように、前作までにそれなりにキャラが立っていた人物なら衝撃はあるかもしれんけど(ただし、その場合は話 に思い切り矛盾が出てくるが)、それ以外の面々に関しては、誰が犯人であろうと一緒でしょ。
あと、そこの設定をいじった関係で、ものすごく不自然な点が生じている。
「フクベエは小学校5年生の時に亡くなった」ということになっているが、それを同級生が誰も覚えていないのは無理がありすぎるでしょ 。ケンヂだけならともかく、他の連中も覚えてないんだよな。

ケンヂの歌に関する描写は、原作でも陳腐だったものが、さらに増長している。
「グータラ、スーダララ〜」というラジオから聞こえる歌声を耳にしたカンナが「こんなフレーズ、聞いたことない」と真剣な顔で 言ったり、関所近くの村にいる人々がケンヂの弾き語りに感動して盛り上がったりする描写は、「ギャ、ギャグだよな。頼むからギャグ だと言ってくれ」という感じだ。
ところが残念ながら、それはマジなのである。
フェスティバルの会場に大勢の都民が「グータラ、スーダララ〜」と歌いながら集まってくるのである。
だけど、そんなの全く説得力が無いし、感動もしない。
ただ気持ち悪いだけだ。
最期はケンヂがフェスティバルの会場に現れ、みんなが熱狂しているところで歌い始めてエンドロールなんだけど、まあ恥ずかしいったら ありゃしないよ。

(観賞日:2010年9月1日)

 

*ポンコツ映画愛護協会