『トワイライト ささらさや』:2014、日本

「寂々亭遊人」という高座名を持つユウタロウは、師匠から「才能が無い」と断言されるような男だった。まるで人気の無いユウタロウだったが、それでも1人だけ観客席で笑ってくれる女性客がいた。出番を終えたユウタロウは、そのサヤという女性に笑ってくれた理由を尋ねた。すると彼女は、「一生懸命だったから」と答えた。サヤは幼くして両親を亡くし、育ててくれた祖母も5年前に死去した。唯一の肉親である伯母も他界したばかりという境遇を聞いたユウタロウは、彼女に恋をした。
ユウタロウはサヤに「俺の親も、もういねえんだ」と告げ、付き合うようになった。やがて2人は結婚し、ユウスケという男児に恵まれた。その矢先、ユウタロウはトラックにひかれて死亡した。サヤのことが気になって仕方が無かったユウタロウは成仏できず、自身の葬儀に幽霊となって現れた。もちろん参列者には、彼の姿など見えていない。そこへ大会社を営むユウタロウの父が現れ、サヤに「ユウスケを引き取りたい。跡継ぎにしたい」と告げた。
サヤはユウタロウの父が存命だったことを知って驚き、ユウスケを跡継ぎとして引き取ろうとする彼の言葉に当惑した。ユウタロウは自分 と母を捨てた彼を、父として認めていなかった。ユウタロウは師匠の体に乗り移り、サヤに話し掛けた。最初は師匠の笑えない冗談だと思ったサヤだが、ユウスケを抱き上げると泣き止んだのでユウタロウだと信じた。ユウタロウは父がユウスケを連れ去るつもりだと話し、誰も知らない場所へ逃げるようサヤに告げた。
サヤを車で逃亡させた後、ユウタロウは体が痒くなって師匠から抜け出した。その後、彼は誰にも乗り移ることが出来なかった。サヤはユウスケを連れて電車に乗り、伯母の家がある田舎町「ささら」の駅に降り立った。ベビーカーが引っ掛かって立ち往生している様子を目にした駅員の佐野は、サヤを手伝ってやった。サヤは不動産屋の案内で、叔母の家へ赴いた。家の前を通り掛かった久代という女性はサヤが授乳したがっていることに気付き、不遜な態度の不動産屋を追い払った。
サヤが引っ越しの荷物を業者に運んでもらっていると、家の前を通り掛かった珠子という女性が声を掛けて来た。「貴重品」と書かれた箱を目にした業者の若い男は、それを密かに盗んだ。旅館「笹乃屋」の女将であるお夏は、若女将である娘の前では痴呆のフリをしていた。娘から話し掛けられても、お夏は聞こえないフリをした。仏壇に見慣れない位牌が置いてあるのに気付き、彼女は首をかしげた。それは孫が持ち帰った貴重品の中にあった物だった。孫の窃盗を知った彼女は、厳しく叱責した。
お夏はサヤに謝罪するため、貴重品の箱を彼女の元へ運んだ。おっかなびっくりでユウスケを風呂に浸からせている様子を見た彼女は、「貸してみて」と交代した。人の気配に気付いたお夏が呼び掛けると、ユウタロウが乗り移った。ユウタロウはサヤに、自分が見える人間にだけ乗り移れること、二度は同じ人間に乗り移れないことを説明した。父について内緒にしていたことで、サヤはユウタロウを責めた。するとユウタロウもサヤが大切なことを言わなかった過去を蒸し返し、2人は言い争いになった。
サヤが「まだホントの夫婦を知らなかったんだよ。お父さんがいることさえ知らなかったんだよ」と漏らすと、ユウタロウは「夫婦だって秘密の一つや二つ、あるもんだよ」と言う。しかしサヤは、「家族を知らないのに、ユウスケの母親になれるのかな」と弱気なことを口にした。なぜ父のことを隠していたのかと質問されたユウタロウは、「おふくろが病気で倒れた時、見舞いにも来なかった。あんな奴、親父でも何でもねえ」と吐き捨てた。また体が痒くなったため、ユウタロウはお夏の体で家から飛び出した。
翌朝、旅館に戻ったお夏は何があったか記憶が無く、娘は「とうとう徘徊が始まった」と嘆く。お夏は改めてサヤの元を訪れ、貴重品のことで謝罪する。昨晩も来ていたことをサヤから告げられた彼女は、「ホントにボケたんだろうか」と呟いた。そこへ女学生時代からの腐れ縁である久子が現れ、3人前まで家を借りていたこと、不動産屋が教え子であることをサヤに話した。そこへお夏と久子の腐れ縁である珠子が現れ、久子が中学教師だったこと、不動産屋が内緒で又貸ししていたことをサヤに教えた。
列車に乗っていたサヤは、ユウスケの泣き声を疎ましく思った男性客に怒鳴られる。サヤが謝罪して車両を移ろうとすると、男児のダイヤを連れたエリカという女性が「いちいち逃げんな」と彼女に言ってから男性客を批判した。エリカは病院を訪れ、失語症であるダイヤの診察を受ける。彼女は医者から、「知らず知らずの内に、息子にストレスを与えて追い込んでいるのではないか」と告げられる。エリカが営むスナックには常連客の佐野が訪れ、「都会の駅で働きたい。出会いが無い」と酔っ払って愚痴をこぼした。
ユウスケの検診で役所を訪れたサヤは、職員の質問を受けたエリカが「ネグレストを疑っているのではないか」と反発して立ち去る様子を目撃した。サヤはエリカに声を掛け、近所に小さな子供がいないので友達になってほしいと持ち掛けた。エリカはサヤが幸せな家庭だと思い込み、「可哀想と思って見下してんじゃねえよ」と声を荒らげた。しかしサヤが「夫は2ヶ月前、交通事故で死にました。でも大丈夫。今でも近くにいるんです。時々、人に乗り移って出て来てくれるんです」と話すので、彼女はスナックのライターを渡して「友達、紹介するから」と告げた。
サヤがスナックへ行くと、エリカは佐野を紹介した。エリカが「最初は友達として付き合ってみない?」と言うので、サヤは店を出て行く。エリカが追い掛けて「ずっと引きずって行きてくつもり?死んだ人が傍で見てくれてるなんて、いつまで馬鹿言ってんの?」と責めるように告げると、サヤは「エリカさんは愛した人を簡単に捨てられるの?私には出来ない、エリカさんみたいに強くないから」と口にする。彼女が立ち去ろうとすると、ユウタロウはダイヤに乗り移って話し掛けた。
ユウタロウが「エリカさんは強くなんかねえ。たった一人で、この子を抱えて生きてんだ。親にも頼ることも出来ねえで、もう何年も気持ちが晴れたことなんかねえんだ」と語ると、エリカは気絶してしまった。サヤとユウタロウはスナックに場所を移動し、エリカは意識を取り戻す。サヤが「お父さんの話も聞いてみたい」と言うので、「血が繋がってても分かり合えないことは、たくさんあるんだ」とユウタロウは告げた。
エリカが「私もそう思う。この子のこと愛してるけど、この子の考えてることは分からない」と話すと、ユウタロウは「この子は素直な子だよ。お母さんのことも分かってる」と口にする。彼はエリカが夫から受けたDVを見ていたこと、別れた後も苦しそうだと感じていたことを語り、「どうしていいか分からず、言葉が無くなったんだ。いずれ思いを口にするはずだよ。だから、それまで笑って待ってな」と告げた。体が痒くなったため、ユウタロウはスナックを後にした。
ユウタロウの父はサヤの居場所を突き止めて電話を掛け、「いつまで逃げ回ってる?私には、もうその子しか無いんだよ」と告げた。サヤがスナックでお夏たちに相談していると、エリカは年寄りを扱き下ろす言葉を口にした。久代が憤慨して反論すると、エリカは「だから嫌われるんだっつーの。生徒に嫌われてたくせに。息子の嫁にも嫌われて。実の息子に捨てられたって」と攻撃した。久代は苛立ちの矛先を失い、サヤに「アンタの旦那に呆れてる。亭主が父親と合わないからアンタが逃げて来たんでしょ。親の気持ちも知らないで生きて来た罰よ。死んだ後でも女房を苦しめてるんだ」と述べた。
佐野は休憩中にサヤを見掛け、「付き合いたい」と漏らす。近くにいたユウタロウが呆れて「考えてることが口から出てるよ」と言うと、彼は「やっべえ」と能天気に笑った。サヤが帰宅すると、義男という男が上がり込んでいた。サヤが警戒していると、ユウタロウが佐野に乗り移って飛び込んで来た。すると義男は、久代の息子であることを話す。息子が産まれたことを伝えるため、10年ぶりに帰郷したのだと彼は説明した。サヤは久代に連絡を入れ、義男を向かわせた。
その夜、サヤは「家族が時間を掛けて分かり合うこともあるのね」と呟き、「お父さんに会います。ユウスケの母親だって認めてもらう」ユウタロウに告げる。ユウタロウは反対するが、彼女は「まだ間に合うよ。きっと仲直りできる」と説得する。するとユウタロウは「強くなったなあ。俺の心残りは、おめえが頼りないことだった。心配事も無くなったし、そろそろ成仏するか」と告げ、立ち去ろうとする。しかしサヤが「貴方の落語が面白くない理由が分かった」と言うので、ユウタロウは踵を返した。
サヤが「自分勝手なのよ、貴方は。自分が喋りたいことを喋ってるだけ。2人で喋ってても、こっちを汲み取ってくれない」と話すので、ユウタロウは「この状況分かってんのかよ。今生の別れだぞ」と言い返す。しかしサヤが「残された私の気持ちになってよ」と言い、「私にはちゃんとユウちゃんが見える」と泣き出したので、ユウタロウは「ごめん」と告げて抱き締めた。彼は「俺が乗り移ることの出来る人間が、もういねえんだ。だから、これで最後だ」と、事情を説明した…。

監督は深川栄洋、原作は加納朋子「ささらさや」(幻冬舎文庫)、脚本は山室有紀子&深川栄洋、製作は中山良夫&由里敬三&本間憲&福田太一&藪下維也&柏木登&小玉圭太&松田陽三&宇田川寧&宮本直人、ゼネラル・プロデューサーは奥田誠治、エグゼクティブ・プロデューサーは門屋大輔、企画・プロデュースは石田雄治&藤村直人、プロデューサーは有重陽一&柴原祐一&星野惠、撮影は安田光、照明は長田達也、録音は林大輔、美術は黒瀧きみえ、編集は阿部亙英、衣裳は浜井貴子、落語監修・指導は古今亭菊志ん、音楽は平井真美子。
主題歌「Twilight」コブクロ 作詞:小渕健太郎、作曲:小渕健太郎、編曲:コブクロ。
出演は新垣結衣、大泉洋、富司純子、石橋凌、藤田弓子、波乃久里子、小松政夫、中村蒼、福島リラ、つるの剛士、粟田麗、寺田心、山下容莉枝、神戸浩、水澤紳吾、矢本悠馬、浜近高徳、井上肇、鳥居峰明、津村知与支森蓮太郎、加藤楷、翔、武田幸三、松熊つる松、太田美恵、内田量子、鈴木アキノフ、小出翔太、渡辺志保、こしげなみへい、青空うれし、古今亭菊志ん、新貝文規、植木紀世彦、ふたむら幸則、松原啓介、川口浩、刈谷育子、クラ、酒井勇樹、吉田晴登、須田琉雅、久木ココロ、インジ隼、中川慶飛、林凛果ら。


加納朋子の連作短編小説『ささらさや』を基にした作品。
監督は『神様のカルテ』『ガール』の深川栄洋、脚本は『眉山 -びざん-』『武士の献立』の山室有紀子と深川栄洋の共同。
サヤを新垣結衣、ユウタロウを大泉洋、お夏を富司純子、ユウタロウの父を石橋凌、珠子を藤田弓子、久代を波乃久里子、師匠を小松政夫、佐野を中村蒼、エリカを福島リラ、義男をつるの剛士、ユウタロウの母を粟田麗、ダイヤを寺田心、若女将を山下容莉枝、駅長を神戸浩、列車の乗客を水澤紳吾が演じている。

映画はユウタロウのナレーションでスタートするのだが、その進行方法が効果的とは言えない。
サヤとの出会いや彼が死ぬまでの経緯を詳細に描写している時間なんて無いし、そこはザックリと省略すべき箇所だから、それをナレーションで処理しようってのは悪くない。
ただ、「いかにも落語家でござい」という口調で説明されると、どうにも入り込めないし、違和感が強い。
そもそも、ユウタロウを落語家という設定していることが、ちっとも上手く機能していないし。

とは言え、落語家に設定した理由は、何となく分からないでもない。
ユウタロウが様々な人に乗り移ると、その憑依された人を演じる役者は「ユウタロウの物真似」をしなくちゃいけなくなる。大泉洋が物真似しやすい役者なら大きな問題は無いが、それは難しい仕事だろう。
だから「落語家の口調」という特徴を用意することで物真似を容易にして、「今はユウタロウに乗り移られた状態です」ってことを観客に伝えやすくしているんじゃないかと思われる。
しかし、そういう事情があるんだろうってことを考慮した上で、それでも落語家という設定を全面的に受け入れることは難しい。

そもそも、それ以外の部分で、「今はユウタロウが乗り移っている」ってことを示すための表現に失敗していると感じるし。
と言うのも、最初に憑依する相手は師匠なのだが、それまで幽霊として姿を見せていたユウタロウは、父が葬儀場に着るのを見た後、画面に写らなくなる。そして師匠が休憩していると、「背後から何かが急に飛び込んだ」という映像によって、「憑依」を表現するのだ。
しかし考えてほしいんだけど、例えば「幽霊のユウタロウと師匠の視線が合う」→「葬儀場を出た師匠がユウタロウに話し掛ける」→「ユウタロウが師匠の体に乗り移れたらなあと思っていると、師匠の肉体に彼の魂がスウッと入り込む」という表現にでもしておけば、そっちの方がいいんじゃないかと。
ユウタロウの幽霊を見せず、乗り移られた奴が彼の口調で喋る様子だけを描くと、「役者が頑張って芝居をしています」という感じが強くなってしまう。「憑依したユウタロウが喋っている」という印象が弱くなってしまう。

そこは「ユウタロウの幽霊が他人の肉体に入り込む」という映像を入れるだけで、随分と印象が変わるはずなのよ。
っていうか、何をどう考えても、ユウタロウの幽霊を序盤だけで退場させてしまうことのメリットが見えない。
そうすることによって、最初は「ユウタロウの物語」としてスタートしたはずなのに、すぐに「サヤの物語」へと主人公の移動が起きてしまうし。
それと、ユウタロウが誰かに乗り移る時、必ず悪天候になるという表現は邪魔なだけだわ。お夏に憑依する時なんて、雷鳴が轟いて電気が点滅するけど、なんでオカルトのテイストが必要なのかと。

ユウタロウは師匠の体に乗り移ってサヤに話し掛けた時、「俺だよ。分かんねえかなあ、鈍いねえ」と呆れるが、そんなに簡単な言葉だけで「死んだ夫が師匠に乗り移った」ってことを理解できる人がいたら、それは敏感じゃなくてヤバい奴だ。
ただしサヤも超敏感な女で、「師匠が抱き上げると赤ん坊が泣き止む」という様子を見ただけで、ユウタロウが憑依したことを受け入れている。
そこをクリアしないと話を先に進められないから、簡単に済まそうってのは分からんでもないが、あまりにも淡白で雑に感じるわ。

「ファンタジーの味付けが足りない」ってのは、この映画にとって大きなマイナスだ。
ティルトシフトレンズで撮影したミニチュア風の景色を何度か挿入しているけど、そんなモノだけじゃ全く足りていない。
ささら町ってのは、「その町だからこそ不思議なことが起きた。その町だからこそ奇跡が起きた」と感じさせる場所じゃなきゃ困るのだ。つまり観客にとって、ささら町は「ファンタジーの世界」として伝わる必要がある。
そういう意識が、この映画には決定的に足りていない。

それと、「ささら町は不思議な町」「サヤとユウタロウにとって特別な町」ってことをアピールするためには、実は冒頭の「師匠の体にユウタロウが乗り移る」というシーンも邪魔なのよね。
理由は簡単で、その時点で「ユウタロウが他人に乗り移ってサヤの前に現れる」という現象が発生すると、ささら町の特殊性が失われるからだ。
前述したように、どうせユウタロウの落語家設定なんて全く有効に機能していないんだから、葬儀場で師匠に乗り移るシーンなんてバッサリでいいわ。
で、サヤがささらに移動した後、初めてユウタロウが誰かに憑依して彼女に話し掛ける形でも充分だわ。

ユウタロウがお夏に乗り移った後、サヤとの口喧嘩が始まる。
サヤが父のことを言わなかったユウタロウに「ずっと喋ってるくせに、肝心なことはいつも後回し」と言うと、ユウタロウは「それはおめえだろ」と反発し、旅行に出掛ける計画を話している最中にサヤが妊娠を明かした時の回想シーンが入る。すると今度はサヤが「大切なことを言わないのはユウちゃんだよ」と反撃し、旅行先を話し合っている最中にユウタロウが真打ち昇進を明かした時の回想シーンが入る。
このシーン、要るかね?
そんなトコで尺を取るぐらいなら、もっと充実させるべきことが他に幾らでもあるんじゃないかと。

お夏、珠子、久代という「三婆」は重要なキャラクターなのだが、その出し方が上手くない。
最初に久子、次に珠子が登場してサヤと軽く絡んだ後、お夏は「娘は彼女がボケたと思っている」というシーンで登場する。
つまり、サヤの全く知らない所で登場するわけだが、これが上手くない。
また、三婆が初めて勢揃いしても、「だから何なのか」という状態でシーンが終わってしまう。
どうやら3人がユウスケを可愛がっているらしき様子は描かれるが、ボンヤリした印象のままで次のシーンへ移る。

三婆が勢揃いするシーンを淡白に終わらせた後、エリカが登場するのだが、ここでも「医者を訪ねるエリカ」「店で働くエリカ」という、サヤの関与しない場所での彼女を描く。
でも、「エリカが医者から辛辣な言葉を浴びせられる」とか、「店で佐野が愚痴る」ってのは、サヤが見ている前で起きる形にしても描写できるわけで。
脇役キャラクターの見せ方が、どうにもフワフワしちゃってるんだよな。
もっと「サヤとの関係」ってのを意識して見せた方がいいはずなのに。

エリカが登場すると、彼女のエピソードだけを進行する。
しかし、それよりは何かのタイミングでサヤと少し絡ませた後、他の面々の様子も描きつつ、しばらくしてからエリカの苦悩にサヤが触れたり、ユウタロウがダイヤに乗り移ったりする展開を入れた方が良かったんじゃないかと。
全てが「スケッチを串刺し式に並べる」という構成なら、エリカの話だけに集中して片付けるのもいいと思うのよ。
でも、三婆や佐野は登場した後も「そいつだけのエピソード」で進行したわけじゃないので、エリカの話だけが浮いちゃうのよね。

サヤのエリカに対する「愛した人を簡単に捨てられるの?」という問い掛けは、それを受けたエリカが自分を重ね合わせて考える様子に繋がってこそ意味が生じる台詞だ。
だから本来ならば、エリカにもサヤと同様に「愛する男性」がいた方が分かりやすい。
たぶん、この話としては、エリカにとっての「愛する人」の対象をダイヤに設定しているんだろうと思う。
ただ、そこでエリカが「愛するダイヤを自分が捨てられるのか」と連想しているようには思えないんだよな。

あと、スナックでユウタロウの体が痒くなった時、そこでカットが切れるんだけど、そうなると「じやあダイヤはどうなったのか」ということが引っ掛かる。
お夏に乗り移った時は、ユウタロウが家から飛び出したことによって、お夏の体も飛び出していた。そして翌朝になると、まるで記憶の無いお夏が旅館の前に立っていた。
しかしダイヤの場合も同様の現象が起きるとすれば、「ダイヤが店を飛び出し、知らない場所で意識を取り戻す」ってことになる。
それは危ないでしょ。

ダイヤに乗り移ったユウタロウがスナックでサヤやエリカと話している時、当たり前のように佐野が同席している。
ってことは、いつの間にか佐野は「ダイヤに乗り移ったユウタロウが喋っている」ってのを理解したのか。だったら、その経緯を省いているのは手落ちでしょ。
っていうか、そうなると後で「佐野がユウタロウの幽霊と話している」というシーンが出て来るけど、これは「佐野がユウタロウを幽霊だと認識した上で喋っている」ってことになる。
でも、そこは相手が幽霊だと知らずに会話を交わす形の方が面白いでしょ。

前述した「ユウタロウからサヤへの主役の移動」は、ちっともプラスに作用していない。
ささら町に舞台が移動すると、基本的には「サヤが精神的に成長していく」というドラマになるわけだから、だったら最初から「サヤのドラマ」として始めた方がいいはずだ。
ただし、エリカが登場するエピソードだけは、「ユウタロウがダイヤの気持ちを伝えることでエリカの心が晴れる」という内容になっているため、サヤは完全なる傍観者になってしまうという問題がある。
それって、バランスが悪いと感じるんだよね。

そういうことを考えると、エリカのエピソードは外しても良かったんじゃないか。
その分、三婆の出番を増やせばいい。で、久代と珠子も憑依の対象に入れちゃえばいいんじゃないかと。
お夏も含めて、この3人の老女たちって、もっと有効活用できるはずのキャラなのよね。
でも、お夏の「ボケたフリをしているから若女将は誤解している」とか「孫息子は愚か者」といった家族関係は放り出されてしまうし、珠子なんて「お夏たちと腐れ縁」という以上のモノが何も無い。

久代はエリカから「生徒からも息子の嫁からも嫌われて」と言われるが、それが事実だったのかどうかのフォローが無い。息子の義男が帰郷しても、久代と再会するシーンは描かれない。
そして「どうやらサヤの知らないトコで仲直りしたらしい」という薄い言及があるだけなのだ。
そこは「義男が久代と再会し、過去のわだかまりが解ける様子をサヤが目撃する」という描写を入れないと、義男が帰郷する展開を入れた意味が希薄になってしまうでしょうに。
台詞だけで軽く説明しても、ドラマを動かす力なんて全く無いよ。

ユウタロウの幽霊を見せないことによって、例えばサヤがエリカから「ずっと引きずって行きてくつもり?」と責められたり、久代から「親の気持ちも知らないで生きて来た罰よ。死んだ後でも女房を苦しめてるんだ」と言われたりした時、彼がどう思っているのかってのが全く分からない。
サヤが責められて辛い思いをしている時、それに対してユウタロウがどう思っているのかは、かなり重要な要素のはずなのだ。
それなのに、そういう部分は全く描かれず、「たまに乗り移ってサヤと喋る」というだけだと、もはやユウタロウの幽霊なんて要らなくねえかとさえ思ってしまう。
乗り移ってサヤと話すことで、彼女の気持ちが大きく変化しているわけでもないし。「サヤのピンチにユウタロウが駆け付ける」という形を取っているわけでもないし。

ずっとユウタロウの幽霊を見せないまま進めて来たのに、佐野がサヤを見掛けて「付き合いたい」と漏らした時、久々に出現する。
で、ここでは幽霊が佐野と普通に会話している。
それまでは、幽霊を見ることの出来る人物が現れても、「ユウタロウの幽霊が出現し、会話を交わす」といった描写は無かった。
それなのに、そこに来て急に「ユウタロウの幽霊が人間と会話する」というシーンを入れる統一感の無さは、どういうつもりなのかと。

サヤがユウタロウの父と会うことを宣言すると、ユウタロウは急に態度を変えて「強くなったなあ」と言い出し、「俺の心残りは、おめえが頼りないことだった」と口にする。
それも唐突だが、もっとドイヒーなのは「乗り移れる人間がいなくなった」と語ること。
そんなことを急に言い出しても、サプライズの効果は無いよ。むしろ、慌てて段取りを説明しているような唐突さだけが際立つ。
あらかじめ「憑依できる人間は佐野しか残っていない」ってのを示した上で、「義男を危険人物だと思い込んだユウタロウが最後の切り札を使ってしまう」という流れにした方が良かったんじゃないかと。

憑依できる人物がゼロになってしまった(実は1人だけ残っているんだけど)ユウタロウがサヤと別れるシーンは、この映画におけるクライマックスと言ってもいいだろう。
そこまでのドラマの作り方が上手くないから感動的な盛り上がりには欠けるが、少なくとも形としてはクライマックスだ。
しかし実際には、その後に「サヤがユウタロウの父と会って云々」という展開が残されている。
なので、それが蛇足のような状態と化している。

ユウタロウと父の親子関係とか、まるで要らんのよね。
どうせ「父が自分と母を捨てた」というユウタロウの主張が誤解なのも、父が本当はユウタロウと母を愛していたことも、最初からバレバレなんだし。
それに、「誤解が解けてユウタロウが父を許す」というドラマを描写すると、サヤは傍観者になっちゃうわけで。
このエピソードに入ると、すっかり消えていたユウタロウのナレーションが復活し、また彼が主役の座を奪い返すんだけど、そういうのもバランスを崩しているだけだし。

(観賞日:2016年5月3日)

 

*ポンコツ映画愛護協会