『劔岳 点の記』:2009、日本
明治39年秋、陸地測量部測量手の柴崎芳太郎は、陸軍参謀本部に呼び出された。陸軍の矢口誠一郎中佐や中井省吾少佐、測量部長の 大久保徳昭たちは、国防のため、来年の剣岳の測量を決定したと柴崎に告げた。日本山岳会の小鳥烏水たちが剣岳への初登頂を計画して おり、柴崎は本部で彼に遭遇していた。矢口たちは「先を越されては恥だ。失敗は決して許さん」と述べた。
柴崎は下見へ向かう前に、前任の測量手である古田盛作を訪ねた。今まで剣岳の測量に成功した者はおらず、古田も登り口さえ見つける ことが出来なかった。それほど険しい雪山なのだ。「案内人は慎重に選んだ方がいい」とアバドイスする古田に、柴崎は芦峅村の人を 選ぼうと思っている旨を告げた。すると古田は、芦峅村は立山信仰の厚い場所であり、人々は死の山である剣岳を登ってはならないと 考えていることを教えた。
古田は柴崎に、対岸の大山村に住む宇治長次郎という男に頼むことを勧め、「良ければ手紙を書こう」と申し出た。下見のために富山駅へ やって来た柴崎は、出迎えの長次郎と会った。柴崎は長次郎の家へ行き、彼の妻・佐和とも顔を合わせた。柴崎は長次郎に、来年の春から 空白部分に三角点を設けて測量する計画を説明した。すると長次郎は、自分が描いた剣岳のスケッチを差し出した。
柴崎は長次郎と共に芦峅村へ行き、寺の総代を務める佐伯永丸に面会した。柴崎が人足の手配を求めると、佐伯は断ったが、資材は用意 すると約束した。翌日、柴崎は長次郎の案内で近くの山に登り、剣岳を観察した。長次郎は、「剣岳への登り口は3つ考えられます」と 告げた。3つの道を下見した2人は、念仏を唱える行者に出会った。結局、いずれの道を登ることも困難に思われた。
下見を続けていた柴崎たちは、日本山岳会の小島と仲間の岡野金次郎に遭遇した。彼らは天幕を張り、ヨーロッパの最新機材を揃えて下見 に来ていた。小島は柴崎に、「私たちは、あなた方より先に剣岳に登りますよ」と告げた。予想より早く冬が来たため、柴崎たちは下山 することにした。長次郎が「行者様を連れて行かないと」と言い出し、2人は洞窟へ戻った。行者は柴崎に、「雪を背負って登り、雪を 背負って降りよ。それが古くから行者の間に言い伝えられている言葉だ」と教えた。
柴崎と長次郎は気絶した行者を助け、山を下りた。柴崎は東京に戻り、「登れるかどうかは見当も付かない」と記した報告書を提出した。 中井は激怒し、矢口は「気持ちが足りないのではないか」と冷徹に告げる。三角科班長の玉井要人が柴崎を擁護するが、矢口は「選択の 余地は無い。何としても初登頂しろ」と命じた。自宅に戻った柴崎は、佐和から貰った山の実を妻・葉津よに渡した。
明治40年春、柴崎は測量部で測夫の木山竹吉や生田信と会い、測量の準備を進めた。富山に着いた柴崎は営林署へ挨拶に行くが、署長は 登頂に反対しているため、快い顔をしなかった。富山日報の記者・牛山明が取材に来たが、柴崎は何もコメントしなかった。長次郎は人足 として宮本金作、岩本鶴次郎、山口久右衛門の3人を呼んでいたが、彼らは日当の低さに愚痴をこぼした。長次郎の前に息子の幸助が現れ 、剣岳に登る手伝いをすることに反対の姿勢を示した。長次郎は息子を叱責し、柴崎に詫びた。
4月24日、柴崎たちは古田が立てた二等三角点を確認し、鷲岳から測量の作業を開始した。生田は柴崎に「山岳会が来る前に、さっさと 剣岳へ行きませんか」と持ち掛けた。しかし柴崎は、「俺たちの仕事は剣岳へ登ることだけじゃないんだよ。まずは周囲の山々を登って、 地形偵察を済ませてからだ」と諭す。納得いかない様子を見せる生田に、柴崎はおとなしくするよう求めた。
一行は番場島平に天幕を移し、金作と久右衛門を残して作業に出発するが、雪崩に巻き込まれてしまった。生田は雪に埋もれるが、何とか 柴崎たちが救出した。柴崎は木山に、先に下山して道具の準備をするよう頼んだ。日本山岳会のメンバーは富山駅に到着し、剣岳登頂の 準備に取り掛かった。柴崎は人足たちにも下山してもらい、木山の手伝いをしてもらうことにした。
柴崎たちは吹雪に見舞われ、天幕に戻ろうとする。しかし登って来た足跡を見失ってしまい、生田は長次郎を非難した。長次郎は雷鳥の 鳴き声を頼りに、天幕への道を突き止めた。天幕に戻っ生田は、長次郎に謝罪した。大嵐が天幕を襲う中、木山たちが山へ戻って柴崎たち を救出した。柴崎たちは岡田佐吉が営む立山温泉の宿に運ばれ、しばらく体を休めた。
山岳会は山に入り、柴崎たちの焚き火の跡を発見した。登山の最中に岡野が滑落するが、何とか無事に済んだ。6月16日、柴崎たちが 最初の三角点を設置する中、山岳会は剣岳への登り口を探していた。測量部の姿に気付いた彼らは、手旗信号で「ここからは危険、本日は 下山する」と送った。翌日、柴崎は長次郎に、南壁へ向かうことを持ち掛けた。長次郎は難色を示すが、生田は柴崎に賛同した。生田は 柴崎の許可を得て、南壁を一人で登り始めた。しかし足を滑らせてザイルが切れ、斜面に転落してしまう…。監督は木村大作、原作は新田次郎、脚本は木村大作&菊池淳夫&宮村敏正、製作は坂上順&亀山千広、プロデューサーは菊池淳夫&長坂勉 &角田朝雄&松崎薫&稲葉直人、企画協力は藤原正広&藤原正彦、撮影は木村大作、編集は板垣恵一、録音は斉藤禎一&石寺健一、照明は 川辺隆之、美術は福澤勝広&若松孝市、衣装は宮本まさ江、音楽プロデューサーは津島玄一、音楽監督は池辺晋一郎。
出演は浅野忠信、香川照之、松田龍平、役所広司、夏八木勲、井川比佐志、國村隼、仲村トオル、宮崎あおい、小澤征悦、新井浩文、 鈴木砂羽、笹野高史、石橋蓮司、モロ師岡、螢雪次朗、仁科貴、蟹江一平、小市慢太郎、安藤彰則、橋本一郎、本田大輔、冨岡弘、 田中要次、谷口高史、藤原美子、タモト清嵐、藤原寛太郎、藤原彦次郎、藤原謙三郎、前田優次、市山貴章ら。
新田次郎の同名小説を映画化した作品。
これまで多くの映画でカメラマンを務めてきた木村大作が初めて監督を務め、脚本にも関わった。
柴崎を浅野忠信、長次郎を香川照之、生田を松田龍平、古田を役所広司、行者を夏八木勲、佐伯を井川比佐志、矢口を國村隼、小鳥を 仲村トオル、葉津よを宮崎あおい、木山をモロ師岡が演じている。
また、新田次郎の次男・藤原正彦の妻である藤原美子が古田の妻役で、藤原正彦の3人の息子たちが陸地測量部の若手部員役で出演して いる。BGMが、やたらと騒がしい。
例えば、下見の初日、長次郎が柴崎に「自分は山で生まれたから、山の案内しか出来ない。誰も行かないと道は出来ない」などと語る シーンがある。
そのシーンでは、ずっとBGMが流れているのだが、ものすごく邪魔だ。
そこはセリフだけにしておいた方が、長次郎の言葉に重みが生じるはずだ。
その後も、長次郎が息子からの手紙を読むシーンや、柴崎たちが剣岳山頂で行者の錫杖を発見するシーンなど、TPOを無視して、どこ でも構わずBGMが鳴り響いている。陸軍参謀本部の矢口たちが「剣岳への初登頂を絶対に成功させろ、日本山岳会に負けることは許されない」などと語っている間、ずっと 柴崎は無言のままで、表情も能面のようだ。
何を考えて話を聞いているのか、全く分からない。
その任務に対して積極的なのか。積極的だとしたら、なぜ意欲を態度で見せないのか。
消極的だとしたら、その理由は何なのか。
サッパリ分からない。その後も、柴崎の心の動きというのは、全く見えてこない。
それに引きずられるように、人間ドラマも見えてこない。
陸軍参謀本部との関係、山岳会との競争、柴崎たちと長次郎&人足たちの絆、夫婦愛など、そういった要素の描写は薄っぺらい。
それでも、柴崎たちが前人未到の雪山に挑む精神、その心理が充実して描かれていれば、他の部分の薄さは帳消しに出来るのだが、肝心の 「登山者たちと山」という関係における人間ドラマも薄い。
山登りの様子を、延々と、淡々と、見せられているだけだ。登場人物の感情を大切にするため、芝居部分は順撮りで撮影したらしいが、それなのに柴崎たちの感情が全く伝わってこないということは 、最初から感情の描き込みや指示が薄かったのだろう。
木村監督はモーションだけを切り取っており、エモーションを描いていない。
彼が撮ったのは映像であり、映画ではない。
木村監督が撮りたかったのは、山そのものであり、人間は風景の一部だったのかもしれない。剣岳への登頂が困難であることは、序盤から、さんざんセリフで説明されている。
だが、セリフだけでは、どれぐらい難しいことなのかが伝わってこない。
そこに説得力を持たせるようなシーンやドラマが見当たらないし、他の雪山と比較して、何がどのように難しいのか。
また、山の映像は美しいが、柴崎たちがどの辺りを移動しているのか、山岳会とはどのように装備が異なるのか、そういったことが全く 分からない。
柴崎たちが剣岳の登頂に成功しても、まるで達成感や高揚感は伝わってこない。撮影クルーは剣岳と立山連峰でロケを敢行し、当時の測量隊と同じ行程を歩いて撮影に挑んだ。
空撮による映像やCG処理は全く使用していない。厳しい自然環境の中で、雪山を登頂するという過酷なロケが行われている。
登山シーンに関しては、「これは撮影ではなく“行”である」「厳しい中にしか美しさは無い」「誰かが行かなければ道は出来ない」を 基本方針としていたそうだ。
その段階で、映画への取り組み方に、私は全く賛同できない。
「これは撮影ではなく“行”である」と言うが、いやいや、撮影だからね。“行”をやりたいなら、ロケじゃなくて“行”をやれば いい。
「厳しい中にしか美しさは無い」と言うが、そうとは限らない。身の回りにも、美しさは幾らでも転がっている。
「誰かが行かなければ道は出来ない」というのは当たり前だが、しかし剣岳には既に先人が作った道があるはずだ。
それに、撮影クルーが、そこに道を作る必要性は無い。キャストやスタッフが厳しい環境の中で苦労して撮影しようが、生温い環境の中で手抜きして撮影しようが、観客にとっては、どっちでも いいことなのよ。
大事なことは、出来上がった映画が面白いかどうかってことなのよ。
だから、極端なことを言ってしまえば、剣岳に登らなくても、映画として面白ければ何の問題も無いし、「剣岳に登っていない」と いうのは批判材料にならないのだ。「空撮に頼らない」とか「CGを使わない」とか、それが面白い映画を作るための手段として持ち込まれたのであれば、何の文句も 無い。
だけど木村監督は、それを目的にしているように思える。
「苦労して作ってこそ達成感が得られるから、そういうやり方にしよう」と考えていたのではないか。
これは映画であって、スタッフやキャストが目指すべきは「面白い映画を作る」ということのはずだ。
苦労することや登山することが目的ではないのだ。(観賞日:2010年8月14日)