『釣りキチ三平』:2009、日本

三平平(みひら・たいら)は幼い息子の三平と彼の姉・愛子に、怪物のように大きな魚について語った。三平と愛子が「自分が釣る」と 言い合うので、平は「2人で釣ればええ。秘策がある」と告げた。時が過ぎ、現在。三平が暮らしている田舎の村では、役瀬川鮎釣り大会 が開催されていた。仲間と共に参加した釣り師の松山は、優勝を確信していた。大会には、三平と祖父の一平も参加していた。
同じ頃、アメリカでバス・フィッシングのプロとして活動する鮎川魚紳が村に来ていた。彼はツアーの最終戦をキャンセルし、勝手に帰国 したのだ。電話で話したエージェントが契約違反だと言うので、彼は「だったら訴えてくれ」と声を荒げて通話を終わらせた。彼は川を 通り掛かり、大会の様子を見物した。規定時間が終了し、表彰式の時間となった。松山は3位で、2位は一平、1位は三平だった。表彰 されて嬉しそうにしている三平の様子を、魚紳は橋の上から眺めていた。
三平が一平や幼馴染の高山ゆりと共に家へ戻ろうとすると、松山たちが声を掛けて来た。彼らは三平と一平がズルとしたと決め付け、バカ にしたような態度を示した。腹を立てた三平は、松山に勝負を持ち掛けた。いざ勝負が始まると、三平は木に登ったり、激しく泳いだり、 昼寝を始めたりした。松山たちは呆れるが、残り時間20分になったところで三平は釣りを開始し、たちまち逆転してみせた。遊んでいる ように見えたのは、全て鮎を集めるための作戦だったのだ。
三平の家に、東京で暮らす愛子から手紙か届いた。しかし一平から手紙を渡された三平は、「捨てといてくれ」と告げて釣りに出掛けた。 彼がゆりと一緒に釣りを始めると、それを魚紳が眺めていた。アメリカのトーナメントで何度も優勝しているバスプロだと知って、三平は 興奮した。和竿作りの名人である一平は有名人で、魚紳は彼の存在を知っていた。魚紳は三平を誘い、一緒に釣りをした。ずっとスポーツ フィッシングばかりやっていた魚紳にとって、三平の野性的な釣りは新鮮だった。
夜、魚紳は三平の家で泊めてもらい、一平と酒を飲み交わす。帰国した理由について問われ、「無性に日本の川が恋しくなりましてね」と 彼は説明した。翌朝、魚紳は「夜泣谷という場所に行ってみたいんです」と一平に告げた。三平は、その話に興味を示した。魚紳は「釣り 仲間から面白い話を聞いたことがある。そこは秘境と呼ぶにふさわしい渓谷で、イワナの楽園になっている。そこには夜泣谷の怪物と 呼ばれる巨大なイワナがいるという噂がある」と語った。
三平は魚紳から、フライフィッシングのやり方を教えてもらう。手紙を開封した一平は、愛子が来ることを三平に知らせた。三平は「今日 来るのけ」と困った顔になった。彼は「何とか追っ払ってくれよ」と一平に言い、ゆりの家へ逃げようとする。しかし、愛子と鉢合わせ してしまった。愛子は6年前に親戚を頼って東京へ出て、現在は大学に通っていた。彼女は弟を東京で育てたいと考えているが、三平は 激しく拒んでいるのだ。
愛子は三平に、「田舎では釣りばかりやっていたらダメになるわよ。釣りなんて、ただのくだらない遊びじゃない」とカッカしながら言う 。一平は「久しぶりに墓参りに行ったらどうじゃ」となだめ、三平と愛子を墓参に行かせた。一平は魚紳に質問され、事情を説明した。 7年前、三平と愛子は両親を立て続けに亡くした。平は釣りで日本中を回っていたが、海釣りに出掛けた際、嵐に遭って行方不明になった 。母親は病気が悪化し、半年ほどで亡くなった。
一平は魚紳に、「愛子にしてみれば、全ては釣りのせいなんじゃ。その釣りを三平に教えているワシが許せんのじゃ」と語った。愛子は 三平に「夏休みはいつか終わるの。現実への一歩を踏み出さなさい。人生は競争なのよ」と告げ、何とか東京行きを承知させようとする。 その夜、一平は箱に納めてあった竿を取り出し、魚紳に「アンタ、源流行には慣れとるか。手伝うとくれんか」と持ち掛けた。
翌朝早く、一平は三平を起こし、夜泣谷へ怪物釣りへ行くと言い出した。愛子が呆れた様子で「バカバカしい、そんな大きな魚がいるわけ ないじゃないの」と言うと、一平は「いたらどうする?ワシらが釣り上げたら、三平の好きにさせる。どうじゃ?」と提案した。愛子が 「釣れなかったら?」と尋ねると、一平は「三平はお前に預ける」と告げた。彼は愛子に、「お前も来て確かめるんじゃ」と言うる愛子は 不機嫌そうにしながら、一平たちに同行した。
三平たちは細い吊り橋や流れの速い川、岩場や森の中を進み、マタギ小屋で一泊することになった。愛子は嫌がって「帰る」と言うが、 「熊が出る」と言われて仕方なく泊まることにした。翌日、小屋を出て川を進んだ一行は滝の横を登り、さらに先へと進む。ようやく 夜泣谷へ辿り着き、三平たちは釣りを開始した。しかし夜になっても、怪物を釣り上げることは出来ない。それでも三平は、「俺は絶対に 釣るんだ」と諦める様子を見せなかった。
魚紳は一平に、「どうして夜泣谷のことを知っていて隠したんです?怪物釣りのための竿まで用意していたのに」と問い掛けた。すると 一平は、どこで夜泣谷のことを聞いたのかと質問した。魚紳は「7年前、沖縄で出会った釣り人に聞きました」と答える。そして、その 釣り人に東北訛りがあったことも話した。彼が会った相手は平だった。一平は、怪物の言い出しっぺが平だと明かし、「魚紳さん、ワシは 、あいつが帰ってくるんでねえかと待っておったんです。あいつと一緒に、ここさ来るんだと」と語った…。

監督は滝田洋二郎、原作は矢口高雄、脚本は古沢良太、プロデューサーは近藤正岳&小池賢太郎&渡井敏久、共同プロデューサーは 鈴木一巳&岡本東郎、アソシエイトプロデューサーは山田周、撮影は葛西誉仁、編集は川島章正、録音は尾崎聡、照明は高屋齋、美術は 小川富美夫、特殊造形は上松盛明、フィッシングスーパーバイザーは鈴木康友、VFXプロデューサーは栗飯原君江、VFXディレクター は豊田浩司&田口健太郎、音楽は海田庄吾、音楽プロデューサーは津島玄一。
主題歌は『Heart』作詞:yoko、作曲:大西克巳、編曲:河野圭、唄:the generous。
出演は須賀健太、塚本高史、香椎由宇、渡瀬恒彦、萩原聖人、土屋太鳳、小宮孝泰、片桐竜次、中西良太、螢雪次朗、安居剣一郎、 志村東吾、平賀雅臣、山田アキラ、竹場龍生、渡辺栄香、荻原真治、ロバート・ミルズ、佐藤智美、佐野弥生、江藤大我、野貴葵、 西沢智治、鮎河圭吾ら。


1973年から10年に渡って「週刊少年マガジン」に連載されていた矢口高雄の同名漫画を基にした作品。
講談社「週刊少年マガジン」創刊50周年記念作品として製作されている。
釣りキチの「キチ」は」「キチガイ」の意味であり、現在では放送禁止用語になっているのだが、この映画では普通に使っている。『釣り バカ三平』や『釣りに異常なほど没頭する三平』にタイトル変更されずに済んでいる。
三平を須賀健太、魚紳を塚本高史、愛子を香椎由宇、一平を渡瀬恒彦、平を萩原聖人、ゆりを土屋太鳳、松山を小宮孝泰が演じている。 魚紳が風来坊釣り師ではなくアメリカで活躍するバスプロだったり、愛子が三平の姉だったり(原作では赤の他人)、三平の兄が3歳の頃 に溺死したという設定が無かったり、原作とは色々と設定が異なっている。
監督は監督は『壬生義士伝』『バッテリー』の滝田洋二郎。『おくりびと』がアカデミー賞外国映画賞を受賞した後に公開されたが、それ 以前に撮影は終わっていた。

週刊少年マガジンの50周年記念作品として、『釣りキチ三平』をチョイスしたセンスが良く分からない。
原作が連載されていたのは昭和1973年からの10年であり、現在の少年マガジンの主な読者層に対する訴求力は、ほとんど期待できない だろう。
だったら本作品が「かつて読んでいた年齢層の男性たち」に向けた内容になっているのかというと、そうではなく、明らかに子供向け映画 として作られている。
子供を映画館に呼び込みたいのであれば、現在連載中の人気漫画を実写化した方がいいんじゃないのか。

っていうか、もはや「少年マガジン」と言っても、本当に少年向けの漫画なんて、ほとんど連載されていないんだよな。
そもそも購買層が、もっと高くなっている。
そうなると、「週刊少年マガジンの50周年記念作品」で、「子供向け映画」を作るというのは、どうなのかと。
色々と考えると、とにかく企画の段階で間違っていたんじゃないかと。
釣り好き少年を主人公にした子供向け映画なら、オリジナル作品として作った方が良かったんじゃないかと。
まあ少年マガジンの50周年記念だから、オリジナルってわけにはいかないんだけどさ。

まず導入部分でギクシャクしている。
三平が幼い頃の様子から入ったのなら、成長した三平が釣りをしている様子に繋げるべきでしょ。それなのに、現在のシーンになると、 一平&ゆりが釣りをしていて、そこに三平はいない。
あと、過去のシーンでは三平と愛子が一緒だったから、一平の隣にいるのは愛子かと思ったら、ゆりなのよね。そこも分かりにくいし。
で、田んぼで蛙と遊んでいた三平が1位というのも違和感。彼が釣りをしている様子は、全く描かれていなかったじゃねえか。
だから、てっきり大会を抜け出して別の場所で遊んでいるのかと思ってしまったぞ。

松山との対決シーンで初めて三平が釣りをする様子を描くのだが、そうじゃなくて「三平が釣りを楽しむ」という様子を描いて、それを 魚紳が目撃する形にしておかなきゃダメなんじゃないのか。
松山との釣りは「三平が腹を立てて対決を要求」という流れだから、楽しんで釣りをやるわけじゃないもんね。
対決させるにしても、松山の方から「何かズルをしたはず。正々堂々と勝負しろ」と対決を持ち掛け、三平が余裕で応じる形にでもして おけば良かったんじゃないか。

魚紳は原作の重要キャラだから、登場させようってのは分からないではない。
ただ、何しろ原作とは全く設定も違うんだし、まるで別物になっているし、それに原作ファンでこの映画を見ようってのは、そんなに 大きな客層にならないと思うんだよな。
そういう諸々を考えた時に、魚紳を出さずに物語を構築した方が良かったんじゃないかと。
この映画だと「魚紳が三平と触れ合うことで釣りへの意欲を取り戻し」というストーリーを意識していると思うんだけど、それよりも三平 の成長物語に絞り込んだ方がスッキリすると思うのよ。
「魚紳との触れ合いで人間的に成長する」というのが描かれていればともかく、それも無いしね。

っていうか、「三平の成長物語に絞り込んだ方が」って書いたけど、この映画に彼の成長物語は無いのよね。
だけど、そっちを描いた方がいいんじゃないかと。
少年としても、釣り人としても、まるで成長が描かれていない。
あと、釣りに対する情熱を失っていたはずの魚紳だが、三平と出会うと、自分から「やろう」と釣りに誘っている。
あっという間に釣りへの情熱は取り戻しているんだよね。
だったら、ほとんど解決してるんじゃねえのか。

冒頭シーンで「怪物が云々」というのがあるので、三平が魚紳から夜泣谷の怪物の話を聞いた時に「父ちゃんが言ってた怪物のことか」と なるのかと思いきや、初めて聞いた話というリアクション。
なんと三平は、その時の出来事を幼くて覚えていないのである。
で、愛子が憶えていて、一平から言われて、それを思い出すというシーンがある。
いやいや、それは三平が覚えているべきでしょ。

愛子を姉に設定してあるが、この改変も要らないなあと。
あと、愛子を「一平を経済社会の敗残者と決め付け、田舎ではマトモな教育も受けられないからという理由で、三平を東京へ連れ出そうと する。都会で暮らすことが素晴らしいと考えている」という都会至上主義者に設定し、「彼女が田舎の良さに気付く」というところへ物 語を着地させていくんだけど、それはどうなのかと。
その「都会より田舎」というストーリーテリング自体、うっとおしいなあと感じる。

クライマックスで三平が怪物を釣り上げても(あれを「釣り」と呼ぶべきかどうかは置いておくとして)、そこに高揚感はゼロなんだよね 。
三平にとっては、ただ「デカい魚を釣り上げた」というだけで、そこに別の感情や強い思い入れは無いもんね。
怪物を釣り上げるために努力するとか、特訓するとか、一度は失敗したが諦めず再チャレンジするとか、そういったドラマも用意されて いないし。

どうやら滝田監督は、「釣り人としての成長」とか「釣りの醍醐味」ってのには、ほとんど興味を示していないんだよね。
そうじゃなくて、田舎の少年と周囲の人間ドラマってのを描こうとしているようだ。
釣りってのは、あくまでもそれを描くための題材の一部に過ぎないという感じだ。
だけど原作の持ち味を考えたら、もっと「釣り映画」としての色を強く出すべきなんじゃないかと。

で、人間ドラマが充実した内容になっているのかというと、そうじゃない。
キャラ描写は薄いし、三平はデクノボー状態だ。ホントに主役なのかと疑ってしまうほど、三平の中身は無い。
だからって、三平が周囲の人間を描くための狂言回しの役回りを担っているわけでもない。
っていうか狂言回しだったとしても、その時点でアウトだけどね。
だったら釣りキチ三平じゃなくていいじゃんって話だから。

愛子が登場してからは、彼女が主役なんじゃないかと思ってしまう。
愛子の一平に対する反発や、魚伸との交流がメインとして描かれており、三平は明らかに脇役として扱われている。
極端な話、三平がいなくても話としては成立してしまうぐらいなのだ。
「気持ちを張って頑固に生きて来た愛子だが、魚紳と触れ合うことで心が穏やかになり、一平への反発心も消える。魚紳は愛子や一平と 触れ合うことで、再び釣りへの意欲を取り戻す」ということにすればスッキリする。

怪物を釣り上げるシーンに関しては、三平の存在を削除した場合、「愛子が父から聞いていた秘策を思い出し、それを教わった魚紳が 釣り上げる」という形にでもすればいい。
もしくは、2人が協力して釣り上げる形にすればいい。
っていうか、この映画でも、三平は関与しているものの、愛子が秘策を思い出し、彼女と魚紳が協力して釣っているしね。
明らかに三平は「要らない子」なのだ。

あと、原作には「釣り入門書」としての意味合いも大きかったんだけど、この映画は、そういうテイストは全く無い。
一応、松山との対決の後で三平が自分の手口を説明するシーンはあるけど、それぐらいだ。
魚や釣り方に関するウンチクを盛り込もう、ハウツー物としての方向性を持ち込もうという意識は無い。
で、釣り映画にしないのなら、ますます原作を使っている意味は無いんじゃないかと。
このタイトルに、それほど訴求力があるとも思えないし。

魚をCGで描いているのだが、これが場面によっては全く本物に見えないというのも萎えるなあ。
やっぱり魚は本物にこだわった方が良かったんじゃないの。
そりゃ難しいとは思うけど、そこに何より固執すべき映画なんじゃないかと。
クライマックスで登場する巨大なイワナだけは、どう頑張っても本物を使うのが不可能だけど、そこはハッキリとした姿を登場 させなくてもいいんだし。

どうせバレバレCGで魚を表現しているぐらいなんだし、もっとケレン味たっぷりに釣りシーンを演出してもいいんじゃないかと思ったり するけど、それは滝田監督に期待するだけ無駄というものだ。
この人は、生真面目で淡々とした演出、ゆったりとした演出しか出来ない人なんだろう。
ただ、すげえ地味なのに、クライマックスだけ「三平が巨大なイワナの背中に乗ったままジャンプする」というファンタジー をやっちゃうので、すげえ呆れる。
そこで荒唐無稽をやるのなら、それまでの釣りシーンでも、もっとケレン味たっぷりに演出すりゃあいいのに。
でも、それは滝田監督には期待するだけ(以下、省略)。

(観賞日:2011年10月1日)


第6回(2009年度)蛇いちご賞

・助演女優賞:香椎由宇

 

*ポンコツ映画愛護協会