『T.R.Y.』:2003、日本

20世紀初頭の上海。ペテン師の伊沢修は仲間の朝鮮人パク・チャンイクや弟分の陳思平と共に、武器商人・黄大奇を機関銃詐欺で騙し、大金を手に入れた。しかし伊沢は捕まり、刑務所に収容される。面会に訪れた黄は、秘密結社「赤眉」の殺し屋を送り込むことを宣言した。食堂で殺し屋に襲われた伊沢は、関飛虎という囚人に助けられた。
関飛虎は伊沢に、自分が中華黎明会の幹部であり、仲間達と共に清国政府を倒す計画を立てていることを告げる。彼は黄を騙した手口を知り、協力を求めるために伊沢に近付いたのだ。伊沢と関は棺桶に隠れ、脱獄に成功した。伊沢が関の案内で中華黎明会のアジトへ行くと、そこには陳の姿があった。彼も黎明会に加わっていたのだ。
伊沢は中華黎明会はから、ある仕事を依頼される。それは、上海に乗り込んでくる日本陸軍中将・東正信を騙して大量の武器を奪うという仕事だ。しかし陸大を主席で卒業した東は順調に出世しており、猜疑心が強くて自分しか信用しない男だ。つまり金、女、出世などの弱味を利用して罠にハメることが、非常に困難なターゲットということだ。
伊沢は情報屋の汪沢田から、東が上海に武器を持ってくることさえ確定していないことを聞かされる。伊沢は陳に中華黎明会を抜けるよう告げるが、逆に革命に燃える彼の気持ちをぶつけられた。伊沢はチンピラの張士清が写っている写真を見て、ある計画を思い付いた。彼は関、陳、黎明会の女闘士・愛鈴、協力を申し出たパクと共に日本へ渡る。
伊沢は顔馴染みの芸妓・喜春の元に身を寄せ、仲間と共に計画を進めていく。彼らは陸軍士官学校に留学している清国の殿下・愛清覚羅載寧に近付き、接待攻勢を掛けた。伊沢は貿易商として東に接触し、彼のドイツ時代の恩師メンゲル元帥からの贈り物があると告げる。しかし東は、伊沢が差し出したメンゲルの手紙が偽物だと気付いた。彼は部下の向島を呼び、伊沢の内偵を命じた。向島は、東が嫌っている彼の弟・謙介に内偵の仕事を任せることにした。
東は伊沢と約束した場所へ行き、彼が中国に関わっていることを指摘した。すると、その場に載寧殿下が現れ、伊沢が自分のために秘密裏に行動していたことを打ち明けた。載寧から清国政府のために武器を上海へ運んでほしいと頼まれた東は、喜んで承諾した。しかし上海で長く暮らしていた謙介は、そこで載寧と同じ顔の男を見たことがあり、相手が偽者だと確信する。
謙介が考えた通り、東の前に現れた載寧は偽者だった。伊沢は張士清が載寧に瓜二つなのを知り、東を騙したのだ。上海に戻った伊沢は、謙介から計画を指摘され、自分も仲間に加えるよう要求される。謙介は東の元へ行き、伊沢の罠を全て明かした。伊沢は執拗に狙ってくる殺し屋の肖丁に襲われるが、何とか撃退した。その直後、彼は東に捕まり、黎明会を騙す作戦に協力するよう脅される・・・。

監督は大森一樹、原作は井上尚登、脚本は成島出、製作は岡田裕介&角川歴彦、企画は坂上順&永田洋子&亀山千広、プロデューサーは天野和人&野村敏哉、共同プロデューサーは竹山昌利、撮影は加藤雄大、編集は池田美千子、録音は藤丸和徳、美術は稲垣尚夫&竹内公一、照明は大久保武志、音楽は住友紀人、主題歌『We Can Be Heroes』は織田裕二。
出演は織田裕二、黒木瞳、渡辺謙、シャオ・ピン、ソン・チャンミン、ヤン・ルォシ、ピーター・ホー、今井雅之、松岡俊介、金山一彦、市原隼人、松重豊、石橋蓮司、伊武雅刀、丹波哲郎、夏八木勲ら。


第19回横溝正史賞を受賞した井上尚登の同名小説を基にした作品。
「T.R.Y.」が何の略なのかは、少なくとも映画を見ただけでは全く分からない。
伊沢を織田裕二、喜春を黒木瞳、東を渡辺謙、関をシャオ・ピン、パクをソン・チャンミン、愛鈴をヤン・ローシー、肖丁をピーター・ホー、謙介を今井雅之、載寧&張士清を松岡俊介が演じている。

織田裕二という人は演技の幅が狭い役者で、まあハッキリ言ってしまえば大根ということになる。
で、その周囲を固めるのが、同じく大根タイプの黒木瞳や今井雅之、金山一彦や市原隼人といった面々。
さらには拙い日本語を喋るシャオ・ピンやソン・チャンミンといった外国人俳優の面々。
かなり思い切ったキャスティングである。

この映画を配給した東映の上層部は、どうやら大森一樹がスケールのデカい娯楽超大作を撮ることが出来る監督だと信じ、さらに織田裕二がその存在によって大作映画を引っ張っていくことの出来る魅力を持つスターだと信じたようだ。
それが正しい認識なのか、大きな勘違いなのかは、わざわざ私が言わなくても、賢明なる皆さんなら分かっているはずだ。

コン・ゲームが売りのはずなのに、そこに切れ味が全く無い。
冒頭、伊沢は黄大奇に機関銃を売り付け、暴発によって民間人を撃ち殺してしまったと見せ掛ける詐欺を働く。ここでは『スティング』のクライマックスのように、「実は殺されたように装った民間人も全て仲間だった」というネタを使っている。
しかし、黄が逃げて民間人が起き上がる前から、もうネタは割れているようなモノだ。
なぜネタは割れているかというと、騙しているシーンの雰囲気を、いかにも軽い雰囲気にしてあるからだ。
そこは、まずシリアスモードで入り、ネタを明かす段階で初めて緊張を解くべきだろう。
そもそも、その詐欺を見て関が伊沢の腕を優秀だと判断しているはずなのに、ちっとも優秀な奴には見えないという問題もある。

載寧と張士清が瓜二つだというネタを使ったペテンは、その事実を観客には明かさないままで話を進めていく。しかし、そこで伊沢が何をやっているのか、ちょっと描写が煩雑なために分かりにくい状態になっている。
にも関わらず、伊沢がネタを明かす前に、ペテンの中身は観客にバレてしまうという、どうしようもないことになっている。

終盤、取り引き現場で東を騙す仕掛けは、「民衆が蜂起したと見せ掛けて実は伊沢が呼び集めた連中だった」という、ちょっと最初のネタと似たようなモノ。
そのシーン、東から蜂起を仕掛けたのかと問われた伊沢は、「私に革命など起こせません」と語るが、その顔にはいかにも「私が仕掛けました」という含みが感じられており、タネ明かしの前にバレバレになっている。

伊沢は革命に燃える関に対して「暑苦しい奴だ」と告げ、「ヤバくなったら逃げるのが自分のモットーだ」と主張している。
しかし、最初に彼は「貧しい人々のために金を分け与えている」ということが明かされている。
つまり、彼はペテン師ではなく義賊なのだ。
だから「ペテン師は仕事に命を懸けない」とか言っても、どうせ仲間のために命懸けで戦うだろうとバレバレになっている。

伊沢は「ヤバくなったらさっさと逃げる」とか、「ペテン師は仕事に命を懸けない」などと軽薄で弱腰なセリフを吐く時にも、実際に軽薄な素振りを見せることは無い。常にカッコ良く振舞いながら、そういうセリフを吐くのである。
そりゃあ、その言葉が明らかにウソだということを、その時点で露骨に示しているようなモノだ。
しかもスゴいことに、伊沢が中華黎明会に協力するようになったのは、報酬を受け取ったからでもなければ、何か弱みを握られたからでもない。陳に熱い気持ちを訴えられ、情にほだされて協力するようになっているのだ。
つまり後半に入ってから正義の味方としての自分を主張するのではなく、早い段階で「私は正義のために行動しています」と自ら明かしているのだ。

話の面白さを考えると、最初は自分が儲けることしか考えていないペテン師として登場した方がいいんだろうが、やはりスター織田裕二は最初から正義の味方として登場した方がいいという判断なのだろう。
軽薄なセリフ、弱腰なセリフを吐く時も常にカッコ良く決めているのも、やはりスター織田裕二は常にカッコ良くなければならないという判断なのだろう。

東に捕まった伊沢は「仲間の命だけは保証してくれ」と言っているが、そこは本当ならば「仲間を見捨てて自分だけが助かろうとする」と見せ掛けて実は仲間を助けて東を騙すという流れにした方が盛り上がるだろう(というか、東に捕まった所でシーンを切って、すぐに取り引きシーンに移った方がいいだろう)。
しかし、たとえ一時のウソであっても、カッコ悪い態度を示すのはスター織田裕二にふさわしくないという判断なのだろう。
常にカッコ付けていないとダメなのだ。

とにかくトリックの見せ方、隠し方、伏線の張り方、仕掛けの進め方が下手すぎる。
そのために伊沢がちっとも優秀なペテン師に見えないのだが、そんな人物を周囲のメンツは「優れた腕を持った人物」として評価しているというズレが生じてしまう。
しかし、「演じているのはスター織田裕二だからスゴイ人物に決まっている」という説明によって、そのズレは解消されるのだ。

伊沢は「20世紀初頭の上海」では怪しまれるであろう見た目をしており、普通に考えれば詐欺師としては失格だ。
しかし、この映画は「スター織田裕二」を見せるための映画なのだ。そこでは、かつての時代劇スターだった市川歌右衛門御大や片岡千恵蔵御大のように、「スターを見せるためなムチャな脚色は構わない」という考えがあるのだ。
例えば市川歌右衛門御大の旗本退屈男シリーズなんてのは、あんな派手な着物でうろついているのはムチャクチャだ。片岡千恵蔵御大の遠山金四郎シリーズなんてのは、遊び人の金さんと奉行が同一人物だとバレないのは無理がある。
しかし、それはスター映画では何の問題も無く許されていることだ。
その有り得なさは、スター映画では構わないことなのだ。

それと同じような感覚で、この映画も作られているのだろう。だからこそ、個人的な執念で追ってくる殺し屋・肖丁との戦いも挿入されているのだ。
それは東を引っ掛けるペテンとは無関係だし、肖丁が追ってくることをクライマックスでペテンに利用するようなオシャレなこともやらないが、時代劇スターが主演作でチャンバラを披露するのと同じようなモノだと解釈すればいいだろう。
つまり、スターを輝かせるためには、アクションシーンも必要だという考えなのだろう。

そういう考えがあるからこそ、ペテン師が主人公ならクライマックスはコン・ゲームにすべきなのに、その後に汽車が横転して爆発を起こすという派手なシーンを持ってくるのだ。
時代劇スターも大抵の場合、最後はチャンバラで活躍を見せるのがクライマックスだ。
それと同じように、スター織田裕二の主演作では、最後にアクションシーンを持ってくるべきだという判断なのだろう。

 

*ポンコツ映画愛護協会