『トリナクリア PORSCHE959』:1987、日本

西ドイツ、ヴァイスアッハのテストコース。トレーラーで運ばれてきたポルシェ959に島本浩が乗り、クルーが見守る中で速度を上げた。3ヶ月前、東京。玉岡しのぶはライブハウスで友人の二郎と遭遇し、たった半年で女優をトップスターにしたことについて「大変な評判じゃない」と言われる。すると彼女は、「昨日まではね。彼女に逃げられて、事務所をクビになったわ」と不機嫌そうに告げた。同じ店には、映画監督の立野晋太郎も来ていた。酒を飲んでいた彼は俳優の島本浩を見つけ、「マサシ、いや、リュウ。君はトリナクリアを知ってるか」と問い掛けた。
翌朝、立野の事務所には島本としのぶの姿があった。立野が酔っ払って2人を泊めたのだ。しのぶは立野に「とにかくシナリオを見せてよ。トリナクリア。幻の音楽家、マサシを追って旅する映画」と言う。立野は覚えていなかったが、彼は島本を主演に据えて3人で映画を撮る約束を交わしていたのだ。「夢物語だ。第一、素人の君は無理だ」と立野が言うと、しのぶは「レコードやタレントは作ったわ。スポンサーに心当たりがあるの」と告げる。
しのぶは映画への熱を話すが、島本は「俺も断る。ビジネスに女は信用できない」と告げた。さらに彼は「それに、車はどうする?この映画の本当の主役は、959だ」と言い、いかに特別な車なのかを語る。そして島本は、「200台の注文生産、3年前に予約済み。日本に1台入るか2台入るか。つまり俺たちにとっちゃ幻の車さ」と述べた。だが、しのぶは諦めなかった。後日、彼女は事務所を訪れ、「ポルシェは手に入るわ。この映画に協力してくれる人を見つけたの」と立野に告げた。
しのぶは製作担当として二郎を立野に紹介し、「もう仕事は始まってるわ」と告げる。立野はマサシが残した最後のライブ・アルバム『トリナクリア』を持っており、「彼のサウンドは伝説的存在だった」と言う。マサシは活動中から、ほとんど姿を見せない人物だった。立野はしのぶに、「マサシは生で伝わる音よりも、メカニズムを通して伝わる音を信じていた。やがてマサシは、よりメカニックな音に興味を持った。ジェット機、オートバイ、車。それらの発する音そのものが、マサシのサウンドとなった。やがてマサシの姿は消えた。マサシは1つのイメージだ。マサシを捜す旅。それがリュウの旅なんだ」と話した。
立野は「マサシの最後の手記に書いてある。ポルシェのエンジン音は、究極のメカニズムの音だと。リュウは信じている。ポルシェのニューモデルに乗って旅をすれば、必ずマサシに会える」と、しのぶに語った。西ドイツ、シュトットガルト。撮影クルーはポルシェ・ヴァイスアッハ開発センターへ行き、プロフェッサー・ポルシェと会った。島本は959を走らせ、ドイツからオーストリアに入った。そこからクルーは国境を越えてイタリアに移動し、雪山の撮影を行った。
休憩中、クルーのタカシはバイク乗りの英次という男から、「加圧無いかな。エンジンの調子が悪いんだ」と話し掛けられる。タカシはバイクを調べ、「お前の扱いが悪いんだ。メカってのはな、女よりも焼き餅焼きでデリケートなんだ」と告げた。日本を出て半年になる英次は、ホームシックに罹っている様子だった。クルーがミラノに入ると、英次は後を追って来た。島本は隠遁所を訪れ、修道士の話を聞いた。何年か前に日本人が来たことはあるが、マサシかどうかは分からないという答えだった。
クルーはモンツァのレース場に入り、ヒロインのアンナを演じるマリーナが登場するシーンを撮影する。リュウが959を走らせ、アンナがフェラーリで後を追った。レース場を出ても、フェラーリは後を追う。シエナで車を降りたリュウが町を歩くと、アンナが後を追う。彼女は先回りしてリュウとすれ違ったまま歩き続け、建物に入る。窓を開け、オープン・カフェにいるリュウの様子を観察する。大聖堂で彼女を捕まえたリュウは、「なぜだ?何を知っている?何を知りたい?」と尋ねる。「マサシか」と島本が叫んだところで立野が撮影を止め、「叫ぶんじゃない。これはマサシに対する思いなんだ」と指示した。
居候の英次も加わった撮影クルーは、修道院で宿泊させてもらう。島本は立野に、「俺たち、マサシに会えるんですか」と尋ねる。マサシは本当にいたのかという質問に、立野は「いた。だが959もマサシもトリナクリアも、リュウには一つとして答えが分かっていない」と話す。「監督自身が分かってないんだ。そうでしょう?」と指摘された彼は、「探しながら撮る映画だって存在するさ」と答えた。憤りを感じた島本は、勝手に959を持ち出して夜の町を走った。タカシは英次のバイクで後を追い、「959は俺の責任だ。勝手に乗るのはやめて下さい。シチリアまでは俺が任されてるんだ」と島本を責めた。しかし島本が、「今夜は959と1対1で話してみたかったのさ」と言うと、彼は納得の笑顔を見せた。
英次が離脱して一人旅に戻った後、撮影クルーはローマに入った。記者の大原が取材に訪れ、立野に「映画を企画した時、959に求めた物は何ですか」と尋ねた。立野は「この車はなぜ出来たか。人はなぜ959を作ったか。959は、我々が車という物に抱くイメージを明らかに超えた。だから人間が作った何千年という時間の上に959を置いてみたかった。遺跡の上に置いてみることも必要なんですよ」と語った。さらに彼は、959の芸術性について熱く語った。
ホテルに戻ったしのぶは製作費が振り込まれていないことを知り、すぐに日本へ電話を掛けた。しかし電話は繋がらず、彼女は旅行代理店で日本の新聞を読ませてもらう。ホテルに戻った彼女は二郎に、スポンサーの化粧品会社が薬品ミスで事故を起こしたこと、振り込みがストップしたことを話す。ポルシェの代金4千万円の内、まだ1千万円しか支払われていない。ロケーションは手持ちの金で賄えるが、今のままではポルシェの返還を要求されることになることが確実だった。
撮影クルーは金銭面のトラブルを知らないまま、ナポリに入った。リュウはナポリ大学のスズキ教授と会い、マサシが短い間だけいたこと、アラビア語の文献を読み漁っていたことを聞いた。スズキは彼に、「マサシは才能が有りすぎたんです。マサシはシチリアへ行きました。トリナクリアは偶然じゃない」と語った。撮影クルーがカラブリア地方に入ったところで、ヤマシタという男が959の引き取りにやって来た。最初は激しく拒絶した立野だが、結局は承諾した。しかしヤマシタは、撮影のため1週間だけ待つことにした…。

監督は村野鐵太郎、原作・脚本は高山由紀子、製作は村野鐵太郎&森山優&大森一隆、エグゼクティブ・プロデューサーは玉田文明(イタリア)&林秀樹、撮影は矢田行男、照明は大石弘一、録音は瀬谷満&日吉裕治、編集は諏訪三千男、助監督は鈴木政、美術は若菜天、音楽監督は堺正章、作曲は渡辺敬之、主題歌はMバンド「ケサラ(Che Sara)」、テーマ曲は堺正章「TRINACRIA“炎尽きて”」。
出演は隆大介、仲代達矢、峰岸徹、小宮久美子、堺正章、マリア・クリスティナ、マリエーラ・ロサルト、藤タカシ、貞永敏、須藤正裕、井川比佐志、本郷淳、葉山良二、ルチアノ・マゾキ、イグナチオ・ロッシー、Profesor Porsche、Manfred Jantke、Gunter Steckkonig、Klaus Steckkonig、吉岡圭二、右門青寿、高川裕也、内田勝康ら。


『早射ち犬』『男一匹ガキ大将』の村野鐡太郎が監督を務めた作品。
脚本は『月山』『遠野物語』『国東物語』に続いて4作連続で村野監督とのコンビになる『メカゴジラの逆襲』の高山由起子。
島本を隆大介、マサシを仲代達矢、立野を峰岸徹、しのぶを小宮久美子、ヤマシタを堺正章、マリーナをマリア・クリスティナ、タカシを藤タカシ、二郎を貞永敏、英次を須藤正裕が演じている。堺正章は音楽監督とテーマ曲も担当している。
こんな映画に仲代達矢が出演した理由がサッパリ分からないけど、無名塾出身の隆大介や小宮久美子が出ているから、一肌脱いだのかなあ。

一言で表現するならば、これは「PORSCHE959を見せまショー」である。
全編に渡って、PORSCHE959が疾走する様子を丁寧に描いている。様々な角度からPORSCHE959を捉え、丹念に写し出している。
とにかく、「PORSCHE959をカッコ良く見せよう」という意識の高さだけは充分すぎるほど感じられる。そこに費やす時間も、かなり長く割いている。
それだけ多くの時間がストーリー上で必要なのかというと、その答えは「ノー」である。
つまり、その映像は目的を果たすための手段ではなく、その映像自体が目的なのだ。

最初に思ったのは、「これってPORSCHE959の宣伝用フィルムなのか」ってことだ。
そういうことなら、映画としての質は置いておくとして、目的と内容は合致していると言ってもいいだろう。
そりゃあ、「宣伝したいのなら、普通にプロモーション映像を撮影した方が遥かにマシだろ」とは思うよ。
だけど、PORSCHE959が走行するシーンを必要以上に多く使ったり、PORSCHE959の必然性が全く無いのに強引な理屈で登場させたりする目的は理解できる。

しかし冷静に考えてみると、PORSCHE959は限定200台の注文生産であり、しかも本作品が公開された時点で既に販売されている。つまり、今さら宣伝したところで、あまり意味が無いのだ。
しかもポルシェが主導しているわけではなく、鐡プロダクションとYOU企画の製作なので、宣伝の意図は無かったんだろうと思われる。
そうなると考えられるのは2つで、1つは「車好きの村野鐡太郎監督が、とにかくPORSCHE959を撮りたくてたまらなかった」という可能性。
もう1つは、「PORSCHE959で映画を撮れば、多くの観客を惹き付けられるはず」と本気で思っていた可能性だ。

どっちにしても、「その考えは間違ってるぞ」と言いたくなる。それに、この仕上がりでは、PORSCHE959の魅力を伝えることも出来ないし、多くの観客を惹き付けるような力も無い。
そもそも製作を兼ねている村野鐡太郎監督は、このシナリオでホントに「行ける」と感じていたんだろうか。
そりゃあ演出の段階で改変された部分はあるんだろうけど、どう考えたってシナリオの段階でヤバい状態だったはずだ。
そう考えると、もはやクランク・インの段階でダメな映画になることは約束されていたんじゃないだろうか。

まず冒頭、ヴァイスアッハのテストコースを走るポルシェ959の様子を捉えるオープニング・クレジットがある。
物語の上では、時系列を入れ替えている意味は何も無い。冒頭でポルシェ959の走行シーンを見せたかったという都合だ。
そこから3ヶ月前の東京にシーンが切り替わると、立野がライブハウスで島本に「マサシ、いや、リュウ。君はトリナクリアを知ってるか」とワケの分からないことを口にする。カットが切り替わると翌朝のシーンで、立野の事務所に島本&しのぶがいる。
台詞によって「立野が酔っ払って2人を宿泊させた」ってことは分かるが、かなりギクシャクした繋げ方だ。

で、しのぶの「とにかくシナリオを見せてよ」という台詞からの流れで、3人で映画を撮る約束を交わしたことが判明する。
それは本作品にとって重要な出来事のはずなのに、それを「翌朝になってから台詞で説明する」という処理にしてしまうのは、すんげえ雑だ。
それと、「幻の音楽家、マサシを追って旅する映画」という、まるで面白くなさそうな映画に、しのぶが食い付いているのも謎。
それまで映画製作の経験なんか無かった彼女を惹き付ける要素が、その企画のどこにあったのかは謎だ。

しのぶは「トリナクリアを感じるわ。なんかこう、キュンと来るの」と言うが、ただのキチガイにしか思えない。
「ポルシェ・サウンドに、メカニックの極限を聞いたマサシ。彼を求める旅は、きっと大成功よ」と話すが、それでホントに成功すると確信しているのなら、この女はプロデューサーとしてのセンスが致命的に足りていない。
あと、その段階で、まだ島本が何者なのか全く説明していないという落ち度があることにも触れておこう。
俳優なのか否か、有名なのか否か、そういうことが全く説明されていないぞ。

立野はマサシのアルバム『トリナクリア』の音源を流し、「マサシは生で伝わる音よりも、メカニズムを通して伝わる音を信じていた。やがてマサシは、よりメカニックな音に興味を持った」などと話す。
ところが、そのレコードから聞こえて来るのは、どう聞いても木琴やファゴットといった楽器の音なのだ。
それって、ちっともメカニックじゃないでしょ。
後からシンセの音が入って来るけど、その楽曲を聴かせておいて「マサシは生で伝わる音よりも、メカニズムを通して伝わる音を信じていた」と言っても説得力は無いぞ。

立野が実験的なマサシの音楽に魅了されたらしいってことは分かるし、どんな音楽が好きかどうかは人それぞれだから構わない。
ただ、サッパリ分からないのは、「だったらマサシを捜すドキュメンタリーでも撮ればいいんじゃないのか」ってことだ。
マサシを捜し出すことが目的なのか、劇映画を撮ることが目的なのか、その辺りが良く分からない。
彼は「マサシは1つのイメージだ。マサシを捜す旅。それがリュウの旅なんだ」と語っているけど、ごめん、何言ってんのか全然分かんないわ。
そもそも、憧れのミュージシャンを苗字じゃなくて下の名前で呼ぶセンスって、かなり変だと思うぞ。まさかミュージシャン名義が「マサシ」ってわけでもないだろ。

島本や立野は、映画製作にはポルシェ959が必要不可欠だと考えている。
しかし「この映画の本当の主役は、959だ」と島本が話している時点では、なぜ必要不可欠なのかが全く伝わって来ない。
そもそも映画の内容からしてボンヤリしているので、ますます五里霧中だ。
なぜ他の車じゃダメなのか、入手困難な959に固執しなきゃいけないのか、その理由は全く説明されていない。

後になって立野が説明するが、それで納得できる人は皆無だろう。何しろ、「マサシの最後の手記に書いてある。ポルシェのエンジン音は、究極のメカニズムの音だと。リュウは信じている。ポルシェのニューモデルに乗って旅をすれば、必ずマサシに会える」という説明なんだぜ。
もうね、頭がイカれているとしか思えんよ。
まず、それを「リュウは信じている」と説明している時点で、ちょっとヤバい奴でしょ。そんな風に思っているのは劇中人物の設定じゃなくて、立野のはずなんだし。
あと、キチガイ監督がそう思うのは勝手だけど、島本やしのぶも同調するのは、なぜなのかと。こいつらもキチガイってことなのか。

そもそも、「ポルシェのニューモデルに乗って旅をすれば、必ずマサシに会える」ってのが主人公の設定であるならば、そんなのは幾らでも変更できるはずで。
劇中劇の設定としてのモノなら、本物の959を走らせる必要は無いわけで。
ようするに、「映画製作にポルシェ959は不可欠」ってことじゃなくて、立野がマサシを見つけ出すために必要なわけでしょ。
そこは「立野が主人公に自身を投影している」ということじゃなく、単に混同しちゃってるだけにしか思えないのよ。

結局のところ、「ポルシェ959が主役になる映画」ってのを企画した時に、そこに上手い理由を見つけ出すことが出来ず、強引で誰も納得できないような設定になっちゃったってことだろう。
だから「マサシを捜すためにはポルシェ959を走らせる」というトンチンカンな設定が全くハマらず、「ポルシェ959を走らせてヨーロッパ各地を巡りたい」という監督の欲望だけが見えてしまうわけだ。
そんな欲望のために、スタッフやキャストは駆り出されているのだ。
だけど、映画撮影の名目でヨーロッパへ遊びに出掛けたようなモンだから、そんなに悪い気はしなかったかもしれないね。

ポルシェ・ヴァイスアッハ開発センターのシーンになると、幹部がポルシェという会社や製造した車について説明する時間が設けられている。
ポルシェの協力を得ているので、その見返りってことなんだろう。
で、どういう経緯で何がどうなったのかは分からないが、無事にポルシェ959を借りられることになっている。
物語の中身を考えると、「こういう経緯で借りられた」という部分は重要なはずだけど、そこを省略しているってことは、「そんなことよりポルシェ959を写したい」ってことなんだろう。

ともかく島本がポルシェ959に乗り込み、立野の映画の撮影が開始される。で、どういうシーンを撮影するのかというと、ただ959の走る様子を捉えるだけ。
恐ろしいことに、それ以外は何のシーンも撮影しないまま、オーストリアのシーンは終了するのである。この映画としても、オーストリアに入った後は夕食のシーンがあるだけだ。
まあ、いかにもバブル時代の映画とは言えるだろう。
たぶん、監督が「ヨーロッパを縦断したいなあ」と考えて、特に意味も無いのに各国を巡る内容にしたんじゃないかな。
そういう「中身はスッカラカンなのに、無意味に海外で撮影された映画」ってのは、いかにもバブルって感じでしょ。

イタリアに入っても大して状況は変わらず、雪山で島本が立っているカットと、ミラノの町を歩くカットを撮影するだけ。そもそも島本の他に、キャストの姿が全く見えない。ホントに「マサシを捜す」という名目で、ほぼ車を走らせているだけなのだ。
たまに主人公である「リュウ」として島本が語るナレーションが入るけど、ホントに意味不明で、「マサシ、いや何と呼ぼうか」とか言う。
いや、「マサシ」以外に呼び名は無いだろ。
その後には「俺がマサシを求めて旅に出たのは、一人の友への追悼からだった。レース場に散った友よ。俺はお前の名前に重ねて、マサシと呼ぼう」と語るが、だからさ、マサシはマサシだっての。

その後にはモンツァのレース場でレース服を着た島本(リュウ)が花束を空に投げるシーンがあり、ようやく彼以外のキャストが登場する。
リュウが959を走らせ、マリーナがフェラーリで後を追う。リュウが車を降りてもマリーナは後を追うが、いつの間にか先回りして、すれ違ったまま歩き続ける。そして建物の窓から、リュウの様子を観察する。
どういうシーンなのかサッパリ分からない。
で、「マサシか」と島本が叫ぶと立野が撮影を止め、「叫ぶんじゃない。これはマサシに対する思いなんだ」と指示する。
また撮影を止めて、「これはマサシへの思いだ。思いに対する愛だ」と注意するけど、何を言ってるんだかサッパリ分からない。

島本がカマルドリィ隠遁所(カマルドリ修道院)を訪れ、修道士から話を聞くシーンがある。
最初は意味が不明だったが、通訳担当の男が「何年か前に日本人が来たことはあるそうですが、マサシという名前かどうかは分からない」などと話したので、そこで目的は分かる。
ただし、それが「リュウ」としてのシーンなのかどうかが分からない。
島本が個人的に訪れるのも変だから、やっぱり「リュウがマサシを捜している」というシーンなんだろう。だけど、撮影クルーは画面に全く出て来ないのよね。

島本は修道院に泊まった際、立野に「俺がこの話に乗ったのは、959があったからだ。959のことを初めて聞いたのは、あいつからだった。事故の1ヶ月前、ポルシェは凄い車を出すって。高校を出て1年間、俺とあいつは放浪した。そして、あいつはレーサーになった。1年前、あいつは風になった。俺はあいつにマサシを重ねた」と話す。
ってことは、「俺がマサシを求めて旅に出たのは、一人の友への追悼からだった」というのは、リュウじゃなくて島本としてのナレーションだったのか。もうねえ、ワケが分からんわ。
島本は「監督、マサシは本当にいたんですか」と問い掛けるけど、そこはホントにいたに決まってるだろ。ちゃんとアルバムも出してるし。今さら「マサシは実在しないかもしれない」という意味不明なミスリードを狙って、どういうつもりなのか。
で、「監督自身が分かってないんだ。そうでしょう?」と島本に指摘された立野は、「探しながら撮る映画だって存在するさ」と答える。
そういう映画も存在するだろうけど、それって監督としてはダメダメだろ。

記者の大原から「映画を企画した時、959に求めた物は何ですか」と質問された立野は、「この車はなぜ出来たか。人はなぜ959を作ったか。959は、我々が車という物に抱くイメージを明らかに超えた」と話す。
でも、車という物に抱くイメージは超えてないと思うぞ。
あと、「だから人間が作った何千年という時間の上に959を置いてみたかった。遺跡の上に置いてみることも必要なんですよ」という説明は、何が言いたいのかサッパリ分からない。

前述したように、「マサシを捜すためにポルシェ959が必要」という全く筋の通らない設定があるんだけど、それを本作品のシナリオは自ら破壊している。
何しろ、劇中劇のシナリオは「シチリアまでの旅」ってのが最初から決まっているのだ。
つまり、「マサシはシチリアにいる可能性が高い」ってことで最終目的地に設定されているわけで、それならシチリアに入るまではポルシェ959を走らせる意味なんて全く無いのよ。
そもそもの設定に無理がありまくりなのに、それさえも根底から覆すって、計算能力がゼロなのかよ。

ヤマシタがポルシェ959を引き取りに来ると、立野は「俺はそんな約束をした覚えは無い。車は渡さないからな」と拒絶する。しのぶが口を挟もうとすると、「映画を撮ってるのは俺だ」と声を荒らげる。
しかし山下が車を引き取ろうとするのを島本が怒って止めると、車を引き渡すよう促す。島本が「俺は嫌だ」と言うと、「映画を撮らない勇気、撮らない誇りだってあるんだ。映画なんて、そんな大げさなもんじゃないさ」と言う。
いやいや、そこまでは映画に対するイカれた情念を見せておいて、急に「映画を撮らない勇気、撮らない誇り」とか言われても。
っていうか「映画を撮らない勇気」があるとしたら、それは村野鐡太郎監督が持つべきだったね。

ヨーロッパ各地の観光地や美しい景色と、そこを走るポルシェ959の姿を写し続け、映画は着実に時間を消費する。
そして終盤に入ると、ようやくマサシが登場する、で、マサシは立野に「私はもう、君の知ってるマサシじゃない。日本のことも、日本人であることも忘れた」と話し、「音を捨てたのか」と尋ねられると「あんなものは、もうやらない。飽きた」と言う。
「ホントのことを聞かせてくれ」と立野が詰め寄ると、マサシは「神秘に心を奪われ、一つの教団の存在を知った」と言う。マサシは教団の正体がハシシを飲む組織だったこと、そこでヤク中になっていたレイラを助けて町に連れ帰ったことを話す。
さんざん引っ張って登場させたマサシに、そんなことを喋らせて、見ている側は何をどう感じればいいというのか。

マサシが女のために音を捨てたこと、それだけじゃなく右耳をやられていることを知った立野は、「もう、やれないのか」と問い掛ける。マサシがうなずくと、立野は納得した笑顔を見せる。
対面が終わったら劇中劇のシーンに切り替わり、リュウの「マサシは音を失った。俺はシチリアを歩き続けた。シチリアの太陽は眩しかった。広がり続けるサウンドの中で、マサシの魂に出会えたのだろうか。解決は未熟な終焉。俺を包むのは、青春という時間の成就なのか」という意味不明なナレーションが入る。
そして映画を完成させた立野はヤマシタに、「マサシは伝説になるんだ」と言う。
いや、なってないから。それは完全に立野の自己満足だから。

この映画が製作された当時、日本はバブルの真っ只中にあった。都会暮らしでバブルの恩恵に与っていた人々は、金を湯水のように使いまくっていた。だから高級車だって、バンバンと売れまくっていた。
ポルシェは言わずと知れた高級車であり、世界的な名門のブランドだ。だから当時、ポルシェを購入した人も、購入したいと思っていた人も、大勢いただろう。
しかし、そういう人々はポルシェが欲しいのであり、ポルシェが走る映像を劇場で見たいわけではないのだ。
ポルシェが走る映像を劇場で見たいと思う人なんて、よっぽど熱心なマニアぐらいだろう。
実際、この映画は何の話題にもならず、興行的にも芳しい結果を残せず、バブルと共に消え去った。
今となっては、カルト映画としての価値さえも持たない、すっかり忘れ去られた作品である。

(観賞日:2015年11月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会