『峠 最後のサムライ』:2022、日本

戦国の世を制した徳川家康が江戸に幕府を開き、約260年に渡る安泰で平和な世が続いた。しかし欧米列強の植民地政策によって大きなうねりを受け、混乱を極める騒然たる世の中が訪れた。十五代将軍の徳川慶喜は家臣たちを集めて大政奉還を宣言し、天下安泰のためだと述べた。慶喜が生まれ育った水戸藩には、『大日本史』を編纂した徳川光圀から言い伝えられた家訓があった。それは幕府が朝廷と対立する時には政権を返上しろといい教えであり、尊王の思いが強い慶喜は大政奉還を決意したのだ。
1867年に王政復古が行われたが、薩摩の大久保利通や西郷隆盛は承服しなかった。彼らは慶喜の首を要求し、鳥羽伏見の戦いが勃発した。国は東軍と西軍に二分され、戊辰戦争の火蓋が切って落とされた。越後高田城に集結した西軍は二手に別れ、長岡城下を目指した。長岡藩の家老を務める河井継之助は、兵学所で戦闘の訓練を積む家臣たちの様子を見学した。「西軍に歯向かえば逆賊扱いを受ける」と心配する藩士の川島億次郎に、彼は「あくまで戦いは避ける」と政治での解決を目指すことを語った。
継之助は東軍の目的が会津藩の撲滅にあることから、双方の調停役を務めようと考えていた。「もし双方が聞かなければ?」と川島に質問された彼は、「その時は聞かぬ相手を討つ。それによって、天下に何が正義であるかを知らしめる」と答えた。継之助は従僕の松蔵を伴い、藩医で友人の小山良運を訪ねた。軒先では良運の息子である正太郎が自身の技法で絵を描いており、それを見た継之助は称賛して「この絵の開祖になれ」と背中を押した。
良運と会った継之助は、長岡藩が貿易商のエドワルド・スネルからガットリング機関砲を購入したこと、武力が格段に上がったことを話す。彼は「長岡藩は自主独立の態勢を整えた」と言い、万一の時には藩主の嫡男をフランスへ亡命させる考えを明かした。継之助は「スネルと共に渡航の手続きをやってほしい」と良運に告げ、スネルに渡した金三千両の約定を見せて内密での処理を頼んだ。彼は正太郎の絵の腕前に言及し、好きな道を歩ませるよう勧めた。
継之助は長岡城で赴き、藩主の牧野忠恭と会った。忠恭は藩が佐幕派と勤王派で分かれていることを危惧し、心を一つにする策があるかと問い掛けた。継之助は「策はありません」と即答し、こうだと思う忠恭の気迫だけが藩を一つにすると説いた。忠恭が「徳川家を見捨てることは出来ない」と話すと、継之助は同調を示した。城を出た彼は、正太郎から絵のことで礼を言われた。継之助は正太郎に、風景だけでなく人物も描いてみるよう助言した。
帰宅した継之助は妻・おすがに、芸者遊びに誘う。彼は料亭「枡屋」の娘・むつから、「戦いはいかん」と言いながら戦いの準備を進めていることを指摘された。「戦うのですか」「負けるのですか」と問われた継之助は、「長尾は負けまい。だが、勝ちはすまいよ」と述べた。継之助の両親である代右衛門とお貞は、おすがとの間に子供を儲けようとしないことを気にしていた。継之助は座敷に芸者を呼び、妻と一緒に三味線の演奏に合わせて踊った。
帰り道、継之助は複数の侍が追って来たことに気付いた。彼はおすがと松蔵に、先に帰宅するよう指示した。継之助が待ち受けていると、追っ手は覆面の一団だった。継之助が「声まで変えるのは武士が廃るぞ」と説教すると、一団は覆面を外して素顔を晒した。彼らは長岡藩の勤王派であり、官軍に拝謁すべきだと主張した。継之助は薩摩と長州を卑劣な奸賊だと扱き下ろし、「忠義を心得ぬ腰抜けどもが」と一団を厳しく糾弾した。
憤慨した二人の侍が刀を抜いて襲い掛かると、継之助は攻撃をかわして川に突き落とした。残った面々は怯み、一人が「長岡藩を救う方策はあるんでしょうか」と継之助に尋ねた。継之助は「救う方策などは無い」と断言し、「地獄に落ちるならば、共に落ちようではないか。その不退転の覚悟だけが、藩を救う唯一の道だ」と述べた。彼が「不審なことがあれば、我が屋敷へ来い」と告げて立ち去ると、もう一団は襲って来る気配を見せなかった。
忠恭は家臣たちを集め、継之助は「我々は他を頼むことは出来ない。自分の力を信じる以外に藩の生きる道は無い」と説いた。彼が帰宅すると、スネルから取り上げたオルゴールが届いていた。継之助はオルゴールの音色をおすがに聴かせ、贈り物にした。継之助は軍目付の二見虎三郎と松蔵を伴い、小千谷の慈眼寺へ赴いた。彼は土佐藩軍監の岩村精一郎、薩摩藩士の淵辺直右衛門、長州藩士の杉山荘一郎と白井小助に会い、忠恭の勤王の志は厚いが藩内が勤王派と佐幕派に二分されているのだと説明した。
継之助は岩村に日時を貸してもらえれば必ず藩を統一し、会津や桑名、米沢の初藩を説得すると約束した。彼は嘆願書を渡し、大総督府に取り次いでほしいと要請した。岩村は無礼だと憤慨し、今まで長岡藩が官軍も軍費も出していないことを糾弾した。継之助は戦いを避けるための嘆願書だと話すが、彼は「問答は無用である」と一蹴した。それでも継之助は引き下がらずに持論を語るが、岩村は「もはや聞く必要は無い。帰って戦の用意をしろ」と立ち去った。
継之助は慈眼寺に留まり、執拗に取り次ぎを要求した。報告を受けた岩村は憤慨し、家臣たちに銃剣で追い払うよう命じた。談判が不調に終わった継之助は、億次郎に「武力に訴える以外、我が藩の面目を天下に示す方法が無い」と告げた。代右衛門はおすがに、継之助の夢は敗れたのだと語った。継之助は軍事掛の花輪求馬や山本帯刀たちと軍議を開き、南から長岡城へ向かう榎峠に重点を置くことにした。そこに武力を割いて、長岡城は予備隊に任せる作戦を彼は決定した。
継之助は城の西を信濃川が守ってくれると考え、そちらは何も気にしていなかった。しかし西軍が信濃川を渡って長岡藩に乗り込んで来たため、彼は作戦の修正を余儀なくされた。砲弾の音を耳にした良運は状況の変化を悟り、妻と娘たちに避難するよう指示した。継之助は長岡城へ行き、予備隊にガットリング砲の使い方を教えた。彼は長岡城を放棄して撤退し、会津・桑名・米沢藩と合流して東軍の力を結集することにした。会津・桑名・米沢藩の家老たちは、継之助が東軍の総督を務めることを承知した。継之助は長岡城を奪還するため、密かに八町沖を渡る作戦を立てた…。

監督は小泉堯史、原作は司馬遼太郎『峠』(新潮文庫刊)、脚本は小泉堯史、製作は大角正&木下直哉、共同製作は藤本鈴子&佐野真之&藤田浩幸&玉井雄大&宮崎伸夫&有馬一昭&野儀健太郎&室橋義隆&井戸義郎&小田敬三&佐藤隆夫&大橋武紀&務台昭彦&繻エ美樹&中野幹&出口和幸、エグゼクティブ・プロデューサーは黒田康太&小助川典子、プロデューサーは伊藤伴雄&関根真吾、共同プロデューサーは住田節子、シニアアドバイザーは奥田誠治、スーパーバイザーは原正人、撮影は上田正治&北澤弘之、美術は酒井賢、照明は山川英明、録音は矢野正人、編集は阿賀英登、殺陣は久世浩、音楽は加古隆、主題歌『何処へ』歌は石川さゆり。
出演は役所広司、仲代達矢、松たか子、東出昌大、佐々木蔵之介、井川比佐志、山本學、吉岡秀隆、香川京子、田中泯、永山絢斗、芳根京子、坂東龍汰、榎木孝明、渡辺大、AKIRA、綱島郷太郎、進藤健太郎、木原勝利、佐々木帯刀、沖原一生、高橋里恩、櫻井勝、鳥木元博、岡山和之、谷口公一、横山恒平、岡田賢太郎、会田泰弘、児玉純一、香川正樹、西村正明、田中良、徳山箔明、安藤裕之、小山田弘訓、日高智弘、遠藤崇之、馬場哲男、深谷心、岡けんじ、保科光志、大岩匡、宗円章浩、西山啓介、高野弘樹、尾崎雅幸、宇井源秀、並木敏郎、真島敏貴ら。


司馬遼太郎の長編時代小説『峠』を基にした作品。
監督&脚本は『阿弥陀堂だより』『蜩ノ記』の小泉堯史。
継之助を役所広司、忠恭を仲代達矢、おすがを松たか子、慶喜を東出昌大、良運を佐々木蔵之介、月泉を井川比佐志、長岡藩の老人を山本學、精一郎を吉岡秀隆、お貞を香川京子、代右衛門を田中泯、松蔵を永山絢斗、むつを芳根京子、正太郎を坂東龍汰、億次郎を榎木孝明、求馬を渡辺大、帯刀をAKIRA、虎三郎を綱島郷太郎が演じている。

冒頭、「徳川家康が江戸に幕府を開いて云々」という松たか子のナレーションで映画は始まる。
慶喜の演説には4分ほどを費やし、「家康の偉業を伝承するため」とか「幕府を倒そうとする連中を恐れているわけではない」とか「国の分裂と戦乱を避けるため」などと語らせる。
水戸藩の家訓についても説明が入り、納得しなかった大久保利通や西郷隆盛が戦争を起こしたことが語られる。
説明のために、浮世絵や肖像画、テロップや地図なども積極的に挿入されている。

継之助は川島や良運、忠恭など長岡藩の面々の前で、藩を救う方法について落ち着き払った様子で自身の考えを語る。岩村の元へ行った時も、自信たっぷりで堂々と振舞っている。
でも、ただ持論を何度も繰り返して説明するだけで、それが通らない時の策が何も無いのよね。
まあ確かに忠恭たちの前でも「藩を救う策は無い」とは言っていたけど、「自主独立で仲介役を引き受けて戦いを避ける」という方法は語っていた。そこには何の焦りも揺るぎも無かった。
なので、「マジで無策なのかよ」と言いたくなる。こいつが立派な男には、ちっとも見えないんだよね。

それなら最初から、「この策が通らなかったらどうしよう」という不安や、「他の方法を模索した方が良いのではないか」という逡巡を見せてくれた方が、人間味が出て魅力的に見えたんじゃないかと。
自身と余裕と貫禄に満ちた様子で描かれているせいで、彼の作戦が完全に失敗した時に、「こいつは無能じゃないのか」と疑問符が付いちゃうのよね。
岩村との談判にしても、ずっと態度が偉そうなんだよね。
岩村が憤慨して拒否しているのに、その態度を改めて詫びる様子は皆無だし。

粗筋ではカットしたが、岩村が帰れと命じて立ち去った後、継之助は虎三郎に彼を追い掛けて説得するよう指示する。この時、彼は「恥も外聞もなく頼んでくれ」と告げる。
だけど継之助自身は、ちっとも恥と外聞を捨てていないのよ。その後に寺へ留まって岩村の家臣たちに面会を要求する時も、ずっと高慢な態度を崩さないのよ。
こっちは何の取引材料も無くて、ひたすら頭を下げて頼む以外に方法は無い立場なのよ。それなのに慇懃無礼で、ずっと「こっちの話を聞くべきだ」と対等の立場で主張している感じなのだ。
そりゃあ岩村が怒るのも当然だろうと言いたくなる。
武士の誇りとか家老としてのプライドとか、そんなの気にしてる場合じゃないでしょ。

岩村に対して「なりふり構わず必死でお願いしている」という様子はゼロのまま、継之助は長岡藩に戻って来る。そして億次郎に会うと、「武力に訴える以外、我が藩の面目を天下に示す方法が無い」と話す。
だけど本気で武力衝突を避けようと思っていたのか、疑問を覚える。
「もっと必死であがけ、懸命に武力衝突を避ける方法を考えろ」と言いたくなるのよ。
結局はつまらないメンツやプライドを守ろうとして、愚かしい選択を取っているだけじゃないのかと。

継之助は億次郎に、「侍の道を忘れ、行うべきことを行わなかったら、後の世はどうなる?長岡藩全ての藩士が死んでも、人の世というものは続いて行く。後の世の人間に対し、侍とはどういうものか知らしめるためにも、この戦いには意義がある」と語る。
だけど彼の語る意義ってのも、つまらないプライドにしか思えないのよ。
どう頑張っても戦いを避けるのは無理だろうけど、それでも最初の選択を誤っていなければ、無駄に多くの犠牲を出さずに済んだんじゃないかと。
継之助の言動には、「立派な武士の矜持」を微塵も感じない。

岩村との談判が不調に終わった後、代右衛門がおすがに「あいつの夢は敗れた」と語るシーンがある。
ここで代右衛門は、「きわどい夢を見ていたのだ。日本中が戦争をしようという時に、長岡藩だけはどっちにも付かず、武力を整え独立しようと思っていた。こんな小さな藩が独立し、自分勝手な国を作れるかどうか。そのきわどさに、自分の夢を賭けていた」と話す。
そんな夢を思い描くのは勝手だけど、その実現のために長岡藩を動かすってのはアホすぎるだろ。
そのせいで周囲が迷惑を被っているじゃねえか。

継之助は「信濃川があるから城の西は大丈夫」と考えて榎峠に武力を集中させるが、東軍は川を渡って長岡藩に入る。これは東軍が利口で作戦の裏を突いたわけじゃなくて、ただ継之助の見通しが甘かっただけでしょ。
その後、長岡城を奪還する作戦の時に「銃を撃つな。抜き身で斬り込め」と命じているのは謎で、「いや普通に銃を撃てばいいだろ」と言いたくなる。
城を奪還した後も空鉄砲だけで敵を追い払うよう指示しているけど、これも意味不明。「敵兵であっても、なるべく犠牲者を出したくない」という思いを語っているわけでもないし。
弾丸を節約する意図がある様子も無いし、目的がサッパリ分からない。

継之助は援軍に向かう途中、背後に現れた敵軍の砲撃を受けて足に怪我を負う。でも、この一連のシーンにアップが無いので、撃たれて倒れたのが継之助ってことが分かりにくい。
そこを引きの絵だけで構成するメリットなんて何も無いので、どういうつもりなのかと。
で、そこで怪我した継之助が回復することは無く、「衰弱して満足に動けない敗残兵」の状態がずっと続いて、ボンヤリとした死が訪れる。
史実だから仕方が無いんだけど、尻すぼみな展開だと感じる。死に様で話を盛り上げることも無いしね。
なので物語としても、長岡城を奪還した四日天下のパートが、天保山レベルの低いピークになっている。

(観賞日:2023年12月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会