『トパーズ』:1992、日本
22歳のアイは、出張SMクラブでSM嬢として働いている。ある日、彼女は占い師から、3つの助言を守れば幸せになれると告げられる。1つ目はテレビの下に電話帳を置くこと、2つ目は東の方角の美術館に行かないこと、そして3つ目は、桃色の石を見つけて、それで指輪を作るということだ。アイは宝石店に行き、トパーズの指輪を買った。
アイは指輪をはめて、客に呼び出されたホテルの部屋に行く。客の西岡は、アイを下着姿にしてカーテンの開いた窓際に立たせ、ゆっくりとパンティーを脱ぐよう指示する。西岡はアイの脱ぎ方に納得せず、何度も同じことを繰り返させる。夜になり、西岡は自分の女を呼んで、バイブを陰部に突っ込んだアイの前でセックスを始める。
翌朝、部屋を出たアイは、指輪を失くしたことに気付く。彼女は西岡の部屋をノックするが、彼は出て来なかった。後日、アイは西岡に呼ばれるが、彼の女が傷だらけになっているのを目撃して逃げ出した。別の日、アイは女から指輪を返してもらった。
アイは、かつて付き合っていたミュージシャンの須藤が、ロンドンから帰国していることを知った。須藤には妻がいたが、アイは彼に会いたい気持ちにかられる。そんな中、アイは大金を稼ぐSMの女王様サキに出会い、彼女からアドバイスと薬を貰う…。監督&原作&脚本&音楽選曲は村上龍、プロデューサーは鈴木愛孝&平尾忠信&永田陽介、エクゼクティブ・プロデューサーは多賀英典、助監督&編集は片島一貴、撮影&照明は青木正&長井和久&高橋利俊、録音は臼井勝。
主演は二階堂ミホ、共演は天野小夜子、加納典明、三上寛、島田雅彦、草間彌生、瀬間千恵、えーりじゅん、石原正康、野崎名美、芹沢里緒、須藤晃、信太昌之、中野亮、神田正夫、西条あきら、香川玲子ら。
村上龍の同名小説を、彼自身が脚本化し、音楽選曲も担当し、メガホンを執った作品。彼にとって、監督第4作目となる。アブノーマルなセックスにドラッグと、まさに村上ドラゴン先生の得意とする世界の話である。主役のアイを演じるのは、新人だった二階堂ミホ。サキを演じるのは、本物のSM嬢だった天野小夜子。
加納典明(ヘンタイ麻薬男の西岡役)、三上寛(変態ブルジョア男の役)、島田雅彦(ヘンタイ注射男の役)、草間彌生(怪しい占い師の役)といった個性的な面々が出演しているのは、やはり村上龍という人の、作家としての名前があったからだろう。村上龍という人は、小説で得た名声を、映画を監督することで貶めるという作業を幾度にも渡って繰り返しているような気がする。何度も酷評されても監督をするのは、それだけ映画に対する情熱が強いか、相当のマゾヒストか、どちらかだろう。
英語で表示されるタイトルの通り、トーキョー・デカダンス、退廃の世界が描かれている。悪趣味だと眉をひそめる人がいるかもしれない。女性に対する偏見があると怒る人がいるかもしれない。だが、この作品は、ある意味では無味で、何の害も無い。大半の人々から評価が放棄されたようなモノに対しては、それが人々にとって害であるかどうかを考える必要など無い。どうせマニアックであったりブルジョアジーであったりする一部の人しか見ないのだから、取り立てて騒ぐほどではないということだ。
一見すると、SMの世界がリアルに描かれているようだが、実は乙女チックな視線を強く感じる。SMの世界に、「OLなんかよりも遥かに偉い」とか、「そこに真実がある」といったような、何かしらの幻想を抱き、訴え掛けようとしているように見受けられる。ここでは、幻想という枠が拡大解釈され、「何でもあり」の展開となる。いきなりキチガイ女が現れて歌い始めても、その女が出てきただけで警察が引き下がっても、夜の公園に唐突にパントマイム男が現れても、「何でもあり」なので、全てOKなのだ。
ゆったりと時間は流れ、1つ1つのシーンをじっくりと見せていく。取り立てて意味があるとも思えないようなシーンでも、長くフィルムを回して映し続ける。監督としては、そういう演出に明確な意図があるのだろうが、悲しいかな、ユルいとしか思えない。考えてしまったり、疑問を抱いたりするような部分も無いわけではないが、すぐに「まあ、どうでもいいや」と思ってしまう。思考を放棄したくなってしまうぐらいの“負”のエナジーを持っているという意味では、凄い映画なのかもしれない。
一部の例外的な人々を除いて、徹底的に酷評されるか、あるいは完全に無視されるか(つまり、そもそも評価を下すも何も、最初から相手にされなかったということだ)という状態だった作品だが、この映画には、立派な存在意義がある。この映画の大きな存在意義は、二階堂ミホという女性の人生を変えたことだ。
この作品を見たハル・ハートリー監督が、自身の映画に彼女を出演させ、そして結婚に至った。やがて二階堂ミホという人は、ニューヨークでファッションデザイナーとしても活動するようになった。
そういう意味で、この映画には大きな存在意義があるのだ。