『トウキョウソナタ』:2008、日本

健康器具メーカーのタニタは、総務部を中国の大連に移す計画を本格的に進めることを決定した。総務課長を務めていた佐々木竜平は、人事部長の児玉から「総務を離れて何が出来ますか。我が社のために何を提供してくれますか」と質問される。「全て佐々木さんの自由です。タニタで100%の能力を発揮して下さるか、それとも、ここを去って頂くか」という児玉の言葉は、辞職勧告を意味していた。会社を辞めた竜平は、スーツ姿の男が無職の友人から「運が尽きる前に、ハローワークに行っとけ」と助言されている様子を目撃した。すぐに竜平はハローワークへ行くが、その日の受付は終了していた。
普段より早く帰宅した竜平は、妻の恵や次男の健二には事実を隠した。翌朝、竜平は今までと同じように、スーツに身を包んで家を出た。長男の貴は友人のバイクに乗せてもらって帰宅し、恵に「寝るから掃除機掛けないで」と告げて自分の部屋に入った。小学6年生の健二は、授業中に友人から回って来た漫画雑誌を隣に渡そうとしたところで教師の小林に見つかった。小林は健二の所持品だと決め付け、「こういうことをコソコソする人間を俺は徹底的に軽蔑する」と告げた。
回って来ただけだと訴えても小林は聞き入れず、後ろで立っているよう命じた。すると健二は、小林が電車内でエロ漫画を読んでいたことを指摘した。生徒たちが騒ぎ出す中、小林は「ここで言うことじゃないだろう。卑怯じゃないか」と述べた。授業が終わった後、生徒たちは「これからあいつのこと、エロ林って呼ぼうぜ」と盛り上がるが、その輪に健二は加わらなかった。彼は小林の元へ行き、「さっきは言い過ぎました。みんながあんな風に反応すると思わなかったから」と謝罪した。
「もういいよ。どうせ卒業まで1年も無いんだ」と小林が冷たく言うとと、健二は「あの漫画、本当に僕のじゃないんです。だから僕だけが立たされるのは納得がいかなくて」と告げる。すると小林は、「これ以上、お互いの傷口を広げるようなことはやめよう。君は俺を無視していい。俺も君を無視する」と語った。かねこピアノ教室の前を通り掛かった健二は、ピアノ教師の金子薫が女の子を教えている様子を見つめた。薫が気付くと、彼は立ち去った。
竜平はハローワークの列に並び、担当職員と会う。工場の警備やスーパーの店長という仕事を提案され、竜平は納得いかない態度を示す。「これでも以前はタニタの総務課長でした」と彼が言うと、職員は「以前と同じ条件というのは有り得ません」と現実を告げた。夕食の時、竜平は恵に「貴は?」と尋ねる。恵は「大学へ行くって言って、昼間に出て行ったきり」と答えた。健二が「ピアノやりたい」と言い出すと、竜平は「駄目だ、唐突過ぎる」と却下した。
貴は昼を過ぎてから帰宅し、恵が残しておいた昼食を取る。恵は嬉しそうに、取得した運転免許証を見せた。2週間が経った頃、竜平はホームレス向けの食事配給所で列に並び、食事にありついていた。高校時代の友人である黒須を見つけた彼は、声を掛けた。黒須は携帯で誰かと話し、忙しそうな様子を見せた。しかし黒須が配給に興味を示したのを見て、竜平は「ひょっとして失業中なのか」と問い掛けた。すると黒須は「分かるか」と言い、3ヶ月前から失業中だと明かす。
黒須は竜平が失業したことも分かっていた。さらに彼は、1時間に5回鳴るように携帯をセットしていることを教えた。黒須は竜平に、給料の振込口座とは別に口座を作っておくよう助言した。他にも幾つかの助言をする黒須の落ち着き払った様子を見て、竜平は感心した。健二はゴミ捨て場でキーボードを見つけ、家に持ち帰った。彼は恵に気付かれないよう自室にキーボードを持ち込み、音を消して鍵盤を弾いてみた。健二は恵から渡された給食費を、月謝として薫に渡した。「もう6年生だから1人でやりなさいと言われました」と嘘をつくと、薫は来週からレッスンに来るよう告げた。まだ健二が残っているので、彼女は「何か弾いてみて」とピアノの前に座らせた。
竜平は黒須から、「最近、帰宅時間が早くなってる。女房にバレてないかな。ヤバいんだよ」と不安を打ち明けられる。「女房の疑惑を解かないと。夕飯を御馳走するから家に来てくれ」と言われ、竜平は彼の家を訪れた。黒須は竜平を会社の同僚だと紹介した。彼は妻と中学2年の娘・美佳の3人で暮らしていたが、夕食の場で会話は全く弾まなかった。黒須が嘘の電話で席を外した時、妻は彼が会社のことを全く話してくれない」と寂しさを竜平に吐露した。竜平が「会社は順調ですよ。何も心配要りません」と言うと、彼女は「どうか黒須のこと、守ってやって下さい」と告げた。
竜平は会社の面接を受け、若い面接官に「何が出来ますか」と問われる。彼が「何でもやれると思います」というと、面接官は「何でもじゃ分からない。貴方の得意とする物を、ここで見せて下さい」と述べた。竜平は「人との関係を円滑に進めて行くことに関しては自信があります」と語るが、「他には?」と訊かれて言葉に詰まってしまう。面接官は「受かればめっけもんという気持ちで来たんですか」と冷たく言い、「じゃあカラオケでもいいですよ。歌って下さい。そこのペンをマイク代わりにして」と告げる。それは馬鹿にするような態度だったが、竜平は素直に従った。
面接を終えた彼は、黒須の前で激しい怒りをぶちまけた。竜平が「俺は何でも受け入れる用意がある。それなのに、どうして向こうは受け入れない?」と言うと、彼は「行っちゃったんだよ、救命ボート」と告げて配給の列に並んだ。恵は車を見に行った帰り、配給で食事を受け取る夫と黒須の姿を目撃した。貴は友人とティッシュ配りのアルバイトをするが、全く減らないので川に捨てた。健二はレッスンの最中、薫が電話で「弁護士の方には連絡しておきます。じゃあ、これで。私も連絡しませんから、そっちからも電話しないで下さい」と話しているのを耳にした。健二が気にしている素振りを示すと、彼女は「離婚しちゃった。前からバラバラだったし。そんなもんねえ、夫婦なんて」と述べた。健二は「金子先生の気持ち、分かります。僕も最近、1人でいる方が落ち着くんです」と述べた。
貴は恵に、米軍兵になるための書類を見せた。困惑する恵に、彼は「アメリカ国民でなくても志願できる制度が出来たんだよ。テレビでもやってたでしょ。その第一期生の書類審査に受かったんだ。後は身体検査と思想検査を受ければ合格」と語る。「まだ未成年だから親のサインが要るんだ」という言葉に恵が黙り込んでいると、貴は「駄目ならいいや。そういう親たちの代わりに身元を保証してくれる団体もあるし」と告げた。
黒須が配給所に姿を見せなくなり、気になった竜平は彼の家を訪ねた。すると近所の女性が、「黒須さん、無くなりましたよ。ご夫婦とも。一昨日の昼間にガス中毒で。無理心中だったみたいですね」と告げた。竜平は身内らしき男性と共に立ち去る美佳を目撃した。帰宅した彼は、貴が入隊検査を受けることを知った。書類へのサインを頼まれた竜平は、「絶対に許せない」と拒絶した。「日本の平和を守ってるのはアメリカ軍なんだよ。俺は親父や母さんや健二を守ってやりたいからアメリカの軍隊に入るんだよ。それがこの国の仕組みでしょう」と、貴が正当性を主張した。
竜平は「分かったような口をきくな。この言うでは俺がお前たちを守る。それがこの家の仕組みだ」と言い、反発する貴に「出て行け」と怒鳴る。貴は「親父さ、俺らのことを守るって言ってるけどさ、毎日何やってんだよ?答えらんねえじゃん」と指摘し、荷物をまとめて家を出て行った。健二は薫から、「貴方には才能があります。しかも並外れた。だから貴方は音楽専門の中学に行くべきだと思う。これは大切な話だから、御両親に直接会ってお話させて」と話す。健二は「父はピアノに反対なんです。それに今はウチで色々あって。親には自分で言います。もう少し待って下さい」と頼んだ。
ハローワーク通いを続けていた竜平は、ショッピングモールの清掃員として働くことにした。彼は先輩から仕事の説明を受け、慣れない仕事に臨んだ。貴が旅立つ日、恵は深夜バスの乗り場まで見送りに行く。「離婚しちゃえば?それだけが気になってさ」と貴に言われた彼女は、「あの家のお母さん役、誰がやるのよ。そんなに簡単じゃないわ。お母さん役も、悪い時ばっかりじゃないのよ」と語った。バスに乗り込んだ貴は、母に敬礼のポーズを見せた。仕事を終えた竜平は、先輩がトイレでスーツ姿に着替えて帰宅するのを見て驚いた。恵は小林に呼び出され、健二が給食費を払っていないこと、無断での早退を繰り返していることを知った…。

監督は黒沢清、脚本はマックス・マニックス&黒沢清&田中幸子、エグゼクティブ・プロデューサーは小谷靖&マイケル・J・ワーナー、プロデューサーは木藤幸江&バウター・バレンドレクト、共同プロデューサーは椋樹弘尚、アソシエイト・プロデューサーはレイモンド・パッタナーウィラクーン、ラインプロデューサーは武石宏登、撮影は芦澤明子、照明は市川徳充、美術は丸尾知行&松本知恵、録音は岩倉雅之、編集は高橋幸一、音楽は橋本和昌、音楽プロデューサーは和田亨。
出演は香川照之、小泉今日子、役所広司、小柳友、井之脇海、井川遥、津田寛治、北見敏之、でんでん、波岡一喜、児嶋一哉(アンジャッシュ)、伊藤正之、高川裕也、皆木勇紀 、下江昌也、杉山彩子、土屋太鳳、井上肇、望月章男、河原健二、黒田大輔、鈴木英介、日比大介、樋口浩二、高畑翼、西村太佑、児玉貴志、王雪丹、渡辺道子、高山奈央子、大枝佳織、峰剛一、小林ベイカー央子、孕石きよ、本川嵐翔、藤井太一、金沢まこと、Nasa、Zenous、Jason Gray、鹿野桃ら。


『ドッペルゲンガー』『LOFT ロフト』の黒沢清が監督を務めた作品。
第61回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞、第44回シカゴ国際映画祭審査員大賞など、世界中で数多くの映画賞を獲得した。
オーストラリア人映画監督のマックス・マニックスと、東京藝術大学大学院映像研究科で黒沢清監督の教え子だった田中幸子が脚本を担当している。
竜平を香川照之、恵を小泉今日子、強盗を役所広司、貴を小柳友、健二を井之脇海、薫を井川遥、黒須を津田寛治、児玉を北見敏之、先輩清掃員をでんでん、面接官を波岡一喜、小林を児嶋一哉(アンジャッシュ)が演じている。
美佳を演じた土屋太鳳は、これが映画デビュー作。

それにしても、この映画にタニタが協力した理由は、サッパリ分からない。
だって、「これまで長年に渡って会社のために働いて来た男を冷徹に解雇する」という会社として描かれており、明らかに悪役扱いなのよ。その後、「タニタの方針は正しかった」というフォローが入るわけでもない。どう考えたって、何のメリットも無いでしょ。
この映画を見て「タニタに入りたい」とか「タニタの商品を買いたい」とは思う人は、たぶん皆無に等しいだろう。
まあ、「こんな映画に協力したのはアッパレ」ってことで好感を抱く人もいるかもしれんけど、あまり実りが多いとは思えないんだよなあ。

黒沢清監督の映画を見る上で大切なポイントは、「リアリティーなんて、これっぽっちも無いよ」ってのを受け入れる必要があるということだ。
剣と魔法の世界が舞台だったり、宇宙人怪獣が登場したりすれば、「リアリティーは無い」というのも受け入れやすい。
現代の日本が舞台であっても、おバカなノリで始まったり、荒唐無稽なキャラクターが弾けていたりすれば、これまたリアリティーの無さを受け入れるのは難しくない。
そういう意味では、黒沢清監督の映画はタチが悪い。

黒沢清監督の作風は、いかにもリアリティーを重視ているような雰囲気が強く漂っている。しかし実際にはリアリティーなんて無視しているから、それを受け入れることが難しくなる。
それに気付かない多くの観客は、「リアリティーのある物語」という誤解を持ったまま映画を観賞することになる。
だから、途中でリアリティーの欠場したシーンやエピソードが登場した時に、「おやっ?」と引っ掛かってしまうことになる。
少しばかり引っ掛かるだけならマシだが、場合によっては「もう無理」と拒否反応を示すことに繋がる。

実は導入部から、「リアリティーの欠如」は漂っている。
会社を辞めた竜平が屋外で腰を下ろした際、スーツ姿の男たちが3人ほど座っている。
それは「竜平と同じようにリストラされたサラリーマン」を思わせるが、そんな状況からしてリアリティーは薄い。絶対に無いとは言わないが、「いかにも作られた風景」というイメージが強い。
カットが切り替わると背後に無職男とスーツ姿の男が現れ、「こんな所へ来る前に、ハローワークへ行ったのか」「いや」「運が尽きる前に、ハローワークに行っとけ」という会話があるのも同様だ。

それでも「現実感に溢れた内容」と感じさせてしまうのは、たまたま黒沢清監督が描こうとした内容が現実的な内容に沿っていただけだ。最初から彼が「リアリティーを追及して描こう」として生み出された結果ではない。
だから途中でリアリティーの世界観から大きく逸脱するシーンが到来した時、急に道を外れたような印象を観客は受けるだろう。
それは当然とも言えるが、実は急に外れたわけではない。
最初からリアリティーななど考えずに構築されていた世界観に、たまたまリアリティーから外れた描写が少なかっただけなのだ。

映画開始から45分辺りで、リアリティーから大きく逸脱した1つ目のシーンが待ち受けている。
貴が恵にアメリカ軍の兵士になることを明かし、「アメリカ国民でなくても志願できる制度が出来たんだよ。テレビでもやってたでしょ。
その第一期生の書類審査に受かったんだ。後は身体検査と思想検査を受ければ合格」と語るシーンだ。
貴が家族から離れようとする形として、別の選択肢を用意しておけば、そこで「急にリアリティーが無くなったな」という印象を与えることは回避できただろう。
だが、そもそも黒澤監督はリアリティーなんて全く求めていないから、そんなのは平気なのだ。

後半に入ると、強盗が侵入して恵を拘束する展開がある。この強盗と恵の絡むエピソードも、リアリティーから大きく逸脱する。
そこに必要なのは「恵が家を出る」という展開であり、そのために強盗を利用して「強盗が恵を連れ去る」という形にしてあるのだが、かなり違和感の強い中身になってしまっている。
急に恵と強盗の間で「男女の関係」とか「心の絆」みたいなモノを構築しようとするのだが、そういうことをやりたいなら、それだけで1本の映画にしないと厳しいだろう。
急に強盗を登場させて、必要な展開のために利用するもんだから、おかしなことになってしまうわけだ。
しかし繰り返しになるが、黒澤監督はリアリティーは最初から求めていないから、そんなことになっても一向に平気なのだ。

健二が長距離バスの荷物室に隠れて運転手に見つかり、無賃乗車で黙秘していたら刑事が「大人と同じ扱いをする」ということで指紋押捺させ、マグショットを撮影して大人が大勢いる留置場に放り込むってのも、これまたリアリティーに欠けている。
翌朝になって「不起訴になった、釈放だ」と警察署から出されるのもメチャクチャだ。家出少年かもしれない小学生を、たった1人で放り出しちゃうんだぜ。
そもそも、その大勢いる地下の薄暗い留置場そのものがリアリティーに欠けているし。
だけど、そういうリアリティーの無さこそ、むしろ黒澤清監督らしさと言えるんじゃないだろうか。

前半、バイトが休みで珍しく貴が夜も家にいる日、久々に家族4人で夕食を取るシーンがある。
その時、竜平がゆっくりとビールを飲み終えて「いただきます」と言うまで、他の3人は黙って見守っている。彼が「これから食事を始める」という体勢に入るまで、家族が箸に手を付けることは無い。
そのシーンは、この家族の在り様を顕著に示している。
「父親が絶対的な権力者であり、家族は彼に服従する」という、昔気質の家父長制度が残っている家族なのだ。

ただし、それは家族全員の合意によって形成された制度ではない。竜平が家族に強いている制度だ。
妻と息子たちは、いつもは従順に彼の強権制度を受け入れているが、それを全面的に肯定しているわけではない。仕方なく従っているだけだ。だから貴にしろ健二にしろ、ある出来事をきっかけにして今までの鬱憤が爆発する。
しかも竜平は、その家父長制度を納得させられるような父親ではない。貴から「俺らのことを守るって言ってるけどさ、毎日何やってんだよ?」と指摘されると、竜平は何も答えられなくなる。
彼は権威をふりかざすが、それに見合うだけの内容がある父親ではないのだ。

ただでさえ振りかざす権威に見合う中身の伴わない父親だった竜平は、タニタをクビになったことで、ますます威張るための後ろ盾を損失してしまう。
しかし仕事を失ったことが、逆に彼の家族に対する態度を強権的にしてしまう。
なぜなら、彼がプライドを守るための場所が、そこしか無いからだ。
家族に対して威張ることで「俺は権威があるんだ」と主張し、今までの立場を保っておかないと、自分という存在が空っぽになってしまうのだ。

健二のピアノ教室通いが露呈した時、竜平は「隠れてコソコソやって、見つからなきゃいいっていう考えが、お父さんは一番嫌いだ」と非難する。
しかし、彼自身もリストラされたことを家族に隠しているのだ。
「お前がちゃんと話さないから、こうなるんだ」と彼が言うと、健二は「ちゃんと話せば分かるなんて嘘だ。幾ら話しても自分の意見を絶対に変えないだけじゃない。ホントはただ説教して威張りたいだけなんでしょ」と指摘する。
それに対して竜平がビンタを浴びせるのは、その指摘が事実だからだ。

恵から「いいじゃない、ピアノぐらい」と言われた竜平は、「一度ダメだと言ったものを簡単に撤回できない。これは親の権威に関わることだ」と話す。
つまり彼にとっては、「権威」が何よりも重要なのだ。
「貴には何でも好きにやらせて失敗した。だから健二には無理にでも俺の価値観を押し付ける」という暴言を口にした彼は、冷たい視線の妻から「こないだ見ちゃった。食事の配給に並んでるところ。貴方、失業中なんでしょ」と告げられる。「なんで言わない?」という問い掛けに、恵は「言ったら貴方の権威が丸潰れになるけど、それでもいいの?」と怖い口調で言う。
「潰れちゃえ、そんな権威」と、恵は竜平の愚かしい権威主義を短い言葉で切り捨てる。

竜平を覗く家族3人は、みんな彼の権威主義が愚かしいことを以前から分かっていた。竜平だけは権威を守ろうとしていたが、それが愚かであることを指摘されてしまった。
完全に家族は崩壊するが、しかし全員が「やり直したい」と考える。
そしてラスト、貴だけは中東に留まることを選ぶが、残る3人には「再生」への兆しが見える。
白山音大付属中学審査会場で健二がドビュッシーの『月の光』を見事に演奏し、両親と共に立ち去る様子には、一応の「再生」が匂う。

ただし、家族をやり直すために「健二に天才的な才能があった」という部分に頼らなきゃいけないってのは、ものすごく危うい。
それは自分たちが変化する、成長するということじゃなくて、「これからは健二に依存して生きていこう」ってことだから。健二が挫折したり、他の道に進んだりしたら、たちまち家族は再度の崩壊を迎える可能性が高い。
なので、そのラストシーンは、決して明るい未来を思わせる着地ではない。
ただ、そういうことを抜きにして、その『月の光』は卑怯なぐらい泣けちゃうんだけどね。

ちなみにラストの『月の光』は、もちろん実際に井之脇海が弾いているわけではなく、ピアニストである高尾奏之介の演奏が使用されている。
ただ、演奏している時に手元だけアップにしたり、逆に手元を写さなかったりして誤魔化すケースが多いが、ちゃんと演奏中の全身を捉えるショットがある。
それが出来るってことは、プロが見れば「音と指の動きが合っていない」ってのもバレバレなんだろうけど、素人が見る限りは井之脇海が実際に弾いているように見えるのだ。
これはお見事だわ。

(観賞日:2015年5月22日)


第5回(2008年度)蛇いちご賞

・男優賞:役所広司
<*『パコと魔法の絵本』『トウキョウソナタ』の2作での受賞>

 

*ポンコツ映画愛護協会