『東京家族』:2013、日本

開業医の平山幸一と妻・文子、中学生の長男・実と小学生の次男・勇は、東京郊外の家で暮らしている。瀬戸内海の小島に暮らす幸一の父・周吉と母・とみこが上京してくることになり、文子は準備を整える。周吉ととみこは新幹線で上京するため、次男の昌次が品川駅まで車で迎えに行っている。実は祖父母を泊めるのに自分の部屋が使われると知り、文子に不満を漏らす。やがて幸一の長女・滋子が幸一の家にやって来る。昌次を迎えに行かせたのは彼女だ。いつも両親に心配ばかり掛けている昌次に、たまには親孝行の真似事ぐらいしなさいと告げたのだ。しかし、既に品川駅へ到着しているはずなのに、何の連絡も無かった。
滋子は昌次からの電話で、まだ周吉ととみこが到着していないと聞かされる。奇妙に思って詳しく尋ねると、昌次は間違えて東京駅にいた。滋子はとみこに電話を入れ、事情を説明して少し待つよう告げる。せっかちな周吉は昌次が来るのを待たず、タクシーで行くことにした。夕方になって、周吉ととみこが幸一の家に到着した。実が塾へ出掛けるのと入れ違いで、昌次がやって来た。夕食後、周吉は服部という旧友のことを話題に出した。東京で高校教師をやっていた服部が1年前に死去したので、近所に住む旧友・沼田の案内でお悔やみに行くつもりだと彼は語った。妻に先立たれている沼田は、息子が大会社の部長なので羽振りが良いらしい。
次の日、美容室『ウララ』を営む滋子は、夫の庫造に両親のことを話す。周吉ととみこは、しばらく幸一の家で滞在した後、滋子の家にも来ることになっている。庫造は滋子に、教師だった周吉は話が理屈っぽいので苦手だと笑いながら語った。その日は日曜で、幸一は両親を横浜までドライブに連れていこうとする。実は野球部の練習があるが、文子と勇も一緒だ。しかし急な往診が入ったため、幸一は予定を中止せざるを得なくなった。勇が文句を言うので、とみこは彼をなだめて外へ連れ出した。
周吉ととみこは滋子の家へ移るが、ずっと雨が降り続いたので、2階の狭い部屋でじっと過ごすしか無かった。退屈そうにしている周吉を、庫造は駅前の温泉に誘った。滋子は昌次に電話を掛け、「明日は天気もいいらしいから、都合付けてどっか案内してやってほしいの」と頼む。周吉と折り合いの良くない昌次は、「お袋一人ならいいいけど、親父もいるんだろ。親父だって俺の顔なんかあんまり見たくないんじゃないか」と難色を示す。しかし滋子に説得され、渋々ながら了承した。
翌日、昌次は周吉ととみこを遊覧バスに乗せ、東京の名所を巡る。昼食を取るために鰻屋へ入った時、周吉は何で生計を立てているのかと昌次に訊く。昌次は舞台美術のアシスタントをしているのだが、周吉には真っ当な仕事に思えない。将来の見通しを尋ねられた昌次は、「あんまり考えたことないんだ」と答える。周吉は「そんなら行き当たりばったり生き方か。ようするに楽をして行きたいんじゃろ」と声を荒らげ、とみこが穏やかな口調でなだめた。
滋子は幸一に、お金を出し合って横浜の豪華ホテルに両親を宿泊させようと提案する。店の常連客がホテルのの支配人夫人で、かなり安く泊めてもらえるのだという。共に多忙で両親の面倒を見ることが難しく、豪華ホテルに泊まってもらった方が親孝行になるというのが彼女の考えだった。周吉ととみこは横浜のホテルに泊まるが、周吉は部屋から全く出ようともしなかった。2人はホテルのレストランで夕食を取るが、豪華な食事は口に合わない。おまけに夜中まで外国人観光客が騒ぎ立てたため、なかなか寝付けなかった。
周吉ととみこが2泊3日の予約を切り上げて次の日には戻って来たので、滋子は困ってしまう。彼女は両親に、「今夜は商店街の飲み会があるの。夜遅くまで掛かるのよ。今夜はウチに居られては困るの」と話した。周吉は服部の家へ立ち寄った後、沼田の家に泊めてもらおうと考えた。とみこは昌次のアパートに泊めてもらうことにした。周吉は沼田の案内で、服部の妻・京子が住むアパートを訪れた。周吉は服部から、教師として様々なことを教わっていた。
とみこは昌次のアパートを訪れ、息子のために夕食を作った。昌次は母に紹介するため、書店で働く恋人の間宮紀子を呼び寄せた。昌次は彼女と結婚の約束を交わしていた。とみこは紀子に好感を抱き、「とってもいい感じの人ですね」と述べた。周吉は沼田に連れられ、彼が通っている居酒屋『かよ』を訪れた。酒を断っていた周吉だが、沼田がしつこく勧めるので仕方なく飲んだ。沼田は周吉に、「お前んとこはええのお。子供がみんなしっかりしてるから。ウチの息子は俺を邪魔にする」と愚痴をこぼした。
かなり酔っ払った沼田は、息子が印刷会社の係長なのに、体面を気にして周囲には部長だと嘘をついていることを打ち明けた。彼は自分の息子を「出来損ないのボンクラじゃ」と扱き下ろし、開業医の息子を持つ周吉を羨ましがった。すると周吉は、「決して満足はしとらん」と口にした。沼田が「息子の嫁は、俺が客を連れて来ると嫌がるんだ」と話したので、周吉は泊めてほしいと言い出せなくなった。
沼田は居酒屋の女将・かよについて、周吉に「死んだ俺の家内に似とるじゃろ」と告げた。周吉は沼田に「お前が一番幸せじゃ」と言われ、「それほどでもない。みんな東京へ行ってしもた。ワシらの故郷は寂しゅうなるばかりじゃ。どっかで間違うてしもたんじゃ、この国は。このままじゃいけん」と語る。酒が進んで悪酔いした彼は、店で眠り込んでしまった。一方、とみこは紀子が去った後で昌次と話し、周吉にもちゃんと彼女のことを話すよう説いた。
翌朝、昌次が仕事で出掛けた後、とみこが部屋の掃除をしていると、紀子がやって来た。冷蔵庫の中身が寂しかったので、食料を届けに来たのだ。とみこは紀子に、昌次には経済観念が欠けていることを教える。すると紀子は微笑を浮かべ、「分かってます。今までそんなことで、何度も喧嘩もしたもの。でも私、昌ちゃんのそういうところが好きなんです。イタリア製の古い車に夢中になったりするところが。だから大丈夫よ」と語る。とみこは礼を述べ、昌次のために用意しておいた金を「何かあった時のために」と彼女に預けることにした。とみこは幸せな気分で幸一の家にやって来るが、急に倒れて意識不明の状態に陥ってしまう…。

監督は山田洋次、脚本は山田洋次&平松恵美子、製作総指揮は迫本淳一、製作は秋元一孝、プロデューサーは深澤宏&矢島孝、撮影は近森眞史、美術は出川三男、照明は渡邊孝一、編集は石井巌、録音は岸田和美、スペシャルアドバイザーは横尾忠則、衣裳は松田和夫、助監督は花輪金一、プロデューサー補は秋田周平、音楽プロデューサーは小野寺重之、音楽は久石譲。
出演は橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵(九代目)、妻夫木聡、蒼井優、小林稔侍、風吹ジュン、茅島成美、柴田龍一郎、丸山歩夢、荒川ちか、西田麻衣、松野太紀、田中壮太郎、磯西真喜、近藤公園、伊東達広、福田勝洋、加藤満、北山雅康 、 鈴木美恵、磨貴こずえ、児玉真二、久藤和子、山吹恭子、横森文、名取幸政、田島俊弥、翁華栄、顧暁東、王博、謝嘉軒、趙安尼、石川梵、松本頼、松井倫世、山下征志、木下昌孝、石野隆之、平野健、尾崎冴子、大日向駿一、廣野喬介、畑山菜摘、郷問楓子、栗原遊子、原優子ら。


『母べえ』『おとうと』の山田洋次が監督を務めた作品。
小津安二郎監督が撮った1953年の映画『東京物語』をモチーフにしている。
東日本大震災の影響で公開が延期され、脚本の一部も改変された。
また、周吉役の菅原文太、とみこ役の市原悦子、滋子役の室井滋が各人の事情で降板し、それぞれ橋爪功、吉行和子、中嶋朋子に交代した。
他に、幸一を西村雅彦(現・西村まさ彦)、文子を夏川結衣、庫造を林家正蔵(九代目)、昌次を妻夫木聡、紀子を蒼井優、沼田を小林稔侍、かよを風吹ジュン、京子を茅島成美、実を柴田龍一郎、勇を丸山歩夢、周吉の隣家に住む中学生のユキを荒川ちかが演じている。

クロージング・クレジットに小津安二郎の名前は表記されないが、実質的には『東京物語』のリメイクと言ってもいいだろう。登場人物の名前は同じだったり似ていたりするし、家族構成も物語の流れも一緒だ。
もっと恐ろしいことに、芝居まで『東京物語』を模倣させている。
特に顕著なのが橋爪功で、彼は「平山周吉」という役を演じているのではなく、「『東京物語』で平山周吉を演じた笠智衆」を演じているのである。
それを菅原文太にやらせようとしていたんだから、山田洋次は怖い人だ(ちなみに他の面々も同様のアプローチであり、例えば中嶋朋子はオリジナル版の杉村春子を模倣している)。

で、そういうアプローチって、ガス・ヴァン・サント監督がリメイク版の『サイコ』でやったのと似たようなモノを感じる。
だから感想としても同じような内容になるのだが、つまり「オリジナル版をそのまんま模倣するのなら、リメイクする必要ってあんのか?」ってことだ。
『東京物語』は、「古い作品で映像や音質が酷過ぎるから視聴に堪えない」という作品ではない。今の時代に観賞しても、何の問題も無く充分に味わうことの出来る映画だ。
だから、それをトレースした作品を見るぐらいなら、オリジナル版を見た方がいい。

『東京物語』をリメイクしている以上、あらゆる部分で比較されるのは仕方が無い。
そして比較してしまうと、ますます「わざわざ本作品を見るぐらいなら、『東京物語』を観賞した方がいい」と感じてしまう。
まず出演者の顔触れからして、笠智衆と橋爪功、東山千栄子と吉行和子、原節子と蒼井優、杉村春子と中嶋朋子、山村聡と西村雅彦、三宅邦子と夏川結衣、東野英治郎と小林稔侍、中村伸郎と林家正蔵という比較になるわけだ。
どちらに軍配が上がるかは、言わずもがなだろう。

何から何まで『東京物語』をコピー&ペーストしているわけではなくて、改変している部分も色々とある。
登場人物で言えば、香川京子の演じた末娘のポジション、大坂志郎の演じた三男のポジションがリメイク版では消えている。
一方でオリジナル版では戦死している設定だった次男の昌次を登場させ、リメイク版で紀子が受け持っていた役回りの一部を担当させている。
リメイク版の紀子は、オリジナル版の紀子とは大きく異なる人物設定だ。

本作品で最も美味しい役を貰っているのは、妻夫木聡じゃないだろうか。
その理由は、オリジナル版には登場しなかったキャラクターを演じているからだ。本作品独自のキャラクターなので、彼は昔の俳優の真似を要求されることが無いのだ。
ただしキャラクターとしては、山田洋次監督の『息子』で永瀬正敏が演じた役柄をそのまま持ち込んだような感じになっている。
だから、焼き直しではあるのだ。

『東京物語』の上映時間は136分で、この映画は146分だが、10分長くなった分、ドラマに厚みが増したわけではない。
むしろ、冗長な印象を受けるので、もう少し短くてもいいんじゃないかと思ったりもする。
それと、公開延期に伴って脚本が改変されたというのは、京子の母が東日本大震災で行方不明になっているとか、昌次と紀子が震災ボランティアで知り合ったとか、そういう部分だろうけど、その必要性を全く感じない。
無理に震災と絡めようとして、いびつになっているように感じられる。
この映画に震災の要素って要らんでしょ。

『東京物語』と同じシーン、同じ会話が幾つもあるのだが、そこから感じる印象は大きく異なる。
例えば序盤、周吉&とみこを迎える夕食に関して文子が「(すき焼きの)他にお刺し身か何か」と言うと、「他にお刺し身か何か」と妻の文子が言うと、幸一は「要らんだろう」と告げ、滋子は「たくさんよ、お肉だけで」と口にする。
『東京物語』では、幸一と滋子の表情と言い方には露骨にトゲがあった。
しかし本作品の場合、薄情だという印象は受けない。

夫の庫造から「(周吉たちに)挨拶に行かなくていいかね?」と訊かれた滋子は、「いいわよ、どっちみちウチにも来るわよ」と答える。
これも、『東京物語』では、両親を面倒に思っていることが表情と言い方に滲み出ていた。
しかし本作品では、冷淡さが足りない。
幸一や滋子を、『東京物語』よりも両親に対する思いが強いキャラクターにしているのであれば、そこで冷たさが見えないのは構わない。しかし、そういうわけではなく、『東京物語』と同じキャラクター設定なのだ。
だったら、そこは薄情に見えなきゃいけないはず。

幸一と滋子が金を出し合って周吉&とみこを横浜のホテルに泊めるのも、「世話が面倒だから遠ざけよう、金で済ませよう」という厄介払いの意識は感じられず、単純に「両親に豪華なホテルでの暮らしをプレゼントしよう」という親孝行に思える。昌次に任せてもいいのに、「任せておけない」と言っているし。
周吉はホテル暮らしに全く馴染めないが、それも「頑固な彼にも問題があるんじゃないか。もっと外に出て観光すればいいのに」と思ってしまう。
橋爪功の演じる周吉が「都会やハイソな生活に馴染めないド田舎のくたびれた老人」には見えないってのも、そこには影響している。
『東京物語』の笠智衆のような、侘しさや切なさを背負っていないんだよな。

『東京物語』には普遍的な問題も含まれていたが、時代が変わると通用しなくなる描写も色々とある。
例えば、『東京物語』の頃は新幹線も走っておらず、尾道から東京へ来るというのは、そう簡単なことではなかった。しかし今は新幹線があるし、飛行機の代金も安くなっているので、昔に比べれば遥かに簡単だ。
また、昔は電話で話そうとしても通話代がバカにならなかったが、今は携帯電話やメールで簡単に話せる。だから離れていても、コミュニケーションを取ろうと思えば、そう難しくない。
だから、そこは「携帯やメールで簡単に連絡は取れるけど、心が伝わらない」とか、「簡単に会いに行けるけど、心の距離が遠い」とか、そういう風に『東京物語』とは大きく異なるアプローチをすべきじゃないかと思うのだ。

「幸一に急な往診が入って横浜観光がドタキャンになる」というのも、「だったら文子がタクシーでも使って周吉&とみこを連れて行けばいいんじゃないのか」と思ってしまう。
『東京物語』の頃なら、「ハイソな主婦が旦那の同伴無しに幼い子供と義理の両親を連れて遠出するのは、はばかられる」という事情があったかもしれない。
しかし今の時代、なんてこともない。
シングルマザーだって増えているから、「子持ちの女性が旦那無しで遠出する」ってのも珍しくないし。

前述した「幸一と滋子がそれほど薄情には見えない」というのも、時代の変化というのが影響している部分はある。
『東京物語』の頃とは違い、今の時代だと、その程度は普通なんじゃないかということだ。
両親が上京した時に「肉だけで充分だろう」と言ったり、「挨拶に行かなくても、どうせウチにも来るんだから構わない」と言ったりするのは、取り立てて冷たいわけではなく、どこの家族でも見られる光景じゃないかってことだ。
身の周りに良くある光景なら、特筆すべき事項としては成立しない。

そもそも、『東京物語』が公開された1953年と本作品が公開された2013年では、「家族」に対する一般的な価値観や考え方は大きく違っている。
『東京物語』の頃は、まだ「戦後」であり、「頑固親父が一家の柱」「男は外で仕事、女は家庭を守る」「子供は結婚するまで親と同居」「結婚しても長男は親と同居」といった家族の在り方が当然であった。
そして、そういう古い価値観における家族の在り方が崩壊しつつあることを、映画は描いていた。

しかし2013年という時代では、もはや『東京物語』が「崩壊しつつある」として提示した新しい家庭の在り方が、当たり前になっている。核家族化が進み、親子が別居するのは珍しくも何ともない。
また、女が社会進出し、夫婦共働きという家庭も多い。夫が家事を手伝うのも普通だし、「父親が家族の中で絶対的な存在」なんてのは時代錯誤も甚だしい。
にも関わらず、この映画は、『東京物語』で「既に崩壊しつつある」として描かれた古い家族の在り方を、「それがベーシックだったが、崩壊しつつある」といった感じで描いてしまう。
そうじゃなくて、新たな家族の在り方がベーシックになっているんだから、それに対するアプローチをすべきじゃないのか。

気になるのは、山田洋次監督が小津安二郎に敬意を表してリメイクしたはずなのに、『東京物語』で小津監督が描いたテーマやメッセージとは相反する主張が本作品から発せられていることだ。
『東京物語』で小津監督が描いたのは、「家族関係が希薄になることは寂しいが、それは仕方の無いことなのだ」という諦念のはずだ。
しかし「父が家長」「親子は同居」といった古い家族観への郷愁がある本作品には、そんな古い家族の在り方を取り戻すべきだという主張が透けて見える。

山田洋次監督って、いかにも映画人らしい左翼的な考え方の人という印象がある。
だけど、「家族」に対する考え方はガチガチの保守派なのね。
ただ、『東京物語』をモチーフにして全く別の物語を構築したいとか、自分なりのメッセージを訴えたいとか、そういうことであればともかく、小津安二郎に敬意を表してリメイクしたのなら、キャラクター設定や大まかな筋書きよりも、まずは含有されているテーマやメッセージを踏襲するってことを重視すべきなんじゃないかと思うんだけどなあ。

それと、山田洋次が『東京物語』をモチーフにした作品を撮るのであれば、登場人物の家族構成だけを踏襲し、職業設定や生活環境は大幅に改変した方が良かったのではないか。
と言うのも、小津監督の映画に登場する家族というのは基本的に「都市部に住む中流階級の人々」だが、山田監督が得意とするのは下町や地方都市の労働者階級を描くことだと思うからだ。
つまり、子供たちが暮らしている場所は都市部ではなく下町にして、職業も変更した方が、もうちょっと上手く人間ドラマを描き出すことが出来たのではないかと。

(観賞日:2014年2月1日)

 

*ポンコツ映画愛護協会