『手塚治虫のブッダ −赤い砂漠よ!美しく−』:2011、日本
2500年前のヒマラヤ。老いた僧侶のゴシャラは吹雪の中で倒れ込んだ。狼と熊は彼を洞穴へ運び、食料を集めた。そこへウサギが来て、ゴシャラに火を起こさせた。ウサギは自ら火に飛び込み、ゴシャラの食料となった。ゴシャラの弟子であるアシタ仙人は、僧院で弟子たちにそのことを語った。彼は弟子のナラダッタに、「南方に強い力を感じる。山を下りて、たっとき方を捜すのじゃ。その方は、世界の王となる偉大な方かもしれん」と告げた。
シャカ国のカピラ城で、スッドーダナ王の妃であるマーヤが妊娠した。森の動物たちから祝福を受けたスッドーダナは、産まれて来る子がこの世に素晴らしい物をもたらしてくれるのではないかと期待した。その頃、緑豊かなシャカ国は、強大な力を持つ隣国のコーサラ国に飲み込まれようとしていた。奴隷のチャプラは、貴族に届ける反物をタッタという少年に盗まれた。チャプラは貴族から、「3日以内に反物を取り戻さなければ母親を売り飛ばす」と通告された。
チャプラは反物を取り返しに行くが、タッタの仲間たちに暴行を受けて意識を失った。目を覚ましたチャプラに、タッタの姉は「物を人から取るのは生きるための権利だ」と言い放った。しかし母親が売り飛ばされると聞いたタッタは、チャプラを助けてやることにした。チャプラの母親が奴隷市へ連行されているところへ、タッタは虎を操って突入させた。騒ぎが起きて奴隷商人は逃げ出し、チャプラは母親を助け出すことが出来た。通り掛かったナラダッタは、不思議な力を持つタッタが師の言っていた子供ではないかと推察した。
コーサラ国の兵隊が、シャカ国に攻め入った。兵隊がカピラ城を目指す途中に、タッタの住む村があった。村は兵隊に滅ぼされ、タッタの姉と母も殺された。復讐心を燃やすタッタに、チャプラは協力を申し出た。2人はコーサラ軍の野営地へ行き、兵隊を急襲した。だが、逃げ出したブダイ将軍が川に落ちてワニに襲われた時、チャプラは「奴隷の身分から抜け出したい」と考えて彼を助けた。チャプラの狙い通り、彼はブダイの部下として取り立てられた。
コーサラ国の兵隊が退散したという知らせを受け、スッドーダナは胸を撫で下ろした。マーヤは男児を出産するために里帰りするが、その途中で産気付いた。彼女は産み落とした男児にシッダールタと名付けるが、命を落としてしまった。アシタはシッダールタを祝福するため、カピラ城を訪れた。シッダールタが片方の手を上に、もう片方を下に向けて眠っている姿を見たアシタは、「これは天上天下唯我独尊と言われている。この子は世界の王になるであろう」とスッドーダナに告げた。
10年後、成長したシッダールタは、身分差別について悩みを抱くようになっていた。スッドーダナはシッダールタを呼び、新しい将軍となったバンダカを紹介した。その頃、コーサラ国は次々と周辺を手中に収めていた。サーバッティに戻った兵隊は、群衆の歓迎を受けた。兵隊の戦闘には、武人として出世したチャプラの姿があった。シッダールタは他の子供たちと共に、教師から「コーサラ国に勝つためも、大きくなったら武人になるのですぞ」と教えられた。シッダールタは「戦争で死んだら、人はどうなるのですか」と尋ねるが、「私は教えるために来ているのです。議論するためではありません」と先生にたしなめられた。
シッダールタは悪友2人に誘われ、授業を抜け出して森へ赴いた。悪友たちがウサギを弓で射止めようとしたので、シッダールタは慌てて阻止した。悪友たちはシッダールタを置いて、森の奥へ狩りに出掛けた。悪友の1人、ジョーテカは、底無し沼に落ちて命を落とした。スッドーダナはバンダカに対し、シッダールタに武芸を教えるよう指示した。まだ10歳のシッダールタを相手にしても、バンダカは全く容赦せずに激しい稽古をさせた。バンダカは「一国の王となる者に必要なのは優しさではない、力だ」と説いた。
5年後、ブダイの嫡男として暮らすチャプラは、大臣の娘であるマリッカ姫から好意を寄せられるようになっていた。チャプラは闘技大会で優勝し、勇者の称号と王杯を手に入れた。貴族の仲間入りを果たした彼は、「これで母さんを迎えに行ける」と喜んだ。大臣もチャプラを気に入っており、マリッカと婚約させた。ブダイに呼ばれたチャプラは、奴隷の身分を決して明かさないよう改めて釘を刺した。
シッダールタはバンダカとの稽古を続け、日に日に強くなっていた。城から抜け出した彼は、飢えで苦しんでいる人々の集団と遭遇した。「お恵みを」と言われたシッダールタは、宝飾品を差し出した。すると盗賊が現れて「こいつらにやっても、すぐにくたばるだけだ」と言い、「他にもあるんじゃねえか」と脅しを掛けた。そこへ盗賊の女首領であるミゲーラが来て、「そいつは放っておきな」と子分たちに告げた。彼女は「これからは施しはやめときな。どうせ老人や病人ばかり。ここで死を待つだけなのさ。この世に未練を持たせるのは、かえって残酷なんだよ」と述べた。
シッダールタが「どんなに老いても、どんなに病気でも、生きているんだ」と反論すると、ミゲーラは「甘いんだよ」と鋭く告げた。「貴方は知っているんですか、私の知らない世界を」と問い掛けたシッダールタは、ミゲーラに頼んで町へ案内してもらう。町の様子を見て回ったシッダールタは、身分の低い人々の生活を知って衝撃を受けた。その後もシッダールタは城を抜け出し、ミゲーラと密会する。だが、それを知ったバンダカは、スッドーダナに報告した。
スッドーダナはシッダールタを呼び付け、「卑しい女と遊び歩いているというのは本当か。しばらく城外へ出ることは許さん」と叱責した。シッダールタはバンダカに命じてミゲーラを捕まえ、処刑しようとする。シッダールタはスッドーダナの前で剣に手を掛け、ミゲーラの解放を要求した。するとスッドーダナは、隣国のヤショーダラー姫と結婚すれば解放してやると持ち掛けた。シッダールタは取引を承諾するが、ミゲーラは五体満足では解放されず、バンダカによって両目を潰された。
チャプラの母、タッタ、ナラダッタの3人は、コーサラ国のサーバッティを訪れた。出世したチャプラの姿を目にした母は、それだけで満足して帰ることにした。チャプラはシャカ国に攻め入ることを主張し、コーサラ国は戦争を仕掛けることを決定した。スッドーダナはシッダールタに「初陣を飾って勝利し、私の後を継いで王となるのだ」と告げた。「どうして人間同士が戦うのです」と口にする息子に、スッドーダナは「戦わねばコーサラ国に飲み込まれてしまうのだぞ。そんなことで王になれるか」と声を荒らげた。
コーサラ国の兵隊が村を襲撃、シャカ国の兵隊が戦闘に赴く様子を、シッダールタは馬に乗ったまま見つめているだけだった。バンダカは「いい御身分だな。家臣が次々と倒れていくのに高みの見物とは」と皮肉った。バンダカは毒矢を用意し、戦場へ繰り出した。家臣から出陣を促されたシッダールタは、戦場に乗り込む。しかし彼はコーサラ国の兵隊と戦おうとせず、「やめるんだ」と叫ぶだけだった…。監督は森下孝三、原作は手塚治虫、脚本は吉田玲子、製作は岡田裕介&ウィリアム・アイアトン&木下直哉&高橋浩&福原英行&塚本勲&松谷孝征、企画は松下健吉&久松猛朗&香月純一&武部由実子&日達長夫&腰山貴文&清水義裕&大橋善光、プロデューサーは冨永理生子&木戸睦&櫻田博之、アドバイザーは ひろさちや、イメージアートは岡野玲子、絵コンテは中村哲治&八島善孝&山室直儀&石黒育&森下孝三、演出は古賀豪、キャラクターデザイン 総作画監督は真庭秀明、色彩設計は塚田[召力]、美術監督は行信三、撮影監督は高橋賢司、編集は福光伸一、音響監督は長崎行男、録音は立花康夫、音楽は大島ミチル、音楽プロデューサーは津島玄一、尺八演奏は藤原道山。
主題歌はScarlet Love Song/X JAPAN 作詞:YOSHIKI、作曲:YOSHIKI。
声の出演は吉永小百合、堺雅人、観世清和(能楽観世流二十六世家元)、吉岡秀隆、永井一郎、折笠愛、竹内順子、玄田哲章、藤原啓治、大谷育江、櫻井孝宏、水樹奈々、黒谷友香、観世三郎太、日野由利加、朴[王路]美、大原さやか、能登麻美子、大和田悠太、駿河太郎、笠兼三、島田敏、小宮和枝、塚田正昭、二又一成、茶風林、菅生隆之、中博史、こおろぎさとみ、宮寺智子、長嶝高士、木村雅史、新垣樽助、小野大輔、前野智昭、永野愛、沖佳苗ら。
1972年から1983年に掛けて連載された手塚治虫の漫画『ブッダ』を全3部構成で劇場アニメ映画化する企画の第1作。
脚本は『おじゃる丸 約束の夏 おじゃるとせみら』『猫の恩返し』の吉田玲子。
チャプラの母の声&ナレーションを吉永小百合、チャプラを堺雅人、スッドーダナを観世清和(能楽観世流二十六世家元)、シッダールタを吉岡秀隆、アシタを永井一郎、幼少期のシッダールタを折笠愛、幼少期のチャプラを竹内順子、ブダイを玄田哲章、パンダカを藤原啓治、タッタを大谷育江、ナラダッタを櫻井孝宏、ミゲーラを水樹奈々、マリッカを黒谷友香、ジョーテカを観世三郎太が担当している。監督は東映アニメーションの副社長である森下孝三。
劇場用映画は25分の『アレイの鏡』(1985年)と45分の『聖闘士星矢 邪神エリス』(1987年)の2本しか監督経験が無く、長編映画は初めて。TVアニメを含めても、監督を務めるのは『聖闘士星矢 邪神エリス』以来となる。
劇場映画の作り方を知っている人間が東映アニメーションに彼しか残っていなかったため、監督を務めることになったらしい。
そんな状況なのにクラシカルなタイプの劇場アニメを作るってのは思い切った挑戦だと思うが、作るにしてもブランクの長い副社長が出て来るよりは外部の監督に頼んだ方が良かったんじゃないかと。東映が全国規模で公開し、しかも最初から3部作として製作が開始されているという、長編アニメーション映画としては珍しい部類の、規模の大きな企画である。
だが、どこに勝算があって、釈迦を主人公にした映画を、そんな大きな企画として立ち上げたのだろうかと疑問を抱かざるを得ない。
これが仏教国家であれば、釈迦の生涯を描く映画に多くの観客が入ることも想定できるだろう。
しかし、仏教に対する信仰心の厚い日本人が、それほど多くいるとは思えない。タイトルに「手塚治虫の」という冠を付けたのは、釈迦の映画ということでは興行的に厳しいという判断によるものなのかもしれない。
しかし、もちろん手塚治虫は漫画の神様と呼ばれる偉大な人物だが、2011年という公開年において、その名前がそれほど大きな訴求力に結び付くとは到底思えない。
むしろ、「手塚治虫の」と付けたことで、タイトルが不細工になっている印象を受ける。
さらに「赤い砂漠よ!美しく」とサブタイトルを付けて、ますます不細工になっている。
しかも赤い砂漠なんて内容に全く無関係だし。興行的には完全に失敗したようだが、そもそも『ブッダ』を3部作で映画化するという時点で、勝ち目なんて無かったと思うんだよなあ。
それでも「始めた以上は途中で終われない」という公共事業のような感覚があるらしく、ちゃんと3部作は最後まで作るみたいだけね。
だけど、この1作目で完全に失敗してしまったモノを、2作目以降で一気に観客動員を引っ張り上げるってのは至難の業だと思う。
っていうか、まあ無理だよね。
もう取り戻せないって分かってるのに残り2作を作らなきゃいけないって、キツい仕事だよなあ。タイトルにもなっているんだからブッダ(まだ今回はシッダールタ)が主役のはずだが、実際はチャプラとシッダールタの2人が主役だ。
っていうか、ほぼチャプラが主役で、シッダールタは準主役って感じかな。
ともかく、この2人の物語が並行して描かれていく。
それは別にいいんだが、最後まで2人の物語が全く絡み合わないってのは、構成としては厳しいモノがある。
互いが感化されたり、一方の行動によってもう片方の人生が変化したり、そういうことは何も無い。チャプラとシッダールタは戦場で一瞬だけ顔を合わせるが、ホントに顔を合わせるだけで、その出会いが互いの人生に影響を与えるとか、真理に変化をもたらすとか、そういうことは無い。
そして、それ以外は最後まで平行線を辿る。
絡み合うことが無いのなら、せめて2人の人生を対比させて見せて行くという形にすべきだろうが、そういう形になっているわけでもない。
っていうか、原作でもチャプラの物語は盛り込まれているんだけど、この映画だけを見ていると、ブッダの生涯を描く作品の中に、チャプラの物語を盛り込んでいる意味が全く分からないよなあ。序盤、タッタは虎に憑依して操るという能力を見せている。だが、なぜ彼にそんな能力があるのかという説明は何も無い。
そんな能力を見ても、チャプラはそんなに驚かない。
その能力で野営地を襲った後、チャプラは川に落ちたブダイを殺そうとした瞬間に「このまま奴隷で一生を終えるのか」という考えが頭をよぎり、彼を助けて出世しようと目論む。
そこで虐げられてきた出来事が脳裏をよぎり、瞬時に「出世のためにブダイを助けよう」とチャプラが即座に方針転換するのは、あまりスムーズな展開とは言えない。マーヤは出産のために里帰りしようとするが、その途中で産気付いてしまい、森で出産することになる。
そんなにギリギリになってから里帰りしなきゃ良かったんじゃないかと思うが、ともかく彼女は出産し、シッダールタと名付けた直後に「ウッ」となって力尽きる。
その直前までは元気だったし、里帰りのシーンまでにも彼女が病弱だという描写は無かったので、かなり不自然さを感じる。
城まで戻って息子の名前をスッドーダナに伝えた直後に死ぬってのも、まあ分かるけど、下手な御都合主義だわなあ。
そこも死ぬ直前までは、そんなに衰弱しているような様子も無かったし。10歳に成長したシッダールタは「人は皆、平等であるべきではないのか」と悩むようになっている。
だが、城にいれば、それが当然ということで暮らしが行われているわけで、何がきっかけで身分差別への疑問を抱くようになったのか、それが良く分からない。
「子供として、素直な気持ちで疑問を抱いた」という感じでもないし。
っていうか、物語としては、やっぱり最初から疑問を抱いている状態で登場するよりも、疑問を抱くきっかけになる出来事が用意されていた方がいいと思うしね。バンダカはスッドーダナによってシッダールタに紹介されるが、相手は身分が高い王族なのに、立ったままでシッダールタを見下ろして「お見知りおきを」と挨拶する。
その直前に、大臣がシッダールタに「最も身分が高いのがバラモンで、その下がクシャトリア。そのクシャトリアの中で最も偉いのは王族」と説明したばかりじゃねえか。
で、それに対してシッダールタが疑問を抱いているんだから、そこは「年上で優れた武人でもあるバンダカがうやうやしく頭を下げて挨拶する」というのを見せて、改めてシッダールタに「自分の身分は高いのだ」ということを感じさせる形にしておくべきじゃないのか。シッダールタがジョーテカの死にショックを受けている時、一人の女性が彼に声を掛ける。
するとシッダールタは泣いて彼女に抱き付き、「ジョーテカが死んじゃった」と叫ぶ。
その女は誰なのかと思っていたら、カットが切り替わってベッドで休んでいるシッダールタは、そいつに向かって「お母様、ごめんなさい」と言う。
もちろん実母は死んでいるのだが、そいつはスッドーダナの後妻なのだ。
そこで何の説明も無く急に後妻が登場するので、ちょっと引っ掛かっちゃうぞ。元気になったシッダールタが蝶と戯れていると、バンダカが来て蝶を射落とす。
いきなり弓で射る必要性については置いておくとして、その蝶を射るってことは、シッダールタに向かって発射しているってことになるんだぞ。王子に対して、あまりにも無礼だろ。
そいつは傲慢で無礼なキャラだから、誰も見ていないなら、まだ分かるんだよ。だけど、すぐ近くにスッドーダナがいるのだ。そんな状況で王子に向かって平然と矢を発射する部下を咎めないスッドーダナは、どうかしてるぞ。
あと、バンダカにしても、野心があって王族に全く敬意を感じていないのは分かるけど、表向きは敬っている態度を取っておけよ。なんで堂々と不遜な態度を取ってるんだよ。っていうか、もっと根本的なことを言ってしまうと、いきなり15歳に飛んでも良かったんじゃねえのか。
無駄が多くて、そのせいで話が長くなっている印象が強い。
上映時間は111分だけど、あと15分ぐらいは短く出来るなあ。
何不自由ない環境の中で優しく穏やかな性格に成長したシッダールタが、好奇心から城を抜け出し、老人や病人の集団に施しを与えようとしてミゲーラに説教され、反論するけど貧しい人々の現実を見せられ、自分の考えの甘さに気付かされ、身分差別について真剣に向きあうようになる、という流れにしても良かったんじゃないかなと。ミゲーラの両目が潰されるエピソードの後、久々にチャプラの母が再登場する。
チャプラは「いずれ母を迎えに行く」というつもりでブダイを助けて部下に取り立ててもらっているし、貴族の仲間入りをした時も「これで母さんを迎えに行ける」とは言っているんだけど、その母親の様子ってのは、なかなか出て来なかったのよね。
で、彼女は息子に会うためにコーサラ国のサーバッティを訪れたのだが、それまで行かなかった理由は良く分からん。
もう15年も経過しているんだけど、もうちょっと早く訪れても良かったんじゃないかと。
まさか、「会うために住まいを出て、到着するまで15年も掛かった」ということでもあるまいに。ただ、そんなことよりも、もっと大きな問題が、そのシーンには含まれている。
チャプラの母と一緒にタッタも再登場するのだが、こいつ、まるで成長していないのだ。
シッダールタやチャプラは成長しているのに、15年が経過しても見た目が全く変わらないって、どういうことなんだよ。
それも特殊能力の1つなのか。それとも、タッタって人間じゃないのか。
何の説明もないし、不可思議が過ぎるぞ。この映画にワシが入り込めない理由ってのは、やっぱり信仰心に厚くないってのも原因の1つだろうと思う。
「人と人が争うのは良くないという考えがあるから、シッダールタは戦わない」ってのは、それを「正しいこと」として受け入れるべきなんだよね。本来ならば。
でもワシは、スッドーダナの「戦わねばコーサラ国に飲み込まれてしまうのだぞ」という意見に賛同したくなるのよ。
そりゃあ、戦争なんて無い方がいいに決まってるけど、自分の国が攻撃を受け、仲間たちが殺されていく中で、それでも「殺し合いは悪いことだから、自分は戦わない」と言っちゃったら、それは王子として失格だろうと思うのよ。戦場に乗り込んで「やめるんだ」と叫ぶのも、アホでしかない。むしろ、家臣たちは彼を守るために戦わなきゃいけなくなるから、ただ邪魔なだけだ。戦場に乗り込んでオタオタしているだけってのは、すげえ不愉快だよ。
こういうことを書いちゃダメだと分かっているけど、あえて「チャプラに殺されちゃえば良かったのに」とさえ思ってしまうんだよな。
それぐらい、シッダールタに対する不快感がハンパないのよ。
で、そこに強い不快感を抱いてしまうってのは、信仰心の厚い人からすると、それこそ不快なんだろうなあ。その戦闘でチャプラはシッダールタの命を狙うが、バンダカの毒矢に倒れる。
アシタから治療薬を持っているかもしれないとナラダッタが言うので、タッタがヒマラヤまで手紙を届けることにする。彼は馬に憑依して出発し、それが力尽きると虎、虎が狩人に射止められると鳥と、次々に別の動物へ乗り移りながらヒマラヤまで辿り着く。
最初から鳥にしておけば、そんなに色々な種類の動物に乗り移る必要も無かったんじゃないかと思うが、それはひとまず置いておくとしよう。
で、手紙を受け取ったアシタは、ナラダッタにテレパシーを送り、「一人の命を救うために、どれだけの命を犠牲にしたと思っておる」と叱責して獣同然に荒野をさまよう罰を命じる。だけどさ、手紙を届けると言ったのも、動物に次々と乗り移って旅をしたのも、全てタッタでしょ。ナラダッタが「動物に次々と乗り移れば、ヒマラヤまで行くことが出来る」と助言したわけではない。
だから、なぜナラダッタが叱責を受けるのか、サッパリ分からない。
あと、「一人の命を救うために、どれだけの命を犠牲にしたと思っておる」と叱責されるけど、「じゃあチャプラが死んでもいいのね」と反論したくなるし、あと、虎が狩人に射止められたのも、鳥が鷹に襲われたのも、タッタが憑依しなくたって同じことが起きる可能性は充分にあったはず。
「タッタが体を酷使したせいで死んだ」というわけではないから、そこでも疑問が沸いてしまう。仏教のプロパガンダ映画として作られているとしか思えないのだが、これを見て釈迦や仏教に強い関心を抱くようになる観客って、たぶん皆無に等しいんじゃないかなあ。
単純な問題として、つまらないからね。ぶっちゃけ、まだ幸福の科学が作っているプロパガンダ映画の方が、トンデモ度があるだけマシじゃないかな。
この映画、宗教的なアピールは疎ましいぐらい盛り込まれていて、でもトンデモ度数は全く無いので、ただ退屈なだけの作品になっている。
幸福の科学出版の映画よりつまらないと感じさせるって、相当なシロモノだぞ。(観賞日:2013年12月24日)