『天国にいちばん近い島』:1984、日本

16歳の桂木万里は幼い頃、父・次郎から「天国にいちばん近い島」と呼ばれるニューカレドニアのことを教えられた。その時、万里は 「いつか一緒に行こう」と次郎と約束した。だが、その次郎が急死した。自分の目で天国にいちばん近い島を確かめたいと考えた万里は、 母・光子にニューカレドニアへ行きたいと打ち明けた。光子は貯金を渡し、喜んで娘を送り出した。
年末をニューカレドニアで過ごすサザンクロス・ツアーに参加した万里は、20歳のツアー客・山本福子から声を掛けられた。ツアーには、 他にも娘2人を連れた高齢の男性・西尾久造らが参加していた。ヌメアの街にあるホテルにチェックインした後、万里はすぐに自転車を 借りて島を回った。だが、彼女はどこを見ても、父の言っていた場所ではないと感じた。
途中で彼女は日系三世の青年、タロウ・ワタナベと出会った。名前も聞かぬまま、万里は彼と別れた。翌日、ツアーバスで街を移動して いた万里は、マーケットで働く彼の姿を見掛けた。万里は「停めてください」と叫ぶが、もちろんガイドの青山良男が了解するはずもない。 ツアーの途中、万里はモグリの偽ガイド・深谷有一と出会った。彼はツアー客に対し、「本当の旅は自分の風景を自分で見つけるものだ」 と言って勧誘した。万里は深谷に頼み、ガイドしてもらうことにした。
まず万里は、マーケットに案内してもらった。万里は深谷に事情を打ち明け、まだ父の言っていた場所が見つからないと告げた。すると 深谷は、他にも珊瑚に囲まれた美しい島々があり、セスナで行くことが出来ると説明した。深谷は万里を連れて、夕陽の見える岬へ行く。 夕陽が沈む瞬間、緑色の光が見えることがあるのだという。30年前、それが見えたと言う女性がいたことを深谷は語った。深谷からデート に誘われた万里はドレスアップして夜の街に繰り出し、カジノへ赴いた。
深谷はカジノで稼いだ金でセスナをチャーターし、万里を伴ってイル・デ・パン島へ行く。彼は友達の少年トムに案内してもらい、万里を 島で最も高い山へ連れて行く。だが、そこからの景色を眺めても、万里は自分の思い描く場所ではないと感じた。山を降りた万里は、 オプション・ツアーで来ていた青山と福子に出会った。深谷は島に残ると告げ、万里をツアーに戻した。
ヌメアに戻った万里は、タロウを探すためマーケットへ出向いた。タロウと再会した万里は、思い描く場所がウベアという島ではないかと 教えられた。もう飛行機代が無いという万里に、タロウは「ウベアの村の酋長の息子が友人なので、無料で船に乗せてもらえる」と告げた。 翌日、万里はタロウの友人ジェロームの案内でウベアへ赴いた。だが、やはり自分の目指していた場所ではないと彼女は感じた。海岸で エイを踏んだ万里は高熱を出して倒れ、村の人々に介抱された。
回復した万里は、彼女を探していた青山から帰りの飛行機が出てしまったことを知らされた。青山が用意した安ホテルに泊まれなかった 万里は、ヌメアの街を放浪した。万里は、深谷がカトリーヌという女性に置き去りにされる様子を目撃した。ヨットで夜を明かそうとした 彼女は、警察に保護された。タロウが警察署に現われ、万里の身元引受人になった。
タロウは万里に、帰りの飛行機が飛ぶまで自分の農園に来るよう誘った。農園にはタロウと祖父のタイチ、両親を失った遠縁の少女ユキコ がいた。タロウはタイチから、観光客を好きにならないよう警告された。タロウは万里に、ヌメアのホテルを用意したことを告げた。 ドラム缶の風呂に入った万里は、さめざめと泣いた。農園に、戦争未亡人の石川貞が付き添いのエッセイスト・村田圭子がやって来た。 夫が乗っていた潜水艦が沈んだ地点を見に行くという貞に誘われ、万里は同行することにした…。

監督&編集は大林宣彦、原作は森村桂、脚本は剣持亘、潤色は大林宣彦&小倉洋二、製作は角川春樹、プロデューサーは坂上順& 菅原比呂志、製作協力はP・S・C&大林恭子、撮影監督は阪本善尚、録音は宮内栄一、照明は渡辺昭夫、 美術デザインは薩谷和夫、挿し絵はとり・みき、特殊メーク協力は原口智生、 音楽監督は朝川朋之、音楽プロデューサーは高桑忠男&石川光。
主題歌「天国にいちばん近い島」作詞は康珍化、作曲は林哲司、編曲は萩田光雄、唄は原田知世。
出演は原田知世、高柳良一、乙羽信子、室田日出男、松尾嘉代、峰岸徹、赤座美代子、泉谷しげる、高橋幸宏、小林稔侍、小河麻衣子、 入江若葉、峰岸美帆、荒井由紀子、赤松由佳子、旭井寧、石井きよみ、新井瑞、薩谷和夫、 とり・みき、温水ゆかり、河森正治、新妻路子、増子啓道、岡直美、出淵裕、山本和子、冨本晋也、冨本昌子、江幡由里子、大和薫、 山崎陽子、山崎奈津子、春口隆、平川良一、三輪雅則、綿本和高、俵口直美、矢三厚子ら。


森村桂による同名の原作を基にした作品。
原作は、幼少期に亡父(作家の豊田三郎)から聞かされたニューカレドニアへ、森村桂が赴いた時の経験を綴った旅行記である。
万里を原田知世、タロウを高柳良一、貞を乙羽信子、西尾を室田日出男、光子を松尾嘉代、深谷を峰岸徹、圭子を赤座美代子、タイチを 泉谷しげる、次郎を高橋幸宏、青山を小林稔侍、福子を小河麻衣子が演じている。
また、ツアー客の中には漫画家とり・みき、フリーライターの温水ゆかり、メカニックデザイナーの河森正治や出淵裕(現・出渕裕)など 多彩なジャンルの人々がいる。

オープニングロールとBGMは、1950年代から1960年代にハリウッドで作られたロマンティック・コメディーを思わせるような雰囲気を 醸し出している。男優がケイリー・グラントかグレゴリー・ペック、女優がオードリー・ヘプバーンってなイメージが思い浮かぶ。
では中身もそのようなロマンテイック・コメディーになっているのかというと、そんなわけがない。
何しろ、監督は大林宣彦なのだ。
この人は、良くも悪くも個性が強烈だ。その作風は、良く言えばブレが無いし、悪く言えば幅が無い。職人監督としての柔軟性も無いし、 フットワークも軽くない。どんな題材であれ、「大林色」の作品として仕上げることしかやらない人だ。
そして、その色は、オールドファッションドなロマコメとは似ても似つかぬ色だ。

ただし本編に入ってもBGMだけはそれっぽい雰囲気があるし、オシャレで小粋なロマンス映画になる可能性は持っている映画だ。そして 、その雰囲気は万里と深谷の交流に感じられる。
落ち着いた大人の男性&清楚で可憐な少女という年の差カップルのロマンスという図式なら、それが成立する。深谷の「信じていればね、 夢は必ず叶うんだよ」というセリフは次郎を思い起こさせるものがあるし、万里が彼に父の面影を重ね合わせるという形で進めていけば、 いい感じになりそうだ。
キャラとしてだけでなく、峰岸徹が芝居の面でも原田知世をリードしてくれるし、美しい風景を除けば、この部分が本作品の中で最も 惹き付けるモノを持っている。
しかし、イル・デ・パン島の山を下りたところで、2人の旅路は終わってしまう。深谷と別れた後、万里が彼のことを思い起こしたり、 気になって探しに出掛けたりすることは無い。
そのため、ロマンス映画としての味わいは、あえなく終わる。
そこから、いよいよ本格的に2人のロマンスが進展していくようなところなんだが、その前の段階でブチッと切ってしまう。

ヌメアに到着してすぐに万里はタロウと出会うが、それほど強烈に何かを感じるような出来事があったわけではない。
しかし翌日、彼女はマーケットでタロウを見掛け、バスを停めてと叫ぶ。
タロウのことが気になるのは分かる。だが、そんなに積極的な行動を取るほど強い惹かれ方をしていることは解せない。
その後、しばらく深谷と過ごして優しくしてもらうが、彼と別れると即座にタロウを探しに行く。そして「会いたかった」と告げる。
「女心と秋の空」とは良く言ったもので、ちっとも彼女の心が分からないよ。

母親から「グズでダンマリで無愛想な」と称される内向的な少女が、異国での生活や人々との触れ合いによって精神的に変化するという のが作品の根幹部分であろうと思われるんだが、実際にはそのような出来上がりになっていない。
万里が島の人々との関わり、異国での様々な経験の一つ一つに何を感じ、どのような心の変化が生じたのか、そんなのは全く分からない。
深谷の勧誘コメントを聞いた万里は、青山が追い払おうとしているのも構わず、手を挙げてガイドを頼む。
その段階で、もう彼女は変化・成長しているんだよな。それだけ積極的な態度を取っているんだからさ。ちっとも受け身じゃ無いし、 「巻き込まれている間に少しずつ前向きに変わっていく」というわけじゃない。
タロウとの関わりが彼女の変化にとって重要な要素であるべきなのに、「それには及びません」という形になっている。
それだけ強い意思を持って行動していれば、もう大丈夫だよ。

何を探しているのかと深谷に問われた万里は「天国にいちばん近い島」と答えるが、いや、アンタがいる場所がそれだからさ。
父が「ニューカレドニア」って言ってるじゃん。だから、幾ら違和感を覚えようと、それが答えなのよ。
もう万里が何を探しているのか、全く分からない。
大体、それはマーケットなどへ行って分かるものなのかと。何を見つけたら、そこが天国にいちばん近い島だという証拠になるのか、確信 を持てるのかと。
どうやって探すのかと深谷に問われた万里は「その島が目の前にあったら私には分かります」と答えるが、ものすげえアバウトだよ。
っていうか、それは監督や脚本家が答えから逃げているとしか思えないぞ。
そこはヒロインだけじゃなく、こっちにも何となくでいいから分かるような形にしておいてくれよ。そうじゃないと、ヒロインの行動に 付いていけないよ。

イル・デ・パン島の山から景色を眺めた万里は「どこがどう違うのかは分からないけど違う」と言うが、本人が分からないのなら、こっち に分かるはずも無い。だから正解を見つけたとしても、こっちには絶対に伝わらないだろうなあと思わされる。
っていうかさ、「目の前にあれば分かる」ということなら、島を動き回る必要性が無いのよね。
上陸した時点で、もう目的は終了している。
深谷と別れてからは、もうマトモに話を追い掛ける気が無い。こっちだけじゃなく、向こう側にも無さそうな気配がある。もう後は、 ニューカレドニアの美しい風景をお楽しみください、ってな感じだ。
貞の存在意義がそれほどあるとも思えないし(万里へのアドバイスも説明臭くて取って付けた感があるし)、ドラム缶風呂の号泣も理由が 良く分からない。

タロウとのロマンスなんて、ホントにワケが分からない。
最後に万里とタロウが向き合い、「天国にいちばん近い島を見つけました。それは目の前にあります」「僕もニッポンを見つけた。それは 万里さんです」と言い合うが、「はあ?」という感想しか出て来ない。
やはり予期した通り、天国にいちばん近い島を見つけても、こっちにはサッパリ伝わらなかったよ。
そりゃあ、せっかくニューカレドニアまで来たんだから現地の外国人との関わりの方がいいんだろうけど、日系三世なのにカトコト感ゼロ で日本語ベラベラのタロウと結び付けるぐらいなら、深谷との恋愛劇をメインに据えた方が遥かにいい(例え結ばれずに終わったとしてもだ)。

(観賞日:2008年1月5日)

 

*ポンコツ映画愛護協会