『竹取物語』:1987、日本

八世紀の末。町の通りを暴走する一台の牛車があった。乗っている僧上の道尊は牛車を急がせ、邪魔になる者は撥ねても良いと従者に言う。その様子を見ていた密偵の理世は、撥ねられそうになった人を助けた。一方、山里で暮らす竹取の造を、行商人の宇陀が訪ねた。しかし女房の田吉女は、暗い様子で宇陀を追い払った。外で作業をしていた造は宇陀に、娘の加耶が五歳で病死したことを話した。田吉女は造の前で、貧乏で医者に診せられなかったから娘が死んだのだと泣いた。
その時、まばゆい光が家へ差し込み、直後に激しい揺れが襲った。造と田吉女が慌てて外へ出ると竹林が燃えていた。加耶の墓があることを田吉女が気にすると、造は商売道具の竹が燃えることを心配した。鎮火してから竹林へ出向いた造は、墓が無事なのを確認した。近くには金属の入れ物があり、墓に向かって光線が放たれる。すると入れ物が開き、赤子が出現した。村へ連れ帰って世話人に預けようとした造は、入れ物を落としてしまう。すると目の前で赤子が5歳ほどの大きさに成長し、加耶と瓜二つになった。
造が幼女を連れ帰ると、田吉女は「娘が帰って来た」と大喜びする。造は幼女の目が青いこと、透明の玉を持っていることを気にするが、田吉女は天からの授かりものだと考えた。造と田吉女は、その幼女を加耶として育てることにした。加耶は近所の子供たちに石を投げられ、額から血を流した。しかし彼女が手をかざすと、たちまち傷は治癒した。彼女は逆に石を投げ付け、子供たちを退散させた。その親たちが怒鳴り込んで来たので、造と田吉女は謝罪した。近所の住民たちは、他のことでも加耶のせいにして抗議した。
造は少しでも金にならないかと考え、入れ物の破片を宇陀に預けた。宇陀から破片を受け取った彫金師は、それが純金だと教えた。大金を貰った宇陀は造に渡し、もっと無いのかと尋ねた。慌てて帰宅した造は、裏に捨てた入れ物を掘り返した。都では朝議が開かれ、坂上の太政大臣が天変地異に関する説明を藤原の大國に求めた。大國は理世からの報告として、東方で怪しい火の玉の落下を目撃したという証言があったことを語った。
朝議に出席した大伴の大納言は、この国の出土ではない純金が巷で出回っていることを報告した。それを聞いた帝は、すぐに調査するよう指示した。造は純金を少しずつ売り、まるで働かなくなった。田吉女は織物を作って宇陀に売る生活を続けるが、造は昼間から酒を飲みに出掛けるようになった。田吉女が飲み屋へ迎えに行くと、造は調子良く酔っ払っていた。そんな造の様子に不審を抱いた理世は、夫婦の家まで尾行することにした。
造と田吉女が帰宅すると、加耶が美しい女性に成長していた。造は困惑するが、田吉女は「天の思し召し」として受け入れた。その様子を見ていた理世は、親しくしている大國に知らせた。造は山里の家を引き払い、貴族の別邸がある地域に屋敷を建てた。近所の住民たちは、美しい加耶を見ようと押し掛けた。そこに造が引っ越した目的は、加耶を貴族に嫁がせて自分も高い身分を得るためだった。田吉女は造に、加耶が肌身離さず持っている水晶の玉を見つめてばかりいることを教えた。
巷の噂を耳にした右大臣は耳成の長者を訪ね、加耶の元へ案内するよう命じた。長者の家では、明野という盲目の少女が雇われていた。右大臣が加耶の屋敷へ行くと、同じく噂を気にした皇子が来ていた。そこへ加耶が現れると、2人は彼女の美貌に魅了された。歌いながら野原を歩いていた明野は、加耶の気配に気付いた。暴走する馬の音を耳にした明野は、気付いていない加耶を救うために杖を投げた。馬が走り去った後、加耶は明野に杖を渡す。加耶は盲目の人間を初めて知り、そんな彼女に明野は好奇心を示した。加耶が出自を知らないこと、それを知りたいと思っていることを話すと、明野は「変わってるねえ。ただの人間じゃないねえ」と口にした。
皇子と右大臣は皇后の歌会で加耶への思いを競い合い、いずれも彼女に求婚ししたことを語った。大納言が牛車で移動していると、加耶の車とぶつかりそうになった。大納言が早く退けるよう要求すると、車から降りて来た加耶が強気な口調で従者にも手伝わせるよう告げた。顔を見合わせた大納言と加耶は、互いに心を奪われた。その夜、加耶は水晶玉が光るのを目撃し、造と田吉女に知らせた。田吉女と竹林へ出掛けた加耶の前に大納言が現れ、結婚を申し込んだ。
加耶は求婚のことを明野に相談し、愛情を確かめたい相手がいることを吐露する。明野は「男の気持ちを試してみることは出来るわ」と言い、その方法を指南した。加耶は大納言、皇子、右大臣を屋敷に集め、自分の望む品を持ってきてくれた相手に嫁ぐと約束した。その品とは、蓬莱の玉の枝、唐土の火鼠の皮衣、天竺の龍の首の珠である。3つとも古書には記されているが、誰も見たことの無い幻の宝物だ。男たちは困惑するが、皇子が枝を選び、右大臣が皮衣、大納言が珠を探すと決めた。
大納言、皇子、右大臣は家臣を伴い、船で出航した。3人が同時に休みを取り、帝は太政大臣から報告を受ける。皇后は太政大臣に、加耶のことを話すよう促した。加耶は造と田吉女に、また玉が光ったこと、自分の出自が分かったことを明かす。彼女は2人に、自分が月から来たこと、玉は自分の国からの声を伝える道具だったことを説明する。その声は人間には通じないが、満月の夜に乗っていた船が間違いを起こして火を吹いたこと、加耶の入れ物だけが弾き出されて助かったこと、やっと生存を捜し当てたことが伝えられたことを語って、玉の声は途絶えていた。床下に潜んでいた理世は、そんな話を盗み聞きした。
帝は加耶を呼び出そうとするが、拒否されたために激昂する。誇りを大いに傷付けられた帝だが、一方で加耶に強い興味を抱いた。加耶の屋敷へ乗り込んだ帝は、「宝物探しに誠心誠意応える者がいると思っているのか」と問い詰める。加耶は大納言の名前を出さず、「きっと、おられます」と断言した。その頃、大納言は海に住む竜と遭遇し、船を沈められた。皇子と右大臣は宝物を持参して加耶の元へ戻り、帝も見守る前で披露した。しかし皇子が用意したのは職人に作らせた偽物で、右大臣が用意したのは家臣が商人から購入した偽物だった。大納言が天竺で死んだという噂が届く中、加耶は次の満月に迎えの船が来ることを田吉女に打ち明けた…。

監督は市川崑、特技監督は中野昭慶、脚本は菊島隆三&石上三登志&日高真也&市川崑、製作は田中友幸&羽佐間重彰、企画は三ツ井康、プロデューサーは角谷優&藤井浩明&新坂純一、衣裳監修は斉藤寛、衣裳デザインはワダエミ、撮影は小林節雄、美術は村木忍、照明は下村一夫、録音は斉藤禎一、編集は長田千鶴子、助監督は吉田一夫、監督助手は手塚昌明、音楽は谷川賢作、オーケストラ指揮は井上道義、演奏は東京交響楽団、コーラスは東京混成合唱団。
主題歌:STAY WITH ME−song for KAGUYA姫、唄:Peter Cetera。
出演は沢口靖子、中井貴一、三船敏郎、若尾文子、石坂浩二、春風亭小朝、竹田高利(コント山口君と竹田君)、岸田今日子、横山道代、小高恵美、中村嘉葎雄、伊東四朗、加藤武、常田富士男、浜村純、山口弘知(コント山口君と竹田君)、中野美穂、井上博一、出光元、三澤慎吾、保木本竜也、川崎博司、永妻晃、加藤茂雄、広瀬正一、桜井勝、林孝一、早田文次、河合半兵衛、清末裕之、嶋崎信夫、宮内優子、香苗圭子、丸岡由枝、真下有紀、加賀谷由美、黒田昌子、東静子、森下哲嗣、内田崇吉、鈴木健二郎、紙谷隆太郎ら。


日本最古の物語文学と言われる『竹取物語』を基にした作品。
20億円の予算を投入した東宝創立55周年記念作品であり、フジテレビと共同で製作している。
監督は『ビルマの竪琴』『映画女優』の市川崑。
脚本は『父と子』『国士無双』の菊島隆三、『漂流教室』の石上三登志、『おはん』『映画女優』の日高真也、市川崑監督による共同。
加耶を沢口靖子、大納言を中井貴一、造を三船敏郎、田吉女を若尾文子、帝を石坂浩二、皇子を春風亭小朝、右大臣を竹田高利(コント山口君と竹田君)、皇后を岸田今日子、理世の妻を横山道代、明野を小高恵美、理世を中村嘉葎雄、道尊を伊東四朗が演じている。

『竹取物語』(もしくは民話『かぐや姫』)ってのは、「竹が光って赤子が誕生する」という導入部からして幻想的なので、ファンタジーとしての色を全面的に押し出す方向性で行くのであれば、それは理解できる(もちろん、切り口や塩梅を間違えると失敗する恐れはあるし、この映画の表現が成功しているとはお世辞にも言い難いが)。
しかしファンタジーはともかく、SF映画として描くのは厳しいだろう。
「かぐや姫が月へ帰る」ってのは、解釈によってはSFかもしれない。
だが、そのアプローチで成功する気が全くしない。

とは言え、全体をSFの色で包み込み、換骨奪胎して大幅に異なる内容へと作り変え、荒唐無稽を強めるぐらいの思い切ったアプローチがあれば、面白くなった可能性もあるだろう。
しかし、たまに特撮としての映像表現を入れる程度で、基本的には『竹取物語』のストーリーをなぞり、最後の最後でヒロインを迎えに来る乗り物として巨大宇宙船を登場させちゃうので、「いや、それは無いだろう」と言いたくなる。
宇宙船の唐突さに、苦笑せざるを得ない。
しかも、『未知との遭遇』を模倣しているとしか思えないので、ますます「陳腐」という印象になってしまう。

皮肉なことに、この映画は特撮のせいで安っぽさが強調されている。
特に問題が大きいのは、光を使った表現だ。
例えば宇宙船が落下して造と田吉女の家に光が差し込むシーンや、加耶の入れ物から墓石に向かって光が放たれるシーンなど、そういうのが描かれる度に「まるで馴染んでいないなあ」と感じる。ぶっちゃけ、光を使った効果は全て排除しちゃった方が、ファンタジーとしてもトータルのバランスが取れるんじゃないかと感じるぞ。
大納言の船を襲う竜に関しては、「ただ怪獣を出したかっただけだろ」と言いたくなる。加耶の周辺でファンタジー描写を入れるのは別にいいとして、まるで関係の無い「天竺の海に住む生き物」としてドラゴンを登場させるのは、必要性が無いどころか、避けるべき描写だとさえ感じる。
そりゃあ大納言が探しに行ったのは龍の首の珠だけど、だからってドラゴンを登場させなきゃいけないってことも無い。船が沈むのは、嵐に見舞われたってことでも成立するし。

「竹取の造&田吉女は5歳の娘を亡くしたばかり」という設定があるのだが、これは余計な引っ掛かりを生むことに繋がっている。造と田吉女は爺さんと婆さんなのに、娘が5歳ってのは変じゃないかと感じるのだ。
「ずっと昔に娘を5歳で亡くしている」ってことなら理解できるが、ジジババで5歳の娘を亡くしたばかりってのは違和感が強い。孫でもおかしくないぐらいの年齢差なのに。
一応は「諦めた頃に授かった」という言い訳がましい台詞を田吉女に喋らせているが、そこまで無理して盛り込むほどの設定かねえ。
普通に「今まで子宝に恵まれなかった老夫婦が竹林で赤子を発見し、天からの授かりものだと考える」ってことで良かったんじゃないかと。

竹取の造&田吉女が5歳の娘を亡くした原因の1つとして、「貧乏で医者に診せることが出来なかった」という要素に触れている。竹林で見つけた赤子が成長した後、造が金の亡者になるのだが、その言い訳に「かつて貧乏だったから」ってのを使おうとしている節がある。
しかし、そもそも造が金の亡者になる展開を用意しなけりゃ言い訳からして要らないわけで、それも含めて「5歳の娘を亡くしている」という設定は不要だ。竹取の造が銭ゲバに変貌する展開を用意したせいで、月へ帰る加耶が「人間の真心、忘れません」と言っても説得力に欠けてしまうのだ。
「お前を育てた爺さんは、お前を利用して金持ちになろうと企んでいたんだぞ。どこに真心があるんだよ」とツッコミを入れたくなってしまう。百害あって一利なしだ。
っていうか竹取の造だけでなく、この映画に登場する人間たちって真心溢れる奴らばかりではないのよね。
むしろ、そんなの全く感じさせない連中の方が目立っている。

造は加耶を貴族に嫁がせて成り上がろうと目論んでいるし、皇子や右大臣は加耶をモノにするために平気で嘘をつく奴らだ。
帝は権力を笠に着て高慢な態度を取るし、理世は加耶の情報を探ることで出世しようと企んでいる。
真心よりも、醜い心を見せる連中が多くいるわけで。
そんな奴らの姿を描いておきながら、加耶の「人間の真心、忘れません」という言葉で綺麗に締め括ろうとしても、「そのセリフは本音じゃねえだろ」と言いたくなってしまう。
もちろん製作サイドは、その言葉を加耶の本心として用意しているわけだが、真心を感じさせる面々との交流なんて乏しかったでしょ。

そもそも市川崑ってのは、冷淡な様式美の中に登場人物を組み込んでしまう映画監督だ。人間の情や愛を繊細に描き出してドラマを演出するのが得意なタイプではない。
金田一耕助シリーズのように、作品の内容と持ち味が上手くマッチングするケースもあるが、これは全く合っていない。何しろ加耶の「人間の真心、忘れません」という台詞から逆算すると、人間の真心を表現しなきゃいけないわけで。
それと、『2001年宇宙の旅』みたいに哲学的な本格SFなら、冷淡な様式美とマッチしたかもしれないが、この映画が目指しているであろうSFファンタジーとは全く合っていない。
っていうか目指していたのは市川崑監督のはずなので、自分の持ち味を良く理解していなかったということになってしまうわけだが。

この映画、脚本や構成には大いに難がある。
冒頭、道尊は「まごまごしている奴らは踏み潰しても良い。ゴミだ」と冷淡に言う。だから、こいつは悪党キャラなのかと思いきや、そうじゃないんだよね。単なる帝のアドバイザーというだけで、悪事に加担することは全く無い。
だから、冒頭で彼を悪人としてアピールしている意味が全く無い。それどころか、そこで彼を急がせている意味も全く無い。そこから彼が急いでいた理由を明かす手順に繋ぐのかと思いきや、何も無いのだ。
だから、何のためのシーンなのかサッパリ分からない。
理世が女性を助けるのも、まるで後に繋がらない行動なので、それも含めて意味が無い。

造は入れ物に入った赤子を見つけると、「困ったなあ。災難だと思って、とにかく連れて帰ろう。明日にでも村の世話人さんに預けりゃいいだろう。ワシらに余所の子を養うだけのゆとりは無いからなあ」と語る。
ものすごく説明的な台詞である。
そこに限らず、この映画は説明的な台詞が山のように用意されている。
しかも、それが全て必要な説明なのかというと、そうでもないのだ。
わざわざ説明しなくてもいいようなことまで説明するので、余計に「説明的な台詞が多い」という印象を助長している。

加耶の屋敷を訪れた皇子と右大臣は、彼女を見て驚く。
そこから何かあるのかと思ったら、すぐにカットが切り替わり、加耶が玉の光に気付くシーンになる。
加耶が大納言と初対面するシーンでは、互いの顔を見て驚く様子があると、すぐにカットが切り替わり、加耶が玉の光を目撃するシーンになる。
そのように、1つのシーンを無造作に切断して次に移ることが多い。
そのせいで話にスムーズな流れが生じず、ギクシャクした印象になってしまう。

加耶が大納言に惚れる設定を持ち込んだのは大失敗だ。
まず、見た瞬間に惚れているので、男気や優しさといった内面ではなく、見た目に惹かれたということになってしまう。
また、大納言に惚れたのなら、もう彼に求婚されてOKすれば済む話なので、3人の求婚者に宝探しを要求する手順は要らないってことになる。「男の気持ちを試したい」ということであれば、大納言だけに宝探しを持ち掛ければいい。どうせ皇子と右大臣なんて全く眼中に無いんだからさ。
加耶は大納言のことしか見ていないが、もしも皇子と右大臣が宝を持ち帰ったら、結婚を承諾するのかと。そうじゃなくて、ただ大納言の帰りだけを待ち望んでいるんだから、それって最初から必要の無いミッションなのよ。
そもそも本来の宝探しってのは「かぐや姫が結婚を避けるため」という意味が強かったわけで、それなのに「大納言に惹かれる」という設定を持ち込み、「あの人を信じます」と言いながら危険な宝探しを要求しているので(しかも全く眼中にない2人にまで)、「何がしたいのか」と言いたくなる。

大納言たちが宝探しに出掛けた後、加耶は自身の出自を知る。
だが、「月から来たと知って強気な態度になる」という変化はあるものの、ストーリー展開においては上手く機能していない。
月から来たことを知っても、それによって加耶の結婚や大納言に対する気持ちが変化することは全く無いのだ。
そこが上手く連携しないのであれば、3人の求婚者に宝物を探すよう要求した後で「月から来たことを知る」という構成にした意味が無い。

加耶は月から来たことを知った時、「喜びよりも悲しみが深いの」と漏らす。
すると田吉女は、「それはね、私たちが本当の親子になっているらですよ」と言う。
だけど、加耶と造&田吉女の疑似親子関係なんて、そんなに深まっていないでしょうに。
少なくとも造に関しては、加耶の入れ物を売り払って飲んだくれているし、テメエが成り上がるために加耶を利用しようと企んでいるし、ただの守銭奴じゃねえか。そこに親としての愛情なんて全く見えないぞ。

帝はわざわざ加耶の屋敷へ来るが、彼女を見て一瞬だけ驚くものの、「美貌に魅了されて云々」ということは全く無い。
なんで世の男たちが加耶の美しさに魅了されちゃう中で、帝だけは普通に接しているんだよ。そこは帝も彼女に惚れてモノにしたいと思わなきゃ、加耶のキャラがブレちゃうでしょうに。
皇子と右大臣が加耶に宝物を見せる際に帝が同席しているのも、「なんでやねん」と言いたくなるし。
加耶のキャラがブレているだけじゃなくて、帝のキャラもフワフワしちゃってるわ。

加耶が「次の満月に迎えが来る」と知るのは、大納言が天竺で死んだという噂を聞いたのと同じタイミングになっている。
これは明らかに失敗で、それだと「大納言が死んだという噂によるショック」が消えてしまう。
実際、加耶が嘆いているのは「次の満月で迎えが来る」ということに対する感情であり、大納言が死んだという噂に対する反応は無い。
大納言に惚れていたのに、「月に帰らなきゃいけない」ということで精一杯になり、そっちの気持ちが吹き飛んでしまうのだ。

生き延びた大納言が日本へ戻った直後、皇子と右大臣の手下たちが襲撃するシーンは、「単にチャンバラを盛り込みたかっただけだろ」と言いたくなる。
その戦いが後の展開に何の影響も与えておらず、必要性はゼロだからだ。
大納言の加勢に駆け付けた理世が「加耶は月から来た」と教える手順があるけど、そこも「大納言が加耶の元へ行き、彼女の口から真実を聞かされる」という形にすれば事足りるので、中途半端なチャンバラなんて全く要らない。
っていうか、そもそも理世の存在意義が乏しいし。
大國が朝議で理世の調査結果を報告したり、理世が帝に加耶のことを知らせたりするシーンはあるが、それが後の展開には全く影響を及ぼしていないのよね。

(観賞日:2016年7月5日)

 

*ポンコツ映画愛護協会