『太陽の季節』:1956、日本

拳闘部に入部した津川竜哉は、仲間と共に銀座へナンパに出掛けた。竜哉は武田英子、幸子、由紀という3人の女性に声を掛け、一緒に遊んだ。後日、英子達は試合会場に駆け付け、彼女達の応援を受けた竜哉はノックアウトで勝利した。
試合後、竜哉と遊びに出掛けた英子は、親が決めた恋人が自動車事故で死んだ時に全く泣けなかったことを話す。そして、人を愛せないと竜哉に告げる。後日、英子は葉山からの帰りに逗子にある竜哉の家に立ち寄り、そこで2人は肉体関係を結ぶ。
竜哉は英子を無視して仲間と遊ぶが、彼女と一緒にいたバンド・マスターを呼び出して殴り倒す。ヨットで海に出た2人は肉体関係を結び、英子は「やっと本当に人を愛せた」と語る。だが、竜哉は英子の存在を煩わしく思い、彼女と距離を置くようになる…。

監督&脚本は古川卓巳、原作は石原慎太郎、製作は水の江滝子、撮影は伊佐山三郎、編集は辻井正則、録音は橋本文雄、照明は森年男、美術は松山崇、技斗は阿部幸四郎、音楽は佐藤勝。
出演は長門裕之、南田洋子、三島耕、佐野浅夫、岡田真澄、東谷暎子、清水将夫、坪内美詠子、石原裕次郎、野口一雄、須藤孝、澤井謙二、市村博、石原慎太郎、関弘子、紅澤葉子、明石淳子、小野三津枝、潮けい子、河上敬子、福田トヨ、三鈴恵以子、松原京子、南部美乃、久場禮子、小島游子、花村信輝、千代田弘、黒田剛、八代康二ら。


芥川賞を受賞した石原慎太郎の小説を映画化した作品。
後に夫婦になる長門裕之と南田洋子が、竜哉と英子を演じている。
石原裕次郎が竜哉の仲間の1人(特に見せ場も無い程度の脇役)として映画デビューしており、原作者の石原慎太郎もサッカー選手役として1シーンだけ出演している。

当時は良識派を中心として批判もあったようだが、「時代が過ぎれば評価が変わる」というタイプの作品ではなく、凡作は凡作である。
正直に言うと、声高に批判するのもカッコ悪いと思える程度の、つまり話題だけで名前が大きくなった作品と言えるだろう。

竜哉達は女をナンパしたり、クラブで踊ったり、酒を飲んだり、急にムラムラしてセックスをしたりする。ま、基本的にはダラダラと遊んでるだけである。
いきなり男を呼び出して殴り掛かる辺りは、完全にタチの悪いチンピラである。

竜哉にしろ英子にしろ、大きな家に住んでいるし、どう見たって金持ちだ。
そんな金銭的に恵まれた連中のワガママ放題な生き方を「どうですか」と提示されても、根っからビンボー性の私には、感じ取れるようなモノは何も見つからない。

竜哉は「オレはやりたいようにやるだけだ」などと言っているが、ようするに何の不自由も無いボンボンが何のポリシーも無くテキトーに生きているだけなわけ。
それを愚か者として描くならともかく、この作品はカッコ良く美化して見せてしまう。

竜哉には「本気の恋愛がカッコ悪いと思い込んでいるから、本気で好きになった女を邪険に扱う」という感覚があるのだろうが、それは「独占欲はあるけどベタベタされるのはイヤ」という単なるワガママなお坊っちゃんになっている。

ブンガク的な表現はあるのだろうが、竜哉は簡単に言うと、根性がネジ曲がっているのだ。金で恋人を兄に売り付けてヘラヘラしているんだから、どうしようもない。英子の葬式で遺影を破壊して「アンタ達は何も分かりゃしねえ」と叫ぶが、迷惑なだけ。

重要なのは、これが石原裕次郎のデビュー作だということだ。
石原慎太郎の原作小説を映画化することが無かったら、彼の弟である石原裕次郎が出演するということも絶対に無かったはずだ。
そういう意味で、そういう意味だけで、この映画には意味がある。

 

*ポンコツ映画愛護協会