『大河への道』:2022、日本

千葉県香取市。香取市役所の総務課主任を務める池本保治は、生ゴミに被せるネットが破れているのを見つけて補修した。車に乗り込んだ彼は、梅さんがパーソナリティーを務めるFM佐原のラジオ番組を聴いた。リスナーの「どうして伊能忠敬は大河ドラマにならないのかと息子に訊かれた」というメールが読まれると、池本は大いに賛同した。彼は香取市役所に戻り、部下の木下浩章を伴って全体会議に参加した。観光課の課長である小林永美は、歴史テーマパークのような施設を作って観光客を誘致する観光振興策を説明した。木下が小声で「江戸村ですよね」「それなら日光行っちゃいますよね」と言うので、池本は慌てて注意した。
永美から意見を出すよう迫られた池本は、壁に貼ってある大河ドラマのポスターに気付いた。彼は咄嗟に「伊能忠敬を大河で取り上げてもらってはどうでしょう」と提案するが、周囲の受けは良くなかった。総務課でも賛同者は安野富海だけで、各務修や吉山朗は地味な人物だと評した。総務課長の和田善久は富海からの質問を受け、今までも忠敬を大河で取り上げてもらおうという動きはあったが実現に至っていないと教えた。
池本は忠敬について何も知らない木下に呆れ果て、伊能忠敬記念館へ連れて行った。彼は忠敬について熱く語るが、大日本沿海輿地全図を眺めた木下は「北海道、ちょっとズレてません?」と口にした。池本は部下の山本友輔を伴った永美の呼び出しを受け、知事から大河にチャレンジしてくれという電話があったことを伝えた。池本は指揮を任され、困惑を隠せなかった。木下は富海たちに、知事が在任期間である3年の内に実現させるよう求めたこと、池本がNHKに持って行く企画書を作るよう指示されたことを語った。
池本は知事から指名のあった大物脚本家の加藤浩造を訪ねるが、「加藤は死んだ」と相手にされなかった。加藤は2000年を最後に、1本の脚本も書いていなかった。池本は何日も通い詰めて家に入れてもらい、過去のヒット作を称賛した。しかし加藤は最終回を悲劇にする予定だったのにプロデューサーの要求で大きく異なる内容になったと明かし、池本の依頼を断った。池本が「何を基準に書く物を決めるのか教えて下さい」と頼むと、彼は「鳥肌だ」と答えた。
池本は木下を伴って加藤を伊能忠敬記念館へ案内し、忠敬の偉業について詳しく説明した。つまらなそうにしていた加藤だが、大日本沿海輿地全図を見ると鳥肌が立って「200年前に、こんな物、どうやって」と漏らす。池本と木下は加藤を連れて、シナリオハンティング出張に出掛けた。加藤は池本に、忠敬が2度目の測量で「子午線一度の距離を算出する」という当初の目的は達成できたのに、その後も地図作りを続けた理由についての疑問を呈した。池本は彼に、「パイオニアになりたかったのかもしれない」と意見を述べた。
加藤は忠敬について調べ、年表を書いた。市役所へ出向いた彼は、池本と木下からシノプシスを見せてほしいと言われて「書いてない」と答えた。彼は池本たちに、「忠敬は地図を完成させてない」と告げる。忠敬は1818年に死去したが、大日本沿海輿地全図の完成は1821年だ。そして同年、忠敬の死が公表されている。加藤は2人に、「大日本沿海輿地全図は、忠敬が完成させた物じゃない。だから忠敬は大河ドラマにならないんだよ」と述べた。
1818年(文政元年)、忠敬が73歳で死去した。下女のトヨ、測量隊員の綿貫善右衛門、修武格之進、吉之助、友蔵が死を悲しんでいると、江戸幕府天文方の高橋景保が家臣の又吉を伴ってやって来た。善右衛門は景保に、しばらくは忠敬の死を伏せてほしいと要請した。幕府の耳に入れば、地図作りが取り止めになる恐れがあるからだ。彼が「地図作りを続けさせてもらいたい」と頼むと、景保は「あと何日ほどで出来る?」と訊く。「3年ほどで」という答えに呆れた景保は、又吉を連れて立ち去った。
景保は忠敬の四番目の妻であるエイから、声を掛けられた。既に家を出ているエイは、置いて来た本を代わりに取ってきてほしいと頼む。彼女が「自分は不義理をしたので、顔を見せれば皆の気持ちを逆撫でする」と話すと、景保は承諾した。トヨが本を見つけると、そこには手紙が挟まれていた。その手紙は、景保の父が忠敬に多額の借金をしたことを示す証文だった。善右衛門は景保に、父の代わりに借金を支払いうことになると説明した。実は、それはエイが善右衛門と組んで仕掛けた策略だった。エイたちは景保の弱みを握り、忠敬の死を隠す計画に協力させようと目論んだのだ。
景保は源空寺の和尚に頼み、忠敬を無縁仏として葬ってもらった。測量隊員の面々は地図作りの作業を再開し、忠敬の死を偽装する工作にも取り組んだ。景保は勘定奉行の佐伯宗尚に「忠敬は測量で江戸を離れている」と何度も嘘をつき、時間を稼ぐ。善右衛門たちは影武者を立てて、出来るだけ江戸にいないように取り計らった。しかし2年が経過した頃、景保は佐伯から「上様が痺れを切らしておる」と通告された。佐伯は不審に思い、家臣の神田三郎に調査を指示した。
影武者が逃げたという知らせを受けた景保は、又吉を伴って善右衛門の元へ赴いた。善右衛門は影武者が見つかったものの、「お役御免にしてほしい」と泣かれたことを説明した。景保は佐伯から告げられた話を伝え、今回の測量中に忠敬が死んだことにしてはどうかと提案する。彼が「このままだと調べが入って、皆が死罪になる恐れもある」と話すと、善右衛門は「測量から戻る途中で忠敬が死んだことにする」と決めた。
景保は善右衛門に、なぜ危ない橋を渡って地図を作り続けるのか質問する。善右衛門は忠敬が蝦夷のあちこちでロシア船に襲われ、世話になった人足たちが命を落とした出来事を語る。それ以来、忠敬は地図作りに心血を注ぐようになり、善右衛門は「この国の正しい姿を形にすることが、異国から身を守る初めの一歩」と考えていたのではないかと語る。その思いを途絶えさせたくないのだと彼が言うと、あと半年で完成すると聞かされた景保は「何とかする」と約束した。
景保たちが忠敬の屋敷へ戻って来ると、神田はトヨに声を掛けた。忠敬は戻ったのかと問われたトヨは、湯治に立ち寄っていると嘘をつく。景保は又吉に神田を尾行させ、佐伯の屋敷に入ったという報告を受けた。トヨは神田に接触して忠敬は死んでいると告げ、目こぼしを求めた。神田が死んだ証拠を欲しがると、彼女は「最後に使っていた草鞋が墓に入れられた。見つかることを恐れ野辺に葬られた」と話す。その上で彼女は、墓の場所を特定するために評判の祈祷師と会うよう勧めた。
エイは頭巾を被って祈祷師に扮し、トヨは彼女から教わったように装って神田に「墓は九十九里浜の松の木」と伝える。神田が九十九里浜へ行くと、松の木が大量に生えていた。そうやって時間を稼いでいる間に、善右衛門たちは作業を続けた。神田が江戸に戻って来たので、またエイは祈祷師に化けた。トヨは神田に、「祠から辰巳の方向に千四百九十九歩」と伝えた。神田が指示に従うと崖の先端で、松の木は生えていなかった。景保は佐伯に、もうすぐ地図は完成すると報告した。しかし格之進が墨をこぼしてしまったため、その部分の作業はやり直しを余儀なくされた。江戸へ戻って来た神田は、祈祷師の正体がエイだと気付いた…。

監督は中西健二、原作は立川志の輔、脚本は森下佳子、製作代表は木下直哉、製作は橋敏弘&藤本俊介&中野伸二&山本昌仁&阿部順一&有馬一昭&小野寺優、エグゼクティブプロデューサーは小滝祥平&橋紀成、企画は中井貴一、プロデューサーは七澤博史&加藤悦弘&星原恵、アソシエイトプロデューサーは袴田浩友&諸橋実生&空閑由美子、撮影監督は柴主高秀、照明は長田達也、録音は尾崎聡、美術は倉田智子、編集は阿部亙英、音楽は安川午朗、音楽プロデューサーは渡邊博&慶田次徳、主題歌は玉置浩二『星路』(みち)。
出演は中井貴一、松山ケンイチ、北川景子、橋爪功、草刈正雄、平田満、西村まさ彦、立川志の輔、岸井ゆきの、和田正人、田中美央、溝口琢矢、本井博之、重松収、竹下眞、金子珠美、浅野千鶴、親里嘉次、佐渡山順久、矢作マサル、平隆人、大野洋史、入木将志、熊田洋司、平尾亮、高畑敬樹、亀山貴也、鶴井ー矢、兼安愛海、平井靖、大迫英喜、東田達夫、大石昭弘、仲野毅、中島崇博、美藤吉彦、福村友則、船津正康、小澤明弘、清水理江、濱口三津子、増田ゆかり、鎌苅咲里、吉田結、片山美南、新畑典子、近藤良文、小川敦子、馬場えりか、佐保歩実ら。


立川志の輔の創作落語『伊能忠敬物語 -大河への道-』を基にした作品。
落語を聞いた中井貴一が映画化を直談判し、本作品の企画を担当している。
監督は『花のあと』『二度めの夏、二度と会えない君』の中西健二。
脚本は『包帯クラブ』『花戦さ』の森下佳子。
池本&景保を中井貴一、木下&又吉を松山ケンイチ、永美&エイを北川景子、加藤&源空寺和尚を橋爪功、知事&徳川家斉を草刈正雄、和田&善右衛門を平田満、蕎麦屋の常連客・山神三太郎&神田を西村まさ彦、梅さん&梅安を立川志の輔、富海&トヨを岸井ゆきの、各務&格之進を和田正人、吉山&吉之助を田中美央、山本&友蔵を溝口琢矢、佐伯を本井博之が演じている。

中井貴一が時代劇映画に対する強い情熱を抱いていること、なかなか時代劇映画が作られない現状に危機感を抱いていることは、様々な場所でコメントしている。
この映画にしても、そもそもは彼の「時代劇映画を作りたい」という思いから生まれた企画だ。
しかし純然たる時代劇で、しかもチャンバラが無い映画だと、スポンサーが付きにくいし製作が難しい。
そのため、現代劇と組み合わせることによって、そのハードルを下げているのだ。

しかし残念ながら、現代劇と時代劇を組み合わせる構成によって製作へのゴーサインは出やすくなったかもしれないが、肝心の中身としてはマイナスにしか作用していない。
どちらか片方に限定した方が、絶対に良かったと断言できる。
喜劇としての面白さを考えれば、現代劇だけで構成した方がいい。
しかし立川志の輔の創作落語からの着想であることや、「時代劇映画を作りたい」という中井貴一の思いから企画されたことを考えると、それは無理な話なんだよねえ。

「大河ドラマで伊能忠敬を取り上げてもらうために動く」と決まった時、その第一歩が「大物脚本家に協力を依頼する」というのは、順番がおかしくないか。
「ガッチリした脚本じゃなく、NHKにプレゼンするためにシノプシスだけ考えてもらう」ってことであっても、最初に脚本家を雇うのは早すぎるんじゃないか。
「企画書を出すにはシノプシスが必要」ってことらしいけど、その前に色々とやるべきことがあるんじゃないかと。
そこが引っ掛かるので、序盤から話に乗り切れない。そこを笑いや勢いで突破できているわけでもないし。

あと、「ホントに加藤でいいのか」という部分にも、大いに疑問があるんだよね。
知事の要望だから、池本が頼みに行くのは当然の流れだ。ただ、そこで池本が過去のヒット作を称賛した時、加藤は「主人公がうっかり手紙を出し忘れ、絶望した相手は自殺する」という結末を考えていたことを明かすんだよね。
そういうバッドエンドによって、思いやりの大切さを訴えるのが彼の狙いだったらしい。でも、どう考えても、それを却下してハッピーエンドに変更したプロデューサーが正解でしょ。
なので、そんな誰も得しない結末を本気で「そっちが正解だった」と主張された時点で、池本が「この人でホントに大丈夫なのか」と不安を覚えたりしてもいいんじゃないかと。
そんな話を聞いた後も熱心に交渉するのは、どうにも腑に落ちないんだよね。

加藤は池本の依頼に全く気乗りしない様子だったのに、大日本沿海輿地全図を見ると途端に感動している。
だけど彼の感動が、こっちには全く伝わって来ないのよ。その地図の何が凄いのか、なぜそこまで感動するのか。
ずっと脚本を書いていなかった人間を、そこまでやる気に変化させるんだから、とてつもなく大きな衝撃が必要になるはずだ。
でも、彼が大日本沿海輿地全図を見て心を揺さぶられるシーンには、説得力を感じさせる演出など何も用意されていないのだ。

加藤が前向きになった後、池本たちは「シナハン出張」に行ったはずだ。ところが池本と木下は、歩幅をメジャーで計測する作業を複数の場所で繰り返している。
説明不要だろうが、それは「伊能忠敬が地図を作る時にやったのと同じ行動を取る」ということだ。
でも、それの何がシナリオハンティングになっているのか、まるで分からない。
忠敬と同じ方法で距離を計測する作業は、シナハンとは別の調査や研究になってないか。
シノプシスを書いてもらう上で、それがどのように役立つのかが全く見えない。

木下は観光振興策に関して永美がプレゼンしている時、どこか馬鹿にするような態度を見せる。彼は伊能忠敬について何も知らず、池本の熱い解説を受けても全く心に響いた様子が無い。
その辺りの描写からは、「あまり仕事への意欲が無いノンビリした男」にも見える。
だが、加藤に協力を断られた池本が和田から「他の人に代わることを考えた方がいいかもしれないねえ」と言われて同調すると、熱い口調で「ダメですよ。知事はそっちがいいって言ってるんですから。俺らのボスは知事なんですから」と反論する。
でも、そこで急に熱くなるのはワケが分からない。何か加藤に特別な思い入れがあるのかと思ったが、そうではなさそうだし。
旅館で池本が加藤に「なぜ20年も脚本を書かなかったんですか」と尋ねる時、こっそり木下が覗く描写が意味ありげに挿入されているけど、特に意味は無いし。

加藤が「忠敬は地図を完成させていない」と池本と木下に告げた後、詳細を語る形で江戸時代のパートが始まる。そのため、江戸時代のパートは「史実」を描いているのではなく、「加藤の説明を補足する映像」という印象になってしまう。
ザックリ言うと、再現ドラマ的な印象だね。
さらに厄介なのが、上述したように、現代パートの出演者が江戸パートの登場人物も兼任していることだ。
これにより、「加藤の話を聞いた池本が自分たちを登場人物に重ねて妄想している」という感じにも見えて、ダブルで安っぽくなってしまう。

序盤で忠敬の大河ドラマについて、「ただ歩くだけで、地味でつまらない話になる」という批評がある。江戸時代のパートは、ただ歩くだけでは終わっていないけど、「地味でつまらない」という印象になっている。
しかも肝心の忠敬は既に死んでいるから、彼の地図作りに懸ける情熱は全く見えて来ないし。測量隊員たちが危ない橋を渡ってでも地図を完成させようとする情熱のモチベーションも、サッパリ分からない。
粗筋でも触れたように、善右衛門が景保に「忠敬の思いを途絶えさせたくない」と語るシーンはある。だけど、それで腑に落ちることなんて何も無いよ。
後は死を隠蔽する偽装工作を巡るドタバタ喜劇で盛り上げるぐらいしか面白くする手立てが見当たらないけど、そこも全く足りていないし。

それが作戦であることを隠したいのか、そうじゃないのか、それがハッキリしないシーンが2つある。
1つ目は、エイが景保に本を取ってきてほしいと頼むシーン。
後で「実は景保の弱みを握るための作戦だった」ってことを明確にする手順があるので、一応は内緒にしているつもりなんだろう。ただ、景保が伊能家を去った後、善右衛門たちの元を誰かが訪問する様子が描かれており、これがエイであることは勘のいい人なら何となく分かるんだよね。
それを経てエイが景保に本を取って来るよう頼む手順になるので、「何か狙いがあるんだな」ってことも何となく予想できる。
本気で隠したいなら、「誰かが伊能家を訪問」という手順で半端なヒントを与える必要はない。その手順を省いても、卑怯だなんて全く思わないよ。

ただ、そこはマシで、もっと問題なのはトヨが神田に「忠敬は死んでいる」と告げてからの展開。
トヨは墓の場所を教えると言い、神田を祈祷師の元へ案内する。この祈祷師は頭巾で顔を隠しているが、エイが化けているのはバレバレだ。
ただ、神田が九十九里浜から戻って来るまでは、エイが祈祷師であることを明示していない。
でも、こんなのは逆に、最初からトヨが作戦として神田に接触しているのもエイが祈祷師に化けているのも観客に明かした上で、喜劇として演出した方がいい。

っていうか根本的な問題として、本気でコメディーを作ろうとする気があったのかどうかさえ大いに疑問なんだよね。
例えば、格之進が墨をこぼして皆で作業をやり直すシーンにしても、嘘がバレて神田が伊能家へ乗り込んで来るシーンにしても、ずっと真剣な様子を描いているのだ。コメディーの要素が入り込む余地は、ほとんど無いのだ。
「忠敬の遺志を継いで地図を完成させるため、皆が真剣に頑張っている」ってのは分かるよ。でも仕掛けの部分は明らかにコメディーなのに、真面目一本槍で描いてどうすんのよ。
神田が笑いを生み出そうと孤軍奮闘しているが、焼け石に水だよ。

じゃあ真面目な時代劇として魅力的なドラマがあるのかというと、そんなわけではない。単純に、笑いの薄いコメディーになっているだけだ。
やたらと感動の方面に話を傾けようとしているけど、心が揺さぶられることは皆無だ。
コメディーに感動を入れちゃダメとは言わない。でも、本来なら「コメディー」としてのしっかりとした基盤があって、その上で感動を盛り込むべきじゃないかと。「おもろうて、やがて哀しき」みたいな塩梅にすべきじゃないかと。
この映画は、あまりにもセンチメンタルが過ぎるのよ。

(観賞日:2024年1月22日)

 

*ポンコツ映画愛護協会