『大河の一滴』:2001、日本
モスクワ、二月。小椋雪子は友人の川村亜美、彼女の恋人の町田と共に、観光ツアーに混じって品物に買い付けに赴いた。ガイドを担当したのは、ニコライ・アルテミコフという現地の男だった。雪子は故郷の金沢で東山郵便局長を務める父の伸一郎と母の麻梨江にハガキを送り、買い付けでパリとウィーンとモスクワを回ったことを綴った。東京、十月。雪子は亜美が経営する輸入雑貨店「GALLERY AMI」で、店員として働いていた。亜美は店を彼女に任せて町田と出掛け、ホテルで体を重ねた。
雪子はニコライから電話を受け、彼が東京へ来たことを知って会いに行く。ニコライはワールドハイツというアパートで、友人のイワン・イワーノフの部屋に居候していた。彼はトランペット奏者で、オーケストラのオーディションを受けるために来日していた。雪子は彼の演奏をアパートで聴き、店に戻ると興奮を亜美に伝えた。しかしニコライはオーディションで不合格となり、雪子は亜美に怒りを吐露する。雪子がアパートへ行くと、ニコライは落ち込んでいた。
イワンは雪子に、ニコライの母と恋人が期待して待っていることを話す。不合格に納得できないニコライは、大きな音でトランペットを吹いた。アパートの住人たちが文句を言いに押し掛けるが、雪子は演奏を続けるようニコライに促した。彼女は亜美からの電話で、伸一郎が倒れて入院したことを知らされた。雪子は金沢へ戻り、麻梨江と共に病院へ赴いた。頑固者の伸一郎は再検査を無視して勝手に退院し、雪子と麻梨江が戻るよう求めても耳を貸さなかった。
雪子は郵便局で働く幼馴染の榎本昌治と会い、お互いに独身だと知る。彼女が微笑しながら「私に結婚を申し込んだら?好きなんやろ、私のこと」と言うと、昌治は「そうはいかん。俺は金沢の人と結婚するんや」と答えた。彼は平凡に暮らすことを望み、郵便局の仕事を選択していた。雪子は昌治に、父の再入院を手伝ってほしいと依頼した。昌治は承諾し、バイクで同行した。医師は雪子と麻梨江に、伸一郎は肝臓癌で手術しなければ長くて余命半年だと説明した。雪子から話を聞いた伸一郎は、手術を拒否した。
雪子が東京へ戻ると、亜美は店を畳んでいた。彼女は町田に大金を貢ぎ、店が赤字になっていたのだ。亜美は町田が出す店の資金を全て支払ったが、他の女がいたので捨てられていた。雪子は皿洗いのバイトを始めたニコライを訪ね、金沢へ戻ることを伝えた。実家へ帰った彼女は、自宅療養中の伸一郎が元気に仕事をしていることを麻梨江から聞かされた。伸一郎は知人や友人を家に呼んで食事会を開き、医師から肝臓癌だと宣告されたことを話した。
雪子は昌治に、また東京へ戻ること、金沢へ戻ったのは父と話すのが目的であることを語った。彼女が父の死に対する不安を吐露すると、昌治は誰もが未熟なのだと告げる。伸一郎も未熟だと言われた雪子は、腹を立てて反発した。亜美は金沢を訪れて雪子をバーに誘い、町田への思いを漏らした。翌朝、警察に呼ばれた雪子はホテルへ出向き、刑事から亜美の自殺を知らされた。雪子は警部から、彼女宛てに亜美が残した遺書を渡された。
伸一郎は雪子に、父から頼まれて郵便局を引き継いだこと、本当は大学で文学をやりたかったが仕事には真剣に打ち込んだことを語った。亜美の遺骨の引き取り手がいないことを聞いた伸一郎は、榎本家の墓に入れることを雪子に持ち掛けた。昌治は学生時代にトランペットを演奏しており、今は学生マーチングバンドの指導をしていた。彼を訪ねてマーチングバンドを目にした雪子は、ニコライのことを思い出す。彼女は昌治に、金沢にオーケストラが無いかどうか尋ねた。
昌治は友人に連絡を取り、金沢フィルでオーディションがあると知って雪子に知らせた。雪子はニコライを金沢へ呼び、昌治を紹介した。昌治はオーディションが終わるまで、ニコライを自宅に泊めることを承知していた。彼の母のチヨは、加賀友禅の工房を営んでいた。雪子はニコライを家に招いて両親に会わせ、トランペット演奏を聴かせた。伸一郎から2人の関係を問われた雪子は、「私は埋もれてる宝に光を当てたいだけ」と答えた。
ニコライが昌治の家に戻った後、伸一郎は雪子と麻梨江に自分が死んだ後はどうするのかと質問した。麻梨江は自分が家を守り、雪子が昌治の元へ嫁に行き、その子供に郵便局を継いでもらうと話す。伸一郎が家族旅行の計画を明かすと、彼女は雪子と2人で行くよう勧めた。伸一郎がニコライを誘うよう雪子に提案すると、麻梨江は反対した。しかし伸一郎が自分に何かあれば男手がいた方がいいと説明し、結局はニコライも含む3人で旅行へ行くことになった。
雪子たちは温泉旅館に宿泊し、ニコライはトランペットを吹いた。伸一郎が何の曲か訊くと、彼はオーディションの曲だと答えた。伸一郎は以前に聞いたことがあると言い、子供時代にロシア国境近くで住んでいたと話す。彼は戦争が終わってロシア人が引き上げる時、合唱していたと述べた。ニコライは6歳の時に、父がアフガニスタンで戦死したことを語った。夜、雪子が目に涙を浮かべると、伸一郎は自分の信念で生きるよう説いた。翌朝、伸一郎は崖から海の向こうを眺め、ニコライはトランペットを演奏した…。監督は神山征二郎、原作・原案は五木寛之(幻冬社 刊)、脚本は新藤兼人、製作は宮内正喜&見城徹&高井英幸、企画は高野力&武政克彦&遠谷信幸&石丸省一郎&島谷能成、エグゼクティブ・プロデューサーは宅間秋史&小玉圭太、プロデューサーは進藤淳一&喜多麗子&山口ミルコ&重岡由美子、撮影は浜田毅、照明は高屋齋、録音は武進、美術は中澤克巳、編集は川島章正、音楽は加古隆。
出演は安田成美、渡部篤郎、セルゲイ・ナカリャコフ、倍賞美津子、三國連太郎、南野陽子、山本圭、馬渕晴子、犬塚弘、樋浦勉、橋本さとし、田山涼成、並樹史朗、安藤一夫、伊藤留奈、岩下寛、菅原友貴、広部竜登、サーシャ・クリス、アンナ・シミャーキナ、渡辺美恵、山本麻生、工藤亮二、曽我部あきよ、西沢仁、柊紅子、斎藤みどり、岩本昌子、西川亜希、南貴子、新木智子、山田武志、荒木順一、スヴェトラーナ・ルヂック、ヴァレンチーン・デゥードニコフ、アンナ・スクーモワ、セーニャ・ブトゥーソワ、アレクサンドラ・ブードニコワ、ナターリャ・カラショーワ他。
五木寛之の同名エッセイを基にした作品。
監督は『宮澤賢治 −その愛−』『郡上一揆』の神山征二郎。脚本は『完全なる飼育』『三文役者』の新藤兼人。
雪子を安田成美、昌治を渡部篤郎、ニコライをセルゲイ・ナカリャコフ、伸一郎を三國連太郎、麻梨江を倍賞美津子、亜美を南野陽子、医師を山本圭、チヨを馬渕晴子、「和泉屋」の主人を犬塚弘、「日本海」の主人を樋浦勉、町田を橋本さとし、警部を田山涼成、入国管理官を並樹史朗が演じている。
セルゲイ・ナカリャコフは俳優ではなく、本職はトランペット奏者。1998年のNHK連続テレビ小説『天うらら』で、小六禮次郎が作曲したテーマ曲のトランペット演奏を担当していた。ニコライがトランペットを演奏するシーンが何度もあるのは、もちろんセルゲイ・ナカリャコフの演奏で観客を引き付けようという狙いだろう。
ただ、特に意味も無いのに、やたらとニコライが演奏するので「もういいよ」とウンザリしちゃうんだよね。
本来なら、その演奏には大きな意味があるべきじゃないのかと。
でも、行く先々でニコライが何かに付けてトランペットを吹くので、薄利多売で価値が低くなっちゃってんのよね。原作では「前向きに頑張るのは諦めよう」「マイナス思考から始めよう」「人生は苦しみと絶望ばかりなのだと覚悟しよう」といった主張が綴られ、五木寛之の人生論や死生観が語られている。
前述したように原作はエッセイであり、特にストーリー性があるわけではない。
なので、この映画は完全にオリジナル脚本と言ってもいいだろう。
話題になった原作のタイトルを拝借しただけで、中身は全くの別物と解釈してもいいだろう。雪子にとってモスクワは、単に品物の買い付けで訪れた土地というだけではない。ニコライと出会った場所なのだから、彼女にとって重要な意味を持つ場所のはずだ。
それにしては、あまりにも淡白に片付けている。
雪子はニコライから連絡があると、わざわざアパートまで訪ねて行く。ニコライのことを、嬉しそうな様子で亜美に話す。オーディションに同行し、ニコライが不合格になると自分のことのように憤慨する。
もう完全に惚れた女の言動を取っているわけだから、ってことはモスクワで会った時点で惚れたんだろう。だけどモスクワのシーンでは、彼女がニコライに特別な感情を抱いた様子なんて微塵も感じられなかったぞ。帰国した後も、ニコライから連絡があるまで、彼のことを気にしている様子は皆無だったし。
なので、ニコライから連絡があった途端にロマンチック浮かれモードに豹変するのは、かなり不自然に感じる。
で、もう完全に惚れている様子なのに、ニコライに恋人がいると知っても、そんなにショックを受けた様子は見せないんだよね。金沢へ帰ると伝える時も、そこまで未練がある様子は無いし。
金沢へ戻ってからも、ニコライを恋しがる様子は全く見せないし。「恋人がいると知って気持ちを断ち切った」という心の動きがあるわけでもないし。そもそも、そこに限らず、雪子の心の動きがほとんど見えて来ないんだよね。わざわざ書くまでもないだろうが、もちろん「人生万事塞翁が馬」の心境で感情を抑制しているわけではない。
それと根本的な問題として、安田成美はお世辞にも演技力が高いとは言えない人だしね。東宝が全国公開する大作映画の看板を背負うには、あまりにも荷が重すぎたんじゃないか。
相手役を務めるセルゲイ・ナカリャコフも前述したように本職は俳優じゃないし、南野陽子も安田成美に負けず劣らずの演技力だし。
このキャスティングで勝負しようってのは、なかなか厳しいモノがあるんじゃないかと。ニコライがアパートの部屋で大音量でトランペットを吹くと、当然のことながら住人が怒って止めるよう要求する。
ここで雪子がニコライに演奏中止を求めるのかと思いきや、むしろ「絶対やめないで」と火に油を注ぐ。ドアを激しく叩いて抗議する住民に対しても、「絶対やめない」と挑発的な言葉を吐く。
いやいや、普通に止めろよ。そこで演奏の続行を促すのは、愛でも応援でも何でもないぞ。ただの迷惑な行為だぞ。
下手すりゃイワンがアパートの退去を命じられる恐れもあるし、雪子もニコライも身勝手でサイテーじゃねえか。雪子が東京へ戻ったら亜美の店が潰れているという展開には、呆れて苦笑してしまった。
町田に貢いで金が無くなったにしても何らかの予兆はあったはずだが、そういうのは何も描かれていなかった。
「予兆はあったけど雪子が気付いていなかった」ってことかもしれないが、その後の「亜美の自殺」という展開も含めて、何もかもが陳腐にしか感じられない。
亜美が死ぬためだけに用意された、薄っぺらい人物になっているのよね。肝臓癌を患う伸一郎にしろ、自殺する亜美にしろ、原作の死生観を表現するために配置されていることは理解できる。ただ、どちらの死も、かなり軽く扱われているように感じてしまう。
伸一郎に関しても、幾ら頑固者であっても、もうちょっと雪子は手術を受けるよう説得や交渉を粘っっても良くないかと。簡単に受け入れ過ぎじゃないかと。
あと、そういう「周辺人物の死」が、「雪子とニコライの恋愛劇」と上手く絡み合わないんだよね。
死を巡る話か恋愛劇か、どちらか片方に絞った方が良かったんじゃないかと思ってしまう。伸一郎の肝臓癌宣告をきっかけに金沢へ戻った雪子は、ニコライのことなんて全く頭に無い。ところが学生バンドを見た途端、ニコライを思い出す。
その場によって、コロコロと変化している。
あと、雪子が昌治に対して失礼で不誠実に見えるぞ。
彼が自分に惚れていることを知ってプロポースするよう持ち掛けるが、本気で結婚する気は無い。そして都合良く利用し、ニコライのオーディションを仲介してもらい、居候させてもらう。ニコライを昌治の家へ案内すると、まるで我が家のように振舞う。伸一郎の死を雪子と麻梨江が看取るシーンと、ニコライが金沢フィルのオーディションを受けるシーンは、カットバックで描かれている。
だけど、そこは例えば「生と死」とか「喜びと悲しみ」みたいな対比になっているわけではなく、単に「セルゲイ・ナカリャコフの演奏を聴かせるため」だけの演出になっている。
前述したように原作はエッセイであり、「ヒロインとトランペット奏者の恋」が描かれていたわけではない。なので恋愛劇をメインに据えるにしても、トランペット奏者である必要性は全く無い。
そこにセルゲイ・ナカリャコフを起用した時点で、「とにかく彼の演奏を何度も聴かせよう」という方針になったんだろう。ニコライは入国ビザが切れていたため、入国管理官から強制送還を通告される。ここで雪子が抗議するけど、完全にニコライの自業自得 だからね。ちゃんと入国管理局で手続きを済ませていれば、そんな事態は起きなかったわけで。
で、ニコライが日本を去ると、雪子は彼に会うためモスクワへ行くことを決める。それは別にいいけど、昌治に付いて来てくれと頼むのは、どんだけ厚かましいのかと。
母からも「人の心を弄ぶ行為」と説教されるけど、雪子は「彼が自分を心配して付いて来てくれるのだ」と主張して全く反省せず、そのまま付いて来てもらうんだよね。
最後はニコライが女と一緒に暮らしていると知って会わずに帰るんだけど、そこには何の悲哀も感じない。いずれは昌治と結婚しそうな匂いも漂うけど、「昌治が不憫」と感じるだけだし。(観賞日:2023年12月6日)