『どろろ』:2007、日本

賢帝歴3048年。武将の醍醐景光は、戦乱の世の中を統治する強大な力を手に入れたいと願っていた。傷を負った体のまま、彼は住職の案内 で地獄堂へ赴いた。彼は扉を封印している鎖を刀で斬り、中に足を踏み入れた。地獄堂には、48体の魔像が安置されていた。その魔像を 彫った旅の仏師は、狂い死んだという噂がある。景光は、地獄堂を一晩借りることにした。
それから20年後。ある街の酒場に一人の男・百鬼丸が現れた。ステージに登場した踊り子を見て、彼はいきなり斬り掛かった。踊り子は 魔物としての正体を現し、客は全て逃げ出した。一方、盗人・どろろはチンピラたちから財布を掏って見つかり、追い掛けられた。酒場に 逃げ込んだどろろは、百鬼丸が左腕に仕込まれた刀で魔物を倒す現場を目撃した。チンピラの一人がどろろを捕まえた直後、百鬼丸の義足 が外れ、ニョキニョキと足が生えてきた。チンピラは怖がって逃げ出した。
どろろは、百鬼丸と話していた琵琶法師に近付き、「あいつは何者だ?」と尋ねた。琵琶法師は、百鬼丸の過去を語り始めた。20年前、 呪い師・寿海は川を流れてくるタライを拾った。タライの中には、体の部位が何も無い肉の塊があった。肉塊を見た寿海は、それが赤ん坊 だと気付き、人間の体を与えることにした。彼は何人もの亡骸を拾い集め、薬品を調合し、エレキテルを駆使して肉塊を人間の姿に変えた。 そうして誕生したのが、百鬼丸である。
寿海は体を与える際、百鬼丸の両腕に刀を埋め込んだ。そして剣術を教え、自らを守ることが出来るよう特訓した。やがて百鬼丸は青年 へと成長するが、寿海は体を悪くした。死の間際、寿海は百鬼丸に「ワシの術を醍醐景光に渡さぬよう、この家を焼き払え」と命じた。 そして「ワシはお前の父ではない」と言い残し、息を引き取った。
百鬼丸が家を焼き払った直後、どこからか声が聞こえてきた。それは地獄堂の住職の声だった。声は百鬼丸に、「お前の体を奪ったのは 48体の魔物だ。もしも元の体を取り戻したければ、48体の魔物を斬り捨てろ。そうすれば、1体を倒す度に体の部位が1箇所ずつ戻る。 その気持ちがあれば、おのずと魔物に出会う」と告げた。その言葉を受けて、百鬼丸は魔物退治の旅に出たのだ。
どろろは百鬼丸の腕の刀に興味を抱き、後を追った。2人は、ある村外れの焼けた寺で、大きな幼児の如き化け物に遭遇した。それは 死んだ赤子の魂が合わさって誕生した化け物で、敵意は全く見せなかった。その場所は、子捨ての寺だったのだ。寺に一組の夫婦が現れ、 百鬼丸やどろろがいることに気付かず、捨てた子供に詫びた。どろろが姿を現し、夫婦をなじった。夫婦は「新たな統治者となった景光の 酷い治世のせいで生活が貧しく、仕方が無かった」と涙を流すが、どろろの憤慨は治まらなかった。
どろろは森に入り、百鬼丸に「むしゃくしゃする、付いて来るな」と苛立ちをぶつけた。2人の前に鯖目という男が現れ、自宅に来ないか と誘われた。彼の家に行くと、妻と幼い子供たちがいた。村外れの焼けた寺について聞くと、雷が落ちて寺も子供たちも全て焼けたという。 夜、百鬼丸は幼い子供たちに襲われるが、事前に予期していたため返り討ちに遭わせた。子供たちは化け物だった。
百鬼丸は、鯖目の妻が魔物であり、寺が彼女の餌場だったことに気付いた。寺に捨てられた子供を、彼女は食料にしていたのだ。だが、 寺が焼けたために餌場を失い、百鬼丸とどろろを狙ったのだ。鯖目は普通の人間だが、相手が魔物と知らずに関係を持ち、妻の言いなりに なっているのだ。どろろは村人達に真実を知らせ、武器を取るよう告げた。百鬼丸が魔物を倒すと、捨てられた子供達の魂が天へ昇った。 百鬼丸が普通の人間ではないと知った村人達は、恩も忘れて「出て行け」と攻撃した。
旅に戻った百鬼丸とどろろは、新たな魔物を倒していく。昔の国境跡にやって来ると、そこから景光の城が見えた。どろろは、景光に親を 殺された恨みを口にした。どろろの父・火袋は、村を攻撃した景光の軍勢に一人で立ちはだかり、命を落とした。幼いどろろは母・お自夜 に連れられ、村から脱出した。だが、お自夜もすぐに死んだ。国境跡に景光の家来たちが現れ、不審人物として2人を連行しようとする。 どろろは抵抗し、百鬼丸は家来たちを蹴散らした。
百鬼丸は村へ行き、食い扶持を探し始めた。そこへ景光の息子・多宝丸が現れた。国境跡での出来事で百鬼丸の腕っ節に目を付け、雇おう と考えたのだ。多宝丸の案内で城を訪れた百鬼丸を見て、景光の妻・百合はハッとした。百合は百鬼丸の手に触れ、自分が捨てた息子だと 気付いて失神した。百鬼丸も百合が母だと気付き、「また来る」と多宝丸に言い残して城を後にした。
百鬼丸がどろろに城での出来事を明かしたところへ、琵琶法師が現れた。彼は2人に、景光が自らの野望を叶えるため百鬼丸を48体の魔物 に捧げたことを告げた。景光が強大な力を得た代償として、百合は体の部位が何も無い肉塊を出産した。景光の命令により、百合は赤ん坊 を川に流した。それが百鬼丸だったのだ。景光と百合の話を盗み聞きした多宝丸も、そのことを知った…。

監督は塩田明彦、原作は手塚治虫、脚本はNAKA雅MURA&塩田明彦、プロデューサーは平野隆、共同プロデューサーは下田淳行、 アソシエイトプロデューサーは辻本珠子&岡田有正&原公男、撮影は柴主高秀、編集は深野俊英、録音は井家眞紀夫、照明は豊見山明長、 美術監督は丸尾知行、衣裳デザインは黒澤和子、VFXプロデューサーは浅野秀二、VFXディレクターは鹿住朗生、コンセプトデザイン は正子公也、特殊造型は百武朋、アクション監督はチン・シウトン、アクション指導は下村勇二、音楽は安川午朗&福岡ユタカ、 音楽プロデューサーは桑波田景信、主題歌はMr.Children「フェイク」。
出演は妻夫木聡、柴咲コウ、中井貴一、原田美枝子、中村嘉葎雄、原田芳雄、瑛太、杉本哲太、土屋アンナ、麻生久美子、菅田俊、 劇団ひとり、きたろう、寺門ジモン、山谷初男、でんでん、春木みさよ、ゆうぞう(インスタントジョンソン)、すぎ(インスタント ジョンソン)、ジャイ(インスタントジョンソン)、村山二郎、田川智文、加藤拓哉、関根まこと、横山亮介、露木一博、小山貢、 小山貢秀、内ヶ崎ツトムら。


手塚治虫の同名漫画を基にした実写映画。
百鬼丸を妻夫木聡、どろろを柴咲コウ、景光を中井貴一、百合を原田美枝子、琵琶法師を 中村嘉葎雄、寿海を原田芳雄、多宝丸を瑛太、鯖目を杉本哲太、鯖目の妻を土屋アンナ、お自夜を麻生久美子、チンピラのリーダー格を 劇団ひとりが演じている。
監督は『黄泉がえり』『この胸いっぱいの愛を』の塩田明彦。
脚本は『ドラゴンヘッド』『46億年の恋』のNAKA雅MURAと塩田監督の共同。

原作が『週刊少年サンデー』で連載された当時は不人気で、後に『冒険王』で連載が再開されたが物語は途中で終わっている。
ってことは、それだけ新たに手を加える余地が多いということだ。
実際、この映画版では、かなりの脚色が加えられている。
そして、その映画用の脚色、変更が一つの欠損も無く、全てマイナスに作用しているってのがスゴい。

百鬼丸役の妻夫木聡は、「感情を失ったクールでミステリアスな男」を狙っているのかもしれんが、ただ陰気なだけにしか見えない。
クールであっても、もうちょっと感情を出してもいいだろうに、そういう繊細な芝居は無い。
回想シーンでは寿海のために泣いているし、他の映画などを見ても、そこまで何も出来ない大根役者ってわけではない。
だから、感情を殺した芝居を監督が要求したんだろうが、妻夫木聡には荷が重すぎたんだろう。苦悩とか悲哀は全く伝わってこない。
眠狂四郎の市川雷蔵みたいな「虚無の男」になれるでもない。
そこは最初から、もっと喜怒哀楽を表現するようなキャラにしておけば済む話だ。

どろろ役の柴咲コウは、明らかなミスキャスト。
原作では幼い少女だったわけで、なぜ普通に子役を使わないのかと。
そんなに無理をして歪めてまで、「妻夫木聡と柴咲コウの共演」というセールス・ポイントが欲しかったのか。愚かなことよ。
で、だったら柴咲コウの年齢に合わせてキャラ設定も変更しているのかというと、なぜか台詞回しは「幼い少女」のまんまなのだ。
その寒々しさと言ったら。
あと、どろろは男だと偽っている設定なんだが、最初から「生意気な言葉遣いの女」にしか見えんぞ。

チン・シウトンを招聘して香港流のワイヤー・アクションをやっているんだが、それさえも本作品では安っぽく思える。
っていうかさ、この映画で百鬼丸に空を飛ばせることは、果たしてプラスだったのか。
それよりも邦画で昔からやっている時代劇の殺陣をやらせた方が良かったんじゃないのか。
あと、おかしなパワー・バランスも何とかならんかったのか。

肉塊が百鬼丸になる経緯は、かなり丁寧に描写されている。
でも、そんなに詳しく描かない方がいいんじゃないの。どうせ真面目にやったところで陳腐なだけなんだから、ボカしておけばいい。
琵琶法師のクドクドしたナレーションも疎ましいし。
で、百鬼丸に体を与える際、寿海がエレキテルを使った設定に変更されているんだが、科学的な要素を持ち込んだのって逆効果じゃ ないか。
むしろ呪術的にしておいた方が、まだマシだったような気がするが。

子捨ての村を追い出された後、魔物を倒すダイジェストになるが、戦う敵は魔物というより、一昔前の特撮ヒーロー物の怪人や怪獣にしか 見えないぞ。
そんなモンスター・デザイン、そんなチープなキグルミにした理由がサッパリ分からん。
後半にはレイ・ハリーハウゼンの時代みたいなカクカクした動きの魔物も登場するが、ありゃ意図的なのか。

あと、魔物を倒して声帯を得た百鬼丸が、急に「どろろ!」と嬉しそうに叫ぶんだが、ありゃ何だ。
そこだけ急にクールさが消えるんだが、どういう心境の変化だ。
それまでは肉体の一部が復活しても、大して喜んでいなかったくせに。
それが「自分の声を手に入れて嬉しい」という表現だってのは分かるけど、それまでから彼は普通に喋っていたし(声に加工はして あったけど)、ピンと来ないよ。

百鬼丸&どろろが子捨ての寺に来ると、すぐに夫婦が現れて「酷い治世のせいで子供を捨てざるを得なかった」と事情を説明する。
だが、夫婦が嘆き悲しんでも、そこに至るドラマとしての盛り上がりが無いもんだから、ちっとも心が動かない。
ちゃんとエピソードを、ドラマを描こうぜ。
それをやらないのなら、お涙頂戴のためのネタなんて持ち込むなよ。
わずかなセリフだけで説明されても、全く感情移入も同情も出来ないよ。雑に作りすぎだ。

鯖目の妻が倒れて子供たちの魂が出現しても、親子愛が描かれていないから、そこに感動のドラマは無い。
おまけに、すぐに村人たちが百鬼丸を追い出すという次の展開に移ってしまう。
その展開にしても、「それまでは百鬼丸が村人と親交を深めていたとか、村での滞在に安らぎを覚えていたとか、そんなのは無いので、 「化け物と罵られて追い出される悲哀」ってのが伝わらない。

子捨の村で夫婦が「酷い治世」と言うと、景光が一帯を支配している様子が回想で描かれる。鯖目が「寺は焼けた」と言うと、落雷で寺が 焼ける様子が回想で描かれる。どろろが景光への恨みを口にすると、親が殺された時の回想シーンが挿入される。
とにかく、やたらと回想シーンによって説明しようとするんだが、その懇切丁寧な演出は、ものすげえ煩わしい。
回想シーンが現在の物語に効果をもたらすならともかく、ただの道草でしかない。セリフで説明したことを、そんなに膨らませることが 出来ているわけではない。回想によって悲しみや切なさが伝わるでもない。
そりゃ説明が欲しい箇所もあるだろうが、省略すべき箇所も多いぞ。
まあ、この映画の場合、削り落とすべきは作品そのものだけど。

なぜ百鬼丸が急に食い扶持を探そうとするのか、良く分からない。
それまでは、そんなことを気にせず旅を続けていたはずだ。それなら心境を変化させるような出来事、きっかけがあるはずだが、何も 無い。
あえて言うならば、食い扶持を探すようになった理由は「多宝丸が彼をスカウトして城に連れて行く」という展開に持って行くためだ。
いわゆる、御都合主義って奴だ。

後半に入り、どんどん話が盛り上がっていくべきなのに、逆に停滞モードに入ってしまう。「魔物を倒して元の体を取り戻す」という目的 は、何の未練も無く捨て去られる。
おまけに終盤に入ると、百鬼丸が景光の説得に入ってしまう。
その前に、どろろが「親殺しになることは無い」と言っているのもヌルいと思っていたが、ホントに親殺しにすることを避けるんだよな。
ヌルさをエスカレートさせてどうするの。
エスカレートさせるべきポイントが違うだろうに。

そんで恐ろしいことに、結局は景光が改心してしまうのだ。
野心のために赤ん坊を魔物に売り渡し、百鬼丸の目の前で母親(つまり自分の妻)を殺し、どろろの両親も惨殺し、大勢の人々を虐殺して きた極悪人なのに、「罪を憎んで人を憎まず」ってか。
なんで憎しみを捨てて情けを掛けているのかと。
父殺しをさせる覚悟が無いのなら、映画化なんかするんじゃねえよ。
そうそう、最後に1つだけ誉めておくと、瑛太の芝居は良かった。
台詞回しを聞いていても、「この人は普通の時代劇でも大丈夫そうだ」と感じさせる。

(観賞日:2008年8月4日)


第1回(2007年度)HIHOはくさい映画賞

・作品賞
・最低脚本賞:NAKA雅MURA
<*『どろろ』『スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ』の2作での受賞>

2007年度 文春きいちご賞:第6位

 

*ポンコツ映画愛護協会