『だいじょうぶマイ・フレンド』:1983、日本

ミミミはハチから電話で誘われ、ホテルの屋上にあるプールへ遊びに出掛けた。もう一人の仲間、モニカも一緒だ。そこへ空から一人の男が落下し、プールの底を突き破って消えた。やって来た刑事に、ミミミたちは空から人間が落ちて来たと証言するが、信じてもらえない。ハチが着替えるためロッカーへ行くと、さっきの男が隠れていた。男は「カクまってください」と頼む。その男は英語を喋っているのに、なぜかハチには理解することが出来た。
刑事は墜落事件があった同時刻に彗星が観測されていることを語るが、ミミミとモニカは「でも人間の形をしてたよ」と言う。すると刑事は、2人を精神鑑定へ連れて行く。一方、ハチは男を旅館へ連れて行き、「何者なんですか。空の上で何をしてたんですか」と尋ねる。男は「故郷へ帰ろうと思って。2964光年離れてる」と答えた。ハチが「じゃあ貴方はエイリアン?」と訊くと、男は「地球生活が長いから人間と同じさ」と告げた。
男の名はゴンジー・トロイメライで、皮膚を欲しがるドアーズという組織に追われているという。ハチが「やっちまえば?皮膚の切れっ端ぐらい」と軽く言うと、ゴンジーは「それは出来ない。私のパワーは人の十万倍だから。奴らは私の細胞からクローンを造り、それを再生して何万の私を作ろうとしている。そして私のコピー人間たちを思うままに操れば、奴らの天下だ。それに奴らは女を憎んでる。生命の神秘をバカにしてる」と語った。
ゴンジーは「君の友達。プールで私を見てるから、ドアーズが狙うぞ。奴らには遺伝子工場とファミリーレストランと精神病院が世界中にある」とハチに言う。ミミミとモニカは、既にドアーズの精神病院へと連行されていた。ドアーズの開発部門トップであるドクターは、ミミミとモニカに「君たちは飛行機に対するコンプレックスがある」と言い、治療と称して装置を取り付けた。ドクターは鳥と飛行機の写真を2人に見せ、それを「リンゴ」「バナナ」と答えないと強力な電流を流した。
さらにドクターは、再教育と称する若者の手術を2人に見せる。Tリングを脳に埋め込んで怒りの感情を奪い、興奮しない人間に変えてしまうのだ。ドクターがモニカを手術しようとしているところへ、ゴンジーとハチが駆け付けた。ゴンジーたちは、ミミミとモニカを救出して病院から逃走した。ハチたちが救急車で逃げようとすると、ゴンジーは「君たちは車で行け。私は彼女と東京の空を飛びたいんだ」と言う。彼はミミミを抱えて飛び立とうとするが、すぐに落下してしまう。仕方なく、彼は救急車に乗り込んで逃走した。
ミミミやゴンジーたちは、ハチの倉庫に行く。ゴンジーは落ち込んだ様子で、2日前まで飛べていたことを話す。それから彼は、自分の出生について語り始めた。ゴンジーが「私は遥か昔、米国東海岸のインスマウスで人間に拾われ、見世物にされた。リミチカという名の美しい整形外科医に小屋で育てられた。初めて習った言葉はメリー・クリスマス。私には声帯が無いので、喉を振るわせて音を出した。クリスマス・イブ、彼女は人々に訴えた。この子は化け物だが人間の言葉を喋ってるよ。聞いてやって。私は言った、メリー・クリスマス、メリー・クリスマス」と語ると、ミミミはうっとりした目で「ロマンチックねえ」と呟いた。
ミミミたちはスーパーへ買い物に出掛けるが、トマトを見た途端にゴンジーは身を震わせる。50センチ以内にトマトが来ると、パワーが無くなるのだという。ミミミは「誰にでも怖い物はあるよ。だいじょうぶ、マイ・フレンド」と優しく告げた。ミミミたちはモニカのトレーラーハウスへ行き、夕食を取った。するとゴンジーは冷凍食品を次々に天ぷら鍋へ投げ込み、洗剤まで投入する。天ぷらの破片が激しく飛び散り、モニカのシンセサイザーは壊れてしまった。
ハチの倉庫に移動した後、ゴンジーは激怒しているモニカに金貨を差し出し、「これで新しいシンセとトレーラーを買ってくれ」と言う。モニカは「違うんだよ。金で買えるようなシンセじゃないんだ。僕がコツコツと作ったシンセだったんだ。人の気持ちを金でどうこうしようっていうのか」と怒鳴った。ハチがモニカをなだめ、ミミミは「大声出さないで。みっともないよ」と諌めた。モニカは八つ当たりし、「そういうアンタはどうなんだよ。ハチ、ミミミはね、シャンペン飲ませると、すぐヤラせてくれるんだぜ。僕もヤッたんだから」とミミミに言い放った。
いつの間にかゴンジーが消えているので、ミミミとハチは捜しに行く。ミミミが「ごめんね。モニカが言ったことは本当なの」と言うと、ハチは「俺に謝るって、どういうことだよ」と声を荒げる。ミミミが「私ね」と何か言おうとすると、ハチは「いいよ、大体分かる。何も言うな。俺はお前だけでいいんだよ。お前は何も変わってねえし」と告げる。優しい言葉を掛けられ、ミミミは泣き出した。
ミミミとハチは、ゴンジーを発見した。ハチが「ずっと地球に居ればいいのに」と言うと、彼は「帰りたいんだ」と口にした。モニカも現れ、4人は倉庫へ戻る。みんなで飛べるようになる方法を考えていると、ミミミは「飛べるようになるには練習するしかない」と言う。飛べなくなった理由について、ゴンジーは「バランスの問題かな」と述べた。ハチは、ハンググライダーでの練習を思い付いた。
4人はサイパンへ行き、ハチの親友であるレイ子の家に赴いた。ゴンジーは自殺岬からハンググライダーで飛ぼうとするが、何度やっても助走の段階で転倒してしまう。「ダメだよ、こんな原始的な乗り物」と漏らすゴンジーに、ハチは「地球には人間の作った物しか無いんだから、信頼しなくっちゃ」と声を掛ける。改めてゴンジーが挑戦すると、崖から空へと飛び立った。その夜、訓練の成功に上機嫌のゴンジーは、「明日、飛べたら、そのまま帰る」とミミミたちに告げる。カメラマンに化けたドアーズの男はゴンジーの写真を撮り、日本にいるドクターへと報告を入れた。
翌朝、ゴンジーはハンググライダーを使い、故郷へ帰るつもりで空へ飛び立つ。だが、失敗してしまい、パラシュートでジャングルに落ちた。ハチはパラシュートでゴンジーを飛ばす方法を思い付き、彼に説明した。翌日、ミミミたちはパワーボートに乗り込み、ゴンジーはパラシュートを装着して空へ舞い上がった。ゴンジーは上昇気流を捕まえるポイントでパラシュートを切り離すが、そのまま海に落下してしまった。ヘリから観察していたドクターたちは、ゴンジーを引き上げるミミミたちのボートに近付いた。
ミミミたちは岸に戻り、車を走らせて逃亡を図る。だが、ドクターたちに追われる中で、トマト・フェスティバルの会場に突っ込んでしまう。車は横転し、パワーを失ったゴンジー、ミミミ、ハチはドアーズに捕まった。ドクターたちが来る前に車から脱出していたモニカだけは、捕まらずに済んだ。ミミミたちは東京へ連行された。ハチはTリングを脳に埋め込まれ、衛生人間として労働に就いた。
ゴンジーはトマト漬けにされるが、筋肉を硬くしているため、ドクターたちは皮膚を剥ぎ取ることが出来ない。ゴンジーは「私の細胞はトマトで弱っている。培養液に入れてもすぐに死ぬ」と言う。科学者の一人が、ドクターに「ベストコンディションの遺伝子が欲しいですね。空を飛ばすことは出来ないですかね。この人の筋力は空を飛んでる時がピークなんです」と言う。ドクターはゴンジーをロケットに括り付けて空を飛ばそうと企む。するとゴンジーは「筋肉を緩めて協力してもいい。その代わりにミミミとハチを釈放してくれ」と取引を持ち掛けた。ドクターは、翌日に手術を控えていたミミミを釈放した…。

原作 脚本 監督は村上龍、製作は多賀英典、プロデューサーは市川喜一、撮影監督は岡崎宏三、撮影は大岡新一、照明は下村一夫、録音は西崎英雄、美術は山口修、編集は山地早智子、振付は竹邑類、コスチュームデザインは小栗壮介 BARBICHE-MENS BIGI、音楽は清水信之&風戸慎介、音楽監督は加藤和彦、音楽作曲は来生たかお&桑田佳祐&坂本龍一&高中正義&清水信之&加藤和彦、音楽作詞は安井かずみ&来生えつこ&クリス モスデル&桑田佳祐&村上龍。
出演はピーター フォンダ、広田玲央名(現・広田レオナ)、渡辺裕之、乃生佳之、根津甚八、タモリ一義(現・タモリ)、研ナオコ、武田鉄矢、小松政夫、青地公美、リチャード ライト、三遊亭円丈、苅谷俊介、団次朗(現・団時朗)、辻畑鉄也、CHOSEI(船原長生)、岸部一徳、古沢由美子、刀根まり、樋口和雄、竹内春樹、井上清和、中瀬博文、藤田康之、土田理香、大竹義夫、萩前弘信、城野勝己、谷沢実、野中義文、深作覚、青木明、郷内栄喜、榎本和夫、中里清司、森本浩、堀勝之祐、中川芳博、ジャック アンジェロ、松葉孝司ら。


小説家の村上龍が『限りなく透明に近いブルー』に続いて原作&脚本&監督を務めた作品。
『限りなく透明に近いブルー』では自身の作家デビュー作が最初にあって、それを自らシナリオ化してメガホンを執るという形だったが、今回は最初から映画の企画があって、それに合わせて小説と脚本を同時進行で執筆している。
ゴンジーを演じたのは、『イージー・ライダー』で注目を浴びたものの、それ以降はパッとせず、B級映画の人に留まっていたピーター・フォンダ。でも1983年当時の日本なら、『イージー・ライダー』のピーター・フォンダと言えば、まだ「海外の大物スター」という扱いだったんだろうね、たぶん。
ミミミを演じた広田玲央名(現・広田レオナ)は元バレリーナで、これが映画デビュー。モニカを演じた乃生佳之はジャニーズ事務所のバックダンスグループ「ジャPAニーズ」の出身で、この映画の同名主題歌でソロレコードデビューしている。
ハチを渡辺裕之、ドクターを根津甚八、ミミミたちを取り調べる刑事をタモリ(「タモリ一義」名義)、野菜をジュースに変えるスプレー「ジューシイキャンキャン」をミミミに売る女を研ナオコ、衛生人間たちの看護人を武田鉄矢が演じている。

私は随分と前に、この原作小説を読んでいる。
ホントに随分と前だから、この映画を見るまで物語の中身はすっかり忘れていたけど、小説は面白く読破したと記憶している。
ナンセンスでシュールで、コメディーの要素も含んだ小説だったという印象がある。
そんな小説を、映画監督・村上龍が映画化すると、これほどまでにチープさとグダグダ感に満ち溢れた仕上がりになってしまうものなんだねえ。

音楽作曲は来生たかお&桑田佳祐&坂本龍一&高中正義&清水信之&加藤和彦、音楽作詞は安井かずみ&来生えつこ&クリス・モスデル&桑田佳祐&村上龍と、音楽面で豪華なメンツを揃えている。
ただ、だからって音楽面で高い評価を受けている映画というわけでもない。
っていうか、キティ・フィルムとしては忘れたい黒歴史になっている。
でもスタッフと出演者は、それなりに豪華。出演者は上述したメンツの他にも、小松政夫や三遊亭円丈、苅谷俊介や岸部一徳などがいる。
一方で、映画の中身は空虚。
この「かっこいいことは、なんてかっこ悪いんだろう」という感じのテイストは、ある意味では1980年代っぽさと言ってもいいかもしれない。

この映画をカッコ悪いと感じるのは、「時代の変化と共に、感覚も変化していくものだから」ということではない。
ここにあるカッコ悪さは、時代に影響されない不変のカッコ悪さだ。
どれだけ月日が経過しても「とてつもなくダサいな」と感じさせるモノを作っているんだから、それはある種の才能と言っていいのかもしれない。
私は本作品の他に村上龍の監督作品『トパーズ』と『KYOKO』を見ているが、この人の「オシャレを気取ったつもりなのにダサいモノに仕上げる」というセンスは、それらの映画でも発揮されている。

村上龍は本作品を「オシャレで小粋なファンタジー映画」として仕上げようとしているように思えるが、それは大きな間違いだ。
どう考えたって、おバカなコメディーでしょ、これは。
別にさ、ふざけた気持ちで映画を作れと言いたいわけじゃないよ。バカバカしい映画を真面目に作れと言っているのだ。
でも監督の中には、これがバカバカしい映画だという意識は無かったみたいなんだよなあ。
あと、視覚的な表現とか、物語のテンポとか、間の取り方とか、チェンジ・オブ・ペースとか、メリハリの付け方とか、そういう映像作品の演出能力にも問題があるってことなんだろうなあ。
まあ当たり前っちゃあ当たり前の答えだが。

冒頭、ミミミと水兵さんのダンスが写し出される。
いつ終わるのか、いつ喋り始めるのかと思っていたら、車に乗ったギャングが現れてマシンガンを乱射し、それが通り過ぎると水兵さんが消えている。一人ぼっちになったミミミが歩き始めると、巨大なヌードのミミミがベッドに寝ていて、そいつが電話で目覚める。
ようするに、今のは彼女の見ていた夢だったというオチなのだが、その冒頭のダンスシーンたけで、もう「これはダメな映画になる」という予感が伝わってくる。
特にオチがあるわけでもなく、後の展開に繋がるわけでもなく、ミミミの心情を投影しているわけでもなく、ただ「オシャレな雰囲気のシーンをやってみました」というだけだ。

ストーリーが全く進行せず、ただミミミたちが一緒に何かをしているだけ(何か食っているとか、喋っているとか)というシーンが、全て無駄なモノに思えてしまう。
そこに何の面白味も無いからだ。
ただダラダラと無作為に時間を費やしているだけにしか感じられないんだよな。コントとしての面白味は無い。
ただナンセンスなだけのモノならあるけど、ナンセンスな笑いは無い。
シュールなモノはあるけど、シュールな面白さは無い。

ゴンジーが「私は遥か昔、米国東海岸のインスマウスで人間に拾われ、見世物にされた。リミチカという名の美しい整形外科医に小屋で育てられた。初めて習った言葉はメリー・クリスマス。私には声帯が無いので、喉を振るわせて音を出した。クリスマス・イブ、彼女は人々に訴えた。この子は化け物だが人間の言葉を喋ってるよ。聞いてやって。私は言った、メリー・クリスマス、メリー・クリスマス」と語ると、ミミミは「ロマンチックねえ」とウットリする。
いや、何がロマンチックなのか。
サッパリ分からない。
そんな風に、会話のキャッチボールがマトモに成立していないっていうか、ワケの分からないやり取りというか、そういうモノも含まれている。

ゴンジーを放っておいてミミミ、ハチ、モニカが口喧嘩を始めたりする薄い恋愛劇なんて、邪魔でしかない。ゴンジーという特殊な存在が登場し、ドアーズというキテレツな団体が絡んで来るのに、そんな普通の男女による凡庸な恋愛劇(まあシャンペン飲ませりゃ誰とでもセックスするような女との恋愛劇ってのは普通じゃないかもしれんけど、ゴンジーやドアーズに比べれば、奇特レベルは遥かに落ちる)なんて、どうでもいいよ。
そんなことより、もっとゴンジーやドアーズと関わるエピソードに集中しなさいよ。
序盤でゴンジーが飛べなくなったことが明かされていて、それで落ち込んでいるんだから、「飛べないと困るのか?」「故郷へ帰りたい」「じゃあ何とかしないと。何か対策を考えよう」といったやり取りがあって、幾つかアイデアを出したり実践したりする手順を踏むなどして、飛行練習に取り組むという流れへ行けばいい。
寄り道しない真っ直ぐなルートを考えると、そんな感じになるだろう。

でも、ゴンジーが飛べなくなった後、なかなか「飛べるようになるために何か行動を起こす」という手順へ行かない。
そもそも、飛べなくなったことを、ゴンジーもミミミたちも、それほど気にしている様子は見られない。
ハチが「ずっと地球に居ればいいのに」と言って、ゴンジーが「帰りたいんだ」と返す会話があるが、そこまでに、ゴンジーの「故郷へ帰りたい」という渇望なんて、まるで表現されていなかったからね。

ゴンジーたちは飛行練習のためにサイパンへ行くが、そんな必要性は全く無い。日本でも飛行訓練の出来る場所なんて、探せばあるだろう。
まだバブル景気が到来する前に作られた映画だけど、わざわざサイパンへ行く辺りは、バブリーな感覚だねえ。
ただ、特に必要性が無いのに海外ロケをやっているんだから、普通に考えれば贅沢な映画なんだよね。
でも、必要性が無いのに海外ロケをやるというセンスに、そこはかとないチープさを感じてしまうのよね。

飛行訓練のことを聞かされたレイ子が「自殺岬から飛んだら死ぬわよ」と言うと、ミミミたちは「絶対に死なないんです」と告げる。
レイ子が信じないので、ミミミたちはゴンジーに瓶ビールを渡す。ゴンジーは蓋を弾き、外にある洗濯物を吹き飛ばす。ハチが「なっ?」と言うと、レイ子は「じゃあ、やってみようか」と口にする。
いやいや、どうして納得するのかサッパリだよ。
そもそも、「死のうとしても死なない」って、なんで3人は断言しているのか。
確かに空から墜落した時にはピンピンしていたけど、「絶対に死なない」という確信を持つような描写、例えば目の前で撃たれてもビクともしないとか、車にはねられたのに平気な顔をしているとか、そういった描写は無かったはず。
そこの確信は、必要な手順を飛ばしている。

ゴンジーがハンググライダーで飛ぶことに成功した夜、ドクターの元に連絡が入る。
だったら、翌日にゴンジーが失敗してパラシュートで落ちた時、ドアーズが彼を連れ去る流れにしておけばいい。
ところが翌日は、ドアーズの面々は監視するだけで行動を起こさない。
3日目になって、ようやく行動するが、それは無駄な手間でしかない。
その3日目のシーンにしても、ゴンジーを引き上げるパワーボートにヘリで近付き、車で逃げるのを追い掛けるというのは、やはり無駄な手間にしか思えない。

その辺りは、ひょっとするとアクションシーンを用意したいという狙いだったのかもしれないが、アクションとしての面白味は皆無なので、ただ無駄なだけ。
「ゴンジーがトマトでパワーが無くなったので捕まる」ということにしたいのなら、2日目に失敗して落下する時、その場所をトマト祭りに落下すればいい。で、その時点で既にドクターたちが追跡しているという形にしておけばいい。
っていうか、その段階では、ドクターがゴンジーの弱点を知っている筋書きにしておけばいいんじゃないの。
そうすりゃ、ゴンジーが海やジャングルに落下したとしても、「トマトで弱らせて捕まえる」という展開に出来るでしょ。

(観賞日:2012年8月27日)

 

*ポンコツ映画愛護協会