『長江』:1981、日本

上海は人口1140万人、中国最大の国際港である。さだまさしは中国を旅するため、まず上海にやって来た。映画スタッフは百歳になる書道家の蘇局仙に依頼し、題字を書いてもらった。長江の源流は、チベット氷河というのが定説になっている。全長6380キロメートル、東シナ海に注ぐ河口の幅は90キロメートルと言われ、川という常識を遥かに超えている。上海を起点に長江を遡る汽船は、東方紅の名称で呼ばれている。
上流から運んだ膨大な土砂が含まれているため、長江は赤く淀んでいる。この赤い流れは海へ流出しても、しばらくは海の青さと交わろうとしない。上海から西へ延々と遡る約330キロメートル、その流域面積約5万平方キロメートルの陸地は、長江が運んだ土砂が堆積して出来た物で、河川用水路が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。水郷地帯は長江デルタと呼ばれている。水上生活者の多くは運搬に従事する人たちで、船に生まれ、船に住む。船で働き、船で一生を終える。
さだは中華人民共和国電視台の女性通訳を伴い、水上生活者に知っている歌を尋ねて回った。太湖は中国5大淡水湖の1つで、シラウオ漁が盛んだ。無錫一帯の田園は、その地域の米作りの中心地となっている。さだは6千年前の米の化石を見学し、日本の米についても考えた。鎮江は人口30万人の水郷都市で、三国志に所縁のある甘露寺がある。さだは京劇同好会を訪れ、三国志を題材にした出し物を見物した。南京には、長江に架けられた3つの大橋の内の1つ、南京大橋がある。南京は革命の歴史を持つ町で、人口は130万人だ。さだは市中を歩き、孫文の陵墓や中華門を見学した。
さだは黄山を訪れるが、体調を崩して寝込んでしまった。回復した彼は、旅の途中で出会った犬を連れて町の小菜館へ赴いた。次に彼は、1600年の歴史を持つ陶磁器生産地、景徳鎮を訪れた。人口23万人の内、5万人が陶磁器作りに携わっている。さだは陶磁器作りの現場を見学した後、九江へ向かった。さだは30メートルの竹を使い、長江で魚釣りに挑戦した。夜まで頑張ったが、何も釣れなかった。しかし、さだは「長江も普通の川なんだ」と感じることが出来た。
武漢は軍事的な争奪の的になった町であリ、世界の列強が作った租界の跡が今も残されている。今は工業都市である武漢には、2つ目の大橋が架けられている。40年前、さだの両親が青春時代を過ごしたのが、武漢の町である。女性通訳が仕事の都合で北京へ戻り、さだは一人旅となった。さだは武漢大学へ行き、日語科の学生たちと話した。なぜ中国に憧れるのかを問われた彼は、複雑に絡み合っている理由を説明した。
岳陽は中国第二の淡水湖がある小さな町である。詩人の杜甫は、その町を題材にした詩を残している。次にさだは汨羅を訪れ、龍船競争に参加した。荊州の博物館では、赤い液体に漬かった謎の多い遺体を見学した。宜昌は日中戦争で日本軍が西部侵攻の最前線とした町だ。1994年から、中国最大のダム建設工事が行われている。風箱峡は、岸壁の洞穴から紀元前500〜200年り物と思われる9つの棺が発見された場所だ。さだは崖っぷちの狭く危険な道を進み、風箱峡を登った。
さだは三峡を抜け、白帝城を訪れた。三国志の英雄、劉備玄徳が死亡した地と言われている場所だ。しかし実際の白帝城は、すぐ隣にある奉節の町を指すと言われている。さだが奉節に到着したのは、ちょうど中国の国慶節だった。町ではお祭りが行われていたが、最近は派手ずきるからという理由で自粛する雰囲気も何となく漂っていた。ただし子供たちは別で、大いに祭りを楽しんでいる様子だった。
豊都は東洋人が死ぬと魂が来る町で、閻魔大王が治めていると言われている。文化大革命で壊された石碑が、あちこちに残っている。さだは道教の総本山だったことのある天使殿へ行き、数少なくなった道師の生き残りたちと会った。かつては日本で言う免罪符を作っていた場所で、さだは道師から再現した物を貰った。その後、さだは重慶、大足、宜賓と旅を続ける。しかし雲南省やチベット高原へ入るのは危険だということで、許可が下りない。さだはスタッフに北京との交渉をお願いするが、状況は改善されなかった。さだは本流の金沙江を遡ることを諦め、岷江を辿って成都から楽山へと向かう…。

監督 主演は さだまさし、総監修は市川崑、総指揮は佐田雅人、プロデューサーは さだ繁理&堀内博周、構成は徳安恂&さだまさし&原一男、構成協力は日高真也、脚本は長野広生&菊池昭典、録音は沼田和夫、編集は亀田左、ナレーターは宮口精二、題字は蘇局仙、音楽は さだまさし&服部克久&渡辺俊幸、主題曲「生生流転」作詞・作曲・唄は さだまさし。


シンガーソングライターのさだまさしが祖父と両親の過ごした中国へ渡り、長江の流れに沿って旅をするドキュメンタリー映画。
さだは出演だけでなく、初監督も務めている。服部克久&渡辺俊幸と共同で伴奏音楽も担当し、主題曲の『生生流転』も歌っている。
総指揮はさだの父である佐田雅人が担当。
『犬神家の一族』や『火の鳥』など数多くの映画を手掛けてきた市川崑が、総監修として携わっている。
構成&第二班演出として、ドキュメンタリー監督の原一男が参加している(第二班演出は木村公明と共同)。

日本の大手メジャー映画会社は全く関与しておらず、さだ企画と中華人民共和国電視台の合作である。
この映画が原因でさだまさしが多額の負債を抱え、返済のために毎年100回を超えるコンサートを30年に渡って開き続けてきたことは、彼のファンじゃなくても知っている人が多いんじゃないだろうか。
ドキュメンタリー映画にも関わらず全国の東宝洋画系120館で上映され、配給収入は5億円になった。
それはドキュメンタリー映画として異例のヒットなのだが、何しろ約30億円の製作費が掛かっているので、大幅の赤字が出たのだ。

中国を撮影する上で「長江を辿る」というルートを選んだのは、数千年前から流れの変わっていない川を辿ることで、昔からの中国の姿が残っているのではないかと思ったからだそうだ。
当初、さだは映画に出演する気は無かったらしい。それどころか、映画にするつもりも無かった。
最初は単純に、「中国へ行ってみたい、見てみたい」というだけだったようだ。
しかし、「どうせ行くなら映像を残そう」ということになり、カメラを回すことになった。

最初はテレビ用VTRでの撮影だったが、それが途中から35ミリフィルムでの撮影に変更された。
しかも第一次スタッフか撮影した後、4班のクルーが撮影を行った。1班につき7人から15人のスタッフが仕事をしており、それだけで人件費が高くなる。
おまけに、全てのクルーが「見るもの全てを写したい」と考え、フィルムを大量に回した。それぞれの班の連絡も付かず、ダブって撮影したシーンも少なくなかったという。
そこに大いなる無駄が出て、フィルム代も高く付いているわけだ。

撮影の許可を取るだけでも大変で、最初は公安に「ここしか撮影してはいけない」と厳しく限定され、その説得に3ヶ月ほど掛かったらしい。
ずっと行きっ放しで全てを撮影したわけではなく、行ったり来たりを繰り返して、トータルの撮影期間は2年になった。
そういう撮影スケジュールの長さも、予算が膨らんだ要因の1つになっている。
最初は2億円の資金で撮影が開始されたが、諸々の原因が重なった結果、最終的に30億円の経費が掛かってしまったというわけだ。

さだは当初、ナレーターだけを担当するつもりだった。しかし「さだが出ないと観客は見てくれないだろう」というスタッフの声を受け、途中から出演することになった。
宮口精二のナレーションが入る部分と、さだが自ら語りを担当している部分があるのは、そういう事情が関係しているのかもしれない。
さだが出演しているのは、全体の中のわずかなシーンに過ぎない。
序盤に登場して「ついに来たんだなあ」という語りが入った後、10分ぐらいは宮口精二のナレーションと共に中国の景色や人々を写し出すだけで、さだは消えている。

さだが2度目に登場するのは、女性通訳を伴って水上生活者と会うシーンだ。
彼は水上生活者に知っている歌を尋ねるので、それが中国を訪れた理由なのかと思いきや、1人の女性が歌を軽く口ずさむ様子をチラッと写しただけで、すぐに太湖へと移動する。
そこは宮口精二のナレーション・ベースで処理され、6千年前の米の化石を見学するシーンで、さだは再び登場する。そして彼は、「日本の米がどこから来たのか考えてみた」という風なことを語る。
歌探しという目的は、あっさりと消え去っている。

序盤の段階で、さだが何の目的で中国を訪れたのか、この映画が何を描こうとしているのか、その辺りはボンヤリしている。
タイトルからして、もちろん長江に関係することなんだろうってのは伝わるが、ただ長江を辿るにしても、あまりにも漫然と中国の景色や人々を写し出すばかりで、ピントがボヤケすぎしゃないかと感じてしまう。
後半に入り、「長江の最初の一滴を見るために来た」ということを語っているので、それが目的だったのかもしれない。
だが、だったら最初にハッキリと提示しちゃった方がいい。

で、「長江の最初の一滴を見る」という目的が明示された後、すぐに「そこへ向かうための許可が下りない」という展開になる。
許可が取れていないのに「長江の最初の一滴を見る」という目的を掲げている時点でどうなのかとは思うけど、それは置いておくとして、じゃあ目的が達成できない中でどのように映画を着地させるのかと思ったら、さだが峠眉山に登リ、日の出を眺めて終わり。
いやいや、なんで長江を辿る度なのに、最後が川じゃなくて山の上なのよ。

ようするに本作品は、「さだまさしが中国へ渡り、興味ある物を片っ端から見て回る」という観光旅行の記録映像なのだ。
とりあえずドキュメンタリー映画として体裁を整えているけど、そういうことだ。だからテーマなんて、あって無いようなモンだ。
だから、ある町へ行き、そこにある何かを見たら、すぐに次の町へ行って全く別の物に興味を抱く。
何か1つのテーマに絞って、町を巡っているわけではない。さだのモノローグも、訪れた場所によって色んな方向へ飛び、とりとめが無い。
さだが行っていない場所の景色が何度も挿入されることで、ますます散漫な印象になっている。

公開されたのは日中国交回復の直後であり、日本では中国がどのような国なのか、ほとんど情報が無かった。
だから「まだ知らない中国を多くの人々に知ってもらうという意味で、公開された当時としては『兼高かおる世界の旅』的な価値はあったのだろう。
ただし、「じゃあテレビ番組でやればいいんじゃないか」と言われたら、「その通りですよね」と答えるだろう。
わざわざ映画にする意味があったのかと考えると、そこに意味を見出すことは難しい。

この映画と同じ1981年、東宝が『連合艦隊』を公開している。小林桂樹、三橋達也、小沢栄太郎、鶴田浩二、森繁久彌、丹波哲郎、平田昭彦、金子信雄、奈良岡朋子、松尾嘉代など、錚々たる顔触れが揃った特撮戦争映画である。
製作費は10億円だが、それでも当時としては破格の金額と言われた。大手メジャーである東宝の製作で、しかも特撮を使った大作の劇映画であっても、10億円の製作費は異例だったのだ。
それを考えると、ドキュメンタリー映画で30億円の経費というのが、いかに使い過ぎなのかが分かるだろう。
ちなみに『連合艦隊』は配給収入が19億円で、その年の日本映画ではトップだった。
邦画の1位でも配給会社が19億円なんだから(製作会社の取り分は、その半分ぐらいかな)、そりゃあ30億円も使って回収できるはずがないわな。

(観賞日:2014年10月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会