『沈黙 SILENCE』:1971、日本

江戸時代、キリシタン弾圧下の長崎。ポルトガルから潜入した宣教師ロドリゴとガルペは、隠れキリシタンのモキチ達に出会う。モキチ達が住むトモギ村に案内されたロドリゴとガルペは、裏山の隠れ家に身を隠す。ロドリゴは5年前に役人に捕らえられた恩師のフェレイラ神父がどうなったのか尋ねるが、村人は一様に口を閉ざす。
トモギ村の隠れ家を近くの島に住む村人達が訪れ、自分達の村に来てほしいと依頼する。その村は、ロドリゴ達の案内役を務めたキチジローが生まれた場所だった。かつてキチジローは、踏み絵を踏んだことで村八分にされていた。
キチジローはロドリゴ達を連れてきたことを島の人々に知らせたことで、再び村に迎え入れられていた。島に向かったロドリゴは、村人達がマリア像として観音像を拝んでいる姿を目撃する。ロドリゴはキチジローに、二度と信仰を捨てないことを約束させる。
トモギ村に役人が現れ、村人がキリシタンがいることを明かさなかったことから、村長達を連れていく。やがて役人はモキチやキチジロー達を奉行所に連れて行き、彼らがキリシタンではないと証明すれば、人質を解放すると告げる。
モキチ達は役人から、踏み絵に唾を吐きかけるように迫られる。拒否したモキチ達は処刑され、唾を吐き掛けたキチジローだけが助かった。ロドリゴは焼き討ちに遭った村から逃げ出すが、キチジローの密告によって役人に捕らえられてしまう。
長崎の奉行所に運ばれる途中、ロドリゴは通辞の男から、イノウエ奉行の取り調べを受けてフェレイラが棄教したことを聞かされる。やがて牢に入れられたロドリゴの前に、キチジローが姿を現して詫びを入れ、キリシタンだと役人に告げて牢に入る。
ある日、ロドリゴはキリシタンの武士・岡田三右衛門と妻の菊が拷問を受けている様子を目撃する。菊は役人から、殺されそうになっている夫を助けたければ踏み絵を踏むよう迫られる。とうとう菊は踏み絵を踏むが、三右衛門は役人に斬り殺される。その様子を見たキチジローは、あっさりと踏み絵を踏んで奉行所から退散する。
ロドリゴはイノウエとの対話を繰り返すが、互いに歩み寄りを見せることは無い。やがてイノウエは、ロドリゴをフェレイラと対面させる。フェレイラは転ぶよう勧めるが、ロドリゴは頑なに拒否する。そしてついに、ロドリゴは拷問を受けることになった…。

監督は篠田正浩、原作は遠藤周作、脚本は遠藤周作&篠田正浩、台詞は遠藤周作、企画は篠田正浩&マコ・岩松、製作は岩下清&大村允佑&葛井欣士郎、撮影は宮川一夫、録音は西崎英雄、照明は佐野武治、美術は栗津潔&上里忠男、音楽は武満徹。
主演はディヴィト・ランプソン、共演はマコ・岩松、丹波哲郎、岩下志麻、三田佳子、岡田英次、戸浦六宏、松橋登、加藤嘉、殿山泰司、ダン・ケニー、入川保則、毛利菊枝、永井智雄、松本克平、稲葉義男、滝田裕介、島田順司、陶隆、松山照夫、伊達三郎、北原将光、三島猛、徳田実、万谷修一、佐田武志、井原千寿子、麻生いく子、中川三枝子、石山豊、マンモス鈴木、アポロ太郎ら。


第2回谷崎潤一郎賞を受賞した遠藤周作の原作を映画化した作品。
ロドリゴをディヴィト・ランプソン、キチジローをマコ・岩松、フェレイラを丹波哲郎、菊を岩下志麻、イノウエを岡田英次、通辞を戸浦六宏、牢番を殿山泰司が演じている。

タンバでルンバの丹波哲郎先生がポルトガル人の宣教師を演じているという時点で、ポンコツ映画の認定を差し上げたい気持ちにさせられる。
だが、ストレートにポンコツ映画とするのは、誰に対してなのかは良く分からないが、たぶん失礼に当たると思われるので、うやうやしい気持ちでトンデモ映画としておく。

この映画の最大のポイントは、キリスト教の話だということだ。
キリスト教に関わる出来事を通して、他の宗教を信奉する人や無宗教の人にも共通の問題を描き出すのならともかく、キリスト教の内輪の話で終わっている。
そして、そこから外に出ようとしない。

例えばアメリカのように、多くの人がキリスト教を信仰している国ならば、それでも良かったのかもしれないが、しかし、これは邦画なのである。
そもそもキリスト教を信仰する人、深く理解している人がそれほど多くない日本で、そのキリスト教の転びや新しい解釈を提示されても、いったい誰に向けて作られた映画なのかと思ってしまう。いや、そりゃあキリスト教信者に向けた映画なんだろうが。

もしかしたら、キリスト教にの知識が乏しい多くの日本人に対して、キリスト教への興味を抱いてもらい、理解を深めてもらおうという意図があるのかもしれない。
だが、この映画を見ても、キリスト教に対する良いイメージが伝わるとは思えない。

原作においては(未読だが)、書いたのが遠藤周作ということで、たぶん「転んでも許してくれるよね、神様?」という問い掛けることに意味があるのだろう。
キリスト教の教えを都合良く解釈することで、「オイラは信仰を裏切っていないんだ」と、自分自身に言い聞かせようとするわけだ。

「どれだけ祈っても神様は何もしてくれないではないか」という問い掛けに、宗教は明確な答えを絶対に用意できない。
「本当の信仰が無いからだ」という答えは、それこそ本当の答えでは無い。
ただ答えられないから、逃げているだけだ。

良く「信じる者は救われる」という言葉が使われる。
だが、裏を返せば、信じない者はどうなっても構わないということだ。
神様って、心が狭いのね。
あと、宣教師って、つまりセールスマンなのよね。
役人は酷いけど、「押し売りは迷惑」という考え方は間違ってはいないと思う。

踏み絵を踏まないと殺されるのは分かっている。
だから、死ぬよりは信仰を捨てる方が絶対に正しい。
生き延びるために気持ちを偽ったとしても、何も悪いことなど無いはずだ。
命よりも大切な信仰など、本当の信仰ではない。

信仰を守るために死を選ぶなんて、完全に本末転倒だ。
信仰を守るために死を選ばせるような宗教に、本当の救いなど存在しない。
それに、そもそもキリスト教って確か偶像崇拝はやってないはずだから、踏み絵を踏んでも何の問題も無いはずなのだが。

踏み絵を踏んだキチジローを非難するのは、弱い人間を排除するということであり、宗教としては寛容さが無さすぎる。
だが、キチジローが金のためにロドリゴを役人に売った行為に関しては、宗教が云々という以前に、人道的に問題がある。

ロドリゴを売ったことまで含めて、キチジローを「弱い人間だから仕方が無い」と許してしまうと、宗教が非人道的な行為まで許すことになる。
だから、踏み絵を踏むことを非難する考え方も、ここで示される新たな解釈も、どちらにも納得し難いものがある。

キリシタンを拷問して転ばせようとする役人の行為は、確かに残酷だ。
しかし、彼らが残酷だと感じる気持ちよりも、本当に失礼なことだが、頑なに信仰を守って死んでいくキリシタンはバカじゃないのかと感じる気持ちの方が圧倒的に強い。

「心からではなく形だけで構わない」と役人が言っているのだから、踏み絵を踏めばいいじゃんと思ってしまう。死んだら宗教なんて無意味なのに、と思ってしまう。
ホント、信仰心がゼロでゴメンナサイ。
神様にザンゲしたいと思います。

 

*ポンコツ映画愛護協会