『ちいさな英雄 カニとタマゴと透明人間』:2018、日本

『カニーニとカニーノ』
カニーニとカニーノの兄弟は、川底の洞窟で父のトトと共に暮らしている。かつては大勢の家族がいて、母のカカも一緒だった。しかしカカは妊娠中に魚を取りに行ったまま、戻って来なかった。で眠りに就いたカニーノは、母の夢で目を覚ました。カニーニが寝ている間に、カニーノは洞窟の外へ出た。戻って来たトトはカニーノがいないことを知り、カニーニを連れて捜索に出た。するとカニーノは激しい水流に襲われ、必死で小枝に捕まっていた。トトはカニーノを助けてカニーニに預けるが、その直後に襲来した激流に飲み込まれて姿を消してしまう。悲しみに暮れているカニーノを見たカニーニは元気付けようとするが、自分も泣き出してしまった。
大きな魚が出現したので、カニーニはカニーノの腕を取って岸へ逃げた。タヌキの群れが走って来たので、2人は慌てて避けた。カニーノは浅瀬でトンボの羽を発見し、カニーニはトトがいるはずだと確信する。トトを見つけた兄弟は、喜んで駆け寄ろうとする。しかし近くに巨大な魚がいたので、トトは来るなと叫ぶ。巨大魚は気付かれたカニーニは、羽を囮に使う。彼は弟を連れてトトの元まで泳ぐが、巨大魚が迫る。しかし水鳥が巨大魚を食らい、その場を去った。カニーニたちはカカと再会し、生まれて間もない弟たちと対面した…。

『サムライエッグ』
生まれつき重度の卵アレルギーを持つ少年のシュンは、ママに連れられて医療センターを訪れた。彼は異なるアレルギーを持つ子供たちと一緒に、アレルギー試験のためのパンケーキを食べた。食べても平気だった子供もいるが、シュンは激しい腹痛に見舞われた。ある日の朝、歯磨きをしていたシュンはママを呼び、下の歯が抜けたことを知らせた。彼はママに言われ、マンションの窓から隣の米屋の屋根に歯を投げ落とした。
まだシュンが幼い頃、ママは異変に気付いて病院に運んだ。検査を担当した医師は、卵アレルギーだと告げた。医師からアナフィラキシーの危険性を説明されたママは、エピペンを打って救急車を呼んだこともあった。シュンは保育園の誕生日会でケーキ食べてしまい、連絡を受けたママは慌てて駆け付けた。祭りの日にシュンが男性とぶつかり、相手が持っていたタコ焼きが口に入ってしまう出来事もあった。小学校に入学したシュンは給食が食べられず、ママが毎日の弁当を用意した。
学校では河口湖へ自然教室に出掛ける行事があったが、シュンは食事の問題があるため、「行かなくてもいいよ」とママに話す。仲良しの女の子から一緒に行こうと誘われたシュンだが、消極的な態度を示した。ママは教師と会い、弁当を送るので参加させてほしいと頼んだ。しかし河口湖まで通うことを求められ、憤慨して拒否した。学校でスポーツテストが実施された時、シュンはシャトルランで学年新記録を作った。逆上がりに挑戦した仲良しの女の子は成功し、シュンにハイタッチした。
ダンスフェスのオーディションを受けることにしたママは、シュンが見たいと言うので会場へ連れて行く。仲間と踊るママを見学していたシュンは、近くに置いてあったチョコクッキーに手を伸ばす。それに気付いたママは慌ててステージを駆け下り、クッキーを弾き飛ばして「アホ、何してんや、死んでまうやろ」とシュンを叱り付けた。一緒に踊っていた仲間は、その様子を驚いた様子で眺めた。帰りのバスで、ママはシュンに怒鳴ったことを謝罪した…。

『透明人間』
アパートで独り暮らしをしている透明人間は、目覚まし時計で起床した。彼はダンベルを踏みながら服を着て、洗面台の鏡を見ながら眼鏡を掛けた。出掛ける準備を整えた彼はダンベルを床に置き、リュックを背負って消火器を手に取った。部屋を出た彼はスクーターで出勤し、自動車販売店で仕事を始めた。しかし上司は他の社員にばかり接客を指示し、透明人間の存在は無視した。彼が女性社員が落としたペンを拾っても、まるで気付いてもらえなかった。
帰りにスクーターが故障してしまった透明人間は、コンビニに入ろうとする。しかし自動ドアに認識されず、他の客が来たタイミングで中に入った。透明人間はATMから金を引き出そうとしますが、やはり反応してもらえない。持っていた小銭でパンを買おうとするが、店員に無視された。仕方なくパンを置いてコンビニを出た透明人間は、感情が爆発して思わず消火器を投げてしまう。我に返った彼は慌てて掴むが、走って来たトラックを避ける時に落としてしまった。
透明人間は強風に吹き飛ばされ、アドバルーンにを掴む。しかし再び強風に見舞われて吹き飛ばされ、今度は工事現場のツルハシを掴んで何とか着地した。雨に降られた透明人間が佇んでいると、盲導犬が歩み寄って来て顔を舐めた。飼い主である盲目の男は、「気になるかね、その人が。お前にしては珍しいね」と告げる。盲目の男は「よーく見えてる」と言い、透明人間に惣菜パンを差し出した。盲目の男が去った後、パンを食べていた透明人間は近くで重大な問題が起きそうになっていることに気付く…。

ゼネラルプロデューサーは伊藤響&早川英、共同プロデューサーは岩佐直樹&鈴木聡、プロデューサーは西村義明、オープニングテーマ『ポノック短編劇場のテーマ』は木村カエラ、エンディングテーマ『ちいさな英雄』は木村カエラ。

『オープニング&エンディング アニメーション』
ディレクターは岡田拓也、プロデューサーは島田和幸、美術は日野香諸里&片山久瑠実&松井久美、色指定は沼畑富美子&糸川敬子、美術撮影は小川猛&川西美保、映像スーパーバイザーは奥井敦、編集は小島俊彦&中葉由美子、録音は木村絵理子。

『カニーニとカニーノ』
脚本・監督は米林宏昌、美術監督は劉雨軒、色彩設計は沼畑冨美子、CGディレクターは岡田拓也、3Dスーパーバイザーは菊地蓮、撮影監督は福士享、編集は小島俊彦、映像スーパーバイザーは奥井敦、音響演出・整音は笠松広司、音楽は村松崇継。
声の出演は木村文乃、鈴木梨央、てらそままさき、佐々木優子ら。

『サムライエッグ』
脚本・監督は百瀬義行、作画監督は百瀬義行&廣田俊輔、美術監督は日野香諸里、色彩設計・特効は糸川敬子、撮影監督は田沢二郎&峰岸健太郎、CG監督は山田常事&粟路理栄&上地正祐、編集は小島俊彦&中葉由美子、整音は はたしょう二、録音演出は木村絵里子、音楽は島田昌典。
声の出演は尾野真千子、篠原湊大、坂口健太郎ら。

『透明人間』
脚本・監督は山下明彦、作画監督は山下明彦、美術は林孝輔、色彩設計は沼畑富美子、CGは軽部優、美術撮影は小川猛&川西美保、編集は小島俊彦、撮影・映像演出は奥井敦、整音は山口貴之、音楽は中田ヤスタカ。
声の出演はオダギリジョー、田中泯ら。


スタジオポノックが『メアリと魔女の花』に続いて製作した劇場映画。
「ポノック短編劇場」の第1弾として製作され、3つの短編で構成されている。
『カニーニとカニーノ』の脚本・監督は『思い出のマーニー』『メアリと魔女の花』の米林宏昌。カニーニの声は木村文乃、カニーノの声は鈴木梨央。
『サムライエッグ』の脚本・監督は『ギブリーズ episode2』『ジュディ・ジェディ』の百瀬義行。ママの声は尾野真千子、シュンの声は篠原湊大、パパ&医者の声は坂口健太郎。
『透明人間』の脚本・監督は短編映画『ちゅうずもう』の山下明彦。透明人間の声はオダギリジョー、盲目の男の声は田中泯。

アニメーション制作会社の経営ってのは、そんなに簡単なことではない。ポノックは下請けもやっている会社ではなく自社制作だけみたいなので、1年に1本の長編アニメーション映画を製作するのが理想だろう。
だが、ディズニーのような巨大企業ならいざ知らず、まだ発足して間もないポノックだと、それは難しい。
ポノックの面々が以前に所属していたスタジオジブリにしても、日本のみならず世界的に有名な会社だが、1本の長編を生み出すのに何年も費やしていた。それは作業が間に合わないってことよりも「監督の構想に時間が掛かる」ってことの方が遥かに大きいのだが、それはポノックにしても同じことだ。
そのため、短編映画でもいいから公開することで、ポノックの存在をアピールするだけでなく、経営面でも安定に繋げようという狙いがあったのかもしれない。
ただ、実はビジネスとして考えると、短編映画ってかなり難しいんだけどね。

『カニーニとカニーノ』は、カニーニとカニーノの名前からして「カニを擬人化しているんだろうな」ってのは何となく分かる。だけど、見た目は人間そのもので、カニらしさは皆無なんだよね。
カニの爪を武器に使ったりしているけど、それは逆にカニからは離れる描写だし。ホントのカニなら、切断されているカニの爪は使わないでしょ。
あと、擬人化されていない普通のカニも出て来るので、そこの違いは何なのかと。
カニーニたちを擬人化したのなら、全てのカニは人間の姿で描くべきじゃないかと。あるいは、カニーニの家族以外はカニを出さなきゃいいんじゃないかと。

カニーノが浅瀬でトンボの羽を発見すると、カニーニは「近くにトトがいるはずだ」と確信する。なぜなのかサッパリ分からないが、実際に近くで傷付いたトトが倒れている。
そこへ巨大魚が来てカニーニたちはピンチに陥るが、自分たちで退治するのではなく水鳥が巨大魚を食べてくれる。
そして自分たちで捜索するのではなく、向こうからカカが来てくれる。
こういう終盤の展開だと、物語としての盛り上がりには欠けていると言わざるを得ない。

カニーニたちは、互いの名前を言う以外にマトモな台詞は無い。「あー」とか「うー」とか言うだけだ。だけど、普通に台詞を言わせりゃ良くないか。そういう設定にしないメリットが見えない。
あと、米林宏昌監督はポノックの長編第一作である『メアリと魔女の花』でも思ったことだけど、今回もスタジオジブリの亜流、もしくはスタジオジブリの劣化版みたいな映画を作っているんだよね。
彼は「宮崎駿なら絶対に受けないだろうと思われる企画」を引き受けることから始めてみたらどうだろうか。
そういう考え方がクリエイターとして正道じゃないのは分かった上で、それでもスタジオポノック(っていうか米林宏昌監督)は「宮崎駿から遠ざかる」という作業から始めた方がいいと思うんだよねえ。

『サムライエッグ』って原作付きならともかく、違うんだよね。
だったら、ママを関西弁にしている意味が全く分からない。まだ関西が舞台ならともかく、東京なんだし。
いや、もちろん尾野真千子はネイティヴな関西弁を喋れる人だけど、それだけの理由で関西弁キャラにしたのかね。
でも、物語として、「ママが関西出身で、東京で暮らしていても関西弁で話している」という設定が大きな意味を持っているわけでもないんだよね。

あと、ダンサー志望でダンスフェスのオーディションを受けようとしている設定も、これまた全く意味が無いぞ。
そこは別の用事でもいいでしょ。
「シュンのせいでママが夢を犠牲にせざるを得なくなった」ってのを描きたいのは分かるけど、どうやらパパはサラリーマンとして仕事をしていて、ママが主婦業をしながらダンサーを目指しているという設定が、なんか無駄に引っ掛かるんだよね。
いや、そういう家庭があってもいいとは思うんだけどさ、映画の設定としては、変に捻っているような気がして。

ママの「ダンサー志望」という要素が物語の展開に大きな影響を及ぼすのかというと、そんなことは無いわけで。
だったら、例えば回想シーンで「かつてママはシュンのために自分の夢を断念した」みたいな描写を入れる形でも良かったんじゃないかと。
っていうか、実は回想シーンって丸ごとカットでもいいんじゃないかと思っちゃうんだよね。ママの苦労は、現在進行形の部分だけでも充分じゃないかと。
回想シーンを挿入すれば、「シュンが産まれた頃から、ずっとママは苦労を重ねてきた」ってのを強くアピールすることは出来る。
ただ、これが食物アレルギーについて人々に広く知ってもらおうとする文部省推薦の啓蒙映画だったら別にいいけど、娯楽アニメとしては味付けが違うんじゃないかと思うのよ。

オーディションのシーンは、あまりにも描写が不自然だ。シュンが見学している時、その隣に来た女性が彼の近くにクッキーの箱を置くんだよね。
いやいや、もうアナフィラキシーを起こさせようと企んでいる奴みたいになってんじゃねえか。でも、そんなはずもないでしょ。
たぶん、ママは息子を見学させるに当たって、卵アレルギーについても注意していたはず。
だったら、そこに卵を使った食品が無いことを事前に確認したり、スタッフに「そういう物は与えないで」と言っておいたりすべきじゃないのかと。

終盤、シュンは野球の練習から帰宅し、冷蔵庫の「しゅん用」と書いているケースに入っていたアイスクリームを食べる。しかし原材料に卵が含まれていたため、慌ててママに電話する。
でも、そこを「しゅん用」に決めたのは、きっとママのはずでしょ。だったら、ママは原材料を確認してアイスクリームを購入しているはず。
それに、1個だけでなく同じアイスが何個も入っているんだから、いつも食べていたんじゃないのかよ。それなのに、なんで「シュンが食べて違和感を覚え、原材料を確認するまで気付かない」という事態が起きるのか。
イレギュラーな行動を取ったわけではなく「いつも通りの行動」のはずなのに、それは展開として無理があるんじゃないの。

この話は「食物アレルギーを持つ少年の物語」としての側面よりも、「食物アレルギーの子供を持つ母親の物語」としての側面が強い。
そもそも題材として厳しい部分はあるが、それを差し引いても「どういう観客層を想定しているんだろう」という疑問が湧く。これを見て、小さい子供たちが楽しめるとは到底思えないのよね。
でもポノック短編劇場としてのオープニングは明確に「子供向け映画」の雰囲気を出しているし、カニーニも基本的には児童向け映画と言っていいだろう。
なのに2本目がこれだと、なんか統一感が無いなあと。

最後の『透明人間』は、これも『サムライエッグ』と同く「全体の統一感」という意味では難があるが、それを抜きにすれば3本の中では最も引き付ける力が強い。
わざわざ説明しなくても、透明人間がメタファーであることは多くの人が気付くだろう。
実際に透明人間である必要は無くて、ようするに「周囲から認識してもらえないぐらい存在感の乏しい人間」ってことだ。
本当の透明人間として受け取ると色々とツッコミ所はあるけど、寓話なので細かいことは気にしなくていい。

終盤、透明人間は暴走トラックから命懸けで赤ん坊を救出する。彼は狼狽しながらも、赤ん坊をあやそうとする。赤ん坊が彼を見て笑顔になると、エンドロールに入る。そしてエンドロールの後には、彼がスクーターで出勤する様子が映し出される。
でも、これだと透明人間は「自分でも何かの役に立つ」と感じただけで終わってないか。
本人は赤ん坊が笑っただけでも前向きな気持ちになっているから、それで満足なのかもしれないよ。
でもメタファーの物語としては、盲目の男や赤ん坊だけじゃなく、1人でもいいから他の一般人から認識される状態にならないと、根本的な解決になっていないような気がするんだけどなあ。

(観賞日:2022年3月30日)

 

*ポンコツ映画愛護協会