『着信アリ』:2004、日本
16日。中村由美が友人の小西なつみらと合コンをしていると、後輩の葬儀に出席していた岡崎陽子が遅れてやって来た。化粧室で由美と陽子が2人きりになった時、携帯電話が鳴り響いた。鳴っていたのは陽子の電話だが、彼女は着信音に聞き覚えが無いと言う。発信元は陽子の携帯番号で、そこには陽子の声が入っていた。しかもメッセージの時刻は、18日の午後11時4分になっていた。
18日、陽子から由美に電話が掛かってきた。陽子は陸橋を歩きながら、雨が降ってきたと口にした。由美は、時刻が午後11時4分だと気付いた。その時、陽子は陸橋から転落し、死亡した。葬儀に参列した由美は、ある噂を耳にした。陽子の後輩も、自分の携帯からの発信を受け、そのメッセージの時刻に死亡したというのだ。そして、死んだ人間の携帯電話に電話番号を登録されていた人物の誰かが、死のメッセージを受け取り、新たな犠牲者になるのだという。
由美は合コンで陽子の電話番号を登録した河合ケンジに会い、その「携帯電話による死の伝染」について語る。するとケンジは、自分の声で死の予告メッセージが届いたことを話した。ケンジは由美の目の前で、メッセージの時刻に不審な死を遂げた。由美は警察の事情聴取に対して異常を訴えるが、刑事の本宮は相手にしなかった。
由美の自宅に、なつみが泊まることになった。夜、由美が電源を切ったにも関わらず、なつみの携帯電話が鳴り響いた。今度はメッセージではなく、なつみの画像が届いた。由美はなつみに携帯電話を解約させるが、マスコミが押し掛けて来た。ディレクターの藤枝が撮影用にスタッフの携帯電話をなつみに渡すと、そこにも画像が届いた。藤枝から「番組に出て霊能者の天道に見てもらおう」と言われ、なつみは由美の制止を振り切って彼に付いて行く。
由美は、山下という男と知り合った。彼は由美に陽子の携帯電話を見せ、彼女が転落して手を切断されたにも関わらず、その1分後に電話を掛けた履歴があることを告げた。山下は半年前、重度の火傷で妹を失っていた。その妹も、陽子と同じ番号に電話を掛けていた。陽子も山下の妹も、一連の事件の犠牲者は全て口に飴玉を含んでいた。
山下と由美は、履歴に残されていた電話番号が、加賀見病院の移転前の番号だと知った。病院を訪れた由美は、ケンジが死ぬ直前にエレベーターから聞こえたのと同じ音を耳にした。それは、喘息患者の吸入器の音だった。水沼美々子という少女が、喘息で亡くなっていた。その母マリエには、美々子の妹・奈々子を虐待していた疑惑があった。
山下の妹は児童相談所で働いており、何度も訪れていた奈々子とは知り合いだった。山下は葬儀屋の丘に協力してもらい、マリエの携帯番号を知った。しかし、いつ掛けても留守番電話になっているらしい。なつみの死亡予告時刻が迫る中、藤枝のテレビ番組の生放送が始まった。そして生放送の番組中に、なつみは異常な形で命を落とした…。監督は三池崇史、企画・原作は秋元康、脚本は大良美波子、製作は黒井和男、プロデューサーは佐藤直樹&有重陽一&井上文雄、エクゼクティブプロデューサーは大川裕、アソシエイトプロデューサーは門屋大輔&福山亮一、撮影は山本英夫、編集は島村泰司、録音は中村淳、照明は松隈信一、美術は稲垣尚夫、CGIプロデューサーは坂美佐子、音楽は遠藤浩二、
主題歌「いくつかの空」は作詞は秋元康、作曲はJin Nakamura、編曲はChokkaku、歌は柴咲コウ。
出演は柴咲コウ、堤真一、吹石一恵、石橋蓮司、岸谷五朗、松重豊、永田杏奈、井田篤、筒井真理子、今井久美子、冨田恵子、藤井佳代子、野田よし子、梓、田中哲司、佐藤充宏、花木薫、高野八誠、矢沢幸治、飯島大介、藤倉みのり、神谷彰一、八木沢美佳、大島かれん、清水聖波、山田さくや、吉田康平、阿部進之介、江口徳子、サエコ、小林清美、三国由奈、岡田めぐみ、英玲奈、村川敦子、木元耕介、伊藤かな、松田章、木之内頼仁、中村靖日、松田正信、高城薔薇絵、小井幸子ら。
毎年1月下旬に公開される角川ホラー映画シリーズの第6弾。
1998年が『リング』『らせん』の2本立てで、1999年が『リング2』『死国』、2000年が『リング0 バースデイ』『ISOLA 多重人格少女』、2001年が『狗神』『弟切草』、2002年の『仄暗い水の底から』と続き、興行収入がジリ貧になってきたので2003年は休止されたが、『呪怨』のヒットを受けて、また復活したという次第。「パロディーなのか」と思うぐらい、最初から『リング』を連想させる展開が続く。
この話なら、「携帯で呪いが伝染する」という説明は最初に明かさず、しばらく物語が進行してヒロインが調べていく内に行き当たるという形の方が面白くなるんじゃないかと思ったりもする。
しかし、ストーリーテリングの面白さよりも何よりも、「まず『リング』を模倣する」ということを優先すれば、最初にネタを明かすという形を取ることになるだろう。創作物における模倣に対しては批判的な意見も少なくないだろうが、少なくとも「真似事は全てダメ」というのは、大きな間違いだと私は思う。
例えば西部劇を模倣したマカロニ・ウエスタンの中には、面白い作品も存在する。
オリジナルよりも面白い部分が多ければ、真似事映画だって、ある程度は認めてあげてもいいんじゃないかと思う。
ただし、この映画は認めたくないものだな。雰囲気で怖がらせるホラー、見えざる恐怖を軸にしたホラーなのに、なんで三池崇史監督を据えたのかなあと思ってしまう。
三池監督が得意とする恐怖は、ヴァイオレンスとしての恐怖や視覚的に痛みやグロテスクを感じさせるタイプの恐怖であって、怪談話のようにゾクゾクと効いてくるようなタイプの恐怖ではないと思う。
つまり、ケレン味に溢れた残虐描写を売りにするような、殺人ショー映画の方が適正じゃないかと思うのだが。雰囲気で恐怖を醸し出そうとしているのか、直接的なショッカー表現、残酷描写は避けているのだが、全く怖さは感じない。だから、由美やなつみの恐怖に本当ならば同調しなければいけないのだが、逆に気持ちが冷めてしまう。
画面を暗くしたり、静寂を多くしたりすれば、それだけで怖くなるという風な簡単なものではない。TV番組の場面だけはケレン味を持たせているが、そこだけ急にテンションを上げられても違和感が強い。
それにケレン味があると言っても残酷描写が強くなるわけではなく、煮え切らない料理を見た目だけ派手に飾り付けてみたという感じ。
つまり、特殊効果による見た目の派手さはあるけれど、怖さが増すわけではないのだ。
そういうトリッキーな展開を持ってきたものの、その後の展開までは考えていなかったようだ。たぶん、「とりあえず、その場その場で面白そうな要素を繋ぎ合わせておけ」という程度の考えだったんだろう。
なので、生放送のテレビ番組で奇妙な死亡事件があったにも関わらず警察が動かないという、幽霊話よりも不可解な出来事が起きている。どうやら全体の流れや「伏線を紡いで最後に収束」という計算は全くやっていなかったようで、話が進むに連れてどんどん整合性は無くなっていく。
しかし三池監督らしい「破綻した面白さ」があるというわけではない。
まあ最初からオチをキッチリと付けようという意識は皆無で「続編に繋げよう」ということだったんだろうが、それにしても伏線とは全く違う方向へ迷い込んでいく。秋元康という人は、流行や話題に乗っかるのが得意な人だ。
だからこそ、長きに渡ってヒットメイカーとして君臨することが出来ているわけだ。
『リング』や『呪怨』など、一連のジャパニーズ・ホラーのブームを作った作品群からエッセンスを拝借し、それを組み合わせて再構築することによって、「あらかじめヒットが約束された映画」を作ろうとしているのだろう。商業映画の世界というのは、キレイごとだけでは通用しない。
「今まで見たことの無いような新しい作品を生み出してやる」という熱い意気込みで野心作、実験的映画を作ったとしても、それがヒットして製作費を回収できなければ、商業的には失敗なのだ。
例え二番煎じだの模倣だのと批判されたとしても、売れたら勝ちなのだ。ヒット作を生み出す人は、誰が何と言おうと偉いのだ。幽霊と携帯電話の関係に無理があるとか、話が進む中で「携帯電話がもたらす恐怖」というところから離れていったり、実は携帯電話がストーリーに全く必要が無かったりという、様々な欠点を抱えていようとも、ヒットすればOK。
この作品はパート2が製作されたぐらいだから、少なくとも製作費は確実に回収できたし、それなりにヒットしたってことだろう。
だったら勝ちでいいんじゃねえの(投げやり)。