『ゼブラーマン』:2004、日本
2010年、横浜市八千代区ではアゴヒゲアザラシ1万匹が川を登るなどの異常現象が発生し、犯罪発生率が極端に上昇していた。防衛庁の 及川と瀬川は上官の神田に呼び出され、八千代区に人間以外の生命体がいる可能性を告げられた。アメリカの調査団の調査報告が向こうの 雑誌に掲載されたという。これを受けて防衛庁では特殊機密調査部を設けることになり、及川と瀬川がメンバーに任命された。2人は 八千代区に派遣され、安アパートでレーダーを使った調査を開始した。
小学校教師の市川新市は、うだつの上がらない陰気な男である。3年生の学年主任を務める彼は、珍しく授業を担当しても生徒からバカに される始末だ。息子の一輝は同じ小学校に通っているが、新市のせいでイジメを受けている。しかし新市は何も出来ず、「もうすぐ転勤 するから我慢してくれ」と言うだけだ。新市は家族からも軽蔑されており、娘のみどりは夜遊びに明け暮れ、妻の幸世は不倫をしている。 寂しい新市の心を癒してくれるのは、自分の部屋で手作りの“ゼブラーマン”のコスプレをすることだった。
新市の小学校に転校生がやって来た。浅野晋平という車椅子の少年だ。看護婦でシングルマザーの可奈は、2年ほど前に原因不明で 立てなくなったと説明する。彼女は新市に、晋平を特別扱いしないで欲しいと頼んだ。みどりは北原という男と交際しており、一緒に ホテルへ行く。北原は巷を賑わせているカニマスクの通り魔だったが、みどりは全く気付いていない。一方、新市はゼブラーマンの格好で ジュースを買いに行こうと思い立つ。自動販売機まで行き、誰にも見られずジュースを買って、彼は部屋に戻った。
翌日、新市は晋平が机に落書きをしているのを見つけるが、注意できなかった。学年主任で暇の多い新市は、体育の授業に参加できない 晋平を誘って体育館でバスケットをやった。教室に戻った新市は、晋平の落書きがゼブラーマンだと気付いて驚いた。ゼブラーマンは、 昭和53年から半年間の予定で放送された特撮ヒーロー番組だ。しかし視聴率の低迷により、わずか7回で打ち切りとなった。再放送も一度 もされていない。そんなマニアックな番組だが、新市は大好きだったのだ。
なぜ知っているのかと新市が尋ねると、晋平はインターネットで情報を得たと答える。晋平はゼブラーマンのファンで、新市が覚えて いなかった情報まで知っていた。ゼブラーマンの普段の職業は教師で、舞台設定は2010年。つまり、今年はゼブラーマン誕生の年なのだ。 ゼブラーマンに詳しい晋平に、新市は「浅野さんって呼んでいいですか」と敬語で喋るようになった。
教頭の目黒国治は職員会議を開き、最近の犯罪多発を鑑みて児童の夜間外出禁止令を出すと発表した。さらに教師が夜間パトロールを 始めることになり、新市は同僚の一本木と組んで街を見回った。一本木と別れた後、新市は自宅に戻ってゼブラーマンのコスチュームに 着替えた。ふと、「浅野さんに見せたい」と考えた新市は、その格好のまま晋平の家へ向かう。だが、住所を間違えてしまい、他の人に 見つからないよう注意しながら夜の街を移動する。
新市は女性の悲鳴を聞き、その現場に駆け付けた。すると、そこにはカニマスクを被った北原がいた。北原に襲われた新市は、自分でも 信じられないような超人的な動きを見せた。彼はゼブラーマンの格好で北原を倒し、現場から走り去った。その姿を、たまたま近くにいた 晋平が目撃していた。現場に現れた及川と瀬川は、北原が緑色の液体を口から流すのを発見した。
翌日の新聞やテレビでは、なぜかカニマスク男の事件は全く報道されなかった。その夜、自宅でゼブラーマンの格好をしていた新市は、 放火魔を発見し、またも超人的な動きで退治した。今度の犯人も、やはり緑色の液体を吐いた。次の日、新市は晋平の家へ行き、ネットで ゼブラーマンの動画を見せてもらった。そのまま彼は、夕食も御馳走になった。新市は可奈から、医師だった晋平の父が自殺していること を聞かされた。それを晋平が目撃し、それから立てなくなってしまったのだという。
新市はゼブラーマンとして、その後も2人の悪人を退治した。悪人が近くに現われると、彼の後頭部の髪の毛が逆立って知らせるのだ。 そんな中、新市は目黒から、晋平を転校させると告げられた。反発すると、目黒は新市も転任させると言い出した。目黒が何か隠している と察知した新市は問い詰めようとするが、後頭部の髪の毛が逆立ったため、急いで学校を後にした。
課外授業でバスに乗って焼き茄子屋を訪れていた小学校の生徒達は、目を緑色に光らせて凶暴に変身した。彼らはバスを降り、凶器を 振り回して焼き茄子屋を破壊した。及川も現場に現れ、その様子を目撃した。そこへゼブラーマン姿の新市が駆け付け、凶器を振り回す 一輝の姿に気付いた。新市は一輝を抱えて、その場から逃走した。気絶した一輝は緑色の液体を吐き出し、元に戻った。
同じ頃、目黒は閉鎖した体育館に異変を感じ、中へと足を踏み入れた。すると緑色の液体が一気に体育館を占領し、目黒は命を落とした。 一方、病院では可奈が緑色の赤ん坊誕生に立ち会っていた。失神している一輝を連れて病院を訪れた新市は、可奈から「今は診察は無理」 と言われた。可奈は自宅へ連れて行き、一輝を休ませた。新市は可奈にゼブラーマンだと気付かれ、「夢を壊したくないので、晋平には 内緒にしておいてほしい」と頼んだ。
翌日、職員室へ赴いた新市は、自分宛に目黒教頭からの封筒が置かれているのを目にした。封筒を開けると、そこには教頭のアパートの鍵 と手紙が入っていた。手紙には、「もう時間が無い。ここから先は君に任せる。Anything Goes」と書かれていた。アパートへ行くと、 別の部屋から及川が姿を見せた。彼が潜伏しているのは、偶然にも目黒の住むアパートだったのだ。
目黒の部屋に入った新市は、ゼブラーマンの台本を発見した。しかも放送された7回分だけでなく、最終回までの未発表原稿もあった。 目黒はゼブラーマンの脚本家だったのだ。台本には、八千代区で発生している奇怪な現象が全て書かれていた。実は、目黒は宇宙人であり 、仲間を裏切って宇宙船を墜落させた。そして『ゼブラーマン』と言う番組を通して、宇宙人の侵略計画を地球人に警告しようとして いたのだ。しかし最終回の台本では、ゼブラーマンが空を飛べず、地球は宇宙人に侵略されることが書かれていた…。監督は三池崇史、脚本は宮藤官九郎、企画は福地公美&遠藤茂行、プロデューサーは岡田真&服部紹男、エクゼクティブプロデューサーは 黒澤満&平野隆、撮影は田中一成、編集は島村泰司、録音は小原善哉、照明は三重野聖一郎、美術は坂本朗、CGIプロデューサーは 坂美佐子、音楽は遠藤浩二。
主題歌は「日曜日よりの使者」作詞・作曲は甲本ヒロト、歌はザ・ハイロウズ。
劇中歌は「ゼブラーマンの歌」作詞は宮藤官九郎、作曲は遠藤浩二、歌は水木一郎。
出演は哀川翔、鈴木京香、渡部篤郎、大杉漣、内村光良、麻生久美子、袴田吉彦、古田新太、柄本明、岩松了、市川由衣、近藤公園、 安河内ナオキ、三島圭将、渡辺真起子、徳井優、田中要次、谷本一、桑原和生、殺陣剛太、飯島大介、鈴康寛、長坂周、川原京、堀田大陸、 河野智典、渡洋史、出口正義、 荒川真、大橋明、山地健仁、佐藤祐一、浜口悟、井手雅紀、島田智之介、鎌田篤、辻井強志、辻井美乃、はやしだみき、宙映水子、 安室満樹子、真日龍子、原啓子、川前光代、小川美穂、藤井香織ら。
「哀川翔の主演100本記念作品」と銘打って製作された映画。
監督は『極道戦国志 不動』や『DEAD OR ALIVE 犯罪者』など、哀川翔との仕事を多く手掛けてきた三池崇史。
脚本は『アイデン&ティティ』『ドラッグストア・ガール』の宮藤官九郎。
新市を哀川翔、可奈を鈴木京香、及川を渡部篤郎、目黒を大杉漣、北原を柄本明、神田を岩松了が演じている。
他に、一本木を内村光良、みどりを市川由衣、瀬川を近藤公園、晋平を安河内ナオキ、一輝を三島圭将、幸世を渡辺真起子が演じている。
また、冒頭で八千代区の異変を伝えるキャスター役で麻生久美子、ゼブラーマンが悪人を退治するスーパーの店員役で袴田吉彦、子供たちに 襲撃される焼き茄子屋の親父役で古田新太、放火魔役で徳井優、地下街の買い物客役で田中要次が出演している。これまでに宮藤官九郎が脚本を担当した5本の映画を全て見た結果として、「この人はメジャー大作の脚本を任せるべき脚本家ではない」 という評価が私の中では定まっている。『GO』の脚本は良かったが、あれは原作が良かったのと、たぶん彼にとって珍しく成功した1作 なんだろう。それ以降、本作品までの4本を見た限りは、そう解釈せざるを得ない。
まだ原作付きなら何とかなる可能性もあるが、宮藤官九郎にオリジナル脚本を書かせたらダメだって。
この人は、どんなジャンル映画に対してもセオリーとかパターンを知らないし、そのジャンルに対する愛も無いんだからさ。
だから、どんな話をやっても同じように脱力系の仕上がりになるのよ。この作品にしたって、本来ならば観客の魂が熱く燃えたぎるような映画にならなきゃいけないはずなのよ。
なのに、特撮ヒーロー物というジャンルをコケにしただけで終わっている。
いや、特撮ヒーロー物の定番を茶化すような描写は、途中までは別に構わないのよ。
でもね、本当ならば、特撮ヒーロー物を喜劇的に見せつつも、ここぞというポイントではヒーロー物のセオリーに従って熱く燃えるべき なのよ。そういう転換があってこそ、ヒーロー物をバカにしている部分も活きてくるのよ。
でも、クドカンはジャンル愛が全く無いから、その転換が出来ていない。クドカンだけじゃなくて、三池崇史監督にも、特撮ヒーロー物に対する愛が全く感じられない。ヒーローのケレン味溢れる戦いとか、 カッコ良く見得を切る様とか、そういうことに対する意識が薄弱だ。
決め台詞でカッコ良く見得を切るべきは、事件が全て解決した後のラストシーンじゃないでしょ。
あと、エンディングでザ・ハイロウズの『日曜日よりの使者』を使うのも、それは違うぞと。
いい歌だけど、それは特撮ヒーロー物のエンディングに使うべき曲じゃないよ。三池監督とクドカン、三池監督と特撮ヒーロー物、クドカンと特撮ヒーロー物、その3つの組み合わせは、どれも最悪で全く溶け合わない。 渡部篤郎は三池監督のテイストには合うけど、特撮ヒーロー物には全く合わない。
この映画で哀川翔アニキに優秀主演男優賞を与える日本アカデミー賞は、今さら言うまでもないけど、骨の髄まで完全に腐っている。
根本的な問題として、「冴えない教師が遊びでコスプレをやっていたのに、本物のヒーローになっていく」という筋書きなら、哀川翔より 内村光良の方が主人公に適しているんじゃないか。
哀川翔だと、うだつの上がらない教師をやっていても、どことなく「実は野獣性を秘めており、暴発の可能性がある男」という設定の ような感じがしてしまうんだよな。滑り出しでの、やる気の無い犯罪リポートと防衛庁極秘会議室の安っぽさだけでも、この映画に対する製作サイドの意識が良く分かる。
製作サイドは、荒唐無稽なことを真面目に熱くやろう、バカバカしいことを真剣にやろうという気概が全く無いのだ。どうせバカバカしい モノだから、肩の力を抜いてお気楽にやろうという気持ちなのだ。特撮ヒーロー物をコケにして笑おうという気持ちなのだ。
スケールは違えど、河崎実監督のトラッシュ映画と大差は無い。
「バッカでえ」と笑える類ではなく、腹が立つタイプの駄作という意味でも、河崎実監督の映画と通ずるものがある。新市が冴えないダメ男で家族にもないがしろにされていることを、もっとアピールしてからゼブラーマン衣装で遊ぶ姿に移るべき。
そのコスプレ遊びも、いきなりではなく、まずは子供の頃に憧れていたことを描写してから入るべき。
自動販売機までコスプレで買いに行くシーンでは、買って戻るまでの経緯をカットするので「見つからないようにアタフタ」という喜劇は 無い。だったら、そのシーンそのものが要らない。
とにかく、あらゆる箇所において話の作りが雑。
赤塚不二夫先生が左手で描いたバカボンのパパよりも雑。新市は晋平の落書きを見つけた時点でゼブラーマンだと気付いて驚くべきなのに、なぜかバスケットをする場面を挟み、教室に戻ってから 気付くという無駄な手間を掛ける。
ここで、ようやくゼブラーマンのテレビ番組の映像が挿入され、何者なのかが判明するというのも手順として遅すぎる。
ゼブラーマンが教師だという設定を新市が覚えていないのも間違い。
そこは「ゼブラーマンが教師だったので憧れて自分も教師になったが、ゼブラーマンと違って自分は情けない」という考えを抱いている べきだろう。ゼブラーマンの設定が2010年だったのを新市が覚えていないのも失敗。
新市が晋平を「浅野さん」と呼ぶようになるのも失敗。
その直前に「自分はダメな教師だ」ということを口にしているのに、生徒を目上に見るなんて、ますますダメ教師じゃないか。
というか、そもそも本作品において、主人公が教師をやっている設定が何の意味も持っていないんだが。コスチューム姿のまま晋平へ行くというのは、かなり無理がある。
コスチュームを見せたいのなら、普通の服装で晋平の家まで行き、そこで着替えればいいだけのことだ。
「コスチューム姿で外へ出て、悲鳴を聞いて犯行現場に遭遇する」という状況を作る必要があるのは分かるが、だったら自動販売機の場面 を利用すればいいじゃんか。
「コスチュームを着たまま外へ出たい衝動に駆られて家を出たら、偶然にも犯行現場に遭遇する」という形でいいでしょうに。っていうかさ、なんでゼブラーマンとして活躍するのが夜なんだよ。 特撮ヒーローが活躍するのは基本的に明るい時間帯か明るい場所だ。そうしないと、コスチュームやアクションが見栄えしないからだ。
実際、この映画では最初に活躍するのが暗がりなので、動きが良く分からない。っていうか、それだけじゃなく撮り方にも問題はあるんだけど。
しかも、そこでゼブラーマンは唐突に超人的な能力を手に入れる。
「なぜ手作りコスチュームなのに超人になったのか」という説明は一切無い。
そこで説明されないだけでなく、最後まで説明は無い。
なんで最初から普通に超人化しちゃってんのかと。
物語を後半に向けて盛り上げる気ゼロなのかと。
まあゼロなんだろうな、なんせクドカンだし。放火魔を退治した翌日、新市は晋平から「通り魔事件でゼブラーマンを目撃したが、どうせ信じないから誰にも言わなかった」と聞くが、 なぜ2日も経過してから、そんな会話になるのかと。それは新市が通り魔を退治した翌日に持って来るべき会話でしょうに。
そんなのは、ちょっと手を加えれば、ちょっと推敲すれば何とかなるような箇所なのに、おざなりなんだよな。
新市には家族があるという設定だが、全くと言っていいほど使われていない。息子との関係は申し訳程度に使おうとしているが、それも イマイチ。
いっそのこと、家族を全て削って独身にしておけば良かったのに(冴えないからモテないということで、ちょうどいいでしょ)。そう すれば、晋平との関係で擬似親子ドラマを作って、さらには可奈との関係もロマンスにすることが出来る。
ただ、家族の部分を削ったとしても、クドカンがそういうことをやるとも思えないけどさ。通り魔はカニマスクをしているが、それ以降の悪人は全て普通の格好をした人間だ。だったら、カニマスクは何なのかと。
てっきり、カニマスクが怪人を意味するモノなのかと思っていたら、そうじゃないのね。ホントに、ただ手作りマスクを着けていたという だけなのね。 百歩譲って見た目が人間でも、別にいい。ただ、ゼブラーマンが戦う時は、怪人らしさを視覚的に表現すべきだ。
などと思っていたら、ホントにゼブラーマンが戦っていた相手は全て人間なのね。「人間の中に宇宙人が入り込んで操縦していた」という 設定なのね。
でも、その設定自体が間違いだと思うぞ。
そうなると、ゼブラーマンは、「ただ操縦されているだけの人々を倒している」ということになる。そりゃダメだろ。
そこは「宇宙人が人間の姿を借りて悪事を働いている。ゼブラーマンと戦う時は本来の姿に変貌する」という形にすべきでしょ。そうじゃ なきゃ、何者かに操縦されているのではなく、本物の悪人という設定でもいい。そもそも、この映画に必要なのは「敵は何者なのか」というミステリーじゃない。 「うだつの上がらないダメな中年男が、いかにして強い自覚を持ったヒーローになるか」という熱血成長物語なのだ。
なのに、早々に説明ゼロでゼブラーマンが超人になってしまい、主人公が成長するドラマ作りをやりにくくしてしまう。
で、「空を飛ぶために頑張るだけど、どういうシナリオにするにしても、特撮ヒーロー物への愛がある人なら、少なくともクライマックスを「空を飛べるかどうか」と いうところに置いたりするようなバカな真似はしないはずだ。
それは、クドカンが特撮ヒーロー物のセオリーを知らないことの証明だろう。
基本的に特撮ヒーロー物において、等身大のヒーローは空を飛ばないものだ(スカイライダーは別にして)。
しかも、新市が空を飛ぶ練習を始める段階では、「なぜ空を飛ぼう、飛ばなきゃいけないと彼が思ったのか」が観客には分からない。その 後で、「実は最終回でゼブラーマンが空を飛べずに負けることになっている。だから飛ぶ練習をする」という理由が明かされる。
そこは手順が逆でしょうに。
っていうか、目黒が「負けて終わり」という台本を書いているという設定の段階で間違いでしょ。
そこは「台本では空を飛ぶことになっているのに自分は飛べないので、練習をする」という流れにすべきでしょ。
いや、もちろん飛ぶこと自体が間違いではあるんだが、「飛ぶにしても、せめて」という意味だよ。クライマックスになっても、やはり夜だから暗いんだよね。 しかも、ここは喜劇性ゼロでストレートに熱い戦いを見せなきゃいけない箇所なのに、小さい奴らがワーワーと群がってくるのを蹴散らす という戦いになっているので、ものすごく見栄えが悪い。
しかも、そこに来て急にゼブラーマンが弱体化しており、あっさりとやられる。
で、倒れたゼブラーマンが弾き飛ばされたマスクを手に取ると、手作り感溢れるボロボロだったコスチュームがキレイな衣装に変貌し、 覚醒して復活する展開になる。
もうね、そこで「信じれば夢は必ず叶う」という展開が成立しちゃってんのよ。
そうなると、その後に待っている「空を飛んで云々」という部分は、どうだっていいでしょ、もはや。(観賞日:2008年2月20日)