『座頭市』:2003、日本
朱塗りの杖を持った金髪頭の男が、宿場町に現れた。居合いの達人、座頭の市である。続いて、浪人・服部源之助と妻・おしのがやって来た。さらに、旅芸者・おきぬ、おせいの姉妹も現れた。彼女達の三味線には、人を殺す道具としての仕掛けがあった。
その宿場町では、ヤクザの銀蔵一家と商人の扇屋が手を結び、横暴な振る舞いを繰り返していた。市は野菜売りの女・おうめの手助けをして、彼女の家で世話になる。一方、服部は病弱な妻の薬代を稼ぐため、用心棒の仕事を探すことにした。飲み屋の“的屋”に出向いた服部は、その剣術の腕を銀蔵一家に売り込み、用心棒として雇われた。
実は的屋の親父は、銀蔵一家と扇屋を仕切る“くちなわ”一家の虎吉だった。彼らは商人の井筒屋とヤクザの船八一家を潰し、宿場町を完全に支配しようと企んでいた。服部は銀蔵の指示を受け、井筒屋の主人を斬った。その夜、市と服部は的屋で初めて顔を合わせた。2人は共に、相手が只ならぬ人物であることを見抜いた。
市は銀蔵一家の賭場に通い、遊び人の新吉と親しくなった。新吉は、おうめの甥だった。博打で儲けた市と新吉は、おきぬとおせいに誘われて宴席を設けた。だが、市は姉妹が自分達を殺して金を奪おうとしていること、おせいが男だということを指摘する。おきぬは、米問屋の両親を殺した“くちなわの頭”と一味を探して旅をしていることを語った。
市は賭場で胴師のイカサマを見破り、そこにいた銀蔵一家の連中を皆殺しにした。市と新吉、さらにおきぬとおせいは、4人揃っておうめの家で世話になることにした。やがて、おきぬとおせいは銀蔵と扇屋と仇討ちの相手だと気付くが、敵も察知していた…。監督&脚本は北野武、原作は子母沢寛、企画は斎藤智恵子、プロデューサーは森昌行&齋藤恒久、コー・プロデューサーは眞田正典&吉田多喜男、撮影は柳島克己、編集は北野武&太田義則、録音は堀内戦治、照明は高屋斎、美術は磯田典宏、衣裳監修は山本耀司、衣裳デザインは黒澤和子、タップダンス指導はTHE STRIPES、音楽は鈴木慶一。
出演はビートたけし、浅野忠信、大楠道代、夏川結衣、ガダルカナル・タカ、橘大五郎、大家由祐子、岸部一徳、石倉三郎、柄本明、HIBEBOH、RON II、SUJI、NORIYASU、芦川誠、つまみ枝豆、太田浩介、森下能幸、六平直政、樋浦勉、三浦浩一、國本鍾建、関根大学、小池幸次、桐生康詩、小林太樹、吉田絢乃、早乙女太一、津田寛治、後藤一機、野口浩影、中村嘉夫、米津透、中津伸一、武重勉、アル北郷、ガンビーノ小林、お宮の松、無法松ら。
第60回ヴェネチア国際映画祭で銀熊賞(監督賞)と観客賞を受賞した作品。
市をビートたけし、服部を浅野忠信、おうめを大楠道代、おしのを夏川結衣、新吉をガダルカナル・タカ、おせいを橘大五郎、おきぬを大家由祐子、銀蔵を岸部一徳、扇谷を石倉三郎、飲み屋の親父を柄本明、飲み屋の爺さんを樋浦勉が演じている。北野武は監督デビュー作『その男、凶暴につき』以来、一貫して自分の撮りたいものを撮り続けてきた。職人として監督稼業をすることは一度も無く、常に自分のテーマを投入した映画を作り続けてきた。それは、いわゆる芸術の分野に属するものだった。
北野武は娯楽精神、エンターテインメント性というものを考えて観客に迎合する意識を、微塵も感じさせなかった。だからなのか、彼の作品は映画評論家からの評価は高かったが、大抵の場合、その興業成績は芳しいものではなかった。そのようにアートとしての映画を作り続けてきた北野“芸術家”武が、初めて娯楽映画のメガホンを執ることになった。しかも、それはオリジナルではなく、『座頭市』のリメイクだ。いわゆるプログラム・ピクチャーの世界に、彼は足を踏み入れたのである。
もちろん、『座頭市』といえば勝新太郎の代表作である。ただし、何となく『座頭市』というとイコール「傑作」のように思ってしまいがちだが、それは違う。映画はシリーズ化され、テレビ版も作られたが、全てが傑作というわけではなく、つまらない作品だってある。ただし、『座頭市』といえばカツシン、というイメージを人々に植え付けたことは確かだ。「座頭市はカツシン」のイメージを打ち崩すのは、相当に難しい作業だ。しかし北野武は利口な人だった。周到に準備をして、映画に臨んだ。まずクランクインよりも遥か前から、髪の毛を染めて人々の前に姿を見せるようにした。いきなり映画で金髪の座頭市を見た時に感じる違和感を消すため、あらかじめ観客に馴染ませておいたのだ。
金髪の座頭市、というだけでも、カツシン版とは随分と印象が変わる。そして、それだけではない。なんと北野武は、「実は市は盲目を装っているだけで、本当は目が見える」という設定まで持ち込んだ。つまり彼は、オリジナル版を土台にして変化を加えるのではなく、完全に叩き壊して、全く新しいモノを作ろうとしたのである。オリジナル版とは全く違う作品を作れば、「比較して云々」というレヴェルを超えてしまう。だから北野武は、市を「悲哀を秘めた盲目の男」ではなく、「空虚な殺し屋」にした。オマージュやリスペクトを捨ててでも、「独自の娯楽作品」にこだわったのだ。
マトモにカツシンのチャンバラに対抗しても、勝てるはずがない。だから、殺陣のシーンはカットを細かく割り、カメラワークと編集によってスピード感や迫力を出そうとしている。さらに、あからさまなCGで血飛沫を描くなど、ヴィジュアルへのこだわりが見える。スローモーションや移動撮影も多用し、「いつもの北野映画との違い」をアピールする。この映画には、いつもの北野武作品のようなテーマもメッセージも無い。厚みのある人間ドラマや深い心理描写も無い(そもそも北野武は雰囲気と映像の人であって、ストーリーテラーではない)。ここには、ひたすらチャンバラがあるだけだ。ある意味、「ジェリー・ブラッカイマー製作、マイケル・ベイ監督」みたいなノリの作風だ。
服部やおきぬ&おせいに関しては、過去の回想が何度か挿入される。しかし、それは流れを無視した挿入であり、彼らに中身を与えるためのモノではない。そして市に至っては、そういうことさえ行われない。まさに「空虚な殺し屋」なのである。服部の妻・おしのが病弱だという設定も、極端にいえば彼女の存在そのものに意味が与えられていない。おきぬとおせいは仇討ちを目指していたはずなのに、最後は市が全てを処理してしまい、おきぬとおせいは何一つ出来ていない。
しかし、キャラクターの中身がどうとか、ストーリーの整合性がどうとか、そんなことは、どうだっていい。そんなことよりも、芸を持った人間のパフォーマンス、あるいはチャンバラ、そういった「見た目に分かりやすい娯楽」で楽しんでもらおうということなのである。北野武は劇中に、ガダルカナル・タカを中心としたコントや、ザ・ストライプスによるタップダンスのシーンを取り入れている。それらはハッキリ言って、話の流れからすると全くフィットしていない。明らかに、取って付けたようなシーンになっている。
しかし考えてみれば、かつてのプログラム・ピクチャーではゲストの歌手が急に歌ったり、芸人が掛け合いを始めたりと、そういうことは当たり前のように行われていたのだ。つまり北野武は、真っ当にプログラム・ピクチャーを作ろうとしているということなのだ。そもそも、既にビートたけしという人が「どんな役を演じても、どんな作品に出演しても、ビートたけし以外の何者でもない」という役者になっているのだから、考えてみればプログラム・ピクチャーの枠に合っている人材だという言い方も出来るのだ。
この作品は『座頭市』というタイトルだが、実際には『座頭市』とは全く別の映画だ。北野武オリジナルのチャンバラ映画だ。『座頭市』というタイトルである意味が無い。
それでも『座頭市』というタイトルを付けるのは、その方が観客動員が期待できるからだ。
つまり北野武は貪欲なまでに、商業映画を作ろうという精神を発揮しているのだ。ふと、「こういうテイスト、こういうパターンで、キャラクターとアクションで引っ張っていくタイプのチャンバラ映画を作るのなら、北野武よりも三池崇史監督が撮った方が、ハチャメチャなパワーが爆裂する怪作になったのではないか」と、そんなことを妄想したりする。
そんな私は、つまりは北野武フリークではないということなのだろう。