『柘榴坂の仇討』:2014、日本

明治五年秋。長屋で暮らす浪人の志村金吾は、悪夢で目を覚ました。駕籠に乗った主君を護衛して移動中、狐面の一団に襲われるが刀を抜くことが出来ないというのが、夢の内容だ。それは彼の実体験から来る夢だった。十三年前、安政七年春。彦根藩士の金吾は故郷から来たセツと結婚し、家督を相続した。彼は彦根藩江戸上屋敷へ呼ばれ、大老の井伊直弼の護衛を務める駕籠廻近習に取り立てられた。直弼は俳句を詠み、金吾に祝儀として渡した。
金吾は隠居を決めた父が母と共に帰郷することを受け、弟の覚馬に同伴を頼んだ。金吾は剣術道場の仲間である内藤新之助から、玄武館を初めとする攘夷派の連中が直弼への怒りで殺気立っていることを聞かされる。新之助は時代の変化を見極める必要性を口にするが、金吾は政治への興味を全く示さなかった。彼は明るい様子で、「俺はただ、掃部様にお仕えする。俺はな、掃部様が好きなんだ」と口にした。金吾にとっての直弼は、風流な人物だった。
三月三日、金吾は直弼の襲撃を知らせる手紙が上屋敷の門に挟まれているのを発見する。報告を受けた直弼は、筆頭家老の本多昌衛門から登城の中止を促されるが、しかし直弼は「上巳の節句を守らずしてどうする」と言い、普段通りにするよう告げる。雪中の行列になるため、本多は雨合羽を着て刀に柄袋を掛けるよう家臣たちに命じた。徳川家より拝領した槍の持ち手を任された金吾は、本多から決して手を滑らさないよう指示される。
城へ向かう途中、水戸浪士らが行列を襲撃し、金吾は佐橋十兵衛という男に槍を奪われる。金吾は十兵衛を追い掛け刀を交え、槍を奪還する。しかし彼が急いで行列に戻ると、直弼と家臣たちは全滅していた。金吾は本多から叱責を受けるが、「もはや切腹も許されぬぞ」と告げられる。既に身代わりとして、両親が切腹していたからだ。本多は金吾に、身許の割れた水戸浪士の逃亡者5名の1人でも見つけて討つよう命じた。
家禄は預かりとなったために収入は無く、金吾はセツに「そなたは実家へ帰れ」と告げる。しかしセツは、「帰りません。御本懐を遂げるまで、御傍に置いて頂きます」と口にした。時代が明治に変わった後、金吾は桜田騒動に関する旧評定所の記録を調べるために司法省を訪れる。しかし役人から記録など無いと言われ、諦めて立ち去った。警部の秋元和衛は部下から、訪ねて来た男が未だに武士の格好だったことを聞いた。
金吾は逃亡者の捜索を続けた今までのことを思い出す。万延元年夏、桜田騒動から半年が経った頃、越後に潜伏していた逃亡者が捕まって打ち首になった。文久三年、二人目の逃亡者が京都で殺された。慶応四年、江戸無血開城が行われた頃、三人目の逃亡者が死んだ。明治元年には四人目が死亡し、残るは十兵衛だけになった。金吾が直弼の月命日に豪徳寺を訪れた後、入れ違いで現れた人力車の車夫がいた。それは現在は直吉と名を変えている十兵衛であり、彼は寺に向かって両手を合わせた。
飲み屋で働くセツは年下の同僚であるユキから、字を教わった礼としてミサンガを贈られた。ユキはセツの左手首にミサンガを結び、外人さんに貰ったのだと説明した。一方、長屋で暮らす十兵衛は、千代という幼女から懐かれていた。千代の母である出戻り女のマサは、長屋の女たちから「直吉とお似合いだと思うけどねえ」と冷やかされた。かつての幕臣が多い東京横浜新聞社を訪れた金吾は、記者の財部豊穂に協力を要請する。財部が「そんな昔のことに関わっている暇は無いのだ」と言うと、金吾は「姿形は変わろうと、捨ててはならぬ物もある。それも文明ではごさらぬか」と述べた。
セツは呉服屋へ着物を売りに行くが、売れ行きが悪化していることから手間賃を引き下げられる。金吾は司法省の役人になった新之助と再会し、「振り返っていても、何も生まれんぞ」と告げられる。彼は髷を落として職に就き、セツの支えに報いるべきだと諭す。しかし金吾の考えは、まるで変わらなかった。直吉は隣の喜八から、職を失ったことを聞かされる。喜八は江戸が遠くなったと漏らし、「アンタ、ずっと何を待ってるんだい」と問い掛けた。
新之助は秋元の家へ行き、金吾のことを語る。彼は事情を説明し、秋元に仇討ちへの協力を頼む。新年を迎えた頃、秋元は金吾について調べ、生き恥をさらさねばならなかった人物だと感じる。妻の峯から本懐を遂げた後のことを問われた彼は、金吾が切腹してセツも後を追うだろうと答えた。すると峯は、「その手助けをするおつもりですか」と批判する口調で告げた。秋元は金吾に手紙を届け、自宅に呼び出した。金吾は秋元の家へ向かう途中、太政官の布告で仇討ちが禁じられたことを新聞記事で知る。しかし金吾は全く表情を変えず、その場を後にする…。

監督は若松節朗、原作は浅田次郎『五郎治殿御始末』(中央公論新社刊/新潮文庫刊)、脚本は高松宏伸&飯田健三郎&長谷川康夫、製作統括は木下直哉&製作は川城和実&大角正&米山久&神原秀明&Ignacio Wada Aguilera Castro、企画は小滝祥平&嘉手苅理沙&河野聡&秋元一孝&甲斐輝彦、エグゼクティブプロデューサーは吉田正樹&山本昌仁&山口太二朗&井上高志&岡村幸彦、プロデューサーは加藤悦弘&芳賀正光&井上学&武部由実子&谷光&佐倉寛二郎、アソシエイトプロデューサーは稲垣竜一郎&小助川典子&岡部愛&大久保伸隆&西川朝子&三木尊、撮影は喜久村徳章、照明は長田達也、録音は小野寺修、美術は小川富美夫、編集は阿部亙英、殺陣は宇仁貫三、音楽は久石譲。
出演は中井貴一、阿部寛、広末涼子、中村吉右衛門、藤竜也、高嶋政宏、真飛聖、津嘉山正種、吉田栄作、堂珍嘉邦、近江陽一郎、木アゆりあ、並樹史朗、江藤漢斉、峰蘭太郎、宮田圭子、関秀人、川原英之、細川純一、木内義一、井之上淳、笹木俊志、酒井高陽、上村厚文、引地薫、鍋島浩、鴻明、浅田祐二、隈本晃俊、南条好輝、田中弘史、浜田隆広、岡山和之、浜口望海、松浦健城、三沢幸育、鎌田英怜奈、川井つと、ドナルド・レイノルズ、中村吉六、中村吉二郎、恩田嘉子、飯島順子、まつむら眞弓、谷村真弓、志乃原良子、三浦徳子ら。


浅田次郎の短編集『五郎治殿御始末』に収録された同名短編小説を基にした作品。
監督は『沈まぬ太陽』『夜明けの街で』の若松節朗。
浅田次郎作品の映画化である『地下鉄(メトロ)に乗って』と『日輪の遺産』で企画を務めていた高松宏伸が、『花のあと』『小川の辺』の飯田健三郎&長谷川康夫と共に脚本を手掛けている。
金吾を中井貴一、十兵衛を阿部寛、セツを広末涼子、直弼を中村吉右衛門、秋元を藤竜也、内藤を高嶋政宏、マサを真飛聖、本多を津嘉山正種、財部を吉田栄作、稲葉を堂珍嘉邦、覚馬を近江陽一郎、ユキを木アゆりあ、本多の後の彦根藩筆頭家老を並樹史朗、豪徳寺住職を江藤漢斉、金吾の父を峰蘭太郎、峯を宮田圭子が演じている。

まず序盤で引っ掛かったのは、金吾の外見だ。
最初は夢のシーンで、そこから「目が覚めて現実に」という手順になる。夢の中の彼は直弼の近習をやっていた頃の姿だから、キッチリとした身なりなのは当然だろう。
しかし目を覚ました後の彼も、夢の中と全く変わらないのだ。
住んでいるのはオンボロ長屋だが、武士としての髪型は綺麗に整っているし、無精髭が生えているわけでもない。髭を剃るシーンがあるけど、その前から既に髭なんて全く生えていない。
生活費は全てセツが工面していて貧乏なはずなのに、ちっとも困窮が見えないのだ。
それは不自然だし、主人公に共感させる意味でも大きなマイナスに働く。

あえて理屈を探すのであれば、「金吾は時代が明治に移っても武士としての誇りを守り続けようと考えており、だから身なりをキッチリと整えることを重視している」という解釈が思い付く。
ただ、その解釈が正解であろうとなかろうと、どっちにしても金吾の好感度は序盤から低くなってしまう。
なぜなら、そうやって綺麗に身なりを整えることによって、「自分は働かず、セツに稼いでもらっているのに、見た目ばかり気を遣っている奴」ってことになるからだ。

そもそも、明治になっても金吾が武士の格好を続けているのが、ただの見栄っ張りにしか思えないんだよね。セツが生活を支えてくれていることに対して、申し訳ないと思っている様子も皆無だし。
それが良く分かるのは、セツが飲み屋の女将から貰った鯛を食卓に並べるシーンだ。
金吾は鯛の身をほぐして、少しだけセツに分けて「食べなさい」と告げる。
だけどさ、その鯛はセツが働く店で貰った物であり、夕食の材料を買う金も全て彼女が稼いでいるのだ。
それなのに、当たり前のように鯛を食べて、その一部分だけセツに分けて「いかにも優しい男でござい」みたいな描き方をされても、まるで受け入れられないよ。

金吾は「俺はな、掃部様が好きなんだ」「城中におられる姿は存ぜぬが、上屋敷におられる姿は、実に温かく、風流だからな」と言っており、井伊直弼は素晴らしい人物として描かれている。
そりゃあ護衛役の金吾を主役にして「主君の仇討ちを目指す」という筋書きにする以上、直弼を善玉扱いするのは当然のことだろう。
しかし劇中では吉田松陰を処刑したことだけに台詞で言及しているが、井伊直弼は反対勢力を粛清した安政の大獄で知られる人物だ。ってことは、あまり良いイメージのある人物ではない。っていうか悪玉のイメージが強い。
なので「素晴らしい人物」という設定を受け入れるのは、簡単な作業じゃないのよね。

もちろん、一般的なイメージが悪いからと言って、井伊直弼を絶対に悪玉として描かなきゃダメってわけではない。
ただし、悪玉としてのイメージが強いのだから、善玉として配置したいのであれば、それなりの描写が必要になる。
しかし、この映画には、イメージを変えるだけの説得力を持つ描写があるとは到底言えない。
こちらが見せられる直弼の様子は、金吾が上屋敷を訪れた時と登城のシーンぐらいだ。それだけで「直弼は優れた好人物」「金吾が惚れ込む」というトコに説得力を持てというのは、無理な相談だろう。
金吾は「城中におられる姿は存ぜぬが、上屋敷におられる姿は、実に温かく、風流だからな」と話しているけど、それは「直弼の一部分しか見ていないから、本質を理解していないのだ」としか感じないのよ。「ホントは残忍な奴なんだぞ」と言いたくなってしまうのよ。

そもそも、金吾も直弼が吉田松陰の処刑したことについては聞いているわけで、それについてはどう思っているのかと。
松陰を含む反対派の粛清については、「政には興味が無いから」ってことで完全に無視しているのかと。
だとしたら、やっぱり「直弼の本質を見ていないボンクラ」でしかないでしょ。
「俳句を詠んでいたから風流だ」ってだけで好きになり、それで「直弼が好きだから仇討ちに燃える」という形に持って行かれても、そんなバカのモチベーションには全く乗れないわ。「優れた人物だと思っていたけど、そうじゃないと知って云々」という展開でもあるならともかく、そうじゃないんだからさ。

金吾は桜田門外の変が起きた時、奪われた槍を取り戻すために持ち場を離れている。
彼の任務は直弼の警護なので、幾ら「拝領の槍を奪還する」という目的があろうとも、それは明らかな失態だ。
ただ、そもそも「なぜ十兵衛は直訴を装って槍を奪う」という役目だけで、その場から逃げ去るのかってのが分からない。槍を奪うのが目的じゃなくて直弼を暗殺するのが目的なんだから、そのまま仲間と共に戦うべきじゃないのかと。
「金吾は強敵だから、引き離すための囮になる」という狙いがあったわけでもないでしょ。
後から理由が説明されるのかと思ったりもしたが、最後まで謎のままなんだよね。

セツは飲み屋で働くようになるのだが、それは「武士の女房が身を落としてながらも夫を支える」という印象からは程遠い。飲み屋の女中なんて、そこまで酷い環境でもないし。
それでも「悪酔いした客に絡まれる」とか「女将からイジメを受ける」といった描写があれば苦労も感じられただろうけど、店の面々は優しそうで、ものすごく雰囲気が良さそうな職場なのよね。セツは楽しそうに仕事をしており、その笑顔は「大変なことも多いけど、明るく振る舞っている」という無理を全く感じさせない。
ようするに、金吾を取り巻く環境がヌルいのよ。
セツが雰囲気のいい職場で楽しく働いているだけでなく、金吾の方も優しい協力者が何人もいるし。

セツの飲み屋が初めて登場するシーンで、ユキがミサンガをプレゼントするってのは悪い意味で驚かされた。
最初は「ミサンガっぽいけど、そういうことじゃないよね。まさかね」と思っていたのだが、「紐が切れると願いが叶う」と説明しちゃうのよね。つまり、まんまミサンガなのよ。
「浅田次郎の小説なら歴史考証はキッチリとやっているはずだから、ワシが知らないだけで、実は江戸時代からミサンガが日本にあったのか」と思ったが、映画オリジナルの設定なのね。
そこまではリアリティーを重視したテイストで進めていたはずなのに、なんでトンデモ度数の高いアイテムを放り込んでしまうのかねえ。

新之助が金吾に「振り返っていても、何も生まれんぞ」と説いた後、武士の格好をした男が借金取りの連中に絡まれている様子が描かれる。
金吾が助けに入って刀に手を掛けると、元武士の連中が次々に現れて「助太刀致す」と言い出し、新之助も加わる。新之助は「侍は姿形は変われど、どこにでもいる。忘れるでないぞ」と借金取りに告げるのだが、直前に「振り返っていても、何も生まれんぞ」と言っていたのに、コロッと変わるのね。
だけど、「元武士が次々に助太刀する」というシーンには、まるで心を動かされない。そうやって武士の素晴らしさをアピールしているつもりかもしれないけど、「なんかカッコ悪い」としか感じない。
それは、そいつらがカッコ悪いのではなく、そういう連中を登場させることで金吾の生き方を正当化しようとするのがカッコ悪いってことだ。

新之助は秋元に金吾への協力を頼む時、「武士としての矜持に応えてやりたい」と告げる。
しかし、金吾は武士としての矜持で仇討ちを目指しているわけではない。
「だったら、どういうモチベーションなのか」と問われたら、それが良く分からないのが難点だ。
秋元から仇討ちに固執する理由を問われた金吾は「拙者は掃部様が好きにございました」と答えるけど、まるで説得力が無い。だから、「ただの意地っ張り」とか、「もはや自分でも分からなくなってるけど、今さら止められなくなっている」とか、そういうことにしか思えない。
どうであれ、金吾が「応援してあげたい、本懐を遂げさせてあげたい」と感じさせる人物じゃないのは確かだ。

金吾は秋元の家へ向かう途中、仇討禁止令の布告を知る。しかし金吾は全く驚かず、平然としている。
どうせ禁止令が出ようと出まいと、仇討ちするつもりなら全く関係が無い。どうせ「仇討ちを遂げたら切腹し、妻も後を追う」ってのが既定路線なので、禁止令なんて何の影響も与えないのだ。
ただ、それは理屈としちゃあ分かるんだけど、「金吾の考えや行動に何の影響も与えないのなら、仇討禁止令が布告される展開って何のためなのか」と思ってしまうんだよね。
時代の変化を示すためだけの設定なら、他に幾らでもあるし。

これが復讐劇であれば、「金吾が復讐を果たす」という決着に至らなけば、カタルシスは得られない。
しかし、「主君の仇討ち」ってのは、必ずしも復讐劇になるわけではない。
これが妻や兄弟を殺されたのなら絶対に復讐を遂げるべきだが、主君になると話が違う。しかも、その主君ってのが井伊直弼なので、ますます「金吾が仇討ちを果たす」という着地を期待する気持ちは下がる。
だから、最終的に仇討ちわ果たさずに終わっても、それは一向に構わない。
ただし問題は、その内容だ。

まず引っ掛かるのは、十兵衛が直弼について「後々思えば、その人のおっしゃっていたことは尤もでございました」と評すること。
だから偽名の一文字に「直」を使っている設定なんだけど、たくさんの仲間を粛清された水戸浪士の感想としては、大いに違和感がある。
それと、「金吾が十兵衛と会って彼の苦労や現在の境遇を知り、仇討ちの気持ちを捨てる」ってことなら分かる。
だけど、一度は斬り合いを要求しておきながら彼を討たず、「水戸者は命懸けの行動だったから直弼は甘んじて受ける覚悟があった」ってことを話して「だから、そなたを討つわけには参らん」と口にするので、「なんじゃ、そりゃ」と言いたくなる。

その理屈だと、もはや金吾は最初から仇討ちするつもりが無かったことになる。それなら、何年も捜し続けた意味が無いでしょ。
最初は仇討ちするつもりで、どこかのタイミングで気持ちに変化が生じたのかもしれないけど、だとしても「どの辺りで変化したのか、どういう理由なのか」ってのが良く分からないのよね。
あと、最後はセツのミサンガが切れているんだけど、まるで「ミサンガのおかげで金吾は仇討ちを遂行せず、だから切腹せずに済みました」みたいな形になっちゃってるんだよね。
映画の締め括りにミサンガというリアリティー無視の要素が重要なアイテムとして使われるので、なんかピリッとしない終わり方になっちゃってるぞ。

(観賞日:2016年8月13日)

 

*ポンコツ映画愛護協会