『昭和歌謡大全集』:2003、日本
[恋の季節]
東京都調布市。イシハラ、スギオカ、ノブエ、ヤノ、スギヤマ、カトウという若者6人は、第二土曜の夕方からパーティーを 始める。目的はハッキリしていない。仲間と言っても、共通の趣味があるわけでもない。彼らはシャワーを浴びる女性を覗き見し、埠頭に 赴き、コスプレ姿でピンキーとキラーズの『恋の季節』を歌った。街を歩いていたスギオカは、ヤナギモトミドリというオバサンをナンパ した。ヤナギモトに冷たく拒絶され、「変態」と言われたスギオカは、彼女をナイフで刺し殺した。
[星の流れに]
雨が降る中、ヘンミミドリは若い男性社員を駅まで傘に入れてあげることにした。歩いている途中、ヘンミは男性社員から 「一発やりませんか」と言われ、仰天した。しかし男は「今まで8人に6人は、これで落ちた」と何食わぬ顔で告げた。男と別れた後、 ヘンミはヤナギモトの遺体を発見した。ヘンミはヤナギモトと知り合いだった。
ヤナギモトを弔うため、彼女の家にヘンミミドリ、スズキミドリ、タケウチミドリ、イワタミドリ、トミヤマミドリという5人のオバサン が集まった。ヤナギモトの別れた夫と息子もやって来たが、すぐに立ち去った。ヘンミたちは、同じ名前を持つ者同士で「ミドリ会」という グループを作っていた。みんなバツイチで、カラオケが好きという共通点があった。
ヘンミはヤナギモトの死を「オバサンが馬鹿にされた」と解釈し、スズキも同調した。一方、スギオカは仲間たちに、自分がヤナギモトを 殺したことを打ち明けた。オバサン5人は、ヤナギモトの棺を囲んで『星の流れに』を歌った。ヘンミは仲間たちに、殺害現場に落ちていた バッジを見せた。トミヤマの証言で、それはアーケード・ゲームで30万点を出すと貰えるバッジだと判明した。そしてトミヤマの息子が 良く行く店には、最高得点者としてスギオカの名前が記されていた。
[チャンチキおけさ]
オバサン5人組はスギオカを調査し、復讐の計画を練った。ヤナギモトが殺された凶器が刃物だったため、こちらも 刃物を使うことに決めた。一方、スギオカは殺害現場に仲間を連れて行き、「殺した時、『チャンチキおけさ』が頭の中に流れてきた」と 語った。スギオカが一人になり、外で立小便をしている時、イワタはバイクで襲撃して刺し殺した。
イシハラたちは、スギオカがヤナギモトの仲間に殺されたのだと確信した。イシハラとノブエはスギオカの殺害現場に行き、そこで立小便を した。そこへ近くの短期大学の寮に住んでいるというスガコが現れ、2人を注意した。スガコはスギオカが殺された現場を目撃しており、 ある雑誌の記事を見せた。そこには雑誌編集者のスズキが企画した「ミドリ会」の対談が掲載されていた。
[港が見える丘]
スギオカの仇討ちを決意した若者5人はトカレフを購入するため、埼玉と群馬の県境にある金物店へと赴いた。仲間が オバサンに殺されたことを説明すると、店主は興奮した様子を示した。彼はオバサンが大嫌いだったのだ。若者5人は、店主からトカレフ を安く売ってもらった。店を出た後、イシハラはセスナ機を標的にして射撃練習を行った。
イワタはカラオケパブで若い男に口説かれ、トイレで関係を持とうとする。だが、男はイワタの背中に貼られたピップエレキバンを見て 幻滅し、立ち去った。イワタは帰宅途中、ヤノに射殺された。スギオカの殺害現場を訪れたヘンミとスズキは、一人でブツブツ喋っている スガコと出会った。2人は素性を偽ってスガコに話し掛け、イシハラに関する情報を得た。
[錆びたナイフ]
オバサン4人は民宿に宿泊するが、その目的は慰安旅行ではない。民宿の近くでは、自衛隊が夜間演習を行っていた。 スズキは唯一の不倫相手の知り合いである元自衛官のサカグチとカラオケバーで接触し、対戦車用の使い捨てロケットランチャーM72を 入手した。サカグチは過去に騙された女のことを愚痴り、『錆びたナイフ』を熱唱した。
[骨まで愛して] オバサン4人はイシハラたちを張り込み、埠頭で歌っているところをロケットランチャーを攻撃した。コスプレ姿で歌って いたヤノ、スギヤマ、カトウの3名が死亡し、裏方担当で車にいたイシハラとノブエは助かった。ノブエは車を出そうとするが、イシハラ は心がどこかへ行ったかのようになっていた。オバサンたちの襲撃でノブエが殺され、ようやくイシハラは我に返った。イシハラは車を発進 させ、オバサンたちから逃れた。 [君といつまでも]
オバサンたちは、これで復讐を終わりにしようと決めた。イシハラは埠頭の事件に関して刑事の尋問を受けるが、要領を 得ない答えに終始した。精神を病んでいるとして入院したイシハラは、医師から「君は生きなさい」と告げられた。退院したイシハラは 金物店へ行き、「原爆はありますか」と店主に尋ねた。イシハラは店主から貧者の核兵器と呼ばれるFAE(燃料気化爆弾)の作り方を 教わり、自分で材料を調合した。
[また逢う日まで]
復讐という仕事を終えたオバサンたちは、平穏な日々に戻っていた。スズキは仕事を辞め、自宅でオナニーにふけった。 トミヤマは、息子が心を開いてくれたことを喜んだ。タケウチは勤務している美容室のオーナーから、新店舗の店長を任された。彼女たちは、 イシハラがFAEを持ってヘリコプターに乗り込み、東京上空を飛行していることを全く知らなかった…。監督は篠原哲雄、原作は村上龍、脚本は大森寿美男、企画&製作は鈴木光、プロデューサーは藤田義則&原田文宏&渡辺正子、撮影は 高瀬比呂志、編集は深野俊英、録音は田中靖志、照明は赤津淳一、美術は小澤秀高、視覚効果は橋本満明、音楽は池頼広、 音楽プロデューサーは裕木陽。
出演は松田龍平、岸本加世子、樋口可南子、安藤政信、森尾由美、池内博之、原田芳雄、斉藤陽一郎、鈴木砂羽、内田春菊、細川ふみえ、 市川実和子、古田新太、千石規子、鰐淵晴子、寺田農、ミッキー・カーチス、村田充、近藤公園、津田寛治、内田朝陽、水木薫、 小市慢太郎、サード長嶋、木下ほうか、倉持裕之、山中聡、土屋久美子、武発史郎、黄川田将也、眞島秀和、野田大輔、中野一良、真日龍子、夏川加奈子、 氏家恵、永嶋美佐子、関田豊枝、北川さおり、稲森和久、諸岡直樹、岩崎洋平、新崎和昭ら。
村上龍の同名小説を基にした映画。
監督と脚本は、『命』『木曜組曲』の篠原哲雄&大森寿美男のコンビ。
イシハラを松田龍平、ヘンミを岸本加世子、スズキを樋口可南子、スギオカを安藤政信、タケウチを森尾由美、ノブエを池内博之、金物店 の店主を原田芳雄、ヤノを斉藤陽一郎、イワタを鈴木砂羽、ヤナギモトを内田春菊、トミヤマを細川ふみえ、スガコを市川実和子、 サカグチを古田新太、スギヤマを村田充、カトウを近藤公園が演じている。シャワーを浴びる女性の姿を除き見た後、埠頭でコスプレしてピンキーとキラーズの『恋の季節』を振り付けも交えて歌う場面、つまり アヴァン・タイトルの時点で、これがダメな映画だと分かってしまう。
そこからの巻き直しに可能性を感じないぐらいヒドい。
まずシャワーを覗く時に、6人が声を揃えてセリフを口にするが、そこに浮かれた様子が無いのがダメ。
で、まだ温まっていない内にピンキラのミュージカル・シーンに行くわ、ミュージカルの途中で現実に戻るわ、ナレーションを入れるわ、 タイトルを入れるわと、そのセンスもヒドい。
ミュージカル・シーンをやるなら、ちゃんとやれっての。
それに、そこでのテンションの低さと言ったら、もう目も当てられない。
これはさ、もっと何かに憑かれたかのようにハイになってくれないと。ドラッグでもやっているかのように狂ってくれないと。
なんでアッパーじゃなくてダウナーにやっちゃうかね。まだ若者6人のことが全く掴み切れていない内に、個々のメンバーさえ良く分からない内に、スギオカがヤナギモトを刺殺する展開へと 移行してしまう。
それは、かなり急いでいるなあと感じてしまう。もう1つぐらい、何かシーンを挟んでもいいのではないかと。
せめてスギオカのキャラをアピールしておくためのシーンを挟んでから、移行しても遅くないのではないかと。
キャラ描写の問題だけでなく、まだ「異常なことが平然と行われるトンチキな世界」というアナザー・ワールドに、まだ観客が上手く 踏み込めていないということもある。そこに馴染ませる、あるいは強引に巻き込むための作業を疎かにしている内に、話を進めているのだ。
キャラのイッちゃってる感じ、常軌を逸している感じも全く描けていないし。
イッちゃってるから、スギオカはオバサンに欲情してナンパし、そして簡単に殺すんでしょ。ヘンミがヤナギモトの死に関して「オバサンが馬鹿にされたのよ」と強く主張した時、スズキは「分かるような気がする」と同調するが、 いや全く分からないよ。普通にそんなこと言われても、同意は示せないよ。
もっとアバンギャルドに、イカれた演出で強引に乗り切ろうぜ。
そうしないと、誰にも納得できないような思い込みだぞ、ヘンミの主張は。
若者たちが昭和歌謡を歌っているというのも、ナンセンスなコメディーになっていれば、それは別に構わない。
だが、やはり強引に乗り切るだけのクレイジーなパワーが不足しているから、ただ不自然なだけにしか感じられないのだ。
っていうかさ、タイトルと中身が、まるで関係無いよな。
例えば1つ目のチャプターは『恋の季節』になっているけど、恋なんてしてないし。
この映画における昭和歌謡の価値って、皆無と言ってもいい。『星の流れに』をオバサンたちが歌うシーンを普通に見せているが、そこもミュージカル・シーンにしちゃえばいいのに。
インド映画みたいに、そこだけ急に場面転換して、別の衣装に着替えてもいいよ。
それぐらいやらないと、ただ不自然に歌い出しているだけという印象になってしまう。
でも結局、それ以降の歌唱シーンをミュージカル仕立てにすることは一切無いんだよな。テーマやメッセージを描こうとしすぎて、ナンセンスをやる開き直りが無かったのは大きな過ちじゃないのか。
一方で「冴えない日々を過ごしていたオバサンたちが、復讐という目的を持つことによって生き生きとし始める」という変化の部分も、 まるで描写できていない。
たぶん、そういうことを描くために、ナンセンスな面白さが犠牲にされているんだろうに。
殺人にしても、凶器は弾けてるのに見せ方がヌルい。例えばイワタがスギオを殺す場面でも、なぜ刺す瞬間を見せないのかと。中途半端な 残酷描写なんて要らないよ。なぜ血の噴水を吹き出し、倒れて行くスギオカの姿を見せずに省略するのか。
そんな体たらくだから、殺人シーンそのものは全く弾けていない。
殺人シーンに限らず、篠原監督は、サスペンス、アクション、コメディーのセンスが、いずれも乏しいのではないか。そもそも製作サイドが、なぜ篠原監督にオファーしたのかが分からん。明らかに畑違いなんじゃないのか。
この映画に必要だったのは、野球で例えるなら、何イニングまで持つかなんて考えずに剛速球を投げまくり、球は荒れてるから四球も 多いけど三振も取れるタイプのピッチャーが必要だったんじゃないのか。
篠原監督は、球威やスピードはそれほどでもないけど、コースの隅を巧みに突くような細かいコントロールで完投を狙うタイプの ピッチャーだろう。
配役も失敗で、例えば、なぜメインの若者に松田龍平なんか据えてしまうのかなあと。
この映画に「ナチュラルで等身大の芝居」なんて要らないのよ。
脇役の原田芳雄や古田新太が「いかにも芝居です、演じています」というアクの強さを見せているが、メインの若者グループにも、 そういうクドさが必要だったのよ。
まあ役者の持ち味だけでなく、演出にも責任はあるけれど。これってケハレで言うと「ハレ」の話のはずなのに、ずっと「ケ」から脱し切れていないのよね。
地を足に着けたまま、常識の中でハメを外さずに乱痴気パーティーをやろうとしても、そんなの盛り上がらないよ。
お行儀良く整えられても、それは違うのよ。
話としては破綻しても、壊れちゃっても構わないのだ。
まあ良くも悪くも、篠原監督はノーマルな感覚の持ち主だったということだろう。(観賞日:2008年7月23日)