『しんぼる』:2009、日本

メキシコ。アントニオ少年が食器を割って母に叱られている。祖父が許してやるよう言い、早く学校へ行くようアントニオに促す。「学校 が終わった後、教会で待ち合わせだ」と祖父が告げ、アントニオは姉と共に学校へ向かう。そんなやり取りがある間、アントニオの父で あるルチャドールのエスカルゴマンは、覆面をしたまま上半身裸で新聞を読んでいる。そこへシスターのカレンが車で迎えに来た。カレン の車に乗って、エスカルゴマンは試合会場へと向かった。
無機質で真っ白な部屋に眠っていたパジャマ姿の男が、目を覚ました。男が見上げると、天井の隅で何かが光っている。しばらく思案 しながら男が壁を調べていると、ある場所に子供のチンコのような突起物が出ていた。男がチンコを押すと音が出て、四方の壁から無数の 天使が現れて浮遊した。しばらくすると、天使たちは壁に戻って消えた。そして壁には、無数のチンコだけが残った。
[−修行−]
男が一つのチンコを押すと、背後で歯ブラシが落下した。別のチンコを押すと拡声器が出現した。「なんかすんませんでした、もうホント に、やめましょう」と男が言うが、応答は無い。また別のチンコを押すと、今度は壁に穴が生じて盆栽が落ちてくる。次は壷、次は菜箸が 壁の穴から現れた。同じチンコを何度も押すと、その度に菜箸が飛び出して来る。ちょっと面白くなった男は、そのチンコを押し続けた。 ずっと押し続けている途中で隣のチンコを押すと台車が壁から飛び出し、男の脛に激突した。男は痛みに苦悶した。
男が別のチンコを押すと回転して尻になり、放屁した。一方、アントニオは学校で、エスカルゴマンが勝つと思っていることを同級生たち にバカにされて言い争いになった。同級生たちは「味方の足を引っ張ってばかりじゃないか」と嘲笑した。男は幾つもアイテムを出した後 、椅子に座って休憩していた。ボールを投げるとチンコに当たり、マグロの寿司2貫が出現した。しかし醤油皿はあるが、醤油が入って いなかった。どのチンコを押してもマグロの寿司が出現し、醤油は出てこない。仕方なく全ての寿司を食べてチンコを押すと、醤油の瓶が 壁の穴から出現した。
別のチンコを押すと、3Dメガネが出現した。それを装着すると、天使が浮き上がっているのが見えた。天使が自分のチンコを指差して いるのを見た男は、激しく興奮した。しかし、そのチンコを押すと、男が想定していなかったカウントダウンが始まった。カウントがゼロ になると、天井から現れた巨大な尻が放屁した。一方、エスカルゴマンは会場のロッカーで試合の準備に入った。
男は『ダイヤモンド』という漫画の単行本を1巻から5巻まで読んだ。続きが読みたくてチンコを押すと、7巻が出て来た。別のチンコで 8巻が、また別のチンコでは9巻が出て来た。別のチンコを押すと、背後の出口が開き、すぐに閉じた。出口があると気付いた男は、自分 が押したボタンを探す。しかし別のボタンを押してしまい、アフリカ人が走り抜けた。また違うボタンを押してしまい、今度は天井から男 の頭に水が浴びせられた。ようやく正解のチンコを押すが、チンコが元に戻ると出口は閉まった。
男はチンコが曲がった状態をキープして出口に行こうとして、色々な策を講じるが、どれも上手くいかない。壷を乗せると、チンコはそれ を持ち上げて元に戻った。そこで男は天井からの水を壷に溜め、重さを加えようと考えた。しかし天井の水は、男が移動すると追い掛けて きた。一方、メキシコのルチャ会場ではメインイベントの時間が近付き、エスカルゴマンは覆面の紐を締め直した。
男は寿司を壷に詰めて重くした後、チンコの上に乗せようとする。だが、別のチンコを押してアフリカ人が出現してしまう。そして、その アフリカ人がぶつかったせいで、壷は割れてしまった。男はガムテープでチンコを固定しようと試みるが、それも失敗した。アントニオ は祖父に連れられ、試合会場に到着した。男は歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を探してボタンを押す。すると天井からロープが降りてきた 。男はロープをターザンのように使い、出口に到達した。だが、その向こうにあるドアを開けようとすると鍵が掛かっていた。
苛立ちを覚えた男が壁を蹴ると足がチンコに当たり、向こう側に鍵が出現して、すぐに消えた。男は策を講じて鍵を手に入れ、ドアを 開けた。だが、上の方に、もう一つの鍵があった。その鍵も開けた男だが、ドアは引っ掛かって開かず、おまけに背後の出口も閉じられ、 男は暗い小部屋に閉じ込められた。しかし横の壁がスライドして開くことが判明し、男はそこから伸びる長い道を走った。試合会場では メインイベントの時間になった。スペル・デモーニオとテキーラ・ジョーの悪役コンビに続いて、アギラ・デ・プラタとエスカルゴマンが 入場した。悪役コンビの奇襲攻撃で、試合が開始された。男は薄暗い部屋に辿り着いた。
[−実践−]
薄暗い部屋で、男は一つのチンコを押した。すると、劣勢になっていたエスカルゴマンの首が伸び、相手を攻撃した。エスカルゴマンが 試合に勝利した後、また男がチンコを押した。するとエスカルゴマンの首が伸び、レフェリーやリングに駆け上がったアントニオを攻撃 した。男が何度もチンコを押すと、エスカルゴマンは何度もゴングを打ち鳴らした。ロサンゼルスではハードロック・バンドがライブを していた。男がチンコを押すと、ボーカルが炎を吐いた…。

監督は松本人志、脚本は松本人志&高須光聖、企画は松本人志、企画協力は高須光聖&長谷川朝二&倉本美津留、プロデューサーは 岡本昭彦、アソシエイトプロデューサーは小西啓介&竹本夏絵、製作総指揮は白岩久弥、製作代表は吉野伊佐男&大崎洋、 テクニカルディレクターは山口善弘、撮影は遠山康之、編集は本田吉孝、録音は安藤邦男、照明は金子康博、美術デザイナーは愛甲悦子、 美術は平井淳郎、VFX監督は瀬下寛之、音楽は清水靖晃、音楽プロデューサーは日下好明。
主演は松本人志、共演はデヴィッド・キンテーロ、ルイス・アッチェネリ、リリアン・タピア、アドリアーナ・フリック、カルロス・ トーレス、イヴァン・ウォン、アルカンヘル・デ・ラ・ムエルテ、ミステルカカオ、ディック・東郷、サラム・ジャーニュ、 佐々木大輔ら。


『大日本人』で映画監督デビューしたお笑いコンビ“ダウンタウン”の松本人志による第2回作品。
監督だけでなく企画・脚本・主演も兼ねている。
『大日本人』でも松本の大根芝居は大きなダメージとなっていたが、急に演技力が向上するわけも無いので、今回も同様の マイナスが生じている。
彼の芝居は、「テレビ番組のコントなら成立する」という程度のモノでしかない。

『大日本人』では松本人志以外にも数名の著名人が出演していたが、今回は無名の面々ばかりを揃えている。
ルチャドールを演じているアルカンヘル・デ・ラ・ムエルテとミステル・カカオとディック・東郷は、ルチャ・リブレのファンなら知って いるだろうが、一般的には無名だろう。
なお、エスカルゴマンが登場するパートは、実際にメキシコでロケーションが行われている。

この映画は、最初から海外で配給されることを想定して作ったらしい。
それに応じて、笑わせるためのネタも「海外向け」ということで考えられたようだ。
それで思い出すのが、かつて松本監督が日本テレビの番組『進ぬ!電波少年』の「アメリカ人を笑わしに行こう」という企画で作った 『サスケ』という作品のことだ。
その作品は、「アメリカ人は日本人より笑いのレベルが低い」という考えに基づいて作られていた。
その時点で大きな勘違いをしているのだが、その時と全く同じ感覚で、松本監督は本作品を作っている。
つまり、「外国人は笑いのレベルが低いから、こっちがレベルを下げて作る」というスタンスでやっているのだ。

繰り返しになるが、松本監督の「アメリカ人は笑いのレベルが低い」というのは大きな勘違い、というか驕った考え方であり、実際には アメリカ人と日本人の笑いのセンスが違うだけだ。
これはアメリカ人と日本人だけに限らず、その国によって笑いのセンスは異なる。
だから日本人に受けることがアメリカ人には受けなかったり、アメリカ人が爆笑しているネタに日本人が全く笑えなかったりする。
それは決して、日本人の方が笑いのレベルが高いからではないのだ。センスの違いだ。
それを「外国人は笑いのセンスが低いから、この程度のベタなことをやらなきゃ付いてこられないでしょ」という見下した感覚で作って いるのは大間違いだ。

ただし、松本監督の「見下す感覚」というのは、何も外国人だけに向けられたものではない。
日本人に対しても、「俺の笑いのセンスは高いから、付いてこられない奴は、付いてこなくて構わない」というスタンスを持っている。
これは今に始まったことではなく、まだテレビでコント番組を精力的に作っていた頃から続いている。
だから、この映画にしても、「俺のセンスが分かる奴だけ付いてくればいいんだ」ということで作っているんだろう。

序盤、天使たちが消えて壁に無数のチンコだけが残ると男が怯えたように「あああ!」と叫ぶのも、指先を嗅いで再び叫ぶのも、ワケが 分からない。
どうして、そんなリアクションになるのだろうか。
で、その後に「すいません、ここどこですかね。帰りたいんですけど」と叫ぶが、そのタイミングも変だ。
最初に「そこで、このセリフを言う」とか「そこで、この行動を取る」というのが先に決められていて、それが不自然かどうか考え直す 作業は全く無いんだろう。

その後、男はどれを押すか迷うような態度を取り、チンコの一つを押すが、なぜ「それを押したら何かが起きる」と確信を持っているかの ような態度になるのか。
そこは、何気無くとか、ヤケになってとか、「何かが出てくる」という意識が無い状態でチンコに触れて、それでアイテムが現れたので、 「じゃあ別のチンコを押したらどうなるのかと気になる」という手順を踏むべきでしょ。
だって、最初にチンコを押したら無数の天使が登場したんだから、同じことが起きるかもしれないじゃないか。

製作サイドはサイレント映画を意識していたらしいが、だとすれば、サイレント映画に対する認識が間違っているんだろう。
いちいち男が拡声器を持って喋る辺りなんて、どこがサイレント映画を意識しているのかと。
あと、やたらと男が吠えまるのが耳障りなんだが、サイレントを意識するってのは、セリフの代わりに雄叫びを上げるってことじゃねえ だろ。
大体、松本人志って基本的に、言葉を操って笑いを構築していく人であって、サイレントに向いているとは思えないぞ。

「寿司が出て来るが醤油は無いので、醤油を出そうとする」というシーンは、そもそも「そんな状況で寿司に醤油を付けるかどうかなんて 気にするかよ」というところに、まず一つ目の問題がある。
出口が無い場所に監禁されているのだから、何でもいいから空腹を満たせればそれでいいと考えるのが普通じゃないのか。
もう一つ、海外を意識して作っているはずなのに、「どの国でも、寿司には醤油が付き物ということが常識として広く知られているのか」 ということを全く考慮していない。

漫画の単行本のシーンでも、海外だと「漫画は1巻で完結する」という国(アメコミなんかはそんな感じだよな)もあるわけで、だから 「5巻の次に6巻じゃないと話の続きが分からなくて困る」という感覚が伝わらないんじゃないか。
っていうか、そもそも1巻から5巻まではどうやって出したんだ。
そこはボタンを押す度に1巻ずつ出てきたのか。
そこを描いておかないと、「次のチンコを押したら6巻が出てくるはず」という、ボケのための前提条件が成立しないぞ。

っていうか、そもそも「海外を意識して」というところからして、かなり考え方が大雑把だよな。
笑いのセンスにしても、様々な文化の受け止め方にしても、一口に「海外」と括ることは出来ない。
アメリカで受ける笑い、イギリスで受ける笑い、フランスで受ける笑いは、それぞれ違うだろう。
国によって、笑いのセンスは大きく異なるのだ。我々が韓国のコメディーを見て笑えるかというと、たぶん笑えないでしょ。
そういうことよ。

大体さ、全て寿司を食べ終わった後に醤油瓶が出て来て、「はい、醤油ね、遅いわ」とノリツッコミをやっているけど、こんなのバリバリ の日本的笑いでしょ。
ノリツッコミなんて、海外で理解されるのか。しかも字幕だとノリツッコミのタイミングも伝わらないだろうし。
っていうか、サイレントでもねえし。
その後、男が歯ブラシを持ち、マヨネーズを拾って投げ捨てるシーンがあるが、これが「歯磨き粉を探していて、マヨネーズを取って しまう」というボケだと伝わるためには、「歯磨きには必ず歯磨き粉を使う」「歯磨き粉はチューブ式」という共通概念が無ければ成立 しない。

寿司や歯磨きなどに関する常識が諸外国でどうなっているのか、少なくとも先進国では映画で描かれていることが常識として通じるのか どうか、きっと製作サイドは調査していないだろう。
それで「外国を意識して」とか言われても、「外国に関する認識度が低いんだから、何が外国で受けるのかなんて分からないだろ」と指摘 したくなる。
大体、メインとして狙っている市場はアメリカなのか、フランスなのか、イギリスなのか、どこなんだ。
笑いのセンスの違いって、かなりデリケートに考えないと、難しいぞ。
「海外では忍者や侍が受ける」というような、大雑把に考えてもOKな類のモノじゃないよ。

3Dメガネで天使が浮き上がっているのを見た男は、やたらと興奮して浮かれているが、何が楽しいのかサッパリだ。
どうやら「その天使が指差しているチンコが出口を出現させるチンコだと確信したから喜んでいる」ということらしいが、どうしてそんな 風に思えるのか、思考回路が全く理解できない。
で、実際には巨大な尻が放屁するのだが、そこでの「はい、くさーい」という言葉によるリアクションも、完全に日本的だし、サイレント 映画チックでもない。

出口が開いたままにしようと策を講じるシーンは、なぜ早い段階で「チンコに重しを乗せて曲がった状態で固定する」という方法を男が 思い付かないのか理解できない。
で、彼は寿司を壷に詰めている間に正解のチンコがどれか分からなくなるが、アホすぎるだろ。
そこには5つのチンコしか並んでないんだぜ。
その内の真ん中が正解だってことぐらい簡単なはずなのに、なぜ覚えていないのか。

で、寿司をこねてチンコの上で山を作った後、ガムテープでチンコを固定しようとするが、ガムテがあったのなら、先にやるだろ、普通は 。
それも「壷や寿司のネタをやりたいから」という御都合主義のための不自然さが露骨に見えてしまう。
それと、出口の向こうにドアがあることを、そこに男が辿り着く前に見せているけど、その時点で鍵が掛かっていることは バレバレだぞ。
その後の「余裕の顔でドアノブを捻るが開かず、鍵穴を見つけて絶叫」という男のリアクションは、不可解にしか感じない。

実践編に入り、男がチンコを押すとエスカルゴマンの首が伸びて敵を攻撃して、ようやく2つの話が交差する。
だが、そこまでのメシキコのパートは、ただの前フリとしては長すぎる。
そもそも単独の話として面白くしようとする意識が皆無。エスカルゴマンが自宅でも上半身裸でマスクを被っているという一点だけは コント的になっていて、それも中途半端だし。
あと、実践編で現実世界に影響が出るというのも、男がやってることは全て「チンコを押す」という同じ作業であり、変化は無いので、 そこでの面白味が、まず生じていない。
影響を及ぼす対象も、そこでの現象も、やはり面白くない。ロシアのマジックショーに関しては、何が変化したのか全く分からなかった。
中国ではオッサンが犬のように吠えるが、だから何なのかって話だし。

で、そこまではベタなコントをやっておきながら、終盤になってシュールな方向に逃避する。
さらに悪いことに、浅はかな知識で宗教を扱い、ラストで男がオウム真理教の松本智津夫を模倣して神様になっているが、それは神様じゃ ねーよ。
大体さ、神様に対する認識なんて、各国で最も大きな差が生じるところだろうに。
海外に持って行くつもりで映画を作っているのなら、安易に神様や天使なんて要素を持ち込んじゃダメでしょ。

作品に対する基本的なアプローチは、前作『大日本人』と全く変わっていない。
松本監督は、5分から10分で終わるようなコントのネタを、そのまま薄く引き延ばして長編映画に仕上げている。
彼がやっているのは映画作りではなく、コントである。
ただし、コントを劇場用のフィルムで作っちゃダメというわけではない。
ここで問題視すべきは、1つのコントを引き延ばして長編に仕立て上げたことだ。
コントを映画にするのなら、幾つもの作品を繋げたコント集として構成すれば良かったのだ。

前作でもそうだったが、コント番組とは違って映画だからと言って、長編に固執する必要性は全く無いのである。
モンティ・パイソンだって、『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』というコントを繋げて構成した映画を作っている。
ジョン・ランディスとZAZトリオの『ケンタッキー・フライド・ムービー』だって、22篇のエピソードで構成されている パロディー集だ。
そういう映画だって世の中には存在するのだ。
そりゃあ「そんなのテレビでやれよ」ということになるかもしれないが、今のご時世だとテレビでコント番組をやることが難しいので、 映画でやることに意味を見出すことも出来なくは無いだろう。

松本人志は自分のセンスが絶対的に正しいと信じている人なので、『大日本人』も失敗作だとは思っていないんだろう。
だから、全く反省せず、あれでダメだった部分を修正することも無く、また同じ過ちを繰り返している。
前作の評価が低かった時に、確か彼は「作ってない奴に言われたくない」ってなことをコメントしていたが、それを言ったらオシマイだ。
だって、映画を見る観客ってのは、みんな「作ってない奴」なんだから。
そんなコメントを出している時点で、映画作りに対するスタンスを間違えている。
むしろ、作っていない奴に高く評価してもらえる映画を作るべきであって、作っている奴らにだけ受けても無意味でしょ。
作っている奴らにだけ受ける映画なんて、ある意味、ただの内輪受けでしょ。

(観賞日:2010年10月24日)


第6回(2009年度)蛇いちご賞

・作品賞>
・主演男優賞:松本人志
・監督賞:松本人志

 

*ポンコツ映画愛護協会