『SURVIVE STYLE5+』:2004、日本

石垣昌宏は妻のミミを殺害し、樹海に穴を掘って彼女を埋めた。死んだはずのミミの顔がピクッと動いたので、石垣はスコップで何度も殴り付けた。ミミを埋めた石垣は、樹海の近くにある屋敷に車で戻った。彼が台所へ行くと、殺したはずのミミが何食わぬ顔で座っていた。CMプランナーの洋子は恋人の青山とセックスした後、思い付いたアイデアをテープレコーダーに吹き込んだ。青山は洋子の手掛けたCMを酷評した上、自分のアイデアを絶賛して「CMプランナーなんて誰でもなれるな」と笑った。
空き巣の津田、森下、Jは、その夜も仕事を成功させた。森下の運転する車で3人が浮かれる中、オナニーの話題になった。Jが「手を使わないでオナニー出来る」と言い出すと、森下は「見てみたいな」と熱い目で見つめた。イギリス人のジミーと通訳の片桐は、飛行機で日本へ向かっていた。ジミーはキャビン・アテンダントを呼び止め、片桐を通じて地球上における自分の役割を尋ねた。直感で答えるよう求められた乗務員が困惑して「お客様の場合、どのような?」と質問すると、ジミーは急に激昂して彼女を罵倒した。
中年サラリーマンの小林達也は、妻の美沙、長女と長男の4人で暮らしている。会社から帰宅した彼は、家族から頼まれていたチケットを見せた。それは人気の催眠術師で青山のショーで、長女は大喜びした。ショーが開かれるのは明日で、長女は塾の日だった。しかし小林は、笑顔で「塾はサボリだな」と告げた。
翌朝、ミミは冷蔵庫から食料を取り出し、大量の料理を作った。ミミが無言のまま料理を取り分けたので、石垣は黙って食べ進めた。彼が全て平らげると、ミミは大量の砂糖を入れたコーヒーを差し出した。一気に飲み干した石垣が煙草に火を付けようとすると、ミミが蹴りを浴びせた。さらに彼女が襲って来たので、石垣は必死に逃げ回った。洋子は頭痛薬のCMをプレゼンしようとするが、製薬会社社長の風間が妻からの電話を受けたために中断された。洋子は自信満々でCMを見せるが、風間たちの反応は最悪だった。しかし批判を受けても洋子は全く動じず、逆に「つまらないCMは金を無駄にしている」と製薬会社サイドの考え方を糾弾した。
青山は「催眠術に掛からなかったら百万円チャレンジ」のコーナーで、小林をステージに上げた。小林は催眠術に掛かり、家族の目の前で鳩になった。その直後、ジミーが片桐を伴ってステージに現れ、青山を殺害した。石垣はミミに追い詰められるが、何とか殺害した。洋子は営業マンからCMの修正を依頼されるが、それを拒否して「直すなら他の人に頼んで」と強気に告げた。空き巣トリオは忍び込んだ家でトランプを見つけ、ゲームに興じた。車の音がしたので、3人は慌てて隠れた。
空き巣トリオが忍び込んだのは、小林の家だった。青山が死んだので催眠術は解けず、小林は鳩になったまま家族に連れられて帰宅した。石垣はミミを樹海へ運び、死体を埋めた。しかし帰宅するとミミがいて、また石垣に襲い掛かった。石垣は家を飛び出し、車で逃走した。翌朝、鳩になった小林の鳴き声で家族は目を覚ました。家族は小林の様子を眺めながら、朝食を取った。石賀はミの殺しを依頼するため、片桐の事務所を訪れた。その1週間前には陽子が青山の殺しを頼みに訪れ、海外の殺し屋を使うよう要求していた。
石垣はジミーに百万円のギャラを要求されるが、高額なので諦めて帰ろうとした。するとジミーは慌てて呼び止め、安くするので希望を言うよう促した。石垣が「じゃあ一万円」と言うと、ジミーは仕事を引き受けた。ジミーは片桐を伴い、石垣の家へ赴いてミミと会った。夜になって石垣が帰宅すると、ミミの死体が転がっていた。彼は死体を樹海へ運び、地面に埋めて家に戻った。すると、またミミがいて襲って来たので、石垣はビール瓶で撲殺した。
石垣は風呂場へミミの死体を運び、バラバラに切断した。美沙は小林を町医者の山内や大学病院の教授に診せるが、何の対処法も教えてもらえなかった。石垣はミミの死体を樹海へ運び、地面に埋めて帰宅した。するとミミはピンピンした状態で待ち受けており、両腕を発射して攻撃した。また石垣はミミを殺して樹海に埋めるが、帰宅すると彼女は車のボンネットに腰掛けていた。クリスマス・イブ、小林は相変わらず鳩のままだが、家族はツリーを飾ったりケーキを作ったりする。洋子はテープレコーダーをレストランに忘れたことに気付き、急いで取りに戻る。森下は津田とJに、「駄目なんだよね、女の人。昔、姉貴とちょっと」と打ち明ける…。

監督は関口現、企画・原案・脚本は多田琢、製作は林田洋&森隆一&平井文宏&TUGBOAT、プロデューサーは谷口宏幸&福山亮一、撮影はシグママコト、美術は山口修、照明は野本明宏、録音は稲村和己、特殊メイクは江川悦子、振付は香瑠鼓、タイトルバックデザイン:アートディレクターは佐藤可士和、劇中CM協力は石井克人、プロデューサー補は井上淳、VFXスーパーバイザーは石井教雄、音楽はJAMES SHIMOJI。
出演は浅野忠信、橋本麗香、小泉今日子、阿部寛、岸部一徳、麻生祐未、千葉真一、ヴィニー・ジョーンズ、三浦友和、津田寛治、森下能幸、ジェイ・ウエスト、荒川良々、貫地谷しほり、神木隆之介、内田仁菜、関綾乃、マギー、木村多江、志賀廣太郎、ピエール瀧、並樹史朗、板谷由夏、唯野未歩子、土佐信道(明和電機)、山内健司、三輪明日美、菊池百合子、佐々木梓、今村大和、本間健太郎、GASTON、川口維、紀元由有、徳垣友子、JOANNA FIJAL、ELINA KALITA、LENA MURATA、CELIA MASSIMI、大橋浩明、熊本周平、HNTLEY NICHOLAS、河原雅彦、加瀬亮、園田真吾、大堀こういち、小田聡、小林研二ら。


広告業界で活躍するCMプランナーの多田琢とCMディレクターの関口現がコンビを組んで手掛けた長編映画。
石垣を浅野忠信、ミミを橋本麗香、洋子を小泉今日子、青山を阿部寛、小林を岸部一徳、美沙を麻生祐未、風間を千葉真一、ジミーをヴィニー・ジョーンズ、津田を津田寛治、森下を森下能幸、Jをジェイ・ウエスト、片桐を荒川良々、小林の長女を貫地谷しほり、小林の長男を神木隆之介が演じており、山内役で三浦友和が特別出演している。
また、河原雅彦(劇中CMのディレクター)、加瀬亮(劇中CMの頭痛男)、広告代理店の営業マン(マギー)、木村多江(客室乗務員)、志賀廣太郎(タクシー運転手)、ピエール瀧(白バイ警官)、板谷由夏(社長秘書)、唯野未歩子(佐々木先生)、三輪明日美(ウェイトレス)など、大勢の著名人がチョイ役で出演している。

この映画は一言で表現するのがとても簡単だ。
ようするに、多田琢と関口現が「僕らはガイ・リッチーが大好きです」と声高に訴え掛けて来る作品だ。
ヴィニー・ジョーンズを起用しているのは、ハリウッドから一昔前の大物スターを招聘していた角川春樹へのリスペクトではなくて、彼がガイ・リッチー監督の『スナッチ』に出演していたからだ。
「なぜヴィニー・ジョーンズがこの映画に?」と疑問を抱いた人がいるかもしれないが、そういうことなのよ。
そもそも、この映画でヴィニー・ジョーンズがやっているポジションって外国人である意味さえ無いんだけど、「とにかくヴィニー・ジョーンズを使いたかった」ってことが先にあるのよ。

世の中に完全にオリジナルなんて存在しておらず、必ず何かしらの影響を受けているものだ。それに、好きな対象にオマージュを捧げたり本歌取りをしたりするってのは、創作の世界では良くあることだ。
だから「ガイ・リッチーが大好きだから模倣してみた」ってのは、別に悪いことでも間違ったことでもない。
重要なのは「それで、面白いの?」ってことだ。
そして本作品は、残念ながら面白くない。
だから、「下手な物真似」に終わった失敗作ってことになる。

いかにもガイ・リッチー好きのコンビらしく、1つの大きな物語を紡いでいくのではなく「複数のエピソードを並行して進めて行く」という構成を取っている。
最初に登場するのは石垣とミミだが、すぐに洋子&青山のパートへ移り、空き巣トリオ、ジミー&片桐、小林一家が順番に登場する。
主要キャラクターの紹介が一通り終わって、開始から20分ほど経過したところで再び石垣とミミのエピソードに戻って来る。
そして、その段階で、もう退屈な雰囲気が漂い始めている。

この映画は、序盤を乗り切るだけの勢いやパワーさえ無い。
最大の要因は、「これから何が始まるんだろう」という期待感を喚起しないということだ。石垣とミミのエピソードなんて、「殺したはずの妻が蘇った」という導入なんだから、本来なら「これからどうなるのか」と強い関心を引くはずだ。でも、あまり好奇心をそそられない。
なぜなのかと考えた時に、たぶん「非現実感が強い」ってのが大きいんじゃないかという気がする。
石垣が住んでいる屋敷が写った時、そこに「虚構」を感じるんだよね。そして、そのことが「殺したはずの女が蘇っても不思議ではない世界観」を想起させてしまうのだ。
別に「これはファンタジーですよ」というアピールが強くても、それが何のマイナスにも作用しない映画や、逆にプラスに作用する映画もある。でも、この映画の場合は、それが成功していない。

石垣のエピソードでは、ミミが非人間的な跳躍力やパワーを見せ付けている。つまり、そこは「ファンタジー」になっているわけだ。
だが、そういうファンタジーを用意してしまうと、他のエピソードに迷惑を掛けることになる。なぜなら、この映画には青山という催眠術師のキャラクターが登場し、小林を鳥にしてしまうからだ。
小林が「自分は鳥」と思い込、鳥のように振る舞うのはファンタジーとしての動きではなくて、「催眠術に掛けられた」という事実があるからだ。
催眠術を掛けられた人間が非現実的な行動を取るのは、現実社会でも普通にあることだ。だが、ミミの「現実では有り得ない身体能力」を見せてしまうと、「催眠術だけが非現実的なモノを生み出す」ということではなくなってしまい、「非現実的な動き」のルールがおかしくなってしまうのよ。
後半にはミミが両腕をロケットパンチのように飛ばすシーンまであるけど、そういうことをやり出したら何でも有りになるでしょうに。

別に「何でも有り」の世界観がダメってわけじゃないけど、その中で催眠術なんて持ち込んでも、「もはや催眠術どころのレベルじゃない非現実的なモノがあるからね」と言いたくなってしまう。
「催眠術が解けないので小林は鳩のまま」というのが本来なら「現実社会の中で生じた非現実的な世界」にならなきゃいけないのに、それを遥かに超越する非現実的な話が展開されているってことになるでしょ。
っていうか、それを言い出したら、そもそも「何度殺しても死なない女」という時点で、「催眠術に掛かった小林が鳥になってしまう」というエピソードとは食い合わせが悪いと感じるけどね。
小林は催眠術が無ければ鳩に変身してしまうことも無かったけど、ミミは催眠術なんて使わなくても驚異的な運動能力を手に入れ、何度殺されても復活し、ついには腕をロケットパンチのように飛ばすことまで出来るという人間離れした存在になっちゃうわけだから。

それ以外にも、バランスの悪さを感じるポイントが幾つかある。
例えば、ジミーがステージに上がって青山を殺す時、誰も彼を止めようとしないし、殺しが行われても警備員が駆け付けることも無い。警察が捜査に動き出している様子も無いし、隠れることもなく堂々と営業している片桐の事務所へ刑事たちが乗り込んで来ることも無い。
「ステージに殺し屋が上がっても誰も止めない」とか、「殺しの事務所が普通に営業している」とか、そういう「警察組織の不在」を感じさせる設定に関しては、それ以外の部分も含めて非現実感が強いから、それはそれで受け入れられる。
ただし、そういう世界観を構築していたはずなのに、石垣が白バイ警官に声を掛けられるシーンを用意してしまうから、バランスがおかしくなってしまう。

小林一家がカーラジオから流れる激しい曲に合わせてヘドバンしながらドライブしているシーンや、佐々木先生が生徒たちの絵を見ながらブツブツと「この絵は面白い」「さっきより面白くない、普通かも」「うん、やっぱり全然面白くない」と言うシーンなど、たまに引き付ける力を感じるカットは存在する。
でも、あくまでも「たまに存在する点」でしかない。
その点が線になることは無いし、そこだけを抽出しても引き付ける力は変わらない。
流れの中だから面白く感じるとか、その前のシーンがあってこそ機能しているとか、そういうことではないんだよね。

CMディレクターが全て同じなのかどうかは分からないが、この映画に関しては「やっぱりCM業界の人間だからなのかなあ」という感想を抱いてしまう。
どこに一番それを感じたかっていうと、「持久力が無い」ってことだ。
CMってのは15秒や30秒という短い時間で視聴者の気持ちを掴むインパクトを用意しなきゃいけないから、短距離走の力が求められる。でも長編映画で同じアプローチをやると、あっという間に息切れしてしまう。
この映画の場合、序盤から飛ばして息切れするという事態は招いていないけど、だからって長距離走のペースで完走できているわけではなくて、「たまに面白いと感じる短いシーンがある」というだけになっている。

5組の面々のエピソードが並行して進行していく形ではあるのだが、その連動性は乏しい。
洋子のパートと小林のパートは、「洋子の依頼でジミーが青山を殺したことによって小林の催眠術が解けなくなる」という発端の部分で関連している。ただし、それ以降、小林のパートは他のパートと連携しない。
石垣のパートは、ジミーのパートとは繋がるが、ラストで小林のパートと一瞬だけ繋がる以外は分断されている。
基本的にはジミーのエピソードが他のエピソードを繋ぐ役割を果たしているのだが、裏を返すと「そこがあることで何とか繋がっている」という薄っぺらい繋がりでしかない。

空き巣トリオのパートに関しては、まるで要らないだろうと感じる。
小林の家で鳩になった彼が帰宅するのを目撃するけど、そこから何が起きるわけでもない。どうやって脱出したのかも描かれないまま、次に彼らが登場するとサウナにいて、小林のことなんて全く気にしてもいない。
サウナでジミー&片桐と遭遇するシーンはあるけど、それも特に物語の展開に影響を与えるモノではない。Jが刺されて、「俺はホモじゃない、ゲイだ」と言い残して死ぬだけ。
だから何なのかと。

あるパートで何かが起きたら他のパートに影響があるとか、そういうのは乏しい。
前述したように、洋子のパートと小林のパートが導入の部分で関連しているが、「終盤になって収束する」という構成は無い。
どのパートも終盤になると、それぞれがバラバラに動くだけだ。
それと、空き巣のパートもそうだけど、洋子は「走っていた彼女が立ち止まり、来た道を戻る」というトコで出番を終えているし、ジミーは仕事を終えて帰国するだけだから、それらのエピソードも放り出されたままになっている。

小林のパートは「小林の催眠術が解けず、鳩のままになってしまう」という入り方をしているのに、その仕掛けを全く活用していない。鳩になった翌朝から既に小林の一家は鳩である父親をクールな視線で眺め、普通に朝食を食べている。
だったら家族は父親が鳩になっても大して気にしていないのかと思ったら、美沙は町医者の山内や大学病院の教授に診せて何とか元に戻そうとしている。
それなら、翌朝の落ち着き払った態度は違うんじゃないのか。そこは動揺や困惑を、もっと強くアピールしておくべきじゃないのか。
最終的には「次男が鳩としての父親を受け入れているから、妻と長女も受け入れる」という着地にしてあるんだから、だったら妻と長女は「鳩である小林を受け入れられない」というスタンスを、もっと強く示しておくべきじゃないのか。

ハッキリ言って、この映画って他のエピソードを全てバッサリとカットして、「催眠術に掛かった小林が鳩として暮らすようになる」という部分だけで1本の作品に仕上げた方が遥かに面白くなりそうな気配があるんだよね。
そう思わせる一番の理由は、小林を演じているサリーが見事なぐらい鳩に成り切っており、その様子が可笑しいからだ。
大きな笑いを生み出す爆発力は感じないけど、ずっとニヤニヤしながら見ていられる力はある。そんな小林と家族の関係を丁寧に描写すれば、シュールな部分もありつつ、でもハートウォーミングな要素も盛り込んだ家族ドラマとして魅力的になるんじゃないかと思ったのだ。
「小林が鳩になってしまったことに最初は戸惑いを隠せず、何とか元に戻そうと奔走する。周囲には小林が鳩になったことを必死で隠し、バレないようにアタフタする。だが、次第に父親が鳩であることに慣れて行き、やがて鳩であることを全面的に受け入れて暮らすようになる」というのは、かなり面白そうな気がするんだよな。

いかにもCMディレクターらしい凝った映像や色彩感覚は感じるけど、それが最後まで観客を引き付けるパワーを持っているわけでもない。
「そんなことより、ちゃんと5つのパートを連携させてくれよ。映像じゃなくて、映画としての面白さを見せてくれよ」と言いたくなる。
この映画のタイトルは、ある意味では内容を見事に表現している。
結局のところ、「スタイル」だけなんだよね、この映画って。

(観賞日:2015年5月4日)

 

*ポンコツ映画愛護協会