『すももももも』:1995、日本
高校3年生の相原小桃は、すもものパックを太陽に透かして見るのが好きだった。彼女は2ヶ月ほど前から、誰とも言葉を交わさない“お喋りストライキ”を始めた。その理由は、誰にも分からなかった。そして1995年、彼女は18歳9ヶ月13日で死んだ。
ある日曜日、小桃は制服姿で、学校の放送室にいた。クラスメイトの三枝涼子は、体育倉庫で大西保とセックスをしていた。妹の栗子は、教室にいた。放送室には水谷勇飛が現れ、「君が生まれるずっと前から君を知っている」と小桃に告げた。
放送室を飛び出した小桃は、涼子と一緒に学校を後にした。そこへ栗子が現れ、自分が付き合っている保とセックスをしたのかと涼子に尋ねた。栗子はセックスは構わないが、病気は大丈夫かと聞いた。涼子は、2度と保とはセックスしないと告げた。
月曜日、小桃と栗子は、学校へ行く道で競争をした。ぜん息の発作で苦しんだ栗子は、タクシーを拾って学校へ向かった。小桃は横断歩道で、車の中にいる少女を見て、その場にしゃがみ込んだ。小桃は飯島直樹と付き合い始めて半年になるが、まだキスさえしておらず、栗子から処女だということをからかわれた。
水曜日、小桃は廃車場で、すもものパックを眺めた。木曜日、彼女は車にひかれ、病院に運び込まれた。本当はあったはずの金曜日、小桃は体育倉庫で、涼子と直樹がSMプレーをしているのを目撃した。家に戻った小桃の元を直樹が訪れ、自分は変態なんだと告げた。土曜日、小桃は遺書を残して、制服姿で家を出た…。監督&原案&撮影は今関あきよし、原案協力は藤田一朗、脚本は藤長野火子&今関あきよし、製作は小林尚武&鈴木ワタル、プロデューサーは中原研一&中澤宣明、編集は河原弘志、録音は中村雅光、照明は吉角荘介、美術は渡辺仁、衣裳は南拓也、音楽はアンビヴァレンス、音楽プロデューサーは西垣克啓。
主演は持田真樹、共演は林泰文、浜崎あゆみ、梶原聡、桂木亜沙美、加藤晴彦、余貴美子、蛭子能収、庄司永建、笹山栄一、関悦子、河合隆司、山根久幸、長岡忍、早香紗紀、佐藤真一郎、中村泰久、井上豪、野口由佳、鈴木紗綾香ら。
これは、そこいらのアイドル映画とはワケが違う。
普通のアイドル映画というのは、エンターテインメントとしての存在を維持しようとしており、なるべく分かりやすい話を用意して、その中でアイドルの魅力を存分に引き出そうとする。つまり、内容の面白さはともかく、そこには確固としたストーリー性があり、ハッキリとした娯楽精神がある。
しかし、この作品には、分かりやすいストーリーは無い。あるのは、抽象的なイメージの羅列だ。ここには、娯楽精神は微塵も無い。あるのは、おそらくアーティスティックな思考の強い精神だ。
自分の世界に閉じこもっているのはヒロインではなく、この映画だ。この映画は、アイドルの魅力を引き出そうとする意識さえ、完全に放棄している。主人公のアイドルが何も喋らず、ほとんど全編に渡って陰気な顔をしているだけなのだから、そりゃあ魅力もへったくれも無い。時空を越えた世界に入ってからは、笑顔を見せるシーンもあるにはあるが、それで持田真樹の魅力が引き出されているとは思えない。
この作品は、ヒロインを「良く分からない女性」として提示する。なぜ彼女が喋らないのか、なぜ彼女がラジオを聞いて泣いているのか、彼女の行動や態度の理由は、全く分からない。いや、彼女だけではなく、登場人物は全て不鮮明である。そして、ヒロインがどういう人物なのかが全く分からないまま、作品は時空を越えた世界へと突入し、ますます分からない状態へと陥る。その幻想世界のシーンには、何か意味があるのだろうが、解釈を試みる作業は完全に拒絶したくなる。
それでも、そんな殻に閉じこもってしまったような作品であっても、この映画は紛れも無く、アイドル映画なのである。なぜなら、「アイドルが主演している」という要素を除外すると、この作品の商業映画としての価値は、ゼロになってしまうからだ。