『シベリア超特急』:1996、日本
1944年、一人の男が崖から飛び降りて自殺した。1941年、イルクーツク駅。モスクワから満州へ向けて走るシベリア鉄道に、数名の乗客が乗り込んできた。蒙古系ソ連人のマンドーラ・ジン車掌は、乗客の切符を確認して部屋の号室を教える。ソ連軍空軍大尉のポロノスキーは4号室、契丹(きったん)人の李蘭は1号室、ウイグル人女性のカノンバートルは2号室、ユダヤ系ポーランド人のゴールドストーンは5号室、オランダ人女優のグレタ・ペーターセンは6号室、その彼女に色目を使って煙たがられたドイツ陸軍中佐のユンゲルスは3号室である。駐ブタペスト領事館付の青山一等書記官、駐ベルリン大使館付の佐伯陸軍大尉、山下奉文陸軍大将の3人も乗車した。
やがて列車は出発し、乗客たちは思い思いに時間を過ごす。青山はブタペストで恋人と別れた時のことを回想する。戦況を考えて別れざるを得なかったのだ。ユンゲルスはグレタの部屋を訪れ、彼女を押さえ付けようとする。抵抗したグレタが窓から外へ落下しそうになるが、駆け付けた李蘭と青山が救った。李蘭はユンゲルスを厳しく叱責し、部屋から追い払った。青山は山下たちと酒を飲みながら、ベルリン日本大使館での出来事を回想する。ハンガリーでの内乱で、恋人が命を落としたという知らせが届いたのだ。
何者かと酒を飲んでいたポロノスキーは急に苦悶し、窓の外に顔を出して嘔吐しようとする。その時、部屋にいた何者かが彼の足を蹴って列車から転落させた。青山は少し開いていたドアの隙間から1号室を覗き込み、別の女性がいるのを目にした。彼は車掌を呼び、1号室に李蘭の姿が見えないので調べてほしいと頼む。車掌が部屋をノックし、青山中にいた女性に「君は?」と問い掛ける。すると、その女は「李蘭よ」と答え、苛立った様子でドアを閉めてしまった。
佐伯は青山に、各部屋を確認すると4号室と6号室で応答が無かったことを報告する。不審を抱いた青山は、窓から外へ出て列車の壁を移動し、6号室に入る。だが、中は無人だった。廊下に出ると、ゴールドストーンが「オランダの女が殺された、次は俺だ」と不安げに言う。今度は佐伯がゴールドストーンの部屋から外へ出て、4号室に飛び込んだ。だが、やはり無人だった。部屋に入った山下は、乗客全員の書類を発見する。そこへ飛び込んできた車掌は、「これは私が預かります」と書類を奪い取る。「人が3人もいなくなってる」と青山が言っても、車掌は「失礼します」と逃げるように去った。
佐伯が「どういうことなんでしょう、3人も姿を消しました」と告げると、山下は「ポロノスキーは殺されとるぞ」と言う。「しかし死体が」と青山は口にする。車掌は部屋に戻って書類を読んでいたが、背中をナイフで刺されて死んだ。車掌室を訪れた青山と佐伯は、彼の死体を発見した。青山が山下の部屋に戻ると、そこが佐伯の部屋と連結部屋になっていることを知らされる。山下は青山に、李蘭の部屋で目にした別人がグレタであることを指摘する。
青山は山下から、まず1号室と2号室を調べるよう指示される。青山はカノンバートルが化粧室へ行っている間に、2号室に忍び込む。そこで彼は、若い頃のカノンバートルと妹らしき女性が写っている写真を発見する。さらに彼はメモ用紙を調べ、「お話があります」と書かれていた形跡を見つけた。化粧室に入ったユンゲルスは、何者かに殺された。カノンバートルは山下の部屋に飛び込み、ユンゲルスが死んでいることを知らせる。
青山と佐伯は、ゴールドストーンが犯人であり、山下も狙っているのではないかと疑う。山下は青山と佐伯に、「9号室だ。我々が部屋を替わっとるのを知っておるのはカノンバートルだけだ。他の乗客は知らん」と告げる。青山が9号室へ行くと、ゴールドストーンが窓の外から拳銃を持って乗り込んできた。彼は山下の暗殺を狙ってヒトラーが送り込んで来た刺客だった。青山はユンゲルスのポケットに入っていた指令書を見せ、ゴールドストーンの家族が収容所送りになったことを教える。
佐伯は背後からゴールドストーンに飛び掛かるが、逃げられてしまう。佐伯は列車の屋根に逃げたゴールドストーンを追い掛け、格闘になる。だが、列車がトンネルに入り、ゴールドストーンは煙の中に消えた。廊下に出た山下の前に李蘭が現れ、拳銃を構えた。彼女はスターリンによって山下を殺すために送りこまれた刺客だったのだ。しかし山下の後ろから現れた青山が、李蘭に発砲した…。監督は水野晴郎、製作 原作 脚本は水野晴郎、プロデューサーは安藤庄平&西田和晃、監督補は霜村裕、キャスティングプロデューサーは田辺博之、アシスタントプロデューサーは占野しげる、撮影は安藤庄平、美術は徳田博、照明は清水達巳、録音は塚本達朗、編集は荒川鎮雄、衣裳デザインはコシノジュンコ、英文ダイアローグ/翻訳は戸田奈津子。
主題歌 シベリア超特急 作曲:野々村直造、作詞:水野晴郎、歌:藤吉じゅん。
出演はかたせ梨乃、水野晴郎、菊池孝典、アガタ・モレシャン、シェリー・スェニー、西田和昭、占野しげる、フィリップ・シルバースティン、エリック・スコット・ピリウス、フランク・オコーナー、田辺博之、坂本拓郎、坂本尚美ら。ナレーションは油井昌由樹。
映画評論家の水野晴郎が監督、製作、原作、脚本、主演、主題歌の作詞を担当した作品。
カルト映画として一部マニアからの高い人気を誇り、シリーズ化されている。
李蘭をかたせ梨乃、山下を水野晴郎、青山を菊池孝典、カノンバートルをアガタ・モレシャン、グレタをシェリー・スェニー、佐伯を西田和昭、車掌を占野しげるが演じており、夕陽評論家の油井昌由樹がナレーションを担当している。感性というのは人によって様々だから、誰かが傑作だと思った映画を、別の人が駄作だと感じることはある。
『ポンコツ映画愛護協会』で取り上げている作品に関しても、「あの映画は傑作だ、それを駄作扱いするなんて、お前には映画を見る目が無い」とお叱りのメールを頂戴することがある。
どう感じるかは人それぞれだから、『ポンコツ映画愛護協会』で取り上げている作品を傑作だと思う人がいても、その感性を否定するつもりは全く無い(だから、そういう人は私のようなクズ野郎の感想など無視すればいいのです)。
ただ、この作品に関しては、ポンコツ映画としての判定に異論を唱える人は、まずいないんじゃないだろうか。まず冒頭で、「この映画は終りのクレジットが出たあと ある事が二度起りますので、決してお友達に話さないでください。」というテロップが表示される。
自分で相当にハードルを上げているようなテロップだ。
しかし考え方によっては、それはネタ振りとも言える。
なぜ「ネタ振り」という捉え方が出来るのかは、そこで描かれた「ある事が二度起きる」ところに関連するので、それは後述する。話が始まると、カメラが不自然なアングルからしか列車や乗客を写し出そうとしない。
低予算で大きなセットが作れず、エキストラも用意できなかったため、列車の長さが分かるようなカットや、駅の様子を捉えるカットは使えないのだ。
だが、そんな風に頑張って予算の少なさを隠そうとしても、その列車が本物ではなく、チープなセットなのはバレバレだ。
やがて列車は駅を出発するのだが、走っている雰囲気が全く感じられない。
何しろ、列車が全く揺れないのだ(つまりカメラが列車の揺れを表現せず、固定されているのだ)。西田和昭と占野しげるは役者が本業ではなく、マイク水野の弟子だ。だから当然のことながら、芝居は上手くない。
ただ、それに輪を掛けて下手なのが、水野先生だ。
トップ・ビリングは本物の女優であるかたせ梨乃に譲ったものの、実質的な主役を張る水野先生だが、「棒読みとは、どういう芝居を指すのですか」という質問があった時に、この映画における彼の芝居を見せれば、それが答えになるんじゃないかと思うぐらい見事な棒読みだ。
もちろん台詞回しだけでなく、表情や仕草なども表現力にも乏しい。
ただ、この映画が凄いのは、かたせ梨乃や菊池孝典のような本職の役者でさえ、安い大根芝居に見えてしまうところだ。グレタが窓から外へ落下しそうになると、瞬間移動してきた李蘭と青山が救う。
何しろ、「争う声を耳にした李蘭と青山がグレタの部屋へ向かう」というシーンも無いし、仮に声を耳にして部屋へ向かっていたとしても、ドアをノックするとか、ドアを開けて部屋に入るとか、そういう作業が無ければ、窓から落ちそうになっているグレタに手を伸ばすことは不可能なはずなのだ。
ところが実際には、グレタが落下しそうになった直後、2人は彼女を引っ張り上げている。
どう考えても、瞬間移動なのだ。青山はブタペストで恋人と別れた時のことを回想するシーンで、かたせ梨乃が泣きながら彼に抱き付いている。だから当然、青山が交際していた相手は李蘭なのだと解釈する。
ところが、グレタを助けた時に、青山は李蘭を見ても突然の再会に驚くこともなく、ただ微笑するだけだ。
「示し合わせて同じ列車に乗っている」ということなのかというと、そうではない。2人は初対面の様子だ。
どうやら、青山が付き合っていた女は別人で、その女に李蘭が瓜二つという設定らしい。
だが、説明が下手なので、とても分かりにくい。列車が出発する時、車掌は「前後の車両に通じる扉は鍵が掛かっています。運転手との連絡は私のいる車掌室から行えます。各室のキーはそれぞれお客様にお渡ししました。失礼のないよう合鍵は持っておりません」など、廊下を歩きながら説明する。
それを廊下で喋ることも不自然なら、前後の車両に通じる扉に鍵が掛かっているのも、合鍵を持っていないのも不自然極まりない。
だが、それには色々と事情があるのだ。廊下で喋るのは、観客に状況設定を説明するためだ。
前後の車両に通じる扉に鍵が掛かっているのは、その車両だけで話を進めるためだ。
合鍵を持っていないのは、後で青山と佐伯が他の部屋に乗り込む際、わざわざ「列車の窓から外へ出て乗り込む」というアクションをやらせるためだ。
だが、アクションシーンを盛り込むために、事前に不自然な状況設定を説明しているにも関わらず、そのアクションシーン自体も不自然なものになっている。なぜなら、窓の外へ出てアクションをやらなくても、ドアを蹴破るか、拳銃でも撃って錠前を壊せばいいからだ。
そんなことをすれば車掌に見つかって怒られるかもしれんが、どうせ窓を蹴破って壊しているんだし。
しかも、その後で「青山が車掌室へ行くが開かない。しかし力を入れて引くとドアが開く」というシーンがあるんだよね。ってことは、他の部屋のドアも簡単に開くんじゃないのかと。
っていうか、やっぱり「車掌が合鍵を持っていない」というのは、あまりにも無理があり過ぎるよな。そもそも、青山と佐伯が「何かが起きている」と感じることも、不自然に思える。
そりゃあ、2人が不審を抱くまでの乗客たちは、怪しい行動を取っていた。
ただし、それは「特に意味も無く個室から出たり入ったりする」というのが、別の意味で変に思えただけだ。その動きで「何か隠しているに違いない」とか、「何か犯罪をやらかそうとしているに違いない」といった疑惑を持たせるものではないし、不安や緊張感を煽るようなこともなかった。
ただ淡々と、っていうかダラダラと、時間が過ぎていくだけだった。山下はほとんど部屋で座っているだけなのに、ポロノスキーが殺されていることや、李蘭の部屋で青山が見た女がグレタであることなどを、次々に言い当てる。
たぶん安楽椅子探偵をイメージしているんだろうと思うが、安楽椅子探偵の場合、助手のような立場の人間が事件に関する情報を全て報告し、それを整理&分析して事件を読み解くのだ。
山下の場合、ほぼ情報が無いのに、なぜかズバズバと言い当てる。
もはやシャーロック・ホームズなど足元にも及ばない、超能力のような推理である。ただ、「ポロノスキーは殺されとるぞ」という言葉に青山が「しかし死体が」と疑問を呈しても、殺されたことを確認するための行動、死体を見つけるための行動は発生しない。
他にも、「なぜ、そこで行動しないのか」という不自然さは色々とあるが、この映画で不自然さと無縁のシーン、無縁のキャラクターなど存在しない。
人が消えても車掌は無視するし、車掌が死んでも列車は走り続けるし。
むしろ、不自然さを組み合わせて作っているのではないかと思うほどだ。後半に入って再登場した李蘭は、山下に拳銃を向ける。李蘭は自分がいなくなって騒ぎが起これば必ず山下の部屋が開けられて一人になると考え、姿を消していたらしい。
でも、「山下の部屋が開けられて一人になる」という状況を待たなくても、そこまでに山下を殺せるチャンスは幾らでもあったぞ。
そこも、すぐ後ろに佐伯がいるから、山下は一人になっていないし。
おまけに、李蘭がベラベラと喋っている間に、佐伯は山下の隣まで来てしまう。ただ、なぜか佐伯は、李蘭が拳銃を構えても山下の隣にいるだけで、盾になろうとはしない。
護衛役のはずなのに、部下として失格だろ。
で、その後ろから来た青山が李蘭を撃つ。
李蘭は「別の世界で会えれば良かった」と言い残して息を引き取るが、この2人の恋愛劇なんて全く描かれていないので、その台詞は完全に浮いている。青山の恋人と李蘭が瓜二つという設定も、まるで活用されていない。李蘭が死んだ後、山下は「カノンバートルとグレタが、それぞれユンゲルスとポロノスキーを交換殺人で始末した」ということを説明する。
それはヒントが皆無に近い中で彼が言い出したことであり、何の証拠も無い。
しかし、彼が「(証拠となる)グレタの服も、この車両のどこかに引っ掛かってる可能性があるぞ」と言い、佐伯が窓の外を見ると、すぐに「ありました」と語る。
そして、青山がその服を取りに行くという、何のハラハラもドキドキも無いチープなアクションシーンになる。山下はカノンバートルとグレタの事情を聞いて、「我々は何も見なかった。男同士が争い、李蘭は巻き添えになったのだ」と犯罪を黙認する。
そしてカメラ目線になって「戦争はこんな悲劇まで起こしてしまう。戦争は絶対にやめなければならん」と反戦のメッセージを唱えるが、もちろん心には響かない。
で、クロージング・クレジットに入るが、まだ上映時間は15分ほど残っている。
クロージング・クレジットが終わると、水野先生が作詞した主題歌が流れ、画面には戦時中の資料映像が写し出される。
主題歌をクロージング・クレジットで流さないのなら、わざわざ入れる必要も無いんじゃないかと思うが、黙認しておこう。その主題歌が終わっても、まだ上映時間は残っている。
そして、そこからが冒頭で予告された「ある事」の始まりだ。
「カット!」という水野先生の声が入り、撮影を終えた役者たちの様子が写し出される。
和やかに話している最中、かたせ梨乃が苦悶の表情で倒れて死亡する。
ちなみに、そのシーンでファサッと大きく開くドレスを用意するために、コシノジュンコは自らミシンで縫製したそうだ。さて、そこからは山下ならぬ水野先生としての推理が開始されるのだが、なぜか菊池孝典は出演者のことを「カノンバートルとグレタ・ペーターセンはずっと私たちの傍に居ました」などと、役名で呼ぶ。
水野先生も、「かたせ梨乃」ではなく「李蘭」と役名で呼ぶ。そして先生は「李蘭を殺したのは、車掌役の君だ」と指摘する。占野しげるとは呼ばない。
どうやら、「李蘭を演じたかたせ梨乃」や「車掌を演じた占野しげる」ではなく、「李蘭を演じた女優を演じたかたせ梨乃」「車掌を演じた男優を演じた占野しげる」という設定のようだ。
だから水野先生は、その後で「車掌役の福岡君」と呼び掛けている。
なんて無駄にややこしいんだろうか。山下先生は、占野しげるが殺人を犯した理由について説明を始める(説明がややこしくなるので、ここでは「かたせ梨乃」「占野しげる」と呼ぶことにする。)。
彼は撮影前に出演者のキャリアを調査しており、占野の祖父が戦時中の高名な平和主義者の文学者だったことも知っていた。
だが、その文学者は特高に押し掛けられ、崖から身を投げた。そして、かたせ梨乃は特高として彼を追い詰めた刑事の娘だった。
そこで占野は父の復讐として、彼女を毒殺したのだ。占野は復讐に至る気持ちを切々と語るが、芝居が下手なので、っていうか、それ以前の問題もあって、まるで心に響かない。そして彼は持っていた毒を飲んで自殺する。
だが、これで話は終わらない。
そう、冒頭で「ある事が二度起ります」と書かれている。その2つ目が、そこから描かれる。
楽屋に戻った外国人俳優たちは、「どこにも戦争の傷跡はある」「戦争は最大の悪だ」「我々も努力しよう」などと語り合う。
その頃、水野先生の元には、かたせ梨乃と占野しげるを含む日本人キャストが集まる。
先程の殺人事件は、外国人キャストに反戦について考えさせるために打った芝居だったのだ。
いやあ、あまりのバカバカしさに、ある意味で度肝を抜かれる。何も褒めるところが無いような酷い出来栄えの映画だが、それでも私はこの映画を扱き下ろす気になれない。
「出来の悪い子ほど可愛い」という言葉があるが、この映画は出来が悪くても可愛がってあげたいと思わせる作品である。
この映画には、水野先生の映画に対する真っ直ぐで純粋な愛が感じられる。そして、それを感じたことで、私の頬は思わず緩んでしまう。
生前、水野先生は本作品について語る時、失敗作や駄作を作ったということで恥じるような様子を一切見せず、楽しそうな表情を浮かべていた。先生にとって本作品は、自慢の息子なのだ。
そんな水野先生に敬意を表して、私もこの映画を可愛がってあげたいと思うのである。(観賞日:2013年4月29日)