『精霊流し』:2003、日本

1966年、長崎。櫻井雅彦は電車に揺られながら、幼少時代を過ごした故郷を回想した。父・雅人の仕事が上手く行かず、雅彦は狭い家へ引っ越すことになった。雅彦はバイオリンを手放さなければならないのかと考えるが、母・喜代子は続けさせることにした。練習でミスをした雅彦が落ち込んでいると、喜代子は海の見える高台へ連れて行った。彼女は「海はみんな知っとるけん。頑張ったら頑張った分だけ、よか風が吹くと」と励ます。喜代子は雅彦に、その気があるなら鎌倉に住む妹・節子に預かってもらい、東京のいい先生の元へ通えるようにしてもいいと持ち掛けた。やってみようと決めた雅彦は、長崎を離れたのだった。
鎌倉へ戻った雅彦は、節子と遭遇した。2人は浜辺へ行き、一緒に遊んでいる節子の息子・春人と幼馴染の徳恵に声を掛けた。みんなで花火を楽しんでいると、節子は「マーちゃんのお母さんの精霊船、大勢見送ったわねえ」と口にした。雅彦は野川初男が営む自動車修理工場「野川モータース」でアルバイトをしているが、学費は滞納していた。彼の住む安アパートには、バンド仲間が良く集まった。雅彦は全くバイオリンを弾いていなかったが、仲間が冗談で「売ろう」と言うと真剣に怒った。バイオリンケースには、精霊船の写真が入っていた。雅彦は仲間たちに、雅人が精霊船を出すのに借金して100万円も使ったことを話した。
バイオリンケースを見つめながら、雅彦は過去を回想した。鎌倉で暮らし始めた幼い頃、雅彦は春人の持っているミニカーのコレクションに目を奪われた。春人は父親の連れ子で、節子は後妻だった。父親はほとんど家に帰らず、春人は寂しい思いをしていた。ある夜、節子が酔っ払って男と一緒に帰って来る様子を、春人は窓から見つめた。鎌倉へ喜代子が来た時、雅彦は母を見つけて嬉しそうに駆け寄った。雅彦は喜代子と節子の前で、バイオリンを演奏した。
雅彦は野川モータースの建物を借りて、バンドの練習をさせてもらった。彼は自作の歌をテープレコーダーに録音し、徳恵に聴かせた。春人は節子から「長崎へ戻って再スタートすることにした。貴方も、もう大人なんだから分かるよね」と言われてショックを受けた。春人がアルバムを燃やすのを目撃した雅彦は、節子に「おばさんは自分勝手だ。春ちゃんを一人ぼっちにして夜出掛けて。春ちゃん、どれだけ寂しかったか。お袋は自分のやりたいなんて何一つしなかった。俺のために我慢した。それが本当の母親なんじゃないのか。春ちゃんはおばさんとずっと一緒にいたいんだよ」と責めるような口調で告げた。
節子が鎌倉を去る時、駅まで見送りに来たのは徳恵だけだった。徳恵が駅を出ると、雅彦が立っていた。徳恵は雅彦に、「またマーくんの歌、聴きたいな。好きよ」と告げる。家まで送ってもらった彼女は「上がってって」と誘うが、雅彦は動揺しながら「また」と告げて走り去る。徳恵が追い掛けて「私を見て」と叫ぶと、雅彦は逃げるように去った。徳恵が帰宅すると、春人が現れた。彼は徳恵に抱き付き、「みんな勝手だよ、親父もあいつも」と漏らして嗚咽した。
雅彦はアルバイト仲間の池田洋治から、野中がお得意さんである金持ちの本田達也から麻雀のカモにされていること、売り上げを全て投入しているせいでバイト代の支払いが遅れていることを知らされた。雅彦が徳恵の家を訪ねると、彼女は狼狽した様子で居留守を使った。雅彦は公園で春人と出会い、長崎へ行って節子と一緒に暮らすことを聞かされた。春人が長崎へ行くと、節子は笑顔で迎えた。節子が経営するジャズバーでは、彼女の兄・忠の娘である知美が働いていた。
節子は忠から「雅彦のこと、どげんなっとっと?あの時の約束、そのまま生きとっとね?」と問われ、「うん」と答える。「いつかは雅彦にホントのこと」と忠が言うと、彼女は少し考えてから「いいの、このままで」と口にした。雅彦は花屋で働き始めた徳恵を訪ねた。徳恵は彼に、遠洋漁業の仕事をしている父が船から上がったら小さな店を持ちたいと考えてていること、その夢を叶えるために仕事を覚えておきたいと思っていることを話した。
雅彦は、「俺もそうだったのかなあ。お袋がバイオリン好きだったから。お袋の笑顔が見たくてバイオリンを弾いてたのかなあ」と述べた。徳恵が「諦めたの、音楽?」と尋ねると、彼は「うん」と返答した。徳恵は「嘘ついてない?他人に嘘つくのは、まだいい。でも自分に嘘ついたら、おしまいなんだって。私も人のことは言えないけど」と涙を浮かべながら語った。ジャズバーで働き始めた春人は、徳恵から電話を受けて喜んだ。しかし彼女の発した言葉にショックを受け、表情を強張らせて電話を切った。
雅彦は父からの電話で、春人が海で死亡したことを知らされた。彼はバイオリンを質屋に入れて旅費を工面し、長崎へ戻った。節子は春人の葬儀をジャズバーで行い、親族だけでなく常連客の染丸たちも集まった。翌日、埋葬を終えた雅彦と節子が春人の墓にいると、徳恵がやって来た。彼女は「ごめんなさい。春ちゃんを殺したのは私。電話であんなこと言わなきゃよかった」と言い、春人の子を妊娠していること、電話で産む気が無いと言ってしまったことを明かした。徳恵が「いたたまれなくなって、それで自分の命を」と口にすると、節子は「ううん、事故だったのよ」と告げた。
東京へ戻った雅彦は池田から、野川が本田からの借金を返せずに競馬のノミ屋をやらさせていることを聞かされた。バンド仲間の滝川が雅彦のアパートを訪れ、プロになることを告げた。彼は「どれだけ偉そうな音楽教育を受けて来たか知らねえけど、そんなもんクソの役にも立たねえんだよ」と言い放った。彼が自分のバイオリンを持って来たことに気付いた雅彦は、「どうしたんだよ。お前、ギターは?」と問い掛けた。滝川は笑って「俺はプロになるからな。身代わり、身代わり」と言い、アパートを後にした。
雅彦は徳恵と会い、「俺、長崎帰るよ。もう一度振り出しに戻って、これから先のこと、じっくり考えてみる」と語った。徳恵は春人から届いていた手紙を見せ、彼が長崎で一緒に暮らそうと思ってくれていたことを話した。長崎へ戻った雅彦は、節子が血液の癌で入院していることを雅人から聞かされた。雅彦が見舞いに行くと、節子は自分が被爆者であること、そのせいで血液の癌になったこと、原爆投下を知って帰郷した時に好きだった幼馴染と再会したこと、その時に関係を持ったこと、しかし彼が死んでしまったことを語った…。

監督は田中光敏、原作は さだまさし(幻冬舎刊)、脚本は横田与志、製作総指揮は植村伴次郎&中村雅哉、製作は気賀純夫&早河洋&笠原和彦&石原清行&瀬崎巖、企画は近藤晋、エグゼクティブ・プロデューサーは見城徹&松本勉&遠谷信幸&木村純一、プロデューサーは辻井孝夫&田中渉&福吉健&村上比呂夫&宇都宮弘之、ラインプロデューサーは宮内眞吾&横手実、撮影は柴崎幸三、照明は上田なりゆき、美術は斎藤岩男、録音は宮本久幸、編集は川島章正、脚本協力は松本久美子&北阪昌人、音楽は大谷幸、音楽プロデューサーは荒木浩三。
主題歌『精霊流し』詞・曲・歌:さだまさし。
出演は内田朝陽、池内博之、酒井美紀、松坂慶子、田中邦衛、椎名桔平、高島礼子、蟹江敬三、山本太郎、仁科亜季子、石丸謙二郎、大西結花、麻木美鈴、久保海晴、澤田俊輔、川村陽介、川野直輝、三井善忠、本山善彦、大高力也、嶋田豪、内田チエ、飯田里穂、海田明夢、永田文利、竹之内ハルエ、松尾真弓、毎熊キミ子、本山早苗、大石篤史、市来勇、池本昭美、みぞかわなおこ、中尾恕、松尾真樹、松尾保、城戸啓輔、深堀龍、竹谷優子、峰千加子、白木美樹、泉芙美、中尾早苗、さだまさし、小出俊朗、益田時忠、山口領平、中村祐太、中村健吾、中村一貴ら。


さだまさしの自伝的同名小説を基にした作品。
監督の田中光敏と脚本の横田与志は『化粧師』に続いて2度目のコンビ。
雅彦を内田朝陽、春人を池内博之、徳恵を酒井美紀、節子を松坂慶子、喜代子を高島礼子、和田を蟹江敬三、池田を山本太郎、染丸を仁科亜季子、本田を石丸謙二郎、知美を麻木美鈴が演じている。
雅人役の田中邦衛と野川役の椎名桔平は友情出演。原作者のさだまさしも出演しているらしいが、どこにいたのか全く分からなかった。

まずキャスティングの時点で違和感を禁じ得ない。
「高島礼子と田中邦衛が夫婦」という部分の違和感もあるけど、そんなことが比較にならないほど「高島礼子の姉で松坂慶子が妹」という姉妹の違和感がハンパない。
高島礼子は1964年生まれで松坂慶子が1952年生まれなので、どう考えたって逆なのだ。高島礼子よりも松坂慶子が年下に見えるってんならともかく、そうじゃないし。
しかも役柄的にも、高島礼子が節子で松坂慶子が喜代子の方が合うんじゃないかと思うんだよなあ。
そこのキャスティングは、誰が決めたのか知らないけど、意図が良く分からんなあ。

最初に「1966年、長崎」と表示され、電車に乗っている雅彦の様子が写し出される。そこから回想に入ると、幼い雅彦が川向こうの石垣に咲いている薔薇を母のために取りに行く様子が描かれる。
シーンが切り替わると、「危ないことをした」と喜代子に叱られた雅彦が薔薇を投げ捨てている。シーンが切り替わると、喜代子が薔薇を庭に植える様子を雅彦と帰宅した雅人が眺めている。次のシーンでは、雅人が喜代子に引っ越しのことを話している。
回想に入ってからそこまでに、わすが1分半程度。
すんげえ慌ただしいわ。

その導入部は、まず「何年」というテロップが出ないのが引っ掛かる。
「1966年」の表示があるんだから、回想に入っても、それが何年のことなのかを示すべきでしょ。
で、そこは雅彦の家族関係を丁寧に描写し、「雅彦が喜代子を強く愛している」ということを示すために必要なシーンのはずだなのに、薔薇を取っただけで済ませてしまう。まるでダイジェスト処理であるかのように、淡白に処理してしまう。
引っ越しするまで裕福だったことの描写も薄いし、雅彦の母に対する愛の深さも見えない。
雅人に関しては、ほぼ存在意義が無い。

雅彦がバイオリンを学んでいたことは、彼が手放そうとする時に初めて分かるという始末。
それまでは、雅彦がバイオリンを弾いているシーンが全く無いのだ。
だから当然のことながら、彼のバイオリンに対する情熱も、手放したくない気持ちも、喜代子の「何としてでも息子にバイオリンを続けさせたい」という熱意も、まるで伝わらない。
そこが伝わらないってことは、「バイオリンを弾かなくなった現在の雅彦が抱いている母への罪悪感」ってのも伝わらないぞ。

母子の情愛のドラマも、全く心に響かない。
少年の雅彦が長崎を出発する時、走り出した列車を喜代子が追い掛け、雅彦が窓から手を振って涙を流し、そこをBGMも使って「感涙のシーン」として演出しているのだが、涙腺はピクリとも反応しない。
なぜなら、ドラマの中身が全く追い付いていないからだ。そんなに感動するほど、そこまでの母子の関係描写に厚みが無いからだ。
そのため、過剰に感動的なシーンとして盛り上げようとしていることが、逆にこっちの気持ちを冷めさせる。

その回想シーンが終わると、雅彦が北鎌倉駅を出て来る様子が写し出される。
いやいや、どういうことだよ。長崎で列車に乗っていたのに、なんで回想が終わって駅を出たら鎌倉なんだよ。
そこは長崎の駅で電車を降りて、故郷でのエピソードを描くべきだろうに。繋がりがおかしいだろうに。
回想を終えて鎌倉のシーンに入るのなら、長崎の列車に乗っている描写は要らないだろ。まず鎌倉での雅彦の生活風景を先に描いて、それから「マーちゃんのお母さんの精霊船、大勢見送ったわねえ」と節子が口にするタイミングで最初の回想部分を入れる形でもいいだろうし。

雅彦がバイオリンケースを眺めると回想に入り、そこでは少年時代の彼と春人の様子が描かれる。節子は回想シーンの最期にチョロッと顔を見せるだけで、雅彦と会話を交わすことも無い。雅彦が鎌倉へ行って初めて節子や春人と会った時の様子や、慣れない土地での戸惑い、少しずつ節子や春人と仲良くなって鎌倉での生活に順応していく様子などは、全く描かれない。
それは百歩ならぬ千歩譲って受け入れるにしても、そこの回想で描く最初のシーンが春人との会話ってのは違うんじゃないのかと。
なんで「母の思いを無駄にした」とからかわれて腹を立てた雅彦がバイオリンケースを眺めて、最初に思い出すのが春人との会話シーンなんだよ。
そこで描くべきは、母の思いを裏切ったことに対して雅彦が抱いている罪悪感に繋がるエピソードでしょうに。

現在のシーンでは、既に喜代子が死んでいる。だから回想シーンを上手く使っていかないと、雅彦と喜代子の母子関係を描写することは難しい。
ところが、喜代子の登場する回想シーンというのは、鎌倉を訪れた彼女に雅彦がバイオリン演奏を聴かせたシーンで打ち止めになってしまう。
そりゃあ、やり方次第では、喜代子を登場させなくても雅彦の彼女に対する深い愛を表現することが出来るだろう。しかし、それが出来ているのかと言えば、答えはノーである。
だったら素直に回想シーンで喜代子の出番を増やし、それを利用すればいいんじゃないかと。
ただし、この映画を見る限り、回想シーンで出番を増やしたところで、それで雅彦と喜代子の母子ドラマを充実させられるかどうかは大いに疑問が残るけど。

節子が長崎へ帰ることを知らされた春人は強いショックを受けるのだが、そこまでに2人の親子関係の描写がほとんど無いので、当然のことながら春人の節子に対する「本当の母親のように思っていた」という気持ちも伝わっておらず、だから「なんでそこまでショックを受けるんだろう」と感じてしまう。
回想も現在のシーンも使って、そこまでに2人の関係や春人の節子に対する思いを雅彦の視点から描写しておくべきじゃないのかと。
節子が男と帰宅するのを春人が目撃するシーンだけでは、まるで足りないよ。
アルバムを燃やしたり、徳恵に抱き付いて嗚咽したりするほどのことなのかと思ってしまう。彼の心情が、まるで理解できない。

徳恵の存在意義が、皆無に等しい。っていうか、むしろ邪魔な存在と言ってもいいぐらいだ。
雅彦と春人の、それぞれの母親に対する愛の深さを描く筋書きにおいて、徳恵は重要な存在ではない。雅彦&春人&徳恵の三角関係をそれと同じぐらいの扱いで描こうとしているなら、それは全く出来ていない。
長崎へ帰る前の節子が徳恵と話すシーンなんかもあるけど、雅彦の回想から物語が始まることを考えれば、なるべく彼の視点で物語を進行していった方がいいだろうし。
この映画、雅彦の知らない場所で起きている出来事が多すぎるので、彼の回想劇として描かれていることに違和感を覚えるんだよな。

徳恵は土砂降りの中でズブ濡れになりながら雅彦に「私を見て」と叫ぶのだが、そんな行動を取るほどの怒涛の如き愛は、そこまでの流れからは全く見えていなかったので、ものすごく唐突で違和感のある行動に見える。
雅彦がテープレコーダーの歌を聴かせるシーンぐらいしか、2人の関係性を示すための描写は無かったのでね。
それで「私を見て」と叫ばれても、「そんなにフラストレーションを溜め込んでいたのかよ」と困惑してしまうわ。
徳恵が居留守を使った後、初めて幼い頃の2人が出てくる回想シーンが挿入されるけど、そういうのもタイミングとしては遅すぎるし。

春人の自殺(断定はされていないが、そのように示唆されている)も、これまた違和感が否めない。
それを納得させるには、そこまでの展開において春人を「あまりにも心が弱すぎる青年」としてアピールしておく力が弱すぎる。また、池内博之がそういうタイプに見えないという問題もある。
で、春人の自殺を受けて徳恵が「彼の子を妊娠していた」と打ち明けるのは、彼女に惚れていた雅彦にとっては強いショックのはずだが、それほど激しく動揺する様子も無い。それを引きずることも一切無くて、徳恵に長崎へ帰って再スタートすることを話す時も爽やかな表情だ。
だったら、ますます徳恵の必要性が無いぞ。

雅彦が長崎へ戻って再スタートすることを決めたのは、たぶん春人の自殺が引き金になっているんだろう。
しかし、何がどのように作用して「振り出しから始めよう」と決意したのか、それは良く分からない。
雅彦が徳恵に帰郷を告げる前には、野中の金を持って去ろうとする本田に歯向かってボコられるシーンもあるが、この「野中の転落」というエピソードが挿入されている意味も良く分からん。
それが無くても、本筋には何の支障も無いぞ。

雅彦が見舞いに訪れると、節子は被爆者であることを打ち明けて「原爆が落ちて最愛の人と再会できた、でも原爆に彼を奪われた」などと話すのだが、取って付けた感じしか無いわ。原爆の要素が強引に盛り込まれて、まるで融合していないという印象だ。
そのシーンの後、節子が雅彦の実母だということが明らかになるが、この設定は要らないなあ。
そういう展開を用意する一方、雅彦の喜代子に対する愛の深さを描写する作業は疎かにされているんだよな。むしろ、そっちに厚みを持たせることに意識を向けた方がいいんじゃないかと。
そんで節子が実母だと明かされた途端、そのタイミングで喜代子への感謝の意を表すんだけど、どういうタイミングなのかと。

(観賞日:2014年9月9日)

 

*ポンコツ映画愛護協会