『少年ケニヤ』:1984、日本

1941年冬、ナイロビ。織物商を営む村上大助は日本へ戻る日が近付き、10歳になる息子のワタルを取引に同行させることにした。妻の葉子が心配すると、大助は「若い頃から苦労して来たアフリカを見せておきたいんだ」と語る。トラックで出発した大助は取引を終え、使用人のブーチと運転手を町に行かせて息子と野宿する。ワタルと大助テントで就寝していると、トラックが戻って来た。しかし運転手は「一緒にいたら俺たちも監獄に入れられる」と言い、「恩人を放っておけない」と反対するブーチを置いて逃げ出す。
ブーチは仕方なくトラックを追い、気付いた大助が呼び掛けると「日本と英国が戦争を始めた」と知らせた。捕虜になることを避けるため、大助はワタルを連れて逃亡を図る。ワタルが暗闇の密林に怯えると、大助は「日本男児はどんなことがあっても、へこれないんだ」と説いた。密林を抜けた大助は休息しようとするが、大きな獣の足跡を発見する。茂みからサイが襲って来たので、大助はワタルに「木に登るんだ」と指示して散弾銃を撃つ。サイに追われた彼は転倒し、ワタルは木から落下した。
ワタルはサイの背中にまたがり、振り落とされないよう必死でしがみ付く。大助は散弾銃を構えるが、息子に当たる危険があるので撃つことが出来なかった。サイはワタルを乗せて暴走し、大助は必死で追うが見失った。サイはカバと激突し、ワタルは振り落とされた。サイとカバが戦っている間に逃げようとしたワタルだが、意識を失って倒れ込んだ。翌朝、大助は取引相手の部族と遭遇し、トラックごと荷物を持ち逃げされたこと、息子とはぐれてしまったことを話す。酋長は彼に、婚礼が済んだら全員で捜索を手伝うと約束した。大助は彼らが英国人から敵だと思われることを心配するが、酋長は「尊敬する人のためなら何だってしますよ」と笑顔で告げた。
意識を取り戻したワタルは川で喉を潤すが、ワニが襲って来たので慌てて逃走した。当てもなく歩き続けた彼は、険しい崖を登ろうとして滑落した。するとマサイ族の大酋長であるゼガが横たわっており、ワタルは歩み寄ろうとする。するとゼガは目をカッと見開き、ワタルの背後から飛び掛かろうとしていた黒豹に槍を投げた。黒豹を仕留めたゼガは荒い息を吐き、水を汲んできてほしいとワタルに頼む。病気になって5日も倒れたままでいることを聞いたワタルは、薬を手に入れるため近くの村へ行くことを申し出た。ゼガは「あそこは危ない。ワシは死んでもいい」と遠慮するが、ワタルは「僕は日本男児です」と口にした。
ワタルは断崖に赤い実があることを聞き、槍を持って採取に向かった。ワタルは赤い実を手に入れるが、崖から落ちそうになる。何とか助かったワタルだが、今度は巨大なカエルに襲われた。彼は槍をカエルに突き刺して殺し、ゼガの元へ戻った。ゼガは赤い実の効力で急速に回復し、ワタルと一緒に食事を取った。「村へ帰る。一緒に来るか」と誘うゼガに、ワタルは父とはぐれたことを話す。村に戻ったゼガは息子のワカギに酋長の座を譲ると宣言し、今後は大助の捜索に手を貸すとワタルに約束した。
ワタルを連れて旅に出たゼガは、彼を背負って底無し沼を渡った。どうして渡れたのかワタルが尋ねるので、彼は答えようとする。直後にライオンが現れたので、彼は槍を構えた。すると後ろから巨大な蛇のダーナが出現し、ライオンを丸飲みして去った。ゼガはワタルに、「ここはダーナの通り道だ。若い頃にダーナが沼を渡るのを見て、沈まない道を知った」と語った。1944年春、ケニヤ。ワタルは象の群れを操れるほど、野生の暮らしに順応していた。まだ父とは再会できておらず、ワタルはゼガと別れて山腹の洞窟を調べた。すると洞窟を抜けた先には、大きな柵があった。
ワタルは象のナンタを残して、柵を乗り越えた。するとケートという金髪の少女がいて、ワタルに襲い掛かった。ワタルが取り押さえて「お前は誰だ」と尋ねると、彼女は「私は神よ。ここは私の丘。誰も来てはいけないの余。お前は掟を破った」と告げる。ワタルが驚いていると、ケートは逃走した。ポラ族の酋長であるグレはアメリカ人のケートを5歳の頃に拉致し、神として利用していた。グレが2人の男を谷底へ投げ込もうとする時も、ケートに「神の裁き」を語らせた。そこへワタルが駆け付け、グレによる処刑を阻止した。
グレの命令を受けたポラ族の面々は、ワタルを殺そうと襲い掛かる。ワタルが戦っていると、ゼガが象の群れを率いて駆け付けた。ゼガは部族を退散させてワタルを助けるが、ケートはグレを追って姿を消した。ワタルたちが休憩していると、ゼガとポラ族は草地に火を放った。ワタルは象の群れを連れて逃げるが、ゼガは取り残されてポラ族に捕まった。ワタルはポラ族を尾行し、深夜の集落に潜入した。ケートは見張りが眠っている隙に、ゼガが拘束されている建物へ忍び込む。彼女はゼガに、「人を殺すお告げをするのは嫌だったの。でも、そう言わないと酷い目に遭わされるのよ」と打ち明けた。
そこへグレが現れて激怒し、ケートを暴行する。ワタルがグレを蹴り付けて失神させると、ゼガはケートを連れて逃げるよう促す。ワタルとケートが逃げ出すと、すぐに意識を取り戻したグレが部族を差し向けた。ワタルはケートを連れて、集落から脱出した。彼はケートを安全な場所に残し、セガの救助に向かった。グレはゼガに3頭のライオンと戦うことを要求し、「倒せれば助けてやろう」と持ち掛ける。しかし全て退治されると、約束を破って始末しようとする。そこへワタルが現れてグレに槍を突き付け、ゼガを解放させた。
ワタルはゼガと合流し、追って来るボラ族と戦う。2人は多勢に無勢で追い込まれるが、そこへダーナが駆け付けて彼らを救った。ワタルを捜索していた大助は、ダーナの背中に乗る息子の姿を目撃した。大助はワタルの名を叫んでダーナを追い掛けようとするが、ボラ族に襲われた。沼に飛び込んだ彼はワニの群れに追われ、必死で泳ぐ。そこへ汽船が通り掛り、船員たちが発砲してワニを追い払った。汽船に乗っていたドイツ人のゲルヒンは大助から話を聞き、力を貸そうと持ち掛けた。
ワタルとゼガはケートと合流して移動し、大きな川に辿り着いた。ケートが飛び込んで泳ぎ始めたので、ワタルも後に続く。岩場に隠れていたケートは、何者かに拉致された。ワタルとゼガが周囲を調べると、海底洞窟があった。2人が洞窟を進むと、その奥には巨大トカゲの群れがいた。手を出さなければ襲って来ることは無く、2人が隠れて様子を見ているとトカゲ族の男が餌を与えた。酋長のアゲラはケートを神への生贄に捧げようとするが、ワタルとケートが駆け付ける。トカゲ族は彼らに襲い掛かり、ゼガを網で捕まえた。ワタルはトカゲ族の弱点に気付き、ケートに教えた。2人はトカゲ族を蹴散らし、ゼガの救出に向かった。
ケートはゼガを救い出し、ワタルはアゲラを退却に追い込んだ。そこへ首長竜が現れるが、ゼガが退治した。ワタルたちは崩壊する洞窟から脱出し、密林を進んだ。ナチスの秘密研究所で密林を監視していた職員たちは、3人の姿に気付いた。研究所の責任者であるゲルヒンは、シュタイン博士に原子爆弾を製造させていた。彼は大助を同行させており、シュタインに完成を急がせるよう促す。しかしシュタインは暴行されても、爆弾の製造を拒否した。ゲルヒンは研究所を見つけたワタルたちを捕まえ、大助と面会させる。彼は1週間後の正午までに原爆を完成させるよう大助に要求し、出来なければワタルを殺すと通告した…。

監督は大林宣彦、共同監督は今沢哲男、原作は山川惣治(角川文庫版)、脚本は桂千穂&内藤誠&剣持亘、製作は角川春樹&今田智憲、プロデューサーは田宮武、ピクトリアル・デザインは島村達雄、撮影監督は福井政利、美術監督は田中資幸、作画監督は我妻宏、実写スタッフ 撮影監督は阪本善尚、美術監督は薩谷和夫、編集は花井正明&大林宣彦、録音は波多野勲、音楽監督は宇崎竜童、編曲は朝川朋之。
主題歌「少年ケニヤ」作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、うた:渡辺典子。
声の出演は高柳良一、原田知世、井上真樹夫、増山江威子、大塚周夫、柴田秀勝、内海賢二、永井一郎、八奈見乗児、塩沢兼人、山川惣治、片桐順一郎、矢田耕司、田中亮一、岸野一彦、佐藤正治、田中和実、小林道孝、広中雅志、関口和孝、平浩幸、須知信之ら。


山川惣治による同名の絵物語を基にした角川春樹事務所の長編アニメーション映画。
監督は『金田一耕助の冒険』『ねらわれた学園』『時をかける少女』の大林宣彦。どうやらプロデューサーの角川春樹は大林監督がお気に入りだったようで、これが4本目の起用となる。
脚本は『幻魔大戦』の桂千穂&内藤誠と『時をかける少女』の剣持亘。
ワタルの声を高柳良一、ケートを原田知世、大助を井上真樹夫、葉子を増山江威子、ゼガを大塚周夫、アゲラを柴田秀勝、グレを内海賢二が担当している。

原作は1951年から1955年まで産業経済新聞で連載されていたが、これは角川春樹事務所が製作した映画なので、もちろんメディアミックスとして角川文庫から復刊されている。
角川春樹事務所は1983年に手掛けた『幻魔大戦』がヒットしたので、第二弾として本作品を公開した。『時をかける少女』の高柳良一と原田知世を起用し、まだ角川映画で主演を務める前の渡辺典子に主題歌を担当させるなど、力も入れていた。
しかし興行的に失敗し、『幻魔大戦』からは配給収入が4億円以上も落ちた。
なぜか併映が『スヌーピーとチャーリー・ブラウン』ってのも、少しは影響したと思われる。

基本的にはアニメーション映画だが、オープニングとエンディングは実写パートになっている。
映画が始まると、原作者である山川惣治の書斎が写し出される。山川が『少年ケニヤ』の本を読んでいる背後に、挿絵が合成される。
合成を使う映像表現は『HOUSE ハウス』や『時をかける少女』でも使われており、のっけから「いかにも大林ワールド」と感じさせる。大林宣彦監督の熱烈なファンなら、それだけで嬉しくなってニヤニヤしてしまうかもしれない。
で、本を閉じて立ち上がった山川が地球儀を回して去ると、オープニング・クレジットが開始されるという趣向になっている。

本編が始まると、まず感じるのは「アニメーションの質の低さ」である。
そりゃあ当時の日本ではリミテッド・アニメーションが当たり前で、「フル・アニメーションなんてのはディズニーだけが出来る品質」というぐらいの捉え方だったのかもしれない。
ただ、それにしても、この映画の冒頭で見られるカクカク感は「ホントに1984年の作品なのか」と言いたくなるぐらい低品質だ。
日本のアニメーション黎明期の製作じゃないかと思うぐらい、古めかしさを感じてしまう。

しかも、これと同じ1984年には宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』が公開されているんだよね。その画質の高さは、言わずもがなだろう。
ちなみに、『少年ケニヤ』のアニメーション制作を担当したのは東映動画(現在の東映アニメーション)。
そして『風の谷のナウシカ』の監督を務めた宮崎駿やプロデューサーの高畑勲、制作会社のトップクラフトを設立した原徹らは東映動画の出身だ。
抜けた面々が高品質のアニメーション映画を発表したのと同じ時期に、東映動画は凋落ぶりを露呈する羽目になったわけだ。

ワタルと大助を乗せたトラックが出発して間もなく、色が消えて線描の映像になる。
再び普通のアニメーションに戻るが、正確には「元に戻った」というわけではない。ワタルの家族が登場する最初のシーンでは、人物の輪郭線が薄くて全体的にボヤッとした感じだった。だが、トラックで移動しているシーンになると、輪郭線を太く描いてクッキリさせているのだ。
素朴な味わいだったのが、急に劇画調へと変化する。最初のシーンと次のシーンで、担当者がガラリと入れ替わっているかのようになっている。
そのタッチの違いは何なのか。
意図しているとは思えないし、どうであれ違和感を抱かせるだけで何のプラスも無いぞ。

ちなみに、前述した線描の映像に合わせて主題歌が流れる。なので、それは「主題歌を際立たせるための演出」ってことなのかと思った。
しかしサイが出現するシーンでも、松明の炎以外は色が消えて、一時的に線描の絵になる。
その後も頻繁に線描だけのシーンを挿入しており、それを作品の特徴として押し出そうとする狙いが感じられる。
もしかすると、出崎統が演出したアニメーションのようなテイストを意識していたのかなあ。

さらに、ワタルを乗せて暴走するサイが、紙を突き破って出現するという演出もある。
「お前は何をワケの分からんことを言ってるんだ」と思うかもしれないが、事実なのだ。大助が振り切られた後、カットが切り替わると「背景のカットの中央が破れてワタルとサイが飛び出す」という映像があるのだ。
たぶんメタ的な遊びを意識して持ち込んだシーンだろう。
ただ、そういう遊びと絵柄が全く合っておらず、ただの要らない遊びになっている。

ダーナがライオンを食べて去った後には、「映写機でフィルムを回しています」という映像もある。
他にも、幾つかの実験的な映像表現持ち込まれている。
大林監督は実験的なことが大好きで色々と好き放題にやっているけど、それを全否定しようとは思わない。それは年齢を重ねても全く変わらない、大林監督の作家性だしね。
ただ、この映画に馴染む実験的な映像は手塚治虫が志向するようなモノじゃなくて、石森章太郎的なファンタジックの方向性なんだよね。

だから例えばケートが雨の中で幻影の鳥たちと戯れる映像なんかは、この作品に馴染んでいると感じる。
とは言え、全ての実験的映像は削除しちゃった方がスッキリするってのが、紛れも無い事実ではあるんだけどね。
そもそも大林監督の持ち味と劇画調の絵柄ってのが、実はミスマッチなのよね。大林作品の特徴はファンタジー&ノスタルジーであり、それは劇画と真逆のベクトルと言ってもいい。
大林監督にメガホンを任せるなら、イーハトーブの物語なんかが合うんじゃないかと。

あと、「やっぱり実写じゃないと、大林宣彦監督の本当の力は発揮されないよなあ」ってのを強く感じてしまう。
それを顕著に示すのは、ヒロインの存在だ。
ケートというキャラクターが魅力的じゃないとか、そういうことが言いたいわけではない。でも、大林監督がそこまでケートを愛していないんだろうってのは、何となく伝わってきちゃうんだよね。
何しろ、ケートを脱がせていないからね。
実現するか否かは別にして、大林監督はヒロインを脱がせたがる人だ。それこそが大林監督の真骨頂と言ってもいい。
ケートを脱がせていないのは、本物の女優じゃないから脱がせる価値も無いってことなんだろう。

他にも問題点は山積みで、言い出したらキリが無いぐらいなのよね。
例えば、エピソードが点の連続になっており、ストーリーの流れを上手く作ることが出来ていない。
ワタルも父も互いを捜していることは序盤で明示されているため、そこに関係しないエピソードが続くというだけでも「その道でホントに正しいのか」と言いたくなってしまう。トカゲ族のエピソードなんて、「ワタルと大助がニアミスした後のタイミングで、そいつらはホントに必要なのか」と言いたくなる。
後半に入ると大助がゲルヒンと出会うが、「なぜゲルヒンは研究所でシュタインの監督を大助に任せるのか。利用の方法も方向性も変だろ」と言いたくなる。ワタルを人質に取って大助に「シュタインに原爆を完成させろ」と脅しているけど、「脅す相手が違うだろ」と言いたくなるし。
肝心なトコがデタラメなのよね。

大助から事情を聞いたシュタインは、「計画があります」と言う。彼は原爆の完成と引き換えに、ゲルヒンに人質を解放させる。ゲルヒンと共に実験室へ入ったシュタインはドアを施錠して鍵を排水溝に捨て、既に完成させておいた小型原爆を起動させる。
それで彼は「問題は全て解決」みたいに思ってるけど、小型であっても原爆が起動したら周囲の自然や動物には放射能で甚大な被害が出るだろうに。しかもワタルたちも近くにいるから、思い切り被爆しちゃってるし。
大林監督が原爆の恐ろしさを知らないはずはないのに、そんなシーンを平然と用意できちゃってるのね。
ただ、「原爆が爆発するとアフリカが原始時代に戻り、恐竜たちの世界に変貌する」というキテレツな展開が待ち受けているので、それどころじゃなくなってるけど。

(観賞日:2020年6月4日)

 

*ポンコツ映画愛護協会