『書道ガールズ!!-わたしたちの甲子園-』:2010、日本

四国中央高校の書道部。副部長の篠森香奈は退部希望の1年女子を何とか引き留めようとするが、他の部員たちは素知らぬ顔をしている。部長の早川里子は「辞めたいなら辞めれば」と冷たく言い、好永清美はお菓子を貪り食っている。山本小春はヘッドホンで音楽を聴いており、男子部員3名は固まってニヤニヤしているだけだ。結局、その部員は辞めてしまい、これで退部は5人目となってしまった。しかし里子は「別にいいよ、今のままで。書道っていうのは己ととことん向き合うことから始まるんやから。大勢でワイワイガヤガヤやりたいんなら、他の部に行けばええんや」と、まるで気に留めない。
香奈は「今年が最後やなあ。一度でええから団体戦で賞が取りたいっていうか、たった一枚でいいき、賞状が欲しいよねえ」と熱望しているが、里子は淡々とした口調で「頑張ればええやん。香奈個人として」と言う。香奈が「私一人やと賞を取れんの。私は里子みたいに才能無いやんし。せやから、四国中央高校として賞が欲しい」と語ると、彼女は「分かるけど、でも結局、一人一人の頑張りに懸かってくるわけやろ。やったら、今のまま、やればええんやない?」と冷静に言う。
里子は香奈と別れ、手梳き和紙の高田製作所に立ち寄る。彼女の幼馴染・高田智也の実家だ。智也の祖父が作った和紙を、里子も書道教室を開いている父も愛用しているが、値段が高いので売れ行きは芳しくない。里子が帰宅すると、母は書道教室について「過去、最低記録よ。新しい生徒さん、たったの一人」と語る。里子が「厳しすぎるんないの、お父さん」と言うと、母は「そんなん、今に始まったことやないやろ。原因は少子化と不況よ。とうとう来たわいって感じ」と述べた。父は里子を呼び、彼女が書道展に出すつもりで書いた作品を目の前で破り捨てて「書き直しなさい」と命じた。
翌朝、里子と香奈は準備室で部費の箱を持っていた男を泥棒だと思い込み、墨汁を浴びせる。だが、それは産休の教師の臨時教員として赴任した池澤宏人だった。書道部の顧問になった池澤は部室の名札を見て「部員が8名ってのは、ちょっと寂しいね」と口にするが、里子は「今は7名です」と訂正する。まだ名札は残っているものの、3年生の岡崎美央が部を去っていた。池澤は里子の書を見て「つまんない字だなあ」と言う。香奈が書道展に向けて指導してほしいと持ち掛けると、彼は「指導するにはそれなりの人間性が必要だと思うのよ。俺なんて、泥棒に間違われちゃうような人間よ」と、明らかに墨汁を浴びせられたことを根に持っている様子を示した。
里子と香奈は学校からの帰り道、美央を目撃する。美央は里子と目が合うが、そのままスナックへ入って行く。彼女はスナックの手伝いをして、お金を稼いでいる。翌朝、里子と香奈が登校すると、池澤は男子部員に手伝わせ、校庭で音楽を流し、「来たれ書道部」と紙に記すパフォーマンスを披露した。集まった生徒たちは、それを見て拍手する。しかし里子は「あたしらは真剣に書道やってるんです。茶化すんやったら顧問なんて辞めて下さい」と腹を立てる。
ところが池澤のパフォーマンスに一目惚れした清美は、部室で音楽を聴きながら、張り合わせた半紙に文字を書き出した。あちこちに墨を激しく飛ばす彼女に、里子は「部室めちゃくちゃにして、どういうつもりよ。あいつに惚れようが清美の勝手やけど、それと書道を一緒にするの、やめてくれん?書道っていうのは己と静かに向き合うもんなんよ。音楽聴いて暴れながら書くなんて、みっともないモノ、ここに持ち込まんといて」と激しく責めた。
清美は「みっともなくたって、私はこれをやりたいんです」と言うが、里子は「やりたいんやったら、自分一人でやったらええやん。部活にふざけたモンを持ち込まんといて。こんなくだらんことで邪魔されたくない」と声を荒げる。ショックを受けた清美は、部室を出て行く。里子は「言い過ぎよ。せやから美央かって」と香奈に注意されるが、「美央がなんよ。私、間違ってないき」と反発した。
清美が中通り商店街にある実家の文具店に帰宅すると、近所の店主が父を訪ねていた。店主は父に、商店街の蕎麦屋が今月一杯で閉店することを語る。一人で部室に残って練習していた里子は、美央のことを回想した。昨年の夏、美央が部活に来る回数が減り、来ても集中しないことを、里子は咎めた。その時、美央の携帯が鳴り、彼女は「すぐ戻ってくるき」と言う。だが、里子は冷たい態度で「やる気の無いひとにいてほしくない。もう戻ってこんでええよ」と言い放った。
里子が部室で居残り練習をしていると、池澤がやって来た。里子が「私の書、どこがどうつまらんのか、ちゃんと教えて下さい」と質問すると、彼は「つまんねえって思いながら書いてるだろ。だから見ている方もつまんなくなる」と答えた。翌朝、清美は学校を休んで公園に赴き、書道パフォーマンスの練習を繰り返した。それを目撃した小春はイジメを受けていた頃を思い起こし、その場を去った。
清美の父親が書道用具を持って部室を訪れ、部員たちに「どうせ処分せんないかんし、使ってやってくれ」と言う。彼は今月で店を畳むことを里子たちに話し、「清美は勉強も出来んし、運動もダメ。そのせいか人を避けているようなところがあって。でも、ここは居心地がいいんじゃろうね。家に帰ってから、部活の話ばっかりしちょったわ」と語る。里子は香奈に促され、清美に言いすぎたことを謝罪した。清美は2人に、閉店セールのために書道パフォーマンスをやりたいと考えていることを明かす。香奈は清美の熱い思いに心を打たれ、「やろうよ」と力強く言う。
香奈は池澤に指導を頼むが、「断る。君らにゃ無理だよ」と冷たく言われる。仕方なく香奈は、自分たちだけで練習することにした。里子は乗り気ではなかったが、香奈に引きずり込まれる形で参加した。しかし、これまで個人でやってきたため、まるで上手くいかない。里子は進路指導室から出て来る美央が就職希望者募集企業一覧を持っているのを見て、「大学へ行くんやなかったん?」と問い掛けた。すると美央は、「学校辞めるんよ、私」と口にした。
商店街で男子部員が呼び込みをすると、それなりに人が集まった。女子部員4人は店の前で書道パフォーマンスを行うが、清美が墨汁の入ったバケツを飛ばしてしまう。観客は墨汁を浴び、不愉快そうに帰っていった。パフォーマンスは失敗に終わり、里子は掃除をしながら「やから無理やって言ったんよ。最低」と吐き捨てる。香奈が「そんな言い方ないんやない」と諌め、2人は口喧嘩になった。
香奈が「前は楽しかったやん、美央がおった時は楽しくやってたやん。里子、変わった。つんけんして、あんまり話さんようになって。私は前の書道部に戻りたいだけや。なんで分からんの」と訴えると、里子は「そんなの分からん」と怒鳴る。清美が「もう、止めて下さい。私が悪いんです」と制止に入った。彼女の父は「こんなに人が集まったのは初めてや。みんなのおかげや」と、部員たちに感謝の言葉を述べる。そして清美に、「この書はお父ちゃんの宝物よ。ありがとう」と告げた。
里子は書道パフォーマンスを見に来てくれた智也と共に、帰路に就いた。智也は「やっとること、サッカーと変わらんのやなって。ゴールを決めるのは一人やけど、パスを出すのはメンバー1人1人やなあって、そやから、お前ら見とって惜しいなあって。お互いにええパス繋げとってたら、もっとええゴール決まっとったんやない?」と語る。そこへ高田製作所の職人が走って来て、「工場が大変じゃ」と言う。里子と智也が駆け付けると、工場は火事になっていた。しばらくして、工場は倒産した。
清美は部員たちに見送られ、広島へ引っ越した。里子は智也と会い、「私、間違っとった。やれば出来るかもしれんのに、最初から無理やって思い込んどった。仕方なくなんかない。ええパス繋いでいけば、ゴールはきっと決まるん」と言う。彼女は部員たちを集め、商店街に協力してもらって書道パフォーマンス甲子園を開催することを提案した。客を呼び込めば商店街も活気付くので、町興しのイベントとして開催しようというのだ。
里子は部員たちに、「紙は、この町そのものなんよ。守らんといかんのよ。紙が町の宝物やってことを、私らが伝えんといかんのよ」と力強く述べた。彼女たちは商店街でビラを配り、協力を求める。さらに市庁にも赴いてパフォーマンスを行い、協力を要請する。3月7日の開催が決定し、里子は練習を繰り返す。池澤は市庁でのパフォーマンスについて、里子に「何を考えて書いてた?」と尋ねた。里子は「諦めたくないってことやろか。この町には好きな物がたくさんあって、だから好きなもんのために頑張りたいっていうか」と語った。すると池澤は、「つまんなくはないけど、今のままじゃ、この前の二の舞だぞ」と口にした。
里子は池澤に、「教えて下さい。私らのことを根に持っとるんやったら謝ります。って言うか、根に持っとるのは私の方で。最初に先生の書を見た時、凄いって思ったんです。なのに、つまらんって言われたこと、いつまでも気にしてて。先生に出会わんかったら、書道をつまらんって思っとったことにも気付かんかったかもしれん。教える資格、充分にあるやないですか」と述べた。池澤は里子たちの指導を買って出た。翌日から池澤は部員たちを厳しくしごく。彼は一人一人の主張が強すぎてまとまりに欠けていることを指摘し、同じ気持ちになるよう告げた。
清美から里子に手紙が届いた。手紙には、小春が中学時代にイジメを受けて不登校を繰り返していたこと、そんな彼女の心の支えが書道だったことが綴られていた。そして「書道が彼女と外の世界を繋ぐ、たった一つの手段なのです。小春のこと、宜しくお願いします」という文面と共に、小春がいつも聴いているアンジェラ・アキの『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜』のMDが同封されていた。そこで里子は、書道パフォーマンス甲子園で『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜』を使い、書の中心には「再生」の文字を記すことに決める。だが、里子たちが練習で完成した作品を見た池澤は、「なんか足んねえんだよなあ」と漏らす…。

監督は猪股隆一、脚本は永田優子、製作指揮は宮崎洋&城朋子、製作は大山昌作、エグゼクティブプロデューサーは奥田誠治、Coエグゼクティブプロデューサーは菅沼直樹&西山美樹子&千葉知紀&神蔵克、企画はズームイン!!SUPER、企画協力は服部一啓、プロデューサーは藤村直人&坂下哲也、協力プロデューサーは笠原陽介、撮影は市川正明、照明は大内一斎、録音は井家眞紀夫、美術プロデューサーは北島和久、美術は高野雅裕、編集は松竹利郎、VFXスーパーバイザーは西村了、題字・書道監修は石飛博光、音楽は岩代太郎、音楽プロデューサーは平川智司。
主題歌「大切」FUNKY MONKEY BABYS 作詞・作曲:FUNKY MONKEY BABYS/川村結花、編曲:NAOKI-T。
出演は成海璃子、山下リオ、桜庭ななみ、高畑充希、小島藤子、金子ノブアキ、森本レオ、織本順吉、宮崎美子、森崎ウィン、森岡龍、坂口涼太郎、市川知宏、朝加真由美、おかやまはじめ、金山一彦、山田明郷、卜字たかお、なんしぃ(大好物)、諏訪部仁、松平千里、合田絢子、橘花梨、山本剛、仁也、冨田佳孝、井川人司、玉置友博、高橋信一郎、岡村龍樹、岡村知樹、杉本湖凛、藤井美緒、羽鳥慎一(日本テレビアナウンサー)、山本舞衣子(日本テレビアナウンサー)ら。


日本テレビの情報番組『ズームイン!!SUPER』で取り上げられた、愛媛県立三島高等学校書道部の部員たちの書道パフォーマンスや第1回書道パフォーマンス甲子園をモチーフにした作品。
『ズームイン!!SUPER』が企画し、日本テレビのドラマ演出家である猪股隆一が監督を務めている。
猪股監督の劇場映画は『マリと子犬の物語』に続いて2作目。
里子を成海璃子、美央を山下リオ、香奈を桜庭ななみ、清美を高畑充希、小春を小島藤子、池澤を金子ノブアキ、伊予寒川駅の駅員を森本レオ、智也の祖父を織本順吉、美央の母を宮崎美子、智也を市川知宏、里子の母を朝加真由美が演じている。

里子は「その道の先輩である厳格な父に鍛えられ、父に認められるために頑張っているが、それが重圧になっている」「周囲との協調性が 無く、生意気な態度を取る」というキャラ造形になっている。
そしてそのキャラ造形は、同じぐらいの時期に公開されていた『武士道シックスティーン』で成海璃子が演じた役と、かなり似通っている。
よりによって、同時期に公開される作品で似たような役を演じるというオファーを、どうして彼女の事務所は受けちゃったんだろうか。
成海璃子にそういうキャラのイメージを付けてしまおうという狙いだったんだろうか。

大まかな枠組みは、既視感たっぷりのベタベタなモノだ。 ザックリ言っちゃうと、『ウォーターボーイズ』とか『フラガール』とか『スウィングガールズ』とか、その辺りを思い起こさせるような「複数の若者が何か1つのことに取り組み、最初はバラバラだったが最終的には団結し、大きなイベントに挑む」という青春ドラマである。
まあ、良くあるようなお話だ。
「頼りなさそうに見える大人が実は優れた実力の持ち主」という池澤の設定は、『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』と同じパターンだし。

ただし、別にベタだから、何の新鮮味も無いからと言って、必ずしもダメというわけではない。
ベタにはベタの良さがあるし、例えば丁寧にキャラの心理を描写したり、全体の構成を丁寧に組み立てて行ったり、細部までディティールに気を配ったり、使い古されたようなネタ、良くあるような筋書きであっても、それを面白い映画として仕上げることは、決して不可能なことではない。
物語がベタでも面白い映画ってのは、世の中には幾らでも転がっているはずだ。

だから、この映画が駄作になった原因は(もうハッキリと駄作って言っちゃったな)、物語がベタで新鮮味が無いからではない。
作りが粗いからだ。
まず冒頭、里子が「大事なんは」と言いながら半紙に「こ」と書くシーンがあるが(「こ」は「個」の意味で書いている)、書いている途中で半紙がズレそうになって手で押さえるという描写にゲンナリさせられた。
ちゃんと文鎮を置いていないから、そんなことになるんでしょ。
父から厳しく書道を指導されているキャラが、そんなミスをやらかしちゃダメだろ。
どうして監督は、それでOKを出しちゃうんだよ。撮り直しなさいよ。

あと、里子が香奈と別れて自転車で高田製作所へ向かうところでモノローグが入るのだが、なんで彼女にやらせちゃうかね。
どう考えても、物語を導いて行く役目は香奈が適任でしょ。
里子みたいな個人主義の人間を語り手に据えてしまうと、やりにくいだけで何のメリットも無いと思うぞ。
彼女が心情変化してみんなで頑張ろうっていう気になるのも、それを本人にモノローグで語らせるより、「里子が変わってくれて嬉しい」という香奈の感情を語らせた方が、不細工じゃないはずだし。

っていうか、どっちにしろ、里子の気持ちをモノローグでは語っていないんだよな。
それどころか、高田製作所が火事になったシーンになるまで、ずっとモノローグが語られることは無い。
だから火事のシーンでモノローグが入って、「そう言えば里子がモノローグを語る役回りを担当していたな」と思い出したぐらいだ。
終盤には冒頭と同じモノローグが入るが、それを含めてもトータルで3回だけだ。
その程度しか入れないのなら、モノローグなんて要らないよ。

冒頭のモノローグでは、里子の好きな物が幾つか挙げられる。
その中には「町のどこにおっても見える、紙工場の煙突の煙」「学校の行き帰りに聞こえてくる、紙梳きの音。小さく静かに時を刻んでいく町の大切な守り神」という言葉がある。
また、清美が引っ越す時に「こっからでも見えるんですね、煙突。この町は、どこにいても、あの煙突が見える」と言うなど、公害になる煙を吐き出す紙工場が里子だけでなく誰からも愛されているという設定になっている。
ものすごく違和感が強いが、大王製紙が協賛しているので、紙を作る工場が愛されているという設定にしているんだろう。

大王製紙が協賛しているので、里子が「紙は、この町そのものなんよ。守らんといかんのよ」と語るなど、紙は特別扱いされている。
その一方、里子が池澤を泥棒呼ばわりして墨汁を浴びせるなど、他の書道用具は粗末に扱っている。
書道家だったら、紙だけでなく墨汁や筆も大切に扱えよ。なんで紙だけ特別なんだよ。
あと、池澤が泥棒扱いされるシーンだけでなく、「顔に墨汁を浴びる」というネタを多用しているけど、使いすぎだろ。
もはや笑いにもなっていないし、うっとおしいだけになっている。

里子の父が、書道展に出すつもりで里子が書いた作品を目の前で破り捨てるシーンがある。
父の厳格さを示したかったことは分かるけど、その描写は書道家のみならず、「一つの道を究めようとする人間」の解釈を間違っているように思えてならない。
たぶん、陶芸家が壺を割ったりするのと同じようなイメージで、そのシーンを用意したんだろうと推測するけど、その手の陶芸家が割るのは自分の作品だからね。他人の作品を割ったりしてないでしょ。
それと同じで、いきなり父が娘の作品を破り捨てるのは違和感が強い。
彼の厳格さをアピールしたいのなら、「厳しい言葉で酷評し、書き直すよう指示する」というだけで充分だよ。

書道パフォーマンスって見せ方が難しいモノだとは思うけど、池澤のパフォーマンスって、ちっとも魅力を感じないんだよな。
スロー映像を使ったりするのも、逆効果じゃないかなあ。
むしろカットを割らず、ワンカット長回しで見せるとか。
あと、書いている過程の「字」じゃなくて書いている池澤だけを見せているのは、その字が書き上がったところで、初めて勧誘のための書道だったことを分からせるという仕掛けのためってのは分かるんだけど、やはり「字が書き上がっていく」というところを見せないと、書道パフォーマンスの魅力って伝わりにくい部分があるんじゃないかなあ。

それと、実際にはどうだったのか知らないけど、部員たちが書道パフォーマンスを始めるきっかけが「顧問がやっていたのを見た一人が憧れたから」という形なのは、筋書きとして弱いよなあ。
そこは自分たちのアイデアで始めたことにしておいた方がいいんじゃないの。
仮に実話がそうだったとしても、実話をそのままやっているわけじゃなくて、あくまでもフィクションとして作られた映画なんだから。
そういう脚色は、何の支障も無いはずでしょ。

商店街での書道パフォーマンスの失敗は、「みんなの心が一つにならなかったから」ということじゃないと、筋書きとしてマズいんじゃないのか。
でも実際には、清美の個人的なヘマが原因だよな。
そりゃ「誰もバケツのサポートをしなかった」ということで言えば連帯責任だけど、そういう風には受け取りにくい。
清美が「もう、止めて下さい。私が悪いんです」と言って里子と香奈の口喧嘩を止めるのは、「君は悪くないよ」ってことじゃないとマズいのに、ホントに失敗の原因は清美なのよね。

それと、池澤のパフォーマンスを見て「自分たちも」と考えたのに、どうして「全員で一枚の半紙に一つの書をしたためる」ということになったのかな。
そこは飛躍してないか。
一人ずつ別々の半紙に別々の書を書いて、それを合わせるという考えは浮かばなかったのか。
最初から「全員で1つ」という形を思い付くのなら、「それを見て自分たちでやろうと考えるきっかけになった」という書道パフォーマンスも、「複数の人が一枚の紙に共同で書をしたためる」というモノであるべきなんじゃないの。

高田製作所が火事になるシーンには、唖然としてしまった。
その前に売れ残った紙をドラム缶の火に投げ入れている祖父の様子があるが、そこから、なんで「工場の火事」に繋げてしまうのか。
それで倒産するってのは、不況とは全くの無関係じゃねえか。どうやら、祖父の放火っぽいし。
っていうか、そもそも「不景気による苦境」ということの伝え方も、あまり上手くやれているとは言い難いんだけどね。
町の人々の、心底からの苦しみ、辛さってのが、あまり伝わって来ないんだよね。
不況を示すのに、わざわざアップで何度も閉店の張り紙を見せるのも、かなり不恰好だし。

工場が火事になった後、里子の「燃え上がる炎で、夜空は真っ赤に染まっとった。真っ赤になって怒っとった。諦めてしまった智也くんのおじいさんに。店を閉めてしまった清美のお父さんに」というモノローグが入る。
だけど、放火した智也の祖父はともかく、店を閉めた清美の父が悪いかのようなモノローグは違和感があるぞ。
経営が悪化したから店を閉めて、なんで怒られなきゃいけないんだよ。

清美が広島へ引っ越すシーン、なんで駅に彼女しかいないんだよ。家族はいないのか。少なくとも父親はいるはずだろ。彼女が一人で広島へ引っ越すってのは変だろ。
それと、清美が前半だけで退場するのは、構成として完全に失敗でしょ。
彼女が書道部に書道パフォーマンスを持ち込み、彼女が物語を前進させていたんだよ。しかも、彼女は明るく元気で前向きなキャラだ。
そういうキャラを前半で退場させてしまい、後半に入ると、前半でチョロッと出て来ただけの元部員を代わりに参加させてパフォーマンスって、そりゃ計算能力が低すぎるよ。
後半に美央が参加するのは何となく予想が付いたけど、だったら前半から、もっと彼女の出番を増やしておくべきでしょ。

計算能力と言えば、脇役キャラの使い方も下手。
池澤は、書道パフォーマンスを序盤で見せた後は、存在意義が薄い。
里子の父親も、書を破り捨てた後はほとんど絡んで来ないから、やはり存在価値が薄い。
男子部員の3人は、「香奈が怒る」という、たぶん喜劇として用意されているであろうネタを何度もやるためだけに用意されているようなモノだね。それ以外の存在意義は皆無に等しい。

あと、とにかく詰め込みすぎだよな。
女子部員たちのキャラを立たせたいってのは分かるけど、だからって、それぞれに問題を抱えている設定にしたのは、欲張り過ぎだわ。それを全て捌くのは無理だよ。
そんなことしなくても、全員のキャラを立たせたり、見せ場を与えたりすることは可能でしょ。
それぞれに問題を抱えさせたら、「キャラを立たせる」とか「見せ場を与える」というだけじゃ済まなくなってしまう。問題を解決するためのドラマも描かなきゃいけないわけで。
それをやると、「書道部の物語を青春スポーツ物のパターンで描く」という部分の内容が犠牲になってしまう。そっちの尺を奪われてしまう。
ぶっちゃけ、個人個人のドラマよりも、「チームとして頑張る」という方が重要なはずなのに。

しかも、それぞれの問題を詰め込んでいるだけで、ちゃんと消化できていない。
里子と父親の関係も、美央の母親が半年前から入院しているという家庭の問題も、小春が中学時代にイジメを受けていたという問題も、どれも描写のために使われている尺は短く、ことごとく消化不良のまま終わっている。里子と智也の関係も放り出されたような状態で終わっているし。
その上、後半に入って「池澤が書道家を目指していたが何を書けばいいのか分からなくなった時期があった、つまらない書だと言われた過去があった」と明かされるシーンもあるんだけど、まだ個々のドラマを欲張るのかと、呆れてしまう。
そりゃキャラに厚みを持たせるとか、ドラマを充実させるとか、そういう作業は大切だよ。
でも、欲張り過ぎて全てが薄っぺらくになってしまったら、本末転倒でしょ。

里子たちが書道パフォーマンスをするために市庁を訪れた際、市庁で働く人々が「なんじゃ、あれ」「なんですかね、あれ」と、いかにも言わされていますといった感じのセリフを口にしたり、なぜか全員が窓の外に目をやってパフォーマンスを見物したり、「よろしくお願いします」と里子たちが頭を下げると拍手喝采を送ったりってのは、すげえ陳腐。
で、あっさりと書道パフォーマンス甲子園の開催は決定しており、開催決定までの苦労は何も無い。
そこは「困難に立ち向かう」「ピンチを乗り越える」というドラマとしての山を作るのに適したポイントなのに、あっさりとスルーしちゃうのね。

里子が清美からの手紙を読むシーンで、アンジェラ・アキの『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜』がBGMとして流れる。
で、翌朝に部室で里子が「この曲を書道パフォーマンス甲子園で使いたい」と提案するシーンでも同じ曲を流しているんだけど、それは不恰好でしょ。
だったら、手紙を読んで同封されていたMDを聴くシーンでは曲を流さずに「里子だけに聴こえている」という形にして、部室のシーンで初めて観客に聴かせれば良かったんじゃないの。

チラシやポスターを見たオバサンや学生が「見てみて、書道パフォーマンス甲子園やって」と言ったり、書道部のサイトを見た学生が「書道部のホームページ出来たんやって。パフォーマンス甲子園やって」と口にしたりってのも、すげえ不恰好。
あと、すげえ簡単に、書道パフォーマンス甲子園は話題になって広まってくれるのね。テレビの取材も入ってくれるのね。イベントの前に、それが話題になるようなことがあったわけでもないのに。
実際の書道パフォーマンス甲子園の場合、それ以前に『ズームイン!!SUPER』が書道部を取材していたから、そのイベントも番組で取り上げるという流れがあった。でも、この映画の場合は、そうじゃないわけで。
それなのに、書道パフォーマンス甲子園が大きな話題になるという流れをスムーズに見せるための配慮が見当たらない。

書道パフォーマンス甲子園のシーン、地元びいきが過ぎることに、ちょっとゲンナリしてしまう。
音楽が止まったら清美が歌い出し、観客も合唱するって、なんだ、そりゃ。
大体、なんで全員が『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜』の歌詞とメロディーを知っているんだよ。
あと、なんで里子が転倒してパフォーマンスが中断したら、そのタイミングで音楽まで停止するんだよ。その御都合主義にも萎えるぞ。
まあ優勝させなかっただけ救いがあるけど。
これで優勝していたら、バカバカしさの極みだよ。

(観賞日:2012年7月18日)

 

*ポンコツ映画愛護協会