『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』:2015、日本

エレンは幼少時代、科学者である父のグリシャから注射を打たれそうになった。研究室へ駆け付けた母のカルラが止めに入ると、グリシャは「上の子で実験済みだ。爆発的な細胞分裂の原因を知りたいんだ」と冷徹に告げる。夫を批判したカルラがエレンを抱き上げた直後、ドアがノックされて「開けなさい」という声がした。ソウダはカルラからエレンを託され、身を隠した。そこへ数名の男たちが乗り込み、特定知識保護法違反でグリシャとカルラを連行した。
そんな出来事を夢で見たエレンが目を覚ますと、鎖で体を拘束されていた。クバルの部下たちは彼を取り囲み、銃を構えていた。巨人化したことで反乱分子と捉えるクバルに対し、エレンは「俺は人間です」と訴える。しかしエレンが巨人から出て来た様子を、そこにいる全員が目撃していた。そして巨人に食われた時に失ったはずのエレンの腕は、元に戻っていた。シキシマだけは報告作業のために離脱し、その場に同席していなかった。
クバルがエレンの射殺を命じると、アルミンは「エレンは我々の味方です。人類最後の希望です」と擁護する。クバルが外壁を修復する方法について尋ねると、アルミンは不発弾があることを告げた。沈黙を貫くミカサは、アルミンに「エレンを見捨てるのか」と問われても全く動かなかった。しかしエレンが感情的に訴えると、彼女は剣を構えた。ソウダもエレンを擁護するが、クバルは冷徹に射殺させた。クバルが改めて射殺命令を出した直後、天井が崩れて巨人が出現した。
クバルは瓦礫の下敷きになり、クバルはエレンを捕まえて立ち去った。ハンジがモンゲンの不発弾を回収して外壁の修復へ向かおうと提案すると、ジャンは反対する。しかし他の面々が賛同したため、仕方なく彼もトラックに乗り込んだ。エレンがジュークボックスのある部屋で目を覚ますと、そこにシキシマが現れた。彼はエレンに、自分が巨人から助けたのだと告げる。シキシマは古い実験映像を見せ、巨人は人間が兵器として作り出した存在なのだと説明する。
暴走によって巨人が大量発生し、互いを疑って殺し合いが起きた。巨人になれなかった者たちは壁の中に閉じ篭もり、わずかな支配者と支配される側に別れた。そういう経緯を説明した後、シキシマは「こういう部屋は他に幾つかあるらしい。政府の役人が人々を見張る」と語る。さらに彼は、「2年前、壁が壊れたのは政府にとって好都合だった。人々が巨人への恐怖を忘れ、国家への忠誠が薄れていた。都合が良すぎるよなあ。人々の憎しみが巨人に向けられた」と語る。
「こんなこと、いつまで続く?」とエレンが言うと、シキシマは「政府に本気で壁を修復する気があると思うか。まだ生け贄が必要なんだ。もう二度と壁を越えたいと思わせないために」エレンが怒りを示すと、シキシマは「だったら終わらせよう。君を待っていた。巨人になっても知性を失わない。これは進化だ。君は選ばれたんだ。新しい時代を作るんだ」と語った。彼は「俺たちだけで?」と不安を口にするエレンに、全滅したはずの調査兵団を紹介した。
シキシマは調査兵団が全滅したと思わせただけであり、爆薬も確保していることをエレンに教えた。調査兵団はエレンが見たことの無い武器を所持しており、シキシマは政府が密かに保存していた巨人大戦以前の武器だと説明した。ミカサやアルミンたちは不発弾をトラックに積み込み、外壁へ向かう。そこへ装甲車が現れ、エレンやシキシマたちが姿を見せた。シキシマはアルミンたちに「政府に反旗を翻す」と告げ、不発弾を使って内側の壁を壊そうと呼び掛けた。
「そんなことをしたら巨人たちが中に」とアルミンが驚くと、シキシマは「それが狙いだ。現体制は一気に崩壊するだろう。人類の変革が始まるんだ」と笑う。エレンが「そんな話は聞いていない。普通の人は何もしてない」と反対すると、彼は「長い物に巻かれていた家畜だ。悪しき体制を支えているだけで充分に罪じゃないのか」と問い掛ける。エレンが「もう誰も捨てない。そんなことに爆弾を使わせない」と反発すると、シキシマは「君には僕は倒せない」と告げる。
シキシマは襲い掛かるエレンを何度も殴り付け、「悔しかったら巨人になってみろ」と挑発する。ミカサが止めに入っても、シキシマはエレンを殴り続ける。シキシマがエレンを始末しようとすると、アルミンは不発弾の起爆スイッチを掲げて「動くな」と叫んだ。それは時間稼ぎのための作戦であり、その間にサンナギがワイヤーを使って教会を倒そうとする。気付かれたサンナギは調査兵団の銃撃を浴びるが、最後の力を振り絞って教会を倒壊させた。その間にエレンやアルミンたちはトラックに乗り込み、大爆発が起きる現場から離脱した。するとシキシマは「教えてやる、本当に選ばれし者は誰なのか」と告げ、自らの心臓に剣を突き刺した。驚くエレンたちの前で、彼は巨人に変身した…。

監督は樋口真嗣、原作は諫山創『進撃の巨人』(講談社『別冊少年マガジン』連載中)、脚本は渡辺雄介&町山智浩、製作は市川南&鈴木伸育、共同製作は中村理一郎&原田知明&堀義貴&岩田天植&弓矢政法&高橋誠&松田陽三&宮田謙一&吉川英作&宮本直人&千代勝美、エグゼクティブ・プロデューサーは山内章弘、プロデューサーは佐藤善宏、プロダクション統括は佐藤毅&城戸史朗、ラインプロデューサーは森賢正、特撮監督は尾上克郎、撮影は江原祥二、照明は杉本崇、美術は清水剛、録音 整音は中村淳、録音は田中博信、扮装統括は柘植伊佐夫、スタントコーディネーターは田渕景也、特殊造型プロデューサーは西村喜廣、編集は石田雄介、テクニカルプロデューサーは大屋哲男、VFXスーパーバイザーは佐藤敦紀&ツジノミナミ、音楽は鷺巣詩郎。
主題歌『SOS』SEKAI NO OWARI 作詞:Saori、作曲:Fukase、編曲:SEKAI NO OWARI/Ken Thomas。
出演は三浦春馬、長谷川博己、水原希子、本郷奏多、石原さとみ、ピエール瀧、國村隼、三浦貴大、桜庭ななみ、松尾諭、草g剛、緒川たまき、KREVA、細貝圭、大沢ひかる、青柳尊哉、伊藤裕一、児玉拓郎、佐藤亮太、杉原枝利香、清野菜名、とちおとちる、豊田茂、中村尚輝、中山孟、中泰雅、永澤伶門、鉢嶺杏奈、堀田祥子、山本啓之、NAO、遊木康剛、荒川真、小松雅史、屋敷紘子、橋本まつり、ナガセケイ、暁、芦原健介、井口昇、石川ともみ、石原仁志、碓井英司、大久保了、岡部恭子、おむすび、神田ホイ、小林優太、後藤健、笹野鈴々音、ジャスティス岩倉、仲義代、成瀬労、難波一宏、原勇弥、春木生、町山優士、三島ゆたか、物袋桃子、山下大輔、YOSHI、デモ田中、アレックス・パイエ、沢隆道、多田頼満、デイビッド・ヘニグマン他。


諫山創のデビュー作である人気漫画を基にした2部作の後篇。
前篇が2015年8月1日の封切で、この後篇は同年9月19日に公開された。
エレン役の三浦春馬、シキシマ役の長谷川博己、ミカサ役の水原希子、アルミン役の本郷奏多、ハンジ役の石原さとみ、ソウダ役のピエール瀧、クバル役の國村隼、ジャン役の三浦貴大、サシャ役の桜庭ななみ、サンナギ役の松尾諭など、大半のキャストは前篇からの続投。
他に、グリシャを草g剛、カルラを緒川たまきが演じている。

最初に感じたのは、「わざわざ2部作にする意味があったのか」ってことだ。
2本に分割するのは、普通に考えれば「1本では収まらないほどのボリュームだから」ってことが考えられる。しかし本作品の場合、前篇が98分で後篇が87分。2本に分けるには、1本ずつの時間が短い。
後篇なんて、大作アクション映画としては考えられないほどの上映時間だ。この話が本来持っているスケールの大きさからすると、明らかに短すぎる。
しかも、それぞれ98分と87分に見合うだけの内容なのかというと、そうでもない。なので、ますます「じゃあ1本にまとめれば良くね?」と言いたくなってしまう。
本来は1本で済む話なのに、無理に分割したとしか思えないのだ。

そして、「なぜ無理にでも分割しなければならなかったのか」と考えた時、その答えは簡単に導き出される。
それは「2本の方が稼ぎが増えるから」という答えだ。かなりの製作費を投入しているので、それを回収して黒字を出すためには、2本分の興行収入を必要としたんだろう。
で、それならそれで、分割するのは別に構わない。
問題なのは、「2本分の価値がある内容が用意されていない」ってことなのだ。それぞれの尺を伸ばして、もっとドラマなりアクションなりを増やすべきだったんじゃないのかと。

ただでさえ短い後篇だが、おまけに内容の大半は「台詞による説明」で占められている。
これがミステリー映画なら、前篇を「出題篇」、後篇を「解答篇」として構築するのも分からなくはない。だが、これはミステリーではない。
そもそも前篇の段階で、ミステリーとしてのアプローチなんて無かったし、謎解きに向けての伏線もほとんど張られていなかった。
そんな中で「実はアレはこういうことでして」という説明が次々に訪れても、そこに「謎が解けた」という気持ち良さなど全く無い。ただ唐突だと感じるだけであり、サプライズの効果など発揮されない。

やたらと会話シーンが多いのだが、そこに人間ドラマは附随していない。その大半は、説明のための台詞と、ストーリーには全く影響を及ぼさない情報だ。
前篇でも人間ドラマは皆無に等しかったが、アクションシーンで時間を埋めようという意識は感じられた。しかし今回はアクションシーンが極端に減っており、その代わりに会話劇が増えている。
だが、前述したように、会話劇がドラマとしての魅力を持っているわけではない。
だから、「アクション映画のはずなのにアクションが少ない」というだけの中身になっている。

前篇から感じていたことだが、「はしゃいでいる」としか思えないハンジの言動が寒々しい。
たぶんコメディー・リリーフのような仕事を担当させようとしているんだろうが、見事なぐらい上滑りしている。
そもそも、この映画にコメディー・リリーフが必要だとは思えない。
シリアスなテイストであっても、たまに笑いの要素を入れることが効果的に作用するケースもある。しかし本作品では、少なくともハンジのようなタイプの緩和は全く必要が無い。むしろ、邪魔である。

ほぼ「無駄死に」にしか見えないソウダは死の間際、エレンに「お前の兄さんは」と言い残す。冒頭の回想シーンでグリシャが「上の子」と言っていたが、さらに「エレンに兄がいる」ってことをアピールしているわけだ。
そうなると、もちろん「じゃあ兄はどこにいるのか」という疑問が生じるし、もちろん答えを出す必要も生じる。
ただし、その時点で「今までの登場人物の中に兄がいる」ってのは確定的だと感じるので、「まあシキシマなんだろうね」ってのも容易に予想できる。
ところが、なぜか本作品は、「シキシマがエレンの兄」ってのを明確に示さないまま終わっている。たぶん兄だろうと匂わせる台詞はあるものの、かなりボンヤリしたモノだ。
しかも、それはラスト直前の台詞であり、それを言い終えてシキシマは退場する。そこまでに、彼とエレンの「兄弟関係」を感じさせるドラマがあるわけでもない。
どう考えたって、シキシマがエレンの兄だと判明する手順を用意し、それに伴って兄弟のドラマを膨らませるべきでしょ。そこの作業を手抜き、もしくは放棄するのなら、最初から「エレンの兄は誰でしょう」という謎解きの要素なんて持ち込まなきゃいいのだ。

序盤、エレンが拘束されている時点では、そこに多くの人々が残っている。しかし巨人の襲撃で大半が死亡し、作業チームの主要キャストだけが生き残る。
もちろん「主要キャストが生き残る」ってのは、当然っちゃあ当然だ。
しかし、そいつらは訓練を積んだとは言え、そんなに有能なチームではない。だから前作でも指示を守らず愚かな行動を取り、危機を迎えていた。
なので、戦闘訓練を積んだプロフェッショナルであるクバルの手下たちだけが死亡し、未熟な連中だけが生き残るってのは、「御都合主義にしても見せ方が下手すぎるだろ」と思ってしまう。

前作でヒロインとしての魅力が皆無だったミカサだが、その印象が後篇に入って悪化している。
何がダメって、彼女が何を考えているのかサッパリ分からないのだ。言うまでもないだろうが、そこに「ミステリアスな魅力」など生じない。
アルミンに「エレンを見捨てるのか」と言われても、彼女が黙っていた理由は何なのか。そもそも彼女はシキシマが巨人だと知っていながら一緒に行動していたのだが、それをエレンたちに隠していたのは大きな罪だぞ。
っていうか、シキシマが巨人だと知っていたのなら、エレンが巨人に変身しても敵じゃないことは分かっていたはず。
それなのに彼を擁護しようとせず黙っていたのは、ますますアウトじゃねえか。

巨人にさらわれたエレンが目を覚ますと無機質な白い壁の部屋で、ジュークボックスから曲が流れている。
そこへシャンパンとグラスを持ったシキシマが現れ、キザな態度で「鳥たちはなぜ歌い続けるのか。世界の終わりだというのに」と呟く。
前作でもキザな台詞と芝居で浮きまくっていたシキシマだが、今回もフルスロットルで外しまくる。
ただし、そのシーンに関しては、もはやジュークボックスの部屋が登場した時点で「笑わせるつもりだよね?」と疑いたくなるぐらい浮きまくっている。そこまで構築していたはずの世界観から、かなり遠いモノに感じられる。

巨人に拉致されたエレンが目を覚ますとシキシマがいて「君を助けた。巨人は逃げた」と説明するので、「エレンを拉致した巨人の正体はシキシマ」ってのは多くの人が予想することだろう。既にエレンが巨人化しているため、「人間が巨人になる」っのは分かっているからだ。
そして、その予想は的中する。
しかし、そんな正解なんて、ちっとも嬉しくない。
なぜなら、シキシマが巨人化することで、当然の流れとしてエレンも巨人化し、「巨人と巨人の戦い」になってしまうからだ。
もうさ、それって単なる怪獣映画でしょ。

前篇では無数の巨人が出現し、町を破壊して人々を襲いまくっていた。しかし今回は、ほとんど巨人が登場しない。ミカサたちが車で移動する途中で9体の巨人を目撃するが、かなり遠い場所にいるだけであり、全く襲って来ない。
シキシマの仲間たちが巨人を目撃するシーンもあるが、これまた戦闘には突入しない。それ以外で登場する巨人は、シキシマに瞬殺される「やられ役」としての巨人2体と、エレン&シキシマ&クバルだけ。
それだけでも、前篇よりスケールダウンしていると断言できる。
どう考えたって前篇よりもパワーアップしなきゃダメなのに、逆を行って何の得があるのかと。

こっちとしては、人間と巨人の戦いが盛り上がることを期待しているのに、「シキシマがエレンを取り込んで政府への反乱を目論む」という展開が訪れる。
なので、「進むべき道を間違えている」としか思えない。
実際には「政府への反乱」なんて起きないけど、じゃあ「人間が巨人と戦う」という本筋に戻って来るのかというと、それも無い。
ミカサたちが巨人化したシキシマと戦う様子が申し訳程度に用意されているが、それは「エレンが巨人化する」という展開に向けての軽い助走みたいなモンだ。

エレンが巨大化すると、シキシマとの巨人対決が描かれる。
だけど、「そういうのが見たいわけじゃないんだよ」と言いたくなる。
こっちが望んでいるのは、「弱い存在である人間が、いかにして圧倒的な力を持つ巨人を倒すか」という面白さなのよ。『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』が見たいわけではないのよ。
巨人同士のバトルをメインに据えたら、人間は単なる傍観者になっちゃうでしょ。「勝手に巨人だけで戦っていればいいじゃん」ってことになるでしょ。

さすがに巨人同士のバトルをクライマックスに配置するのはマズいだろうと思ったのか、エレンとシキシマの戦いが終わった後には「人間の姿に戻ったエレンと仲間たちが巨人と戦う」という展開が用意されている。
ただ、そこで登場するのが、「実は生き残っていたクバルが変身した巨人」なので、まるで乗れないわ。
そこに来て急に「ラスボス」としてのポジションに移動されても、そこへ向けての流れが皆無だからね。
そんな奴を倒しても、カタルシスが無い。そもそも、クバルの行動理由がサッパリ分からんし。
ちなみに、その戦いでシキシマはエレンを助けて命を落とすのだが、ついさっきまで戦っていた相手を守ろうとする気持ちの変化は唐突すぎるだろ。

最後の戦いが終わると、ジュークボックスの部屋にいる政府の役人たちが「実験区から2つの個体が脱出したようだ」「予想通りには行かないから面白いんだよ」と会話を交わすシーンが描かれて映画は終わっている。
そのラストシーンは、ひょっとすると「メタ構造の面白さ」を狙ったのかもしれない。
だが、そこまでに感じていたガッカリ感を助長するだけだ。
よりによって、なぜ最後の最後に来て物語と世界観を一気にスケールダウンしてしまうのか。

その終わり方で、「ヒットしたら続編」というトコロへの期待感が湧くわけでもない。また、余韻を持たせるとか、そういう魅力にも全く繋がっていない。
「実は管理された世界での出来事でした」ってのは良くあるネタだから、新鮮味があるわけでもない。しかも、そういうオチを用意することで、「まだ何も解決しちゃいない」という終わり方になってしまう。
っていうか、それが無くても、クバルを倒しただけであり、巨人を利用した政府の連中は生き残っているわけで。
その体制を変えない限り、何も解決しちゃいないのよ。エレンとミカサが壁に登って海を見たところで、「だから何なのか」って話なのよ。

(観賞日:2017年2月23日)


2015年度 HIHOはくさいアワード:第4位

 

*ポンコツ映画愛護協会