『新解釈・三國志』:2020、日本

歴史学者の蘇我宗光は、最近の研究から得られた「知られざる『三國志』」についてカメラに向かって講義を始めた。後に蜀の初代皇帝となる劉備は皇族の末裔と称し、漢王朝の復興と民の救済を目指した英雄として知られている。しかし蘇我の学説によると、全く違う人物像が浮かび上がって来た。劉備は関羽と張飛から義勇軍に入るよう促され、激しく嫌がった。3人で誓い合ったことを聞かされると、劉備は「言ってねえよ」と否定した。熱弁に打たれて義兄弟の契りを交わす覚悟をしたのだと言われると、彼は「言ったとしたら酒の勢いだ」と逃げようとした。
劉備は「戦とか嫌いなんだから」と渋るが、彼を慕う民は多かった。劉備の大義に賛同した面々は義勇軍として集まり、黄巾党との初陣に挑んだ。劉備は何もしなかったが、関羽と張飛が強いので勝ち進んだ。同じ頃、董卓は子供の帝を盾にして、やりたい放題を繰り返すようになった。董卓には呂布という巨人のボディーガードがおり、20万の軍勢で虎牢関に陣取った。曹操や夏侯惇など董卓に反対する連合軍が集結するが、劉備は姿を見せなかった。彼はバレバレの仮病を使い、関羽や張飛たちだけを差し向けた。
虎牢関から赤兎馬に乗って呂布が現れると、関羽と張飛が戦いを挑んだ。董卓軍は連合軍の兵力に押され、洛陽へ退却した。金銀を奪って洛陽を焼き払った董卓軍は、長安へ逃げた。しかし連合軍は一致団結できず、解散に至った。劉備は絶世の美女を送り込み、董卓と呂布を誘惑させる作戦を思い付く。すると劉備軍で最もイケメンの趙雲が、仕事を引き受けた。彼は絶世の美女として、舞の得意な貂蝉を連れて来た。貂蝉が美女とは思えない劉備は困惑するが、関羽と張飛が「時代考証的には美女」と説明した。
劉備は詫びを入れる名目で、董卓の元を訪れた。貂蝉を見た董卓と呂布は、たちまち心を奪われた。貂蝉は董卓と呂布にそれぞれ「貴方が大好き」と告げて誘惑し、「呂布が悪口を言っている」「董卓が悪口を言っている」と吹き込む。憤慨した呂布は、董卓を殺害した。貂蝉は呂布に当時の感覚で醜いと評される本当の姿を晒し、全て作戦だったことを明かして嘲笑した。呂布は腹を立て、彼女を斬った。董卓の死によって群雄割拠の時代が訪れる中、魏の曹操が北の方を次々と手に入れ、呉の孫権は南での強さを見せた。
うだつの上がらない状況が続いた劉備は、楽をするために良い軍師を雇おうと考えた。彼は関羽と張飛を伴い、田舎にある孔明の家へ行く。劉備が庭掃除をしていた男に孔明のことを尋ねると、昼寝中だと言われる。劉備は起こすよう要求するが、関羽は試しているのだと言い、紳士的に立ち去るべきだと促す。劉備は「どんだけ歩いて来たと思ってるんだ」と声を荒らげるが、関羽は器の大きさを見せるよう諭す。劉備が「起きるまで待つ」と言うと、関羽は「たぶん寝てない。昼寝と言って試してる」と述べた。
家の中から孔明が出て来て、本当に寝ていたことを明かした。劉備が軍師の仕事をオファーしようとすると、孔明は積極的に売り込んだ。妻である黄夫人の怒鳴り付ける声が響いて来ると、孔明は家でダラダラせずに働くよう要求して苛立っているのだと語った。その頃、曹操は北部を支配して最大勢力になっており、帝に取り入って漢の丞相となっていた。帝が幼い子供であるため、曹操は政治の面でも軍事の面でも実質的な権力を握っていた。
曹操が大勢の女性をはべらせて遊び呆けていると、夏侯惇と軍師の荀ケが説教した。荀ケは劉備が孔明を引き入れたことを知らせ、孫権と同盟を組まれたら面倒なことになると懸念を示す。彼は曹操に、劉備と孫権を逆賊として討つ命を帝から貰うよう進言した。劉備は長坂坡の戦いで曹操軍の攻撃を受け、民を連れて逃亡する。糜夫人が逃げ遅れると、趙雲が1人で引き返して敵と戦った。彼は糜夫人から赤ん坊を預かるが、その素性を敵に宣伝してしまう。そのせいで敵に包囲され、呆れた糜夫人は井戸に身を投げて自害した。
劉備は南へ退却し、孔明は孫権と同盟を組むよう勧める。孫権は馬鹿だと彼が教えると、趙雲は家臣の周瑜だけが厄介だと告げた。孔明は孫権の元へ行き、弱いので曹操に降伏すべきだが劉備軍は降伏しないと告げる。そこへ周瑜が現れ、勝てる策はあるのかと尋ねる。孔明は「ある」と即答するが、具体的な策を問われると「今から考える」と言う。周瑜は孫権に、こんな男は信用できないと告げる。孔明は曹操と和解する方法が1つだけあると言い、彼がご執心の小喬を差し出せば良いのだと告げる。小喬は周瑜の妻であり、腹を立てた彼は曹操と戦うことを宣言した。
曹操は劉備と孫権の同盟軍を倒すため、大船団を率いて長江を下った。赤壁から大船団を見た劉備は、大敗を喫すると確信した。周瑜は家臣の黄蓋から、小喬の件は孔明が作った嘘だと聞かされる。怒った周瑜に抗議された孔明は、事実である証拠として偽造した木簡を渡す。簡単に信じ込んだ周瑜は、また黄蓋から孔明の嘘だと聞かされる。また周瑜が抗議に行くと、今度は劉備と孔明が「曹操は孫権を侮辱している」と吹き込まれる。また信じ込む周瑜に、黄蓋は嘘だと教える。黄蓋に助言された周瑜は、孔明に10万本の矢を用意するよう要求する。孔明が「3日で用意する」と安請け合いすると、周瑜は必要な道具は何も無いと通告する…。

脚本・監督は福田雄一、製作は沢桂一&市川南&荒木宏幸&菊川雄士&藤本鈴子&森田圭&弓矢政法&松橋真三&伊藤亜由美&田中祐介、エグゼクティブプロデューサーは伊藤響、プロデューサーは北島直明&松橋真三、撮影監督は工藤哲也、アクション監督は田渕景也、撮影は鈴木靖之、美術は高橋努、照明は藤田貴路、録音は柿澤潔、編集は臼杵恵理、衣装デザインは澤田石和寛、音楽は瀬川英史、主題歌『革命』は福山雅治。
出演は大泉洋、小栗旬、西田敏行、賀来賢人、橋本環奈、山本美月、岡田健史、ムロツヨシ、山田孝之、城田優、佐藤二朗、橋本さとし、高橋努、岩田剛典、渡辺直美、磯村勇斗、矢本悠馬、阿部進之介、半海一晃、広瀬すず、一ノ瀬ワタル、上地春奈、清水くるみ、平埜生成、コーシロー、新井郁、後藤ユウミ、荒木秀行、大迫一平、佐古井隆之、中村元気、鎌倉太郎、森咲智美、青山夕夏、大平有沙、四家千晴、鈴木薫、高橋朋伽、田澤葉、田中麻鈴、原田ゆか、宮坂灯里、宗田淑、森麻里百、林原新、徳島えりか(日本テレビアナウンサー)ら。


『50回目のファーストキス』『ヲタクに恋は難しい』の福田雄一が脚本&監督を務めた作品。
中国の古典小説『三国志演義』をモチーフにしている。
劉備を大泉洋、曹操を小栗旬、蘇我を西田敏行、周瑜を賀来賢人、黄夫人を橋本環奈、小喬を山本美月、孫権を岡田健史、孔明をムロツヨシ、黄巾の人を山田孝之、呂布を城田優、董卓を佐藤二朗、関羽を橋本さとし、張飛を高橋努、趙雲を岩田剛典、貂蝉を渡辺直美&広瀬すず、荀ケを磯村勇斗、黄蓋を矢本悠馬、夏侯惇を阿部進之介、魯粛を半海一晃が演じている。

タイトルに「新解釈」と付いているが、実際は新解釈でも何でもない。最初から最後まで、ただ『三國志』をネタにしたコントを連ねているだけだ。。
もちろん、キッチリと文献や資料を調べて、「こういう解釈もあるのではないか」と深く掘り下げるような作業は皆無である。。
しかも、1つの大きなストーリーを紡いでいるわけではない。有名なエピソードを抽出し、それを順番に並べているだけなのだ。
だから前述したように、『三國志』をネタにしたコントを連ねているってことだ。

最初に描かれる劉備、張飛、関羽のやり取りからして、喜劇映画としての会話劇ではない。歴史を題材にしたバラエティー番組のコントみたいなモンだ。
そもそも福田監督は「喜劇映画」じゃなくて、「TVのコント番組」しか作れない人だからね。
しかもコントの中でも、ザ・ドリフターズのようにガッチリと作り込んだ物ではなく、その場のアドリブありきで笑いを作ろうとするタイプのコントね。
なので、ますます喜劇映画からは程遠くなっている。

蘇我が語り部として登場するパートは、全く要らない。完全に西田敏行の無駄遣い。まあ、それを言い出したら、佐藤二朗とムロツヨシを除く面々は全て無駄遣いかもしれないけどね。
それはともかく、蘇我が講義する設定を排除し、いきなり『三國志』の中身に入っても全く支障はない。
あと、蘇我が語りを担当するのに、それとは別にナレーションも入るんだよね。だったら、そこは後者のナレーションだけで充分じゃないのか。
っていうか、どっちのナレーションも、笑いに利用できそうなのに、全く使っていないのよね。そこは史実に伴う内容を語らせ、映像で「それとは全く違う『三國志』」を描いてギャップで笑いを取りに行った方が喜劇映画っぽさは出るでしょ。

劉備は登場シーンから往生際の悪さや無責任ぶりを見せ付けるが、蘇我が「なぜか彼を慕う民は多く」と解説する。
でも、ずっと無責任で逃げ腰の劉備に、なぜ多くの民が強い忠誠心を持って付き従うのか、その理由は全く語られない。
そこは「コメディー映画だから理由は無くてもいいでしょ」という問題ではない。コメディーだろうが何だろうが、そこは「無責任で逃げてばかりだけど、そういうトコで多くの人々に慕われる」という描写が絶対に必要だ。
それを描かないのは、ただの手抜きである。

劉備だけでなく、孔明にも同じことが言える。登場シーンで感じるのは、「ただの軽薄なお調子者」という印象だ。
これだと、なぜ劉備が彼を軍師として雇うことにしたのか、その理由が全く分からない。
孔明が軽いノリなのも、自分から積極的に売り込むのも、恐妻家なのも、「歴史コメディーとしての質が云々」とう問題をひとまず置いておくとすれば、それは別に構わない。でも、「優れた能力の持ち主」と感じさせるような何かは絶対に見せなきゃダメだろ。
この映画って、そういう「最低限は必要」と思われるようなポイントを、見事なほどに無視しているんだよね。

呂布について蘇我は「巨人のボディーガード」と解説し、いざ呂布が登場すると「呂布も赤兎馬も大きい」と台詞で説明する。
だけど実際のところ、関羽や張飛とサイズは変わらないのよ。もちろん馬の大きさも同じだ。
そこはギャグとしての描写でもいいから、呂布と赤兎馬の大きさを誇張して見せるべきじゃないのかよ。
あるいは逆に、「呂布は巨人として有名だったが、実際に搭乗したら小柄」というギャグにしちゃってもいいだろうし。

台詞回しは歴史劇としてのモノではなく、いつもの福田雄一作品と変わらない。だから歴史劇であるにも関わらず、「イケメン」「ガチ」「バチコーン」といった言葉が次々に出て来る。
これが「重厚な歴史劇としての言い回しの中に現代的な言葉が混じる」という趣向なら、ギャグとしての効果が生まれた可能性はある。
しかし前述したように、いつも通りの福田雄一作品の会話劇だ。
それは「歴史劇の枠で喜劇をやる」という仕掛けにおいて、ただ手を抜いているだけだ。

渡辺直美の扱いには、ちょっと呆れ果てた。東京五輪で批判の対象になった出来事と似たようなアプローチを、堂々とやっているのである。個人的に何を言っても自由だが、全国公開される映画で、そういうことを平気でやっているのだ。
しかも、わざわざ「その正体は」ってことで広瀬すずを登場させ、「そんなに醜い姿だったのか」と呂布に言わせ、広瀬すずは彼に殺害されて「次は私が美人と呼ばれるような時代に生まれ変わりたい」と口にするのだ。
そこにルッキズムへの皮肉でも感じ取れればともかく、そんなのは全く見えない。
ただ2020年という時代にルッキズムをネタにすることへの鈍感さを覚えるだけだ。

登場人物を軽薄な奴として描いたり、バカな奴として描いたりしているだけで、そういうのを「新解釈」とは言わない。もはや、歴史劇のパロディーとさえ呼べないのではないか。
大半の時間を会話のやり取りだけで構成しており、しかも「会話劇で物語を進行させている」とさえ言い難い。
なぜなら、会話シーンは基本的に「ダラダラとユルい内容を喋っている」という状態であり、物語を進行させる目的は薄いからだ。
そして会話シーン以外の部分におけるパロディーとしての作業は、ほとんど見当たらない。

ネタに出来そうな箇所は幾らでもあるが、ことごとく取りこぼしていく。
前述した渡辺直美のパートにしても、パロディーと言うよりも個人のパフォーマンスを見せているだけだ。
出演者のお喋りで笑いを取ることばかり考えており、ちゃんとした喜劇を作ろうとする感覚は決定的に欠如しているのよね。
そして、それはアドリブありきのユルユルなコントなので、せいぜい30分ぐらいが限界だ。長編映画の上映時間だと、途中でダルくなる。

ずっとユルユルの雰囲気で進めていたのに、関羽&張飛が呂布と戦うシーンだけは、マジなトーンでアクションを描いている。
だけど、そこもギャグにしちゃえばいいでしょうに。そんなトコだけ「緊迫感のある激しい戦闘」としてマジに描いても、何の見せ場にもならないぞ。緩急を付ける効果も無いし。
赤壁の戦いでも、一応はクライマックスの戦闘シーンとして盛り上げようとする意識が感じられる。
でも、あまりにもドイヒーな作品の中では、焼け石に水でしかない。

(観賞日:2022年7月29日)


2020年度 HIHOはくさいアワード:第7位

 

*ポンコツ映画愛護協会