『四十七人の刺客』:1994、日本

1701年3月14日、播州赤穂藩城主・浅野内匠頭が江戸城柳の間において、勅使響応役高家・吉良上野介に対して刃傷に及ぶという事件が起きた。内匠頭はその日の内に切腹させられ、赤穂藩は取り潰しが決まった。吉良は御咎め無しという裁断が下った。
詳しい事情さえ知らされない赤穂藩の藩士達は騒然となった。そんな中、大石内蔵助だけは落ち着き払っていた。彼は今回の一方的な処置の裏に、吉良の実子が藩主である上杉家の家名を守ろうとする、柳沢吉保と色部又四郎の暗躍があることに気付いていた。
大石は自分と行動を共にする仲間を集めた。彼の目的は吉良を討ち、上杉の武名を地に落として柳沢と色部の面目を潰すこと。塩相場を操作して資金を得た大石は、江戸市中に大量の金を撒き、吉良の悪評を流す。これにより、民衆の間には吉良に対する反感が高まった。
大石の動きに対し、色部は吉良の屋敷に迷路や落とし穴などを用意し、討入りに備えた要塞を作り出す。やがて悪評に耐え続けていた吉良が隠居することになり、別れの茶会が開かれることになった。それは12月14日。赤穂浪士47人は、深夜に吉良邸へと突入する…。

監督は市川崑、原作は池宮影一郎、脚本は池上金男&竹山洋&市川崑、製作指揮は堀内賢三&漆戸靖治&永井紀芳、製作は高井英幸&萩原敏雄&稲見宗孝、エクゼクティブ・プロデューサーは橋本利明&高橋博&酒井俊博、プロデューサーは鍋島壽夫&進藤淳一&島谷能成、企画は鍋島壽夫&後藤槙子、撮影は五十畑幸男、編集は長田千鶴子、録音は斉藤禎一、照明は下村一夫、美術は村木与四郎、衣裳は二宮義夫&乾保直&斎藤育子、作法指導・殺陣は美山晋八、殺陣協力は宇仁貫三、音楽は谷川賢作、音楽プロデューサーは岩瀬政雄。
主演は、高倉健、共演は中井貴一、森繁久弥、石坂浩二、岩城滉一、宇崎竜童、井川比佐志、山本學、松村達雄、神山繁、中村敦夫、浅丘ルリ子、黒木瞳、清水美砂、宮沢りえ、古手川祐子、西村晃、橋爪淳、今井雅之、石橋蓮司、石倉三郎、小林稔侍、小林昭二、尾藤イサオ、尾上丑之助、板東英二、横山道代、佐藤B作ら。


美談として語り継がれてきた“忠臣蔵”。
その忠臣蔵を情報戦という視点から描いた池宮影一郎の同名小説を映画化した。
池宮影一郎は、『十三人の刺客』の脚本を書いた池上金男と同一人物である。
映画誕生100年記念作品ということで、出演者には豪華なメンバーが揃っている。
しかし、駄作である。

退屈の上に退屈を重ねて、そこに退屈をベッタリと塗りたくって退屈を被せ、退屈で包んで退屈で縛り、退屈に入れて完成したような作品。
しかし、考えてみれば、忠臣蔵という題材を使いながら、ここまで退屈な作品が作れるというのは、一種の才能と言えるのかもしれない。

策謀を巡らす戦略家として大石内蔵助を描いているのだが、何しろ演じているのが、高倉“不器用ですから”健さんなので、とてもそんな風には見えない。
妻がいるのに若い愛人を作るのも、不自然に見えてしまう。
何しろ健さんは不器用な人だから、策略を練ったりしないだろうと思ってしまう。

高倉健と浅丘ルリ子、高倉健と岩城滉一、高倉健と宮沢りえが絡むシーンは、まるで素人芝居でも見ているかのようなギクシャク感が漂っている。
気合いの入った中井貴一や石橋蓮司の芝居が空転しているが、彼らの芝居が自然に見えるような作風にした方が、ずっと面白くなっただろう。

宮沢りえが、大石の愛人おかるを演じている。
だが、そのキャラクターを登場させた意味が分からない。
明らかに浮いているし、どう考えても不必要なキャラクターだろう。「宮沢りえが出演している」ということを、セールスポイントにしたいがための存在にしか思えない。

とにかく、映画の中でどんなことが起きていようとも、どんなに感情が高ぶるべきだと思える場面でも、作品は決して盛り上がろうとはしない。
最初から最後まで、淡々としたタッチで描き切る。
情熱のカケラも無いのかと思わせるほどの、冷め切った演出である。

そんなわけだから、登場人物の怒りも悲しみは、観客の心まで届かない。
興奮も緊張も、観客の心まで届かない。
登場人物の発する感情表現は、スクリーンの中で止まってしまう。
いや、大半の登場人物は、感情が体の中から出てくることさえ無いように感じられる。

着々と準備が進められていく流れは、ほとんど見えてこない。緊張感に満ちた知能戦が繰り広げられても良さそうなものだが、その辺りは適当に処理してしまう。
討入りのシーンさえ、様式美の世界で描かれている。
迫力のある殺陣は無く、全く盛り上がらない。

派手に飾り立てろとか、けれん味に溢れた演出をしろとか言うつもりは無い。
しかし、静かな中にも、クライマックスの討入りに向けて次第に盛り上がっていくような流れがあるべきではないのか。そんなことを、強く思ってしまうのだ。
しかし、そんな気持ちを、冷静なナレーションによる説明が打ち砕いていく。

そもそも、忠臣蔵を市川崑監督に撮らせることが間違いなのだ。
何しろ市川崑という人は、登場人物を血の通った生き物としてではなく、まるで無機質な物体であるかのように扱うのが大好きな監督なのだ。
そんな人に、熱い人間ドラマが繰り広げられるべき作品を監督させてどうするのか。

ところで、映画の出来映えには関係の無いことかもしれないが、この作品では内匠頭の切腹や赤穂藩の取り潰しは、柳沢吉保と色部又四郎の策略となっている。
ということは、吉良を殺すというのは、完全に御門違いになるのではないだろうか。
問答無用で殺される吉良が、かわいそうになってしまった。
そして全くカタルシスが無いまま、映画は終了する。

 

*ポンコツ映画愛護協会