『シェンムー・ザ・ムービー』:2001、日本

1986年、横須賀。高校生の芭月涼は、同級生である原崎望が不良の榎と長島に絡まれている現場を通り掛かった。涼は榎たちを撃退し、望に「あいつらとは関わるな」と忠告した。涼が自宅に戻ると、お手伝いの早田稲が庭で倒れていた。涼が慌てて駆け寄ると、「私は大丈夫です。それより旦那様が」と彼女は告げた。涼が屋敷に入ろうとすると、父の弟子である福原正幸が何者かに吹き飛ばされた。屋敷に足を踏み入れた涼は、芭月流柔術の達人である父の巌が藍帝と名乗る男と対峙しているのを目撃した。 藍帝の「鏡はどこだ」という質問に、巌は「答える気は無い」と告げた。すると藍帝は巌を殴り倒し、父を助けようとした涼も道場の床に叩き付けられた。藍帝が涼を人質に取ったため、巌は仕方なく「鏡は桜の木の下に埋めてある」と教えた。すると藍帝は「趙孫明を覚えているな?お前が殺した男の名だ」と言い、巌を武術で吹き飛ばした。龍鏡を手に入れた藍帝は、その場を後にした。瀕死の巌は「愛する人を持て」と涼に言い残し、息を引き取った。 復讐を誓った涼は、藍帝と手下たちを捜し始めた。彼は劉公恵という老人と会い、チャイニーズ・マフィアの連中だろうと言われる。彼は涼に、船員に聞けば何か分かるだろうと告げた。涼はバーテンダーの西条輝彦と会い、船員が集まるバーを教えてもらう。店に赴いた彼は、喧嘩を吹っ掛けて来た船員のジョーンズたちを叩きのめした。バーテンダーの波戸良文は、チャーリーという男を捜せと涼に告げた。しかしチャーリーと会っても、何も聞き出すことは出来なかった。 涼は稲から、父の死後に届いた中国語の手紙を渡される。彼は知り合いの中国人たちに手紙を読んで貰おうとするが、文字が変で読めないと言われてしまう。彼は陶器屋ロシヤの女店主である夏秀玉を紹介してもらい、手紙を読んでほしいと頼む。すると彼女は特殊な裏文字が使われていることを説明し、朱元達という男が「鏡を狙う者あり、緊急の時は陳大人に助けを求められよ」と書いていることを教えた。手紙に書かれていた電話番号に掛けた涼は、その場所が埠頭の第八倉庫だと知った。 深夜の倉庫に忍び込んだ彼は、「陳大人」と呼ばれる華僑の実力者、陳躍文と出会った。手紙を読んだ躍文は、朱元達と巌が中国から鏡を持ち出したことを話す。そして彼は、鳳凰鏡という鏡を探し出すよう指示した。涼は稲から、父が何か大事そうな物を骨董屋に預けていたと聞かされる。骨董品店「文化堂」の大石敬三と会った涼は、「先生に頼まれていた物があるんです。磨き上げてくれたと頼まれていた物です」と刀の鍔を渡された。 涼が道場の壁にある掛け軸を外すと、壁には鍔の形をした穴があった。鍔を穴に合わせ、刀を別の穴に差し込むと、隠し扉が開いた。地下通路に入った彼は、隠されていた鳳凰鏡を発見した。涼は秀玉に鳳凰鏡を見せて、何か知らないかと尋ねた。星にまつわる伝説を聞いた後、涼は公園で山岸と遭遇した。山岸は巌と古武術を学んでいたことを話し、自分が会得した技を教えた。躍文と再会した涼は、藍帝が二枚の鏡を使って何かをやろうとしているのだと聞かされた。
倉庫に侵入したチャイという男が鳳凰鏡を奪おうとするが、涼が撃退した。躍文の息子である貴章は、自分たちと対立関係にあるマッドエンジェルスの男かもしれないと涼に告げる。藍帝が最高幹部を務める裏組織の蚩尤門は、マッドエンジェルスと繋がっているのだと彼は語った。もう藍帝は香港へ渡ったはずだと言われた涼は、捜索に向かおうと考える。「お前では勝てないぞ」と貴章は言い、躍文も「命を粗末にするものではない」と協力を断った。
謎の少女が「急いで」と告げる夢を見た涼はアジア旅行社を訪れ、最も安いプランで香港へ渡ろうとする。しかし最低でも15万以上はするため、貯金の少ない涼は困り果ててしまう。そこで彼は、港で荷物をコンテナを運ぶバイトで金を稼ぐことにした。マッドエンジェルスの連中から金を出すよう脅された彼は、軽く蹴散らした。後日、貴章は涼を呼び出し、技を教えた。執拗に襲って来るマッドエンジェルスを叩きのめした涼は、テリーという男がボスだと聞き出した。涼は望を人質に取られ、17番倉庫に呼び出される…。

脚本&監督は鈴木裕、チーフ・スーパーバイザーは掛須秀一、プロデューサーは植田繁&小林広司、プロデュースはサイモン・ツェー、脚本スーパーバイザーは田代廣孝、マツモトヨシキ、主題歌は山本由美子。
声の出演は松風雅也、石垣はづき、藤岡弘、、安めぐみ、櫻井孝宏、好村俊子、八戸優、並木伸一、酒井哲也、二又一成、石川ひろあき、江川央生、笹原大、定岡小百合、熊谷正行、福島おりね、つかもとたくや、夏樹リオ、山本尚弘、茂木優ら。


セガ(後のセガゲームス)がドリームキャスト用のゲームソフトとして発表したコンピュータゲーム『シェンムー 一章 横須賀』の映像を編集した映画。
ゲームの総監督である鈴木裕が脚本と監督を担当している。
日本語版ではゲームと同様、涼の声を松風雅也、莎花を石垣はづき、巌を藤岡弘、、望を安めぐみ、藍帝を櫻井孝宏、稲を好村俊子、福原を八戸優、躍文を並木伸一、貴章を酒井哲也が担当している。
英語版では涼をコーリー・マーシャル、莎花をデボラ・ラバイ、巌をロバート・ジェファーソンが担当している。

鈴木裕という人は、『シェンムー 一章 横須賀』の結果に関してはひとまず置いておくとして、その前にアーケードで『アウトラン』や『バーチャファイター』といった大ヒット作も手掛けており、ゲームのプロデューサーとしては充分すぎるほどの実績を持っていた。
だが、それはあくまでも「ゲームの世界」での実績であり、映画に関しては素人だった。
もちろん、実績が無いから面白い映画を作れないとは限らない。
しかし、これに関しては、そもそも志がクソみたいに低いので、成功するはずがない。これが本気でヒットすると鈴木裕が思っていたのなら、その感覚は相当にヤバい。

この映画が凄いのは、決して「コンピュータゲームを基にしたCGアニメーション映画」ではないってことだ。前述したように、ゲームの映像をそのまま使っているのだ。
つまりゲームのために作られた映像から幾つかをチョイスして、それを再構成して90分の映画に仕立て上げているってことだ。
もちろんセリフも新しく録音したわけではなく、ゲームで使われているモノを流用している。
つまり、本作品のために新たに製作されたモノは、皆無に等しいってことだ。

TVアニメーションを再構成した映画ってのは何本も作られているが、コンピュータゲームを再構成した映画ってのは珍しい。
それを何かのイベントで流すとか、特典映像として付けるということではないのだ。
普通に「一般映画館で劇場公開される映画」として製作しているんだから、それは凄いと言っていいんじゃないか。
もちろん、ここでの「凄い」ってのは褒め言葉じゃなくて、「そんなことを平気でやれる恥知らずな感覚が凄い」という意味である。

この映画(ホントは「映画」と呼ぶべきではないシロモノだが、むしろ皮肉を込めて「映画」と呼びたい気分だ)が初めて公開されたのは、2001年の9月8日だ。ゲームの第2作となる『シェンムーII』が2001年9月の発売なので、それを売るためのプロモーションという意味もあったのかもしれない。
しかし、こんな出来栄えの映画が購買意欲を喚起するはずもない。
それが影響したのかどうかは知らないが、『シェンムーII』は15万本程度しか売れなかった。
1作目も公式発表では70億円という莫大な開発費を投入しながら国内で60万本程度しか売れなかったわけで、そもそもプロジェクトとして失敗しているんだよね。
ひょっとすると、それを2作目で挽回しようということで映画を作ったのかもしれないけど、ただ失敗を重ねただけに終わっている。

TVアニメーションを再構成した映画なら、その質が高いかどうかは置いておくとして、少なくとも映像面では「TVアニメーションとしての質」を保っている。
しかし本作品の場合、その映像はコンピュータゲームで使われた物だ。
コンピュータゲームの映像を評価する際、「まるで映画みたい」という表現が良く使われる。しかし、実際に映画と比較すると、そこは大きな差がある。
あくまでもゲームは「映画みたい」という褒め言葉で表現されるレベルに過ぎず、本物の映画には遠く及ばないのだ。

っていうか本作品の場合、そもそもゲームの映像としても、「まるで映画みたい」という褒め言葉が出ない程度のモノに過ぎない。
発売された当時、モーションキャプチャーやポリゴンを使ってリアルな作品世界を構築したことが高く評価されたことは確かだ。しかし、発売された1999年にはピクサーの長編CGアニメーション映画『トイ・ストーリー2』が公開されていたわけで。
「そこと比べるのは酷だ」と思うかもしれないけど、「CG映画」としてのレベルは、そこまで到達していたのだ。
そういう状況の中で、こんなモノを見せられても、そりゃあ話にならんでしょ。

映像面だけを酷評したが、もちろんストーリーやドラマの方も酷い。
何しろゲームの内容をそのまんまなぞっているんだから、それも当然と言えるだろう。
そもそもコンピュータゲームってのは、ストーリーやドラマの厚みや面白味を最重視しているわけではない。
何よりもゲームとしての面白さが重要であり、そして『シェンムー』の場合は自由度の高さがセールスポイントだった。
つまり、プレイヤーは物語を先に進めるだけでなく、主人公を自由に動かし、キャラクターの生活に触れることも楽しみの一つとされていたわけだ。

そんなゲームの内容をそのまんま再構成したんだから、そりゃあ普通に「映画」として物語の充実度を求めたら、まるでダメなのは当然だろう。
しかも『シェンムー 一章 横須賀』ってのは、そもそも入門編として予定されていた内容を膨らませて1本にしている。
それもあって、購入者からは「内容が薄い」という意見が続出したのだ。
そもそもゲームとしてもボリュームが薄かったのに、それを映画として再構成したんだから、どうしようもないでしょ。

内容が薄い上に、ゲームの映像を使っているもんだから、「ゲーム攻略用の参考映像」みたいな状態に仕上がっている。
特に困りものと言えるのが、アクションシーンの多さ。
ゲームの方は「バトルモード」ってのがあって、もちろんゲームをプレーする上ではボタンを連打して敵を倒す爽快感が体感できるかもしれない。しかし映画の場合、こっちはコントローラーを操作することも出来ないわけで。
映画用に作られたCGキャラクターのアクションならともかく、ゲームのキャラが戦う様子を見せられても、ただのデモ画面でしかないでしょ。
それが何度も繰り返されるんだから、「退屈を感じてくれ」と言っているのと同じようなモンだぞ。

この映画がどれだけ酷い出来栄えかってのは、たぶん始まってから5分も見ない内に、誰でも理解できるはずだ。
「1986年、横須賀」の表示が出て、横須賀の街が画面に写し出された瞬間に、映像の質がいかに低いのかは分かる。そして、「どう考えたって、これは映画じゃないだろ」と言いたくなる。
そして安めぐみの棒読み台詞があり、カッコ良さのかけらも無い涼の格闘シーンがある。
最初にアクションを見せて観客を引き付けるってのは、普通のアクション映画なら間違っちゃいない構成だ。
しかし本作品の場合、それはアクションシーンじゃなくて「バトルモードのデモ映像」でしかないわけで、何の迫力も面白味も無いのだ。

涼が望に「あいつらとは関わるな」と告げるとカットが切り替わり、いきなり雪景色になるというデタラメな編集がある。
登場人物の大半は、その場限りで出番を終えてしまう。涼がバーでビリヤード対決を持ち掛けられるとか、次のバーで喧嘩をするとか、そういうシーンは全く必要性が無い。チャーリーと会っても全く情報を聞き出さないままカットが切り替わり、急に望が出て来て流れを無視した会話シーンが挿入される。
その後も同じような感じで、涼が躍文と会って鳳凰鏡を見つけるよう指示された直後、唐突に望の告白シーンが入ったりする。
単に映像や物語が酷いというだけでなく、編集も見事なツギハギ状態なのである。

しかし、シーンとシーンの繋がりがスムーズになっておらず、まるで必要性の無いシーンが多くて散らかりまくり、全編に渡って「ほぼパッチワーク状態」になるのは当たり前だ。
なぜなら、ゲームを再構成しているからだ。
ゲームはストーリーをスムーズに進行させることが目的ではないので、それを「一本道のストーリー」として構成しようとすれば、そんな仕上がりになるのも当然だわな。
もしも無駄なシーンをカットして構成したら、たぶん15分もあれば終わってしまうのよ。だから、余計なシーンも入れざるを得なくなっているわけだ。
ようするに、最初から無茶な企画だっってことなのよ。

(観賞日:2015年11月13日)

 

*ポンコツ映画愛護協会