『写楽 Sharaku』:1995、日本

寛政3年、江戸。とんぼ切りが得意な1人の稲荷町役者(最下級の歌舞伎役者)がいた。彼は舞台で市川團十郎の梯子を支えていた時、その梯子に足を潰された。役者生命を絶たれた彼は大道芸人・おかんに誘われ、大道芸の道に足を踏み入れた。「とんぼ」という名で呼ばれるようになった彼は、歌舞伎小屋の書割りを描く手伝いも始めた。
版元の耕書堂を営む蔦屋重三郎は、洒落本作家の山東京伝や人気浮世絵師の喜多川歌麿を抱え、店を繁盛させていた。だが、老中・松平定信が、風紀の乱れを厳しく取り締まるよう役人に命じ、蔦屋も目を付けられる。京伝の描いた洒落本が御禁令に触れたため、蔦屋は京伝と共に手鎖50日の刑に処された。
定信の締め付けにより、歌舞伎の世界からも賑わいが消えていた。蔦屋は役者絵を浮世絵師に描かせようと考えるが、歌麿は鶴屋喜右衛門の元へ移ってしまった。重三郎はお抱え絵師・鉄蔵に役者絵を描かせてみるが、上手くいかない。能役者の齋藤十郎兵衛が役者絵を描いていると聞き、手代の幾五郎に持ってこさせるが、パッとしない。
とんぼは、台本作家志望の俵蔵から一緒に上方に行かないかと誘われるが、江戸に残った。おかんの向かいに引っ越してきた鉄蔵は、とんぼの描いたさらし首を見て衝撃を受ける。その絵を鉄蔵から見せられた蔦屋は、強い魅力を感じた。
蔦屋はとんぼに会い、役者絵を描くように説得した。そして彼に、浮世絵師・東洲齊冩樂の名を与えた。ただし、蔦屋が許可するまでは、正体を明かしてはならないという条件が付けられた。とんぼは蔦屋に連れられて吉原に行き、花魁・花里と抱き合った。花里は歌麿が惚れている女だったが、彼女はとんぼと互いに惹かれ合っていた。
とんぼの描いた役者絵は、あまりに真に迫りすぎていた。そのため、評判こそ広まるものの、その多くが「醜悪だ」という悪評であった。そんな中、蔦屋が病に倒れた。とんぼは幾五郎や大番頭の与兵衛から、顔見せ興行の役者絵で人真似をするよう命じられる。それを拒否して店を飛び出したとんぼは、歌麿の手下に捕まった…。

監督は篠田正浩、原作は皆川博子、脚色は皆川博子&堺正俊&片倉美登&篠田正浩、プロデューサーは原正人、製作総指揮は高丘季昭、製作監修は古川吉彦&増田宗昭&黒井和男、企画総指揮はフランキー堺、撮影は鈴木達夫、編集は篠田正浩&阿部浩英、録音は瀬川徹夫、照明は水野研一、美術は浅葉克己&池谷仙克、衣裳は朝倉摂、時代考証は高津利治、監修は林美一、デジタルSFXスーパーバイザーは徳永徹三、振付は尾上菊紫郎、木戸芸者振付は加納幸和、大道芸演出は坂手洋二、殺陣は西本良次郎、日本画は平岡栄二&安久津和巳、邦楽は今藤政太郎、音楽は武満徹、エンディングテーマ編曲は服部隆之。
出演は真田広之、岩下志麻、フランキー堺、片岡鶴太郎、佐野史郎、葉月里緒菜、永澤俊矢、中村富十郎、中村芝雀、市川團蔵、加藤治子、新橋耐子、宮崎ますみ、河原崎長一郎、津村鷹志、六平直政、坂東八十助、竹中直人、篠井英介、有川博、北見唯一、高場隆義、大川浩樹、宮島健、壇臣幸、八代進一、浅井由美子、尾上菊紫郎、土屋久美子、富沢亜古、神由紀子、長坂しほり、余貴美子、小倉一郎、日比野克彦、岩田直二、浜村純ら。


写楽研究家でもある俳優のフランキー堺が企画した作品。
寫樂を真田広之、重三郎をフランキー堺、おかんを岩下志麻、花里を葉月里緒菜、歌麿を佐野史郎、幾五郎(十遍舎一九)を片岡鶴太郎、鉄蔵(葛飾北齋)を永澤俊矢が演じている。
松竹創業100年記念協賛作品。
故・武満徹が最後に音楽を手掛けた映画でもある。

フランキー堺は故・川島雄三監督と、「いつか写楽の映画を作ろう」と約束していた。川島監督が亡くなったために約束は実現しなかったが、フランキー堺は写楽映画への熱い情熱を忘れなかった。その情熱が、この映画に繋がるのである。ただし残念ながら、年齢的にフランキー堺が主役を務めることは出来なかったが。
この映画の致命的な問題点は、フランキー堺と篠田正浩監督の見ている方向が丸っきり違っていたということだと思う。
当然のことながら、フランキー堺は写楽を描きたいと思ったはずだ。
だが、篠田監督は写楽に全く興味が無かったのだ(としか思えない)。

この映画で描かれているのは、江戸時代の風俗であり、江戸の町の様子である。本物の歌舞伎役者を起用した舞台、芝居小屋の様子、華やかな花魁道中、賑やかな大道芸、そういったものは充分に伝わってくる。美術、装置、衣装は贅沢だ。
歌舞伎のシーンは、冒頭だけでなく何度も挿入される。他にも、幕府の動きを見せたり、蔦屋の姿を見せたり、幾五郎(後の十遍舎一九)、鉄蔵(後の葛飾北齋)、俵蔵(後の鶴屋南北)、倉蔵(後の瀧澤馬琴)らが出て来たりする。吉原の様子も描かれる。とにかく色々な所に目を向け、様々な人物を映し出している。

しかし、そんな中で、疾風のように現れ、疾風のように去っていった“写楽”という存在が、ものすごく弱い。なぜなら、これが「写楽の物語」になっていないからだ。「写楽など色々な人が暮らしている江戸の様子を描いた作品」だからだ。
江戸の町の様子が描かれる中で、とんぼの物語は遅々として進まない。写楽が誕生するのは後半に入ってからだが、それまでに花里との恋が進展していくわけでもなければ、周囲の人々との人間ドラマが厚く描かれているわけでもない。

謎に包まれた写楽の正体について、この映画は1つの仮説を示している。しかし、正体を提示して、それで終わっている。写楽という男が、どのように周囲の人々と絡み、どのように考え、どのように生きたのか。人間の中身が、ほとんど見えてこない。
人間の中身が薄いというのは、何も写楽だけに限ったことでは無い。どのキャラクターに対しても、人物の表面をサラッと撫でていくだけ。人間関係も同じだ。大勢の人物が登場するが、彼らの心の動きは弱い。だから、例えば嫉妬心を燃やす歌麿が写楽と花里に逃亡をそそのかすという終盤の展開にしても、ちっとも盛り上がらない。

この映画にとって写楽誕生の経緯は非常に重要なはずだ。ところが、そのきっかけとなってさらし首の絵が、一度も映らない。まだ1枚もマトモな絵を描いていないのに、写楽の名前を与えるのも妙だと感じる。写楽誕生に至る経緯が甘いと思う。
映画はエモーションの無いまま、陰気臭く終わる。
悲劇的なのではない。ただ陰気なだけ。
江戸の町の全体を見せるのも結構だが、それよりも、まず写楽を見せてほしい。
この映画の方向性だと、極端に言えば写楽が登場しなくても成立してしまいかねない。

 

*ポンコツ映画愛護協会